1985年僕は総理と呼ばれていた

アツ

完結




  


 カッカッカッというテンポの速い革靴の音が駅の連絡通路に響いた。終電間近の時間帯は人の通りもまばらなのだが、その音に気がついた何人かは音のするほうへと振り返った。


 電車の出発アナウンスが駅に轟く。階段の横にあるエスカレーターを大股で駆け上がるも、電車の扉は無常にも目の前で閉じた。


 「ちくしょう」と呟いた雄二は、両手を膝に置くと前かがみになり粗い呼吸を整えた。そして「プフー」と息を吐きながら上体を仰け反らす。


 ズボンの左のポケットから携帯電話を取り出すと、すぐに妻の絵里にメールを送った。


 「ごめん、今、目の前で電車が行っちゃった。あと20分くらい電車来ないからちょっと遅れるわ」


 数十秒後に絵里から返事が来た。



 「こっちは全然大丈夫よ〜。ゆっくり帰ってきてね。それよりさ、雄ちゃんに見せたい写真がさっき出てきたの」



 今日は絵里の誕生日を自宅で祝うつもりだった。しかし雄二の勤める高校で先週不祥事があり、夏休み中にもかかわらずその後処理に追われていた。今日も昼間からその為に学校へと出向いており、予定ではもっと早く終わるはずだったのだが、終電間際までかかってしまったのだった。



 「ただいま」



 雄二は肩かけの鞄を床に置き、リビングのソファに腰を下ろした。


 絵里はアイスコーヒーを用意して雄二の前に置いた。そしてダイニングテーブルの上に重ねてあった写真の束から1枚取り、それを差し出した。


 「見て見て」


 絵里は嬉しそうに言った。


 「おっ、真ん中が絵里か」


 写真には3人の女性が写っていた。左側には、黒髪をポニーテールにしている女の子、右側にはセーラー服を着たおかっぱ頭の女の子、そして真ん中には、重力に逆らっているかのように広がりのある金色の髪をし、濃い化粧をしている女の子が写っていた。その真ん中の女の子が絵里だと雄二にはすぐわかった。


 「私ってわかっちゃったかぁ、これ、新宿厚生年金会館にジャンクブレイカーズを観に行った時の写真よ」


 ジャンクブレイカーズというのは、その頃絵里が一生懸命追いかけていたロックバンドの名前だ。





 大学生活も終わりの頃に、雄二は絵里と知り合った。その頃には絵里はこのような容姿ではなかったのだが、ことあるごとに昔の話を聞かされ、写真も見せられていたので、この写真を見ても、特別に驚いたりはせず、金髪にしていたこともあったのかと思う程度だった。


 「被写体はどうでもいいのよ。これよこれ」


 絵里は照れくさそうに言いながら、写真の右下に並ぶ数字を指差した。


 写真の撮影年月日を表している数字だった。



 「おっ!誕生日じゃない」




 絵里は、そうなのと言いながら、1985年よ、30年以上前よと興奮気味に言った。


 「17歳か」


 雄二は写真を見つめて言った。


 「17歳だねぇ」


 絵里がキッチンで煙草の煙を吐き出しながら呟く。




 「俺も17歳だったんだなぁ。このころは、勉強机にしか向かっていなかったよ」


 雄二は鼻の脇を人差し指で掻きながら絵里を見た。



 「雄ちゃんはそういうときにたくさん勉強していたから今があるんじゃないの。私なんか追っかけばかりで勉強なんかしてなかったもん」


 絵里は煙草を吸い終え、雄二の前に来た。




 長野の公立高校を卒業したあと、雄二は東京の国立大学に進学し、寮生活を始めた。絵里は地元北海道の大学に進学した。高校時代はアルバイトで稼いだ給料や親からせびった金で良く東京にライブを観に来ていたのだった。





 大学生活も終わりに近づいた頃、友人の小池がサークルイベントとして北海道旅行を企画し、雄二はそれに参加した。北海道の大学生らとの交流も併せての旅行だった。そこで絵里と出会った。


 自己紹介の後、立食パーティーの席で絵里が雄二に話しかけてきたことがきっかけだった。絵里はとにかく積極的に話しかけてきた。



 女性との会話があまり得意でなかった雄二は、初めは面食らっていたのだが、徐々に打ち解けていき、別れの際にはお互いの住所・電話番号の交換までしていた。


 「とりあえず年賀状送るからね」


 と、絵里は笑顔で言った。雄二は中学・高校とメガネににきび面というコンプレックスを持っていて、女性にもてたことはいっさい無く、大学時代も大した浮いた話はなかった。そんなときに絵里と出会ったのだ。



 絵里は色白で目が大きく、端正な顔立ちの美人だった。雄二は東京に戻っても、なんであのような美人が声をかけてきてくれたのかがわからなかった。友人の小池もそんな雄二をうらやましい奴だと冷やかしていた。


 雄二にとって、それからの大学生活は、毎日が楽しくてしょうがなかった。


 年賀状もちゃんと届き、たまには電話もかかってきた。大学の寮の電話だったのであまり長電話は出来なかったが、雄二からも頻繁に電話をしていた。




 そして、大学を卒業した雄二は教員になり、都内の高校へと赴任した。


 同時に、東京のデパートに就職が決まった絵里も上京した。お互いが東京で過ごすようになり、二人の関係は一層深まっていった。



 就職してからの絵里は、「追っかけ」からはすっかり卒業し、落ち着いた雰囲気の女性になっていた。


 二人の付き合いはずっと続いた。30歳を過ぎるころになると、双方の親が、いい加減結婚したらどうだ、というようなことを言ってくるようになった。絵里はそれにうんざりするようになり、結婚しようか、と雄二に切り出した。



 こうして二人は結婚をした。ところが子供が出来ないまま40代になってしまった。結局二人は子供を諦め、マンションを購入した。都心まで電車で1時間もかからない場所に、二人は生活の拠点を移した。


 翌日、絵里は仕事が休みだった。雄二も、学校での用事が昨晩で大体片付いていたので、二人は1日じゅうダラダラと過ごしていた。


 夕方、小池からメールが来た。


小池とは地元の高校、そして大学も一緒で、社会人になっても常に付き合いのある友人だった。メールの内容は、沖縄に転勤になっていた大学時代の共通の友人、山口が久しぶりに上京するというので新宿あたりで呑まないか?というものだった。



 日程的に「明日」の夜6時くらいからが良いとのことだった。雄二は特に用も無かったので参加すると即答した。








 「本当に大丈夫よ」


 絵里は玄関先で雄二に言った。絵里はゆうべから体調を崩し、今日は仕事を休んだ。雄二は昨日の小池の誘いで、これから新宿へと呑みに行くところだったのだが、行くことを躊躇った。


 「小池君によろしく伝えといてね。今度は私も誘ってと」


 「わかった、なるべく早く帰ってくるから、暖かくして寝てなよ」


 そういうと雄二はマンションのドアをゆっくり閉めた。



 新宿西口の地下通路を通り、約束の場所へと雄二は足を運んだ。新宿中央公園の少し先の雑居ビルの5階、大学時代から行きつけの呑み屋が今でもそこにあるのだ。ほぼ時間どおり、雄二と小池と山口ともう一人、計4人の男が集まった。   


 「絵里がちょっと体調くずしちゃってさ、悪いけどあまり長居はできないんだ。すまん」



 雄二は席に着くなり3人に向かって謝った。


 3人は気にするな、と妻の絵里の容態を気遣ってくれた。しかし、呑み始めるとすっかり時間を忘れ、昔の話やら近況やらと盛り上がり、あっという間に時間は過ぎていった。




 10時頃、雄二は立ち上がり、目の前で手刀を切った。3人は「そうか、もうこんな時間か」と言いながらも、それぞれ、また会おうよと握手をしてくれた。


 小池は出口まで一緒に来てくれた。すまなかったな、というと、足元がふらついているけど気をつけて帰れよ、と言ってくれた。


 店を出てエレベーターの前まで行くと、すぐ横にあった鉄の扉が少し開いていた。ドアを開けて覗いてみると、そこは非常階段だった。


 「まったく、エレベーターの横に非常階段があっても意味がないじゃないか」と独り言を言いながら雄二は外に出た。


 眼前には新宿の夜景が綺麗に映った。同時に心地よい風が吹いてきた。雄二はそのまま階段をゆっくりと下りていった。




 心なしか足元はおぼつかなかったが、絵里のことが気になり、セーブして呑んでいたため、そんなに酔ったという感じではなかった。


 絵里に、「今呑み屋を出たところ。これから帰るからね、体調どうだ?」というメールを打ちながら階段を下りていた。



 1階に着いたものの、1階の扉は何故か施錠されていた。チッと舌打ちをして2階まで上がると、2階も施錠されていた。


 「なんだこのビルは」と言葉を発し、雄二は手すりから身を乗り出して眼下をキョロキョロと見た。今自分が立っているビルと隣のビルとの間にブロック塀がある。


 届きそうだな、ブロック塀の上に飛び移れそうな気がした雄二は、手すりに足をかけた。





 その時、斜めにかけていた鞄が手すりの先へと勢いで振られた。瞬間、雄二の体が前のめりになった。同時にシーソーの反対側が持ち上がるかのごとく雄二の上半身が下へと傾いた。




















 激しく体を揺さぶられて目を覚ました雄二は、視界に制服の警察官が二人いることに気がついた。 


 あわてて上体を起こすと、後頭部に鈍い傷みが走った。目の前の警察官は、呑みすぎたのかな?こんなところで寝てると危ないから、と注意を促してきた。周りを見るとそこはなにやら資材置き場のような場所で、雄二はその片隅に横たわっていたようだった。



 状況がつかめなかった雄二は、咄嗟に「今何時ですか?」と警察官に聞いていた。


 警察官は腕時計を見て、日付が変わって2時36分だねと答えた。



 雄二はあわてて立ち上がり、「2時?」と聞き返していた。警察官は酔っ払いをあしらうように雄二の肩を叩いて



「そうだよ、もう電車も無いからタクシーだね。その通りを出ればタクシーも走ってるし、すぐに公衆電話もあるから」と背中をポンポンと叩いてきた。



 雄二は言われるまま歩き、通りに出た。通りを挟み、正面には新宿中央公園が見えた。右に視線をやると警察官の言ったとおり電話ボックスがあり、すぐ近くにジュースの自動販売機もあった。喉がカラカラに渇いていた雄二は、自販機の前に立ち、飲み物を買おうとしたのだが、とにかく、絵里に連絡をして帰宅しなくてはならないなと思い、新宿駅へと向かうことにした。自販機の中央部分の広告を凝視し、電話ボックスを見つつ、雄二は通りを渡ろうとした。「おかしいな」という感じを抱きながら。



 公園内に入り、雄二は携帯を出した。絵里へメールをしようとしたのだが、なぜか圏外になっていた。おかしいな、壊れたのかな?と感じながらも、とにかくまず駅へと向かう為気が急いだ。


 中央公園内にはベンチごとに人がたむろしていた。街灯はあったのだが、深夜の公園内は薄暗く異様な雰囲気を醸し出していた。男の一人歩きでも不気味だった。



 公園を抜け、出口にあった階段をゆっくり下りると、目の前を数台のタクシーが通り過ぎて行った。雄二は静かに正面に目をやる。急いでいたせいもあるが、背中と腋の下、そしてこめかみから汗が噴出してきた。同時に心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 


 雄二は視線を右へと向けた。そしてまた正面へと戻した。そしてそのまま上を見上げた。上空は漆黒の闇が広がっていた。星は見えなかった。







 もう一度正面に顔を戻した。




 瞬間的に、数分前の、いくつかの出来事が蘇った。








 携帯が圏外だったこと。公衆電話の色。そして自販機の真ん中にあった巨人軍の選手の広告。 









 眼前を凝視した雄二は、声にならない声を発していた。














 「……都庁が無いじゃん」







※※※※※※※※※




 

 雄二はフラフラと歩道を歩き、交差点で止まった。辺りを見回すと、見慣れたコンビニエンスストアーの灯りが見えた。とにかく自分がどうなってしまっているのかを確認したかった雄二は、一目散でそこに向かった。


 自動ドアが開くと、雄二は勢い良く店内へと飛び込んでいった。レジの脇でスポーツ新聞を読んでいた店員は、慌てて新聞を閉じ、「いらっしゃいませ」と雄二に向かって言った。

 

 雑誌が並んでいるコーナーに立った雄二は、右へ左へと首を振り、いくつかの雑誌を手に取ってパラパラとめくった。下を見ると、馴染み深い週刊漫画が置いてあった。雄二は一瞬「懐かしいな」と思った。



 しかし同時に、目の前に並んでいるたくさんの雑誌は、雄二に残酷な事実を突きつけた。




 力の抜けた雄二は、ヘナヘナと座り込んだ。そして髪の毛をグシャグシャとかきむしった。心臓の鼓動が早くなるのを感じ、呼吸が苦しくなった。



 「なんてことだ、俺は1985年という時代に今来てしまっている」

 「落ち着け落ち着くんだ、俺は数学の教師じゃないか」

 「こんな非現実的なことが起きてたまるか」

 「これは夢だろう。悪夢だろう」



 雄二は硬く目を瞑った。




 「お客さん?、具合でも悪いのですか?」


 


 雄二の肩をポンポンと叩きながら、店員が声をかけてきた。

 


 我に返った雄二は慌てて立ち上がった。




 「いえ、すみません、クーラーの冷気で急に冷えたもので。もう大丈夫ですから」

 雄二はそう言いながら、店員にさりげなく探りを入れてみることにした。


 「あっ、申し訳ないんですが、カレンダーを見せてもらえますかね」


 店員は、どうぞどうぞと言いながら雄二をレジへと案内し、レジの横から小さいスタンドタイプのカレンダーを取り出してきた。




 雄二がとぼけた声で「え〜っと、今日は何日でしたっけ?」と聞くと、店員は「8月の〜11日ですね」と数字を指でさした。

 


 カレンダーの上部には猫の写真があり、その下には1985年(昭和60年)と印刷されていた。




 雄二は上ずった声を振り絞りながらも、努めて冷静な口調で「今年は阪神がこのまま行くんじゃないでしょうかねぇ」と言った。



 野球観戦好きの雄二が「1985年」で真っ先に浮かんだ出来事を店員に向けてみた。




 店員は暇を持て余しているのか、「バースが良いんですよね〜」と話に乗ってきた。しかし雄二はここで長々と話す気は無かったので、適当に切り上げて店を出た。




 数十メートル先に新宿中央公園の一角が見えた。雄二は放心状態で歩き出した。



 途中、自販機で飲み物を買った。雄二は何も考えずに100円硬貨を2枚入れた。缶ジュースのボタンを押すとガランと飲み物が出てきた。同時にチャリンと下のほうで音がした。前かがみになり、人差し指を返却口に突っ込んで100円硬貨を取り出す。「忘れてたよ」と呟く雄二の顔から、力の無い笑みがもれた。


 

 コンビニの雑誌はどれもこれも1985年、昭和60年発行のものだった。漫画も雄二が学生時代によく読んでいたものだったし、表紙をこちらに向けて並んでいた雑誌はどれも、雄二の青春時代に活躍していたアイドルばかりが表紙を飾っていた。




 「俺が本当に1985年の世界にいるんだとしたら当然だよな・・・」雄二は独り言をつぶやいた。


 


 公園内のベンチに着くと、雄二はそのままドカっと深く腰を下ろし、大きく息を吐いた。



 そして夜空を見上げながら、この僅かな時間を振り返った。



 警察官が着ていた制服が違っていた。公衆電話の色が黄色だった。自販機の広告は読売巨人軍でも原、中畑などが写っていた。それだけではなく、携帯は圏外だったし、都庁も無かった。

 

 そうした違和感を確かめるべくコンビニに入ると、抱いていた不安は全て現実となった。




 良く出来た映画のオープンセットはこんな感じなのだろうか、という気さえした。実際そうであってほしかった。






 「どうやらこれは現実に起きたこと、いや、起きてしまったことなのかもしれないな」




 雄二は缶ジュースのプルトップを引き、ゴクゴクと飲みだした。飲み物を口にすると少し落ち着いた。


 飲み終わると、両肘を太ももの上に置き、両手の中で空き缶をいじりながら、今後について考えた。





 俺はこの時代には存在しない人間だ。ではどうするか?


 例えば警察に真実を伝え保護を求めても、きっと、どこかの病院送りか門前払いだろう。


 小池の実家の電話番号は忘れた。山口は大学で知り合うのだから、この時代にはどこにいるのかもわからない。親戚も東京にはいない。




 あとは実家に電話をかける……くらいか。いや、実家に電話をかけたとしても、どう説明をしていいものか。なら直接出向くか?それならまだ信じてもらえそうだな。それかいっそ、この時代の人間にまぎれて生活をしていくか。





 そこまで考えた時、雄二はハッとした。すかさず立ち上がると、ズボンの後ろポケットに手をやり、財布を取り出した。




 「そうか、俺は未来から来てることになってるわけだから、財布の中のお金やカード類や免許証などはこの時代にあるものじゃないんだ。紙幣はもちろん、硬貨だって昭和60年以降のものは駄目だ。こんなの警察官に見られたら保護どころか刑務所行きだぜ」



 そう呟いたあと、



 「さっきの自販機に入れた100円玉はどうだったのだろうか…失敗した」と言いながら雄二は天を仰いだ。




 両手の中で、硬貨を調べた結果、100円硬貨1枚と、5円硬貨2枚と、1円硬貨4枚しかこの時代で使えるものは無かった。



 「駄目だ!! こんなんじゃ話にならねえ!! 実家に行くどころか電話も出来ないだろ!」雄二は押し殺した声で言いながら膝を何回か叩いた。





 公園内の公衆トイレに入り、雄二は水で顔を洗ったあと、水を出しっぱなしにしたまま、後頭部をあてた。雄二はしばらくそのままでいた。





 おととい小池から連絡があり、昨日の夜6時くらいから飲み始めた。つまり、俺はほんの数時間前まで小池たちと酒を呑んでいたはずだ。しかし、数時間どころか30年以上の時間旅行をしてしまった。




 数日早いけど、と絵里の誕生日を祝おうとしたのは3日前の日曜日だ。あの時は帰宅時間が遅くなって、結局は深夜に二人でケーキを食べた。野暮用で時間がそがれたことに腹を立てたことをしっかり覚えている。



 その日、帰宅すると絵里は1枚の写真を見せてくれた。ライブ会場前での記念写真だった。写真の片隅には「1985 8 11」という数字が並んでいた。


 30年以上前の誕生日に撮った写真を見ながら俺たちはひとしきり昔話に華が咲いた。そう、絵里の誕生日は8月11日。つまり今日なのだ。さっきのコンビニの店員にも確かめたから間違いなかった。





 「絵里に会いたい!!」



 


 トイレの中で雄二は叫んだ。そしてゆっくりと頭を上げた。




 ジャージャーと激しい水の音が響いた。雄二は水道の蛇口を閉めた。







 「そうか・・・、今日は8月11日だ・・・。夜になると新宿厚生年金会館前に絵里がやってくる……」

 








 「今、俺が助けを求められるのは絵里しかいない」







 雄二は公衆トイレからゆっくりと出た。見上げると空が白々としてきた。鳩の鳴き声がする。夜明けがやってきた。 




 

 雄二はこの世界の人々と出来るだけ関わらないようにするために、夕方まで公園内に留まっていたのだが、さすがに空腹がピークとなり、コンビニでパンを買って食べた。


 公園内は何人かの男がベンチやトイレの裏をねぐらとしていた。それらの男達はどこに行くこともなく、何をすることもなく徘徊しているように見えた。

 そんな連中らの中から二人ほど、雄二に向かって「新入りかい?」と声をかけてきたのだが、雄二はそれを無視した。


 夕べは一睡もしなかったが、朝から今までは、空腹感はあったものの、体の疲れや眠気はほとんど無く、なんとなくフワフワしているような感じだった。

 夕方5時になったころ、雄二はベンチから立ち上がり、一路、「新宿厚生年金会館」へと向かった。期待と不安が入り交じり、急に体が震えた。




 西口の地下道を通り抜け、東口に出ると、それなりに人が行きかっていた。人ごみを縫うように歩いていると、「スタジオアルタ」の大きな画面には、懐かしいテレビ番組が放送されていた。しばし雄二はそれを見上げていた。


 雄二と同じような姿勢でテレビの画面を凝視していた通行人も多数いた。


 「夕ニャンかぁ〜良く観てたな」


 雄二は若干うつむくと、首を左右に振りながら笑みを漏らした。そして、歩を速め百果園の横を抜けていった。



 会館の前では、通行人はひっきりなしにいたのだが、ライブを観に来たというような感じの人はまだ若干名しか見受けられなかった。


 雄二は階段に腰を下ろし、両手で顔を覆った。


 6時を回る頃には、徐々に人が集まってきた。


 黒づくめのロックファッションに身を包んだ若者たち、どちらかというと男の数が幾分多いような気がした。中には、かなり特徴的な髪型をしているものや、この時代に流行った記憶のある格好をしているものもいた。

 そう多くもないが学生服姿の子もいた。それなりに人が埋まってきても、髪の毛の色が「金色」をしている人はまずいなかった。


 「これなら探しやすいな」そう呟くと雄二は立ち上がった。


 白の開襟シャツに紺色のスラックスといういでたちの雄二は、かえってその場では目立つ存在になっていて、ウロウロ歩くたびに若者達からは容赦ない視線が浴びせられていた。



 6時15分、絵里が来た。金色の髪の毛が大きな目印となった。


 雄二の心臓はビクンと大きく跳ねた。そして、鼓動が速くなるのがわかった。



 少し距離があったので、不安ではあったのだが、絵里は何人かともつれるようにしてこちらに向かってきた。


 5メートルくらい先の距離まで来た絵里の顔を見た。



 間違いなく、絵里だった。




 雄二は絵里の全身を数秒間凝視した。想像していたよりかなり小さい印象を持った。今より一周り、いや二周りくらいキュッとしまっているかのような印象だった。


 雄二は先日、絵里に見せられた写真をしっかりと覚えている。その写真に写っていた二人の女の子と絵里は今一緒にいて、ここまで聞こえるほどの声で談笑している。



 ファッションや化粧は奇抜だが、見慣れた表情、懐かしい笑顔がそこにあった。安堵で涙がこみ上げ、雄二は震えた。できることなら今すぐにでも駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたが、気づかれないように絵里を見て、話しかけるタイミングを計った。


 絵里の隣にいたポニーテールの女の子が、鞄からカメラを取り出し、近くの女性に写真を撮ってもらうようにお願いをしている。


 ポニーテールの女の子は「友子」という。絵里とはライブで知り合った友達で、お互いが結婚をしてからもずっと付き合いがあり、絵里の唯一の友達といってよかった。もちろん雄二も良く知った仲だった。友子は二人の結婚式にも来てくれたし、10年前に買った新居の一番最初のお客さんでもあった。



 絵里の周りには絶えず人がいたために、声をかけるタイミングを完全に逸脱してしまった。さらに会場前には人が増え続けていった。



 「そろそろ開場の時間になります」ハンドスピーカーでスタッフが叫んだ。


 外にいる人たちはチケットを手に持ってその時間を待っていた。


 まずい、入場時間が迫ってきた。入場されてしまったら、もう会えるかわからない、終演後を待つか? いや一人になる可能性は低いし、絵里を見つけられる保障など無い。


 雄二は焦ってきた。


 絵里もチケットをじかに手に持ち、スタッフの方へと視線を向けていた。すっかり入場待ちの体勢になっていた。



 覚悟を決めた雄二は、ついに絵里の前まで歩いていった。


 突然やってきた見知らぬ男に、絵里の周りにいた二人も怪訝そうに視線をやった。


「木下絵里さん、ですよね?」


 雄二の声は若干震えていた。


 突然のことだったので「はい、そうですが」と反射的に絵里は応えた。


 「大事な話があるのですが、少しお時間よろしいでしょうか」と雄二が言うと、絵里は不審そうな目をしながら「はい、なんでしょう?」と低いトーンで言ってきた。


 雄二は咳払いを一つし、止まったままの周囲に目をやってから、絵里の目を見て言った。


 「あの、できれば、あっちのほうで二人きりで話したい内容なんですけど」と指を差した。


 すると、隣にいた友子が「おじさん何? あぶない人?」と声を荒げた。「それってナンパ?」もう一人は馬鹿にするような言い方をしてきた。



 「いえ、絵里さんのプライバシーにも関することなので、どうしても二人きりで話をしたいんです」雄二はお願いしますと深く頭を下げた。


 絵里は「ライブの入場時間が迫ってきてるんだよね〜」と言った。雄二はとにかく時間は取らせないからお願いしますと、さらに頭を下げた。


 友子は絵里の袖を引っ張り、「もういいよ、あっちに行こう」と耳元で囁いた。


 絵里は数十秒、雄二の真剣な眼差しを見て考えていた。


 「じゃあ、話だけでも聞くわ。なんだかこのまま離れるのも気になるし」

 そして、心配そうにしている友子に向かって「ちょっとだけそこで待ってて」と声をかけ、絵里は雄二の脇を通って集団から離れた場所に移動した。同時にまたスタッフが「そろそろ入場を開始しますので〜もうしばらくお待ちください」と叫んだ。



 「なにから話せば良いかな」雄二は咳を一つし、昼の間、公園であらかじめ考えていたことを話し始めた。


 「君は中1の時に盲腸の手術をした。軽く考えていたけど結構な入院だった。5年生の時は学校の廊下で転倒し、頭を強く打ち救急車で病院へ運ばれ、かなりやばかったけど、奇跡的に助かった。後遺症も何も無かった。君のお母さんは、和子という名前で、お父さんは幸次郎といい、ご両親はお酒が入るとかならずこの二つのエピソードを言う。それを君はけっこう厭がっている。実家は札幌市発寒、お父さんのお父さんが子供の頃から住んでいる。なかなかの名家だと思う。絵里という名前は、君のおじいさんが付けた」


 一気にまくし立てるように言うと、絵里の顔を凝視した。雄二は幾分肩で息をしていた。


 絵里はプッと吹き出すと、前かがみになって手を叩いた。


 「おじさん探偵?」


 雄二は黙ったまま、首を横にすばやく振った。


 「いやそんなことよりさ、おじさん名前は?」と絵里はぶっきらぼうに聞いてきた。


 「あっ、ごめんなさい、僕の名前は中曽根雄二と言います」雄二はゴクリと唾を飲み込んだ。


 「ナカ ソネ ユウジ?」


 「苗字は総理大臣と同じ字です。下の字は、雄雌の雄と、漢数字の2」


 学生時代、雄二は、この苗字の為に「総理」とあだ名をつけられていたことを思い出した。



 絵里は腰に手をあて、少し声のトーンを変えた。


 「その名前にはまったく心当たり無いな〜、まあ、そんなの本当の名前かわからないし、今いろいろ言った事もさ〜、探偵さんが調べれば簡単にわかることだよね?」


 絵里の言うことは至極当然だった。

 雄二は言葉を失った。

 その沈黙を破るように後方から友子が「もうそろそろ時間だよ」と叫んできた。


 絵里は振り向き「わかった今行くから」と言った。


 雄二は焦った。


 「じゃあ、この辺で」と体を反転させようとした絵里に「ちょっと待って」と言うと、すぐさま、


 「じゃあ、言わせてもらうね。君は中学2年生の時に1つ上の先輩に恋をした。ラブレターを書いた。だけど、手渡す勇気が無かった。君はどうしたか? 毎日毎日先輩に対する恋する思いや気持ちを、大学ノートに書いていった。1年後、偶然その先輩が女性と腕を組んで歩いているところを目撃した。君の恋はそこで終わった。大学ノートは焼却し手元にはもう無い。そしてその話は誰にも言ってないはずだ」


 絵里は大きな瞳をさらに大きくした。さすがに狼狽しているようだった。わけも無く辺りをうかがうような仕草もしている。


 雄二の心臓は破裂しそうだった。同時に罪悪感も芽生えた。


 これで、良かったのか?僅かな時間で自問した。


 「つまり、何が言いたいの?」絵里は得体の知れない恐怖をかなぐり捨てる為に、あえて大声を雄二にぶつけた。





 「僕はね、未来からやってきた。はっきり言うけど、未来の君の夫だ。なんでこうなったか、まったく理解出来てないのだが、誰かに救いを求めたいと考えた。それは誰かと、ずっと考えた結果、君しかいないと思ったんだ」




 絵里はさすがに口をポカンと開けていた。


 雄二は言葉を続けた。


 「信じてもらえないことは重々承知だ。だから、君しかわからないことも言った」



 「あの〜これって、どっきり? どこでカメラとか回ってるの?」小首をかしげ、半分馬鹿にしたような口調で言葉を続け「私の結婚相手がおじさん?」と絵里は雄二を指差した。


 まったく信じられないわと両手を大げさに広げた後、バッグから煙草を取り出し、口に咥え、ライターを取り出した。


 絵里は大きく息を吸い込み、静かに煙を吐き出した。

 雄二はそれを黙って眺めていた。いつの間にか会館前のスペースには人が大分少なくなっていた。


 「じゃあ、未来では、おじさんと私は結婚をしているわけだ、そんで、なんだか知んないけど、おじさんだけ過去にきちゃって、助けてもらいたいからと、私を探してきた。当然、未来の私はおじさんに色々と話をしているからなんでも知っている、と。大学ノートの話もね」


 「……と、言うことだよね?」絵里はまだ長いままの煙草を足元に捨てた。投げ方に怒りがこもっているかのようだった。


 雄二は、その通りだと言いながら、頭を下げた。


 「正直、私にも理想の未来ってあるんだけどさ、おじさんみたいなぁ、普通で地味な人と結婚するのかって、今幻滅してるんだよね〜、自分に」と言いながら足元の煙草をヒールの踵で捻り潰した。

 「フフフ」と前かがみになり、無理やり笑い声を作る絵里は動揺を隠しているようにも見えた。


 友子はまた「早く行こうよ〜マジで始まっちゃうよ!!」と叫んできた。絵里は友子の方を向かなかった。


 「そろそろ時間だからさ、まあ、少しはおじさんに興味が出てきたから、もっといろいろ聞きたい気持ちはあるけど」と言って、肩をすくめて友子の方へ体の向きを変えた。

 

 「あっ!ちょっと待って」雄二はとっさに絵里の肩を押さえた。

 「今夜が無理なら明日にでも時間を作ってもらえないか、お願いだ!!ちゃんとゆっくり説明をするから!!」雄二は顔を膝に付けるほどに前屈みになって懇願した。


 絵里はフーっと大きく息をついた。


 「明日の昼間は無理だし、明後日は午前中に東京を出て北海道に帰るからねえ」


 絵里は腕を組み、少し考えて「じゃあ、明日の夜までに、なにかニュースになるような事件とかあったら今教えて。もしそれが本当に起きたなら、信じるよ。明日の夜いろいろ話を聞いて、なんとか助けてあげられる様に努力する。ただ、おじさんが言ったとおりの事が起きなかったら会わないからね、いい?」

 絵里は上目遣いでそう言った。


 雄二は絵里の目を見た。絵里の顔からは笑みがもれている。瞬間、絵里は自分の言ってることを信じてないなと感じた。無理もないと雄二は思った。




 数秒後、雄二は絵里とぶつかる視線をそらし、腕を組み、しばらく何をどう言うか考えた。


 そして、静かに口を開いた。




※※※※※※※※




 絵里は窓の外を見ながらぼんやりと考えていた。



 あのおじさん、私と二人になった時、いきなり私の中1の時や5年の時のエピソ−ドを言い出した。いったいなんなんだ、この人は、と思ったが、物言わせぬ形相だったので、理由を聞いてみれば「未来から来た」だった。


 最初から「未来から来たんですけど」なんて言ってきたら、怪しんだかもしれないけど、どうもその前後が入れ替わっていたのが、逆に真実を物語っているような気がしてならない。


 まあ、私の妄想かもしれないが。いずれにせよ今夜、真実がわかる。




 「絵里、絵里ったら! 聞いてる? 人の話」目の前で友子が肩を突いてきた。


 「あっ、ゴメン、考え事してたわ」


 「もうさ〜、さっきは人ごみではぐれちゃうし、今は人の話聞いてないし、やっぱり昨日なんかあったでしょ? あの変なおじさんになんて言われたのよ」


 絵里は昨日のライブ終演後、友子に雄二のことをしつこく聞かれたのだが、「お父さんが昔世話をした人らしくて、私を見かけたから声をかけてきたみたいよ」とだけ言った。


 友子に本当のことを言っても、無駄に騒がれるだけだと思ったからだ。


 ライブのあとは、みんなで食事をし、新宿から5駅ほど行ったところにある友子の実家に泊まった。東京へのライブ遠征があると絵里は必ず友子の自宅へと泊めてもらっていた。


 そして、今日は昼から原宿へ買い物をしに来ていた。これも毎回のことだった。このあと夜は、渋谷で別のバンドのライブを二人で観る予定だった。


 いい加減歩きまわった二人は、ライブ前にファストフード店に入って、話をしているところだったのだが、絵里は今日に限り、何をしてもうわの空だった。


 事実絵里は、昨日の雄二の言葉が頭から離れなかった。駅の売店の新聞もチェックした。しかし今のところ、雄二の話したことが起きた気配は無かった。


 渋谷でライブを観た後、二人は電車に乗り、友子の自宅へと向かった。


 9時過ぎ、友子の自宅に着き、玄関で靴を脱いでいると、奥から小走りで友子の母親が出て来た。


 「絵里ちゃん、さっきお母さんから電話があったのよ。今は出ちゃっていないって言ったら、何時頃帰ってくるかって聞くからさ、わからないんで帰宅したらすぐに連絡するように伝えときますって言っといたよ」


 絵里が黙っていると「なんか、切羽詰まった感じだったね〜。だから、すぐに電話かけてあげなさいよ」と付け加えた。


 絵里は「電話をお借りします」と言うと、玄関に置いてある電話の受話器を持ち上げた。 

 友子は無言で2階の自分の部屋へと上がっていった。


 「もしもし、お母さん?」


 「絵里?」


 「そうだけど、用って何?」


 「あんた、明日飛行機で帰ってくるんだよね」


 「そうだよ」


 「お願いだから新幹線で帰ってきてよ」


 「はあ? なんで? 新幹線でなんか帰ってたら何時間かかると思ってるのよ」


 絵里の母はため息をついた。


 「あのね、あんたを心配して言ってるの、飛行機が落ちたらどうすんの?」


 絵里はハハハと馬鹿にするような笑い声をあげた。

 「なんで突然そんな心配するのよ、鉄の塊が飛ぶわけないとか言うんじゃないでしょうねー」


 絵里の母は、声のトーンをガラリと変えた。


 「あんた、日航機が落ちたってニュース知らないの? さっきからずーっとテレビでやってるじゃない」


 絵里の母は、はあ呆れちゃうわと、深くため息をついた。すぐさま、「新幹線代や飛行機代はお母さんが後で返してあげるから」と言ってきたのだが、絵里は無愛想に「わかった」とだけ答えてガチャリと受話器を置いた。


 絵里は足早に2階へと上がり、友子の部屋を乱暴に開け、中に入った。部屋では大きな音量で音楽がかけられ、友子はベッドに寝そべり雑誌を読んでいた。


 絵里は無言でテレビをつけた。そこでは母の言っていたように、日航機墜落のニュースが流れていた。


 友子は半身だけ起こし、不思議そうな目を絵里に向けた。絵里は友子の方に体を向けるとテレビの画面を指差した。


 「何?」


 「飛行機が落ちたみたい」


 「ええ!!」友子はベッドから飛び降り、ステレオの電源を切った。


 二人は膝を抱えながらテレビに食い入った。報道は何回も同じような内容を繰り返していた。


 長野県に日航機が落ちたことがキャスターの口から伝えられていた。

 乗員乗客含め524人が乗っていたこと、そして機長の名前などは警察関係者が模造紙に手書きで書いたと思われる映像が流れていた。テレビの画面には何回もそれが映し出されていた。


 友子はとっくにテレビ画面から離れ、ベッドに横になり漫画を読み始めていた。


 絵里は壁にかかっている時計を見た。結局昨夜から今日と、思い返しても、雄二が昨日言っていたことは起きなかった。夕刊も駅の売店でチェック済みだった。


 待ち合わせの時間は10時半だ、つまり、遅くとも10時にはここを出ないと間に合わない。


 「おじさん残念だったね」と呟いた。


 テレビを見始めてから、約1時間経った。いつの間にかニュースそのものに気がいって、雄二との約束はすっかり忘れていた。


 母が心配するわけだな、と思いながら、画面に見入っていた絵里は、ニュース番組で繰り返されているあることに気がついた。


 「524…人、高田…雅士…機長、47才」


 「まさか!!」


 絵里が突然発した声に友子は驚いた。


 絵里は立ち上がり、テレビのスイッチを切った。そしてバッグを手に取り、ちょっと用足しに言ってくるね、といって部屋を飛び出した。


 友子の家から十メートルくらい行くと大通りがある。絵里はタクシーを見つけるべく、そこまで全速力で走って行った。すぐにでもタクシーに乗りたかったのだが、なかなかつかまらず、しばらくあたりをうろつくことになった。


 ようやくタクシーを止め、車内に入ると、荒い息を整え、急いで行き先を告げた。


 「新宿中央公園までお願いします」


 ドライバーは咥えていた煙草を灰皿でもみ消したあと、低いトーンで「はい」と答えた。そしてゆっくりと車線を変えた。


 時計の針は10時を過ぎていた。


 絵里は流れる外の景色に視線を向けた。車内ではラジオが流れていた。そこでも日航機のニュースをやっていた。


 気づくと太もものスカートをきつく握り締めていた。手にはびっしょり汗を掻いていた。バッグから煙草を取り出して吸おうと思ったがやめた。


 もう少し早くわかっていれば、もう少し早く家を出ていれば、余裕で間に合ったと思った。


 絵里はそれでも一縷の望みをかけた。「おじさん待ってて」絵里はドライバーからおつりを受け取ると、勢いよく車外に飛び出した。


 公園内に入り、待ち合わせ場所の「水の広場」前にいった。しかし雄二の姿は無かった。






 「おじさん、なんで嘘をついた、おじさん、なんで嘘をついた」絵里は心の中で何回もそう呟いた。


 絵里はいつの間にか声を上げて探し始めていた。



 「中曽根雄二さ〜ん!!!」


 公園内をうろついてる男達は皆、絵里を目で追った。


 「中曽根雄二さ〜ん!!!」



 絵里の叫び声はいつしか泣き声に変わった。


 付近を警ら中の警察官が駆け寄って来た。


 「どうかした? 誰か探しているのかな?」

 一心不乱に呼びかける絵里をなだめるように訊ねる。

 

 絵里は立ち止まり、激しく肩を震わせた。嗚咽が漏れた。


 警察官は、交番で休むかい?と絵里の体に触れてきた。絵里は大丈夫です、もう帰りますと答えた。



 「誰かと待ち合わせだったのかな?」と警察官は聞いてきた。





 「はい、未来の旦那さんと」 



 絵里は心の中でそう言った。そして放心状態のまま公園の外へと向かっていた。


 


※※※※※※※※




 新宿中央公園を後にした雄二は、フラフラと自分の死に場所を探していた。


 手には公園内で話かけてきた男から貰ったカップ酒を持っていた。


 死を決意した雄二は、所持しているものを全て処分した。男から、はさみとライターと鈍器を借りて、紙幣や硬貨、カード類などを燃やしたりバラバラに切った。斜めがけの鞄の中のものも同様に。


 それらの行為は、道具を貸してくれた男に怪しまれないように、公園の草陰ですばやく行った。


 そして、最後は携帯電話を粉々に破壊し、バラバラに捨てた。雄二は背中にびっしょりと汗をかいていた。


 斜めかけの鞄と、鞄の中に入れっぱなしだった、飲み会の場で山口から貰った沖縄土産は処分に困った。鞄は革製ということもあり、また土産はそれなりの重量のあるものだったからだ。


 結局、その2点は、道具を貸してくれた男にあげた。この時代にあってもおかしくはないだろうと思ったからだ。その礼として、男は雄二にカップ酒をよこしたのだ。


 雄二はそれを受け取ると、足早に公園を出た。


 歩きながら、自分の身なりを再度確認した。来ている服や身につけている下着や履いてる靴などは、無メーカーの安いものだから問題ないだろう。


 「これなら、俺の死体があがっても、身元はわからないはずだ」


 雄二は確実に死への階段を昇っていた。


 酒を呑みながらフラフラと歩いていた雄二は、目的の場所に着くと足を止めた。


 そこは、ほんの2日前、警官に声をかけられて目を覚ました場所だった。最後にもう一度確認しておきたかったのだ。立ち止まったまま辺りを見回しても、そこは何のへんてつも無い資材置き場の片隅だった。よく見るとかなりの敷地面積のようだった。


 雄二は自分の倒れていた地面を足でドンドンと蹴ってみた。次に右手で空を掴んでみた。さらにその場で飛び跳ねてみた。


 「フフ、戻るわけないよな」


 絶望感が大きな波のように襲い掛かってきた。

 雄二はその場にしゃがみ膝を抱えた。 


 「絵里には本当に申し訳ないことをした」


 昨夜絵里に対して言ったことを頭の中で反芻し、もう一度整理した。






 「じゃあ、明日の夜までに、なにかニュースになるような事件とかあったら今教えて。もしそれが本当に起きたなら、信じるよ。明日の夜いろいろ話を聞いて、なんとか助けてあげられるように努力する。ただ、おじさんが言ったとおりのことが起きなかったら会わないからね、いい?」


 「わかった。じゃあ、言うよ。なんかメモを取るといいかもしれないが」


 「明日……、新幹線が……脱線します。鉄道事故史上最悪の惨事になります。乗客数は……524人で、運転士の名前は……タカダ……マサシ、47才」



 いぶかしげな目で見つめていた絵里の顔が頭から離れない。その後絵里はすぐに「わかった、じゃあ明日まで、絶対忘れないようにする」そう言って、踵を返そうとした時、「あっ、誰にも言わないから」と言って雄二に笑顔で手を振った。


 あれが絵里の最後の姿となった。



 絵里の顔を見ていたら、本当のことが言えなくなった。絵里をこんなことに巻き込むわけにはいかない。この時代の絵里にはこの先の未来がある。それを壊すようなことは許されない。


 とは言うものの、どこかで気づいてほしいという気持ちもあった。だから約束の時間までは待ち合わせの場所にいた。


 しかし、絵里は来なかった。


 約束の時間を20分回ったあたりで、雄二はその場を離れた。


 水の広場を何度か振り返りながら、雄二の心の中は、これでいいんだ、という思いと、もう少しここで待っていれば絵里はやってくるんじゃないか、という思いが激しく交錯した。





※※※※※※※※※※※




 雄二は夜空を見上げた。


 鼻で息を大きく吸い、大きくはいた。


 「これでいいんだ、17歳の絵里を巻き込むわけにはいかない。俺はもう、未来には戻れないんだ。ここでは生きていけないんだ」


 雄二は、資材置き場のその一角から少し離れてみた。すると、見覚えのあるタバコ屋があった。ちょうどそれまでは死角になっていて気がつかなかったのだ。


 昔、飲み屋にタバコは置いてなかったから、ここに買いに来てたよな。


 資材置き場までもどると、隣に立つ、レンガ色の雑居ビルを見上げた。



 雄二の中である一つの考えがわき上がった。


 あの時、俺が警察官に起こされて向かったのは、十二社通りだったわけだ。つまり、この資材置き場は……、俺たちが呑んでいた居酒屋の入っていたビル? いやまだ、建設前の段階だな。


 現代とはだいぶ周辺の様相が変わっていて、すぐには気がつかなかったのだが、そうやって改めて周囲を見渡すと、見覚えのある街並みだった。



 鼓動が速くなるのがわかった。



 そして同時に、居酒屋を出て非常階段を下りていた時のことを思い出した。



 「あの時の記憶は、たしかに今でも断片的だ、でも、もしかしたら……」



 雄二はレンガ色の雑居ビルの非常階段を、ゆっくりと昇っていった。3階部分で雄二は手すりから下を見た。あそこで俺は倒れていたのか。


 雄二は階段に腰を下ろし、長い間そのままでいた。胸の中に洪水のように去来する考えをまとめていたのだった。


 「まさかとは思うが、俺は手すりから落ちた時にタイムスリップをしたのか?……ということは、今ここで同じ場所に飛び込んだら元の世界に戻れるのか?」


 雄二は大きく首を左右に振ると「いや戻れなかったらどうなる、俺は死ぬな」


 そこまで言うと、雄二はクククと薄ら笑いをした。


 【おい、雄二! 死ぬ気でいるんならそれくらいやっちゃったらどうだ?】




 雄二は心の中で自問した。足がガタガタ震えた。




 そうだ、仮にこの時代で俺の死体が上がったとしても、所持品は無い、指紋も歯型も、この時代には存在しないんだったな。つまり、身元不明の死体として処理されるから安心だったはずだ。


 まあ、他殺の疑いがあったとしても、俺がどこの誰だかなんてことがわからないのだから、それ以上の進展はないだろう。他殺の線が消えれば、警察は事故か自殺と処理して終わりだろう。






 いい考えだ。


 雄二は立ち上がって、手すりに手をかけた。


 いい風だ。夜景も綺麗だな。




 絵里ゴメンな。





 雄二は手すりに足をかけた。


 




※※※※※※※※※※※※※※※





 「……池!小池!!」




 振り向くと、そこには山口がいた。


 「もう行こうや」山口は小池に出口へ向かおうと顎で促してきた。葬儀場の駐車場に停めてある車に乗り込んだ二人はしばらく無言だった。




 運転席の山口は、駅は右だっけ? と前かがみになり、通過する車を目で追った。小池は「ああ」とだけ答えた。



 しばらくして、踏み切りで車が停車したとき、小池が沈黙を破る。



 「見てらんなかったよ」


 山口は「俺も同じだ」と言った。


 ダッシュボードの上を拳で軽く叩くと、はき捨てるように小池は話し始めた。




 「11日の朝方、絵里ちゃんから連絡があった時は、雄二は10時に店を出たから、もう帰ったと思ってたよ、としか言えなかった。だけど、朝まで何も連絡がない、絵里ちゃんからも連絡がつかない、しかも午後になってもだ。俺は焦ったよ、とにかく警察に相談したほうがいいんじゃないかって言った。そして、俺も、もちろんお前もだが、必死になって知りうる限りのところへ連絡を入れた」



 小池はフーっと大きく息をついたあと、「まさかな……」と髪の毛をかきむしった。


 山口はすかさず、お前や俺たちのせいでは無いだろ、あいつはそんなに酒も呑んでいなかったじゃないか、と言うが、「だから、やりきれないんだよ」と小池は言葉を遮った。












 居酒屋のあった雑居ビルの1階非常階段と、隣接するレンガ色のビルとの隙間に置かれた、業務用の大きな室外機の影に雄二は倒れていた。



 発見者は雄二たちが呑んでいた居酒屋で働く女性だった。 


 警察官が着いたときはその女性も興奮していたのだが、しばらくすると、その顔に見覚えがあると言い始めた。古くからの常連客だが、知っているのは苗字と勤務している学校名だけだった。そこから警察は身元を割り出したのだった。





 外傷は無く、着衣の乱れや誰かと争った形跡も無かった。しかし上階の手すりには乗り越えた痕跡があったことから、警察は転落死と断定した。自殺の線も考えられたが、妻である絵里や友人等の証言からその可能性は低いと見られた。



 雄二と音信が取れなくなって1日以上が経過した。こんなことは今までに一度も無かったことだ。


絵里は一睡もせず、自宅で連絡を待っていた。




警察から連絡を受けると、絵里は、駆けつけた雄二の両親と一緒に遺体の確認をしに行った。




 横たわっていた遺体は、紛れも無く雄二だった。綺麗な顔をしていた。出血なども無いことから、警察ももう少し発見が早ければ助かった可能性もあると言っていた。


 絵里はボロボロと大粒の涙を流しながら、冷たくなった雄二の手を両手で包み込んだ後、声をあげて泣いた。母親はハンカチで口を押さえ、声にならない声で「雄二!! 」と名前を呼んだ。父親は雄二に背中を向けてうつむいた。




 それぞれの絶望を前に、警察官は無言で立ち尽くしていた。




 


 帰るまでのあいだに警察から諸々の事情を聴かされると、絵里は自力で立つことが出来なくなり、その場に崩れ落ちた。






 その日の午後、自宅へ亡骸が運ばれると、すぐに小池も駆けつけた。

小池は遺体にすがりつき、号泣した。ひとしきり泣いた後、絵里は小池にお茶を勧めた。ダイニングテーブルを挟み、二人は話をした。



 小池はまず謝った。「一緒に帰るなり、下まで行くなりしていればこんな事にならなかったのに」と。



 絵里は無言で首を横に振った。



 「雄二の発見まで、結構長い時間だったけどさ、あいつは絵里ちゃんのことや、昔の思い出も、死の淵まで思っていたに違いないよ」





 解剖などの処置もなかったので、すぐに通夜、葬儀の段取りがとられた。






 通夜にはかつての同級生や学校関係者、教え子、絵里の友人、そして近所の人など、多数が集まった。


 次から次へと、事務的に動かねばならなかった絵里を、雄二の両親等がサポートをした。




 憔悴しきっていた絵里に、小池もずっと付き添っていた。





 告別式の合間に小池は、雄二の父からあることを聞かされた。


 「小池さんにだから言うけどね、雄二は何故か、所持品が一つも無かったのですよ。財布も携帯電話も、外出するときは必ず持っていた鞄さえもね」


 「えっ!! それはおかしいですよ。雄二は僕等の前で、携帯も財布も出してたし、鞄だって持ってた。山口からのお土産も大事そうに鞄に入れてましたよ」



 「もちろん、わたしらもそこは突きましたが、警察は、あの辺りはホームレスなんかもウロウロしてるから、もしかしたら、所持品は全て持っていかれたのかも知れません、と言ってましてね」



 小池は黙って聞いていた。




 「まあ、雄二の体からは、出血がなかったみたいですし……、居眠りしている酔っ払いくらいにしか思われなかったんでしょうかね。わたしら、後からその現場に行ったのですが、そんなに高い所から落ちたというわけでもないのに……死ぬなんてね……。とにかく人目につかなかったのが、命を落とす原因になったのかもしれません」




 淡々と話す雄二の父親に対して、小池は返す言葉が見つからなかった。





 ※※※※※※※





 「もうじき駅に着くぞ」山口が口を開いた。


 「ああ、すまん」と言いながら小池は顔を上げた。



 「本当にあの二人は仲が良かったよな。俺はうらやましかったよ。絵里ちゃん美人だしさ。なんであの二人が結ばれたんだって、呑むと必ず俺たちあいつに絡んでいたよな」


 山口は小池の気持ちを察し、あえて昔の話を持ち出した。小池は黙っていた。





 「さあ、着いたぞ」山口は徐行しながら停車出来るスペースを探した。



 小池は一点を見つめながらボソリと呟いた。


 「俺もあいつらの結婚式の席で絵里ちゃんに聞いたんだ。あの男のどこが良かったんだ? って。そしたら彼女、笑いながらこう言ったよ」




 「良かったところねぇ……、しいていうなら、名前……かな」とね。



 「名前?」

 山口は思わず大きな声を出した。





 「ああ。俺もそう言ったよ」と小池は小さく笑って続けた。

 


 そしたらさ、彼女、雄二の真面目くさった口調を真似して「苗字は総理大臣と同じ字です。下の字は、雄雌の雄と、漢数字の2」ってさ。



 「総理大臣と同じ、か。中曽根さんね。そういや、あいつ、総理って呼ばれていたんだってな?」

 「ああ」と小池は頷き、「大学に入るころには誰も呼ばなくなったけどね、それでもあいつ、自己紹介の時は必ずそうやって説明していたよ」






※※※※※※※※





 地下鉄の階段を上がりきり、歩道に立つと、一陣の風が吹いた。


 少し歩くと石造りの階段が見えてくる。ゆっくりと階段を上がる。





 そして、周囲に目をやる。


 




 平日の昼間、オフィス街で働く人たちが、それぞれの昼休みを取っていた。







 先日雄二の納骨を済ませた絵里は、「水の広場」の前に立っていた。





 嫌でも視界に入ってくる都庁の窓ガラスを見た。「あのガラスの向こう側にいる人たちはたくさん恋をしているかな」そんなことをぼんやりと考えながらその場にしゃがみこみ、1輪の花を置いた。






 秋の空はどこまでも澄んでいた。












「1985年、僕は総理と呼ばれていた。」〜完〜








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