タオファ腐し

衞藤萬里

タオファ腐し

【1】

(久しぶりにテオドロスの顔を見に行くか……)

 その朝、マラキアンはふと思いつくと、隠宅を後にした。

 かつてイーステジア帝国の皇室剣術指南役も務め、従四位下と破格の位爵を与えられた“神剣”マラキアンである。

 指南役を辞して後、先々帝の崩御を機に、持っていた道場もたたんだ今は都ホントの郊外に隠宅を設け、そこで老僕と下女を置いて住み暮らしていた。

 長身ではないが、がっしりとした肩幅。重たげな眉の下の眼は細く、鼻も口も太く、頭髪はわずかに後頭部に半白をのこすのみであり、その容貌は老いた村夫子じみたものであった。これがホントでも名高い剣士だと、誰が知るだろう。

 テオドロスは高弟のひとりである。技量だけでなく人柄も申し分なく、十年前に開いた道場は師の名を辱めない評判を得ていたが、まさか剣術で鍛えぬいた四十前の頑健な身体が、臓腑の虚弱により床に臥せることになろうとは、予想もしなかった。

 弟子のあり様に驚いたが、どうやら命にかかわる病ではなく、気長に養生をすれば以前の身体にもどる見込みだった。安堵したマラキアンは、気を遣わせぬようにと、テオドロスの道場へ脚を向けるのを控えていたが、先日人づてに快癒に向かっていると耳にした。 

 冬が明け、イーステジアの都ホントは艶やかなタオファが満開であった。郊外の十王の丘はいずれも艶やかな桃色の装いである。

 見舞ったテオドロスはいまだ病床にあったが顔色は悪くなく、一度はずいぶんと痩せた身体に、再び肉がつきはじめているのがわかった。道場はテオドロスの高弟が交代で代稽古を務めており、そちらも心配はいらないようだった。

 この分なら大事はなさそうだと安堵し、弟子と雑談をつづけていたが、代稽古を務めていた道場生のひとりが、切羽詰まった面持ちで寝所に姿を現した。 


 道場へ出て、マラキアンは事態を察した。

 漆喰造りの壁は広く側板を開け放ち、一辺が柱のみの場内は外光が入りこみ明るい。

 その中ほどに男がいた。壁ぎわに数人の剣士が固まって、その男をきつい眼でにらんでいる。中のひとりは横たえられ、頭にあてられた布が赤かった。

 剣士たち――すなわちテオドロスの道場生たちがにらむその男は、その視線を気にもする様子はない。

 ずんぐりした猪首の、大男である。まだ二十代であろうが、黒い頭髪はいただき近くまで後退し、それがまた薄くちぢれているので、ひどく老けて見える。額が大きく張りだし、その下の眼は探さねば見つからないほどに小さく、そのくせ鼻も唇もあごもいかつく不細工な風貌であった。

 顔中に大汗をかき、肩で息をしている様子が何やら不気味ですらあった。

 他者を寄せつけないものがある射すくめるような小さな眼が、道場に入ってきた脚取りのおぼつかないテオドロス、そしてその後ろのマラキアンをみとめ、さらに鋭くなった。

 稽古をつけてもらいたい――そう称した道場破りであることは明白であった。ここしばらくホントの剣術界に流れるひそかな噂を、マラキアンは憶いついた。

 横たわる剣士は代稽古をつけていた高弟のひとりであることを、マラキアンも知っている。生半可なものが代稽古を務めているわけではない。

 テオドロスの道場を破ろうなどとする者など、ホントにそうはいないであろう。技量が云々というよりも、道場主の人格が、もはやそのような者など近寄らせない。テオドロスほどの剣士の道場に乗りこんで、たとえ勝ったとしても、得られるのは賞賛ではない。剣士としての不作法さをとがめられる不名誉である。

「……ホントでも名高い、テオドロス殿に、一手……御指南を願えませぬか」

 男はかすれた声でそう云った。見た目の醜魁さと、ぜいぜいと鼻が鳴る音が混じる声音は、人の眉をひそめさせるものがある。

 まだ歩行もおぼつかないテオドロスが、無言で壁にかかる刃引きをした剣に手を伸ばす。その手をマラキアンが抑えた。

「私がお相手をつかまつろう」

「テオドロス殿では、ないのか」

「いかにも」

「……私はっ! 名高いテオドロス殿にお相手を願いたい!」

 引きつったような声をあげる大男であった。

「ならばまず、私に勝ってみせよ」

 マラキアンは道場の中央にすすみ出た。

 大男は悔しそうに、そしていらだったようにうめくとすすみ出る。大きな身体をむしろ縮めるように八双に構える。それだけで、そこに古木があるような武威が発せられた。

(これは……)

 マラキアンは意外に思った。その所作は実に折り目正しく、道場破りをもくろむ無法さとは思えぬものであった。

 マラキアンは半身を引き、脇に構える。その鼻に、ぷんと男のすえた体臭が匂った。

「ご老人……お恨みなさるな……」

 大男がぼそりと云うと、上半身も揺らさず、すべるように前に出た。

 八双からの鋭い斬撃。よどみのない一閃であった。

 剣身がマラキアンの肩をしたたかに撃ちすえたかと、誰もが思った。しかし剣は空を切っていた。空を切った剣は瞬時に切りかえされ、老剣士の胴を薙ぐが、これも当たらなかった。

 空振りをした大男のふところにマラキアンはいた。

「……う」

 大男がうめいた。

 首筋には刃引きした剣身があてられていた。

 道場生たちには、大男の体さばきにくらべても、まるでゆったりとしたマラキアンの身のこなしにしか見えなかった。にもかかわらず、大男の剣は空を切り、まるで身体の方が剣身に吸いこまれたようであった。

「真剣だったら、そなた、死んでおったぞ」

 うめいた大男は跳びすさり、間合いをとった――つもりであった。しかし構えなおした大男の間合いに老剣士はおり、首筋には魔法のように再び剣身の冷ややかさがあった。

「これで二度、そなたは死んだぞ」

 マラキアンの言は静かであった。

 大男は蒼白であったが、しかしあきらめたように剣を後ろ手に回し、その場で片膝を突くと、深く頭をたれた。

「……参りました」

 その所作は、やはり無頼のものではなかった。しかし男の声音には、深い失意があった。

 妙だとマラキアンは思った。道場破りのような無法のまねをする一方、魁偉な風貌の中にも剣に関しての所作は整ったものであった。そのくせ、切羽詰まったように立ち合いを望み、相手にけがをさせるかと思えば、敗れて深い失意をみせる。

 この男の為すことが、どうにもちぐはぐに感じられた。

「いかな理由かは知らぬが、道場破りなどもっての外だ。しかし、そなたの剣には筋目のよいものがある。研鑽されよ」

 マラキアンの言に、男ははっと顔をあげた。木の実のように小さな瞳に、すがりつくような必死の光が横切ったが、それも一瞬だった。再び、恥じるように面を伏せて立ちあがると、道場から退出した。

 道場の隅で直立していたテオドロスが、感慨深げに深く頭を下げる。

 高弟のけがは、幸いたいしたことはない。手当てをし、他の者は稽古をつづけるように指示をすると、テオドロスと師は寝室へと下がった。

 疲れきったように病床へ身を横たえ、テオドロスは大きく嘆息をした。

「申し訳ありません、先生のお手をわずらわせてしまいました」

「病んだそなたでは、勝てなかったであろう」

 マラキアンの言は遠慮がない。

「はい、しかしあの者、見た目ほどには悪くありませんでした」

「そなたも感じたか」

「道場破りを目論むような者には思えませぬ」

 テオドロスもまた、今日の道場破りに感じるところがあったようだ。

 だがそれ以上のことはない。それで終わりのはずであった。


【2】

 ご足労願えぬか――と使いが来たのは、それから数日たってからのことであった。師を呼びつけるなど、普段のテオドロスは決してしない。

 マラキアンが訪ねると、やはり病床に臥したままであった。

「先日の道場破り、あの男のことを憶えていらっしゃいますか?」

 師を招いた不作法をわびると、テオドロスが云った。

「バウマン家はご存知でしょうか?」

 少し考え、マラキアンは思いいたった。百曜宮の高官である。

「どうやらその家に仕える者のようでございました。念のために先生のお耳に入れておこうと思いましたので」

 どうやら、くだんの道場破りの大男の身上は、ホントの剣術界では公然の秘密のようであった。

 テオドロスによると、男の名はカレグと云う。バウマン家に仕えているが最下級の騎士である。俸禄は低く、生活ぶりは下男とさほど変わらぬ身分であろう。

 平穏がつづいているこの時代、内証が裕福な高位貴族たちなどは別にして、各家で騎士を抱えることは困難になりつつある。騎士職ですら俸給は低く、各家勤めの下級騎士の貧乏暮らしは、口さがないホントっ子たちのからかいの対象ですらある。

 そして、彼の境遇をさらに厄介にしている問題があった。

 カレグの父も同様にバウマン家に仕えていたが、下女として雇われた母と出会い、所帯を持った。その母を、若き日のバウマン家の当主が、何のはずみか力づくでものにした。カレグの父も、泣き寝入りをするしかなかったであろう。

 やがてカレグが産まれたが、どちらの子かはっきりとしないらしい。

 父は産まれてきた赤子に疑念を抱き、我が子として扱わなかった。当主も身分の卑しい下女に子を産ませたなど、口が裂けても云わない。

 そのくせバウマン家には嫡子がいない。イーステジアでは、女人の家督相続はみとめられていない。おそらく婿養子をとって家を継がせることになるであろうが、当主の考え次第では、下手をしたら、カレグが認知され跡を取る可能性もあるのだ。

 そのため家臣たちも厄介者あつかいをして疎んじてはいるが、手を出すことはできない。遠巻きにして陰口をたたくぐらいが関の山である。

 これで見栄えもよければまだましであろうが、どういうわけか風貌は誰もが顔をしかめたくなる醜悪なものだった。

 カレグという男、そのような境遇であったのだ。

 疎まれ、猜疑と侮蔑をぶつけられつづけ、そのくせ腫れものに触れるような扱われ――そのようないびつな少年時代が、彼という人間を形成するのにどのような影響をあたえたか……容易に想像することができよう。

 しかし……この男には類まれな剣の才能があった。

 長じて身につけた剣に、家中の騎士たちは誰も敵わない。それがさらに周囲の敵意を増幅させた。そのような身分で、侮蔑を受けている者の剣の腕がたつからといって、それがためになるとは限らないのだ。

 こうして、いつ暴発するかわからぬ鬱屈を、カレグは身体の内側に溜めこんだものであろう。

 母親は先年亡くなり、父はとうに死んでいる。その機にカレグは、バウマン家に退身を申しでたが、許されなかった。カレグの出自を考えたら、主家としても放逐することはできない。

 そのころから、都内で道場破りが出没し、それがバウマン家に仕える騎士であるとの噂が密かに流れだしたようだ、。

 すでに十指にあまる道場が、高弟、道場主まで打ちすえられるという辱めを受けたとも云う。そのいくつかめの道場が、先日のテオドロスの道場であった。

 

 そのマラキアンは、テオドロスの道場からの帰路、路上からバウマン家の屋敷を見やっていた。

 マラキアンは、カレグの剣筋を憶いだす。テオドロスの口から聞くカレグという人物からは、想像もできないほど折り目正しく、優れた剣であった。

 不快な記憶しかない家での不遇、そしてそこから逃れることもできない憤懣のぶつけ所を知らぬカレグに、テオドロスは同情しているようだ。

 しかしこのまま道場破りなどつづけていけば、いつか取り返しのつかないことが起きるだろう。カレグとて、いつまでも勝ちつづけることなどできない。すでに遵剣府にも眼をつけられているであろう。おそらく、破綻は近い。

 しかし自身で蒔いた種である。関わるいわれはない。

 そう思いながら、何とはなしにカレグが仕える屋敷に脚を向けてしまったマラキアンであった。

 我ながらばかばかしいことだと思った。

(哀れな……)

 そう想う気持ちも大きい。しかし憤懣を剣にまとわせて道場破りなど、赦されることではない。

 しばしの逡巡の後、やはりきびすを返した。すべては、あの男が自身で決着をつけねばならぬことである。


 奇声があがった。

 マラキアンが眼をやると、男が何やら喚いていた。屋台のそばに立っているが、別に客ではないようだ。その眼の光が尋常なものではないことに、気がついた。

「――雨!」

 首をかしげ、調子っぱずれの声をあげて空を指さしている。眼光は驚くほどに真剣だ。

「明日! ――雨! 降る! 降るぞ!」

 たしかに重たい雲が広がる。明日はおそらく雨であろう。

 屋台の親父がいやな顔をしているが、眼を合わせない。周りの者もちらりと眼をやるが、そそくさと脚早に前を行きすぎ、こそこそと陰口をたたいている。

 マラキアンも見やるのをやめ、歩をすすめた。

 背後に異変を感じたのは、少したってからだった。

(つけられている……)

 背中や脚の運びにまとわりつくような視線を感じた。身に憶えはない。

 帰路を変えることにした。

 大きく左に曲がり、人気のない路を選んだ。ゆっくりと脚を運ぶと、確実についてきている。しかし害そうという気配は今のところ感じられない。

 やがて郊外に近い。このあたりは人通りもまばらで、空地も多い。元は貴族か商人の寮があったという話だが、今はわびし気に下草が風に揺れるだけだ。

 マラキアンの脚はひとつの空地へと踏み入る。空地の中ほどまでいたると、ぴたりと止まり、そのまま振りかえることもせずに動かなかった。

 追跡者はすでに悟っていた。マラキアンは自身の存在を察していることに。だからこの場所へ誘ったのだ。そう、剣を振るうにふさわしい場所へ。

 マラキアンの手は、まだ剣にもかかっていない。

 追跡者の肩が大きく上下し、震える手がじりじりと剣の柄にのびる。しかしある程度のところで、固まったように動けなかった。

 追跡者ののどぼとけが、何度も大きくひきつったように上下した。

 雲ごしに、陽が傾いているのが感じられた。風が夕刻の気配をただよわせはじめた。甘やかなタオファの香が匂う。

 鴉が不吉な声をあげた。

 また夕風が一陣、下草を揺らした。


【3】

 背後から弱々しい声があった。マラキアンが振りかえると、雨に打たれた犬のようなカレグがいた。

「先日のつづきを所望か?」

 マラキアンの声音は冷ややかであった。しかしカレグからもれ出たひと言は、意外なものであった。

「……お助け、ください……」

 焦燥の濃い顔は、いつも以上に醜さを浮きたたせているようである。

「助けよ、とは……?」

「うかがいました……かの、“神剣”……マラキアン殿だと……あなた様ならば……私を……あぁっ!」

 彼が不意に顔を歪めてうめき声をあげると、大きな両掌で顔を覆い、後じさった。

「……何でもございませぬ……お忘れ下さい……私、私のような者が……救われようなど……」

 カレグの中で、ひどい逡巡があるのか? 悲鳴のような声をあげつつ、その身体がゆらゆらと揺れる。

「そなた、剣が泣いておるぞ!」

 ――不意に、マラキアンから激しい言葉が発せられた。まるで雷に打たれたかのように、カレグの身体が跳びあがった。決して大きくも太くもない、しかしそのひと言は、縮こまったカレグの身体をぴしりと一打ちしたようであった。

「うぅ……」

 うめきながら、カレグがその場に膝をついた。木の実のように小さい眼から、滂沱と涙が流れ、魁偉な顔を濡らしていた。

 マラキアンが近づく。

「申してみよ」

「……私の……剣は、恨みに満ちております……恨み、恨み、恨み……いやだ、醜い……うんざりでございます……このままでは……どうか……どうか、お導き、ください……」

 ようやくそれだけを云うと、カレグは両手を地に着け、しぼり出すような嗚咽をもらしはじめた。

 それが止むまで、長いときが必要であった。カレグが顔をあげたとき、宵闇はすぐそこまで迫っていた。

「おのれの出自を恨んだか……?」

 マラキアンが問う。この上なく優しげな声音であった。

 なぜ知っているのか――などと疑問にも思わず、カレグはうなずいていた。

「はい……」

「おのれの父母を恨んだか……?」

「……はい」

「おのれの主君を恨んだか……?」

「……はい」

「おのれを見下した者を恨んだか……?」

「……恨みました……」

「おのれの鬱憤を、剣にぶつけてきたか……? おのれの生きる道は剣しかないと思ってきたか……?」

「……はい……」

 マラキアンの顔に、苦いが慈しみ深い笑みがあった。

 次の瞬間、宵闇の中でもはっきりとわかる銀光が真正面からほとばしり、カレグの額すれすれでぴたりと止まった。

 所作さえも見せぬマラキアンの抜剣であった。

 カレグの木の実のように小さかった双眸は血走り大きく見開かれて、間をおいて顔からどっと汗が噴き出した。

 ゆっくりと、マラキアンは剣を収めた。

「私はそなたの剣が汚れていくのを見たくない」

「う……」

 カレグの顔がまた歪んだ。

「泣くな、幼子ではないぞ……そなた、明日、テオドロスの道場に参れ。あれは私の弟子だ。今は病で臥せっておるが、じきによくなろう。もう一度、何もかも忘れて剣を振るってみよ。心魂を清めてからおのれの行く先を考えよ。よいな、必ず参れよ、待っておるぞ」

「……はい」

 カレグはまた激しく嗚咽した。長い嗚咽が終わり顔をあげると、もうマラキアンの姿はなかった。カレグは胸の前でシレーンの印を切った。


「すまぬな、気が変わってしまった」

 苦笑しつつ、マラキアンは病床の弟子に云った。

「お気になさらないでください、先生がまだ見込みがあると思われなされたのでしょう。あの者、私が引き受けます」

 カレグと出会った翌日、早朝からマラキアンは弟子の道場を訪れ、事情を説明した。破顔するテオドロスの顔色は、本日は大分によい。

「あの者、おのれの出自の苦しみを剣に打ちこんだが、その剣すらも救ってはくれないと絶望したものであろう……が、あの者はまだ完全に堕ちてはおらぬとみた。道場破り以外で人を害しておらぬのならば、できることなら救ってやりたい」

「先生の想いが伝わればよろしいですな」

「あの者は来る。あれだけ苦しんでいれば、必ず来る」

「私もそう思います」

 テオドロスが答え、マラキアンがうなずく。しばし沈黙があった。

 ふたりは何ともなしに窓越しの外に視線を向けた。紗幕のような雨が、刷くように降っていた。マラキアンは昨日見かけた男が叫んでいたことを、ふと憶いだした。

「この雨で、タオファは散りましょうな」

「この時期の長雨は、タオファくたしとも云う」

 春のホントの花と謳われるタオファが満開となるこの時期に、さたさたと降りつづける暖かい長雨のことを、タオファを腐らせる雨という意味でそう呼ぶ。

「私は好かぬな、何となく気持ちが昏くなる」

「私は好きです。この雨がやむと冬の翁が去り、春の淑女エリオの季節です」


【4】

 通用口から屋敷を抜けでた。無断の他出である。門番がいつものように顔をしかめるが、今朝のカレグはまるで気にならなかった。

 マラキアンもまだ道場へは着いていない刻限であったろう。

 さたさたと、早朝から春の雨――煙る路に、人が歩いているのがぼんやり見える。カレグは外套の前をしっかりと合わせた。

 心にたまっていた澱みが、今朝は失せていた。雨ではあったが、カレグの心中は驚くほどに晴れ晴れとしていた。このように晴れ渡った心持ちは、いつ以来であったろう?

 侮蔑の視線、汚らしいものを見下すような視線。憎悪と猜疑の視線。

 それがカレグ――彼が年少のころから与えられつづけてきたものだ。

 屋敷内の者は、まるで自分に非があるかのような避難がましい視線を向ける。

「お前は俺の子じゃない……」

 酔眼の父が憎しみをこめてそう云う。酔えば必ず自分をなじり、母をなじった。幼いころは意味がわからなかったが、いつのころからか事情を察するようになり、その台詞はなおさら自分の心をえぐる。

(何を、ぬかす……!)

 口答えできない自分は、いつも腹の中で罵っていた。

 抵抗できない母を犯したのは当主であろう。恨み言をぶつけるのは、自分や母にではない。八つ当たりしているだけだ。

 父の酔態がはじまると、母はうつむきひたすら罵倒に耐えていた。

 そんな母が哀れであった。

 口許まで泥にはまりこんだような日常で、剣だけは自分を裏切らなかった。

 幼少より屋敷の近くの名もなき道場に通い、夢中で習い覚えた剣術であった。注ぎこめば注ぎこむだけ応えてくれた。

 いつか家中で自分に敵う者はいなくなった。そして侮蔑と憎悪が増した。

 母は、決してバウマン家から離れてはならないと諭していた。だが母を失えば、もうこれ以上主家にいる意味はない。この家から飛びだせるきっかけであった。しかし、それすらもかなわなかった。

 その鬱憤を晴らすためにはじめた道場破りであった。破れかぶれであった。

 主家が放逐してくれるかもしれないとも思っていた。捕縛されて主家の名を貶めることになってもよかった。どこかで撃ち倒され、落命しても構わないと思っていた。

 だが、敵う者はいなかった。しかし気は晴れなかった。むしろもっとひどい澱みが、心の底にたまり、あふれてしまいそうであった。

 やがて屋敷内の者から侮蔑の視線を向けられると、腰の剣が熱を持ったような錯覚を覚えはじめた。手が、その者らの肉を斬り裂く感覚を欲するようになった。

 終わりが近い……昏い絶望と、解放の喜びがまだらに入れ混じった感情で、そう考えるようになっていた。それとも、次の道場で自分を斬り殺してくれる者がいるかもしれない。

 そして――名高いテオドロスの道場で、老人に敗れた。

 想像することすらできないほどの高みにある剣を、眼の当たりにした。

 そしてその老人が、かの“神剣”マラキアンだと後に知った。

 心が震えた。

 もう一度、マラキアンに会いたかった。会ってどうするなどと考えなかった。真剣で斬りかかるのか? 膝をつき教えを乞うのか? 自分でもまるでわからなかった。それでも無性に会いたかった。

 そのマラキアンを屋敷の周りで見かけたのは、所用を命じられての帰路であった。屋台で喚く男に眼をやり、すぐに歩きだした。

 夢の中のように、ふわふわとその背中を追っていた。

 そして、あの草原で対峙をした。その出会いで、すべてが変わった。


 歩をすすめたカレグの耳に、異常を知らせる気配が届いた。

 煙る雨の彼方で何かがうごめいた。何かがこちらへ向かって駆けてくる。行商人、工房へ向かうとみえる職人や、女房連中だ。皆、顔を引きつらせている。

「雨だぁっ!」

 異様な叫び声が、紗幕のような雨を斬り裂いた。

「――雨だ、雨だ、雨だぁっ!」

 昨日、叫んでいたあの男である。雨のことを叫んでいるのは同じだが、一体どうしたものかは知らぬが、今朝は抜き身の剣を手にし、それをでたらめに振りまわしつつ、水しぶきをあげて駆けてくる。皆、この男から逃れようと必死だった。

 男の先に五歳ほどの幼子が、すくんでいた。

 カレグはとっさに脚下の石くれをつかむと、投擲した。狙いはあやまたず、男の額に当たったが、男はぐらりとしただけだった。

 そのわずかな間で、カレグは幼子へ駆けよった。視線の端に一瞬、正気を失った男の双眸を見た。

 かわす間もなかった。幼子を抱えたカレグの背中に、熱せられた棒で殴打されるような灼熱の痛みがあった。

 幼子を抱えうずくまったカレグの背中に、男は何度も剣を振るった。

(下手くそめ……)

 カレグは心の中で毒づいた。この男、素人であった。最初の一閃以外は、ただ鉄の棒を叩きつけるだけのようなものだ。

 カレグの下で、幼子が泣くこともできず、身体をこわばらせていた。どこか遠くから悲鳴が聞こえてきた。

 何度も斬りつけて満足したのか、男は肩で大きく息をつきつつ、動きを止めた。カレグは身を翻すと、男に飛びつき泥土に押し倒した。飛びついたはずみで剣は男の手から離れた。

 傷ひとつあるわけでもないのに、男の方が瀕死の重傷をうけたような凄まじい悲鳴を上げて、激しくもがいた。

(うるさい……)

 つぶやいたはずだが、もはや声にならなかった。必死で逃れようとする男を、カレグは最後の力をふりしぼって押さえつけた。身体からどれだけの血が流れたかは知らぬが、雨の冷たさが心地よかった。

(結局……これが俺の、結末か……)

 カレグは苦笑した。手や脚が冷えて力が入らない。もうあまりときはないだろう。

 テオドロスに、詫びをいれたかった。

 マラキアンに、礼を述べたかった。そして、できれば教えを請いたかった。

 しかし、どうやらそれも無理のようであった。

 ようやく、幼子のひきつるような泣き声が聞こえてきた。

 紗幕を通して人影が近づいてきた。


「……そうか」

 夕刻――様子見にうかがわせた道場生からその話を訊いたマラキアンは、無表情につぶやいた。テオドロスも絶句している。

 窓の外では、タオファ腐しは依然止まない。おそらくこの雨で、その名のとおりタオファは散るであろう。


(了)

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タオファ腐し 衞藤萬里 @ethoubannri

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