第3話

 菊川に伝わる書のひとつ、魂詠たまよみは、密かに真琴に受け継がれていた。魂詠みは心を詠む書である。また、心を操ることもできる。


「書を持つことを誰にも言ってはならぬ」


 物心ついたころから、国主である父の八目はちもくに、真琴は何度も言い聞かされてきた。形を持たないそれらの書は、血筋の者以外は詠むことはおろか視ることもできない。それらは体内に宿るものだからだ。


 また、未来を視ることのできる夢詠ゆめよみの書は、菊川の中でもごく僅かな者しか詠むことができなかった。

 八目は夢詠みにより葵が姫の命を奪う未来を視たようだ。


「生き延びよ」


 八目が葵巽を恐れたように、葵は真琴を恐れるだろう。故に真琴は、無能の姫であり続けるよう、八目に命じられていた。


 生前の八目は、菊川の書を、この世から葬り去る手筈を整えていた。葵に城を明け渡したのも筋書き通りだ。


 病に冒された八目は、自らの呪力が弱まればいずれ葵に攻め落とされるだろうと分かっていた。慈悲深い国主は、無益な争いを避ける道を長い間模索していたのだ。


 側近たちの多くはそんな国主の思いなど知らずに安易に葵へと寝返ったが、もちろんすべて国主の知るところだ。国主に心の内を隠すことは何人たりともできない。嫉妬、憎悪、殺意など、強い思いほどよく届く。壮健であったころは人々の邪心を鎮めることもできたが、病床に伏せた八目にはもうそれも敵わなかった。


「菊川の力は、難儀よのう」


 また、未来を予見するのも苦しかったようだ。誰かを救えば誰かを見限ることになる。

 姫の未来を案じながら、八目は静かに世を去った。


 ◇


『先主のことを考えているのか?』


 我に返った真琴が書物から顔を上げると、行灯あんどんに照らされた巽の姿が目に入る。土蔵の中にある階段に腰掛けた巽は、真琴を窺うようにしていた。


 真琴が葛ノ葉邸に居を移してから、あっという間にひと月が過ぎた。真琴は暇さえあれば蔵の前に座り込み、書物を読み耽った。それでも足りず、夜な夜な蔵に忍び込むようになったが、ついに巽に見つかってしまったのである。


「はい。父のことを思い出しておりました。巽様も心がお分かりになるのですね」


 家庭教師の千影の目は盗めても、鬼を欺くには純真すぎる姫だった。


『馬鹿な。其方そなたが分かりやすいだけだ』


 巽はふいと顔を背ける。鬼面がないほうの横顔はただの青年だ。巽が顔半分を隠す理由を真琴は知らない。


 突如、真琴の耳に恐ろしい鳴き声が届く。断末魔のような獣の唸り声だ。


「ひゃっ」


 真琴は驚いて身を竦める。それは森の闇夜に潜む魔物の叫びだ。


『だから一人では危ないと申したであろう』


 怯える真琴の側に、巽は腰を下ろした。ぶっきらぼうではあるものの、魔物を寄せ付けぬために、巽はわざわざ真琴の側にいるのだ。


「すみません。だけど読み出すと止まらなくて」


 真琴は名残惜しそうに物語が描かれた書物を閉じる。


『続きはまた明日にすれば良い』


 女中たちは未だに巽に怯え滅多に近寄ろうとはしないが、真琴はすっかり慣れてしまった。むしろ、巽のことを優しい心の持ち主だと思っている。今となっては、父の八目がどうして巽をあれほど恐れたのかさえ理解に苦しむ。


 言葉だけでは伝わらないことがある。

 心が通じなければ誤解が生じる。

 真琴は本当の巽を知れて良かったと思った。


「巽様は城に戻らなくても良いのですか?」


『案ずることはない。我が父も愚息のことなど気にしてはおらぬ。醜悪なうえ言葉も持たぬ身だからな』


 真琴はいよいよ申し訳なくなってしまう。


「菊川のせいですね。私が未だに呪詛を解けないせい……」


『その通りだ。覚悟はできたか』


「はい。一生お仕えさせていただきます」


 深々と真琴は頭を下げる。真琴は魂詠みの力を使い、巽から失われた言葉の代わりをするつもりだった。


 巽に仕えることは真琴の望みでもある。生かされているだけでありがたいというのに、自由に書物との時間を与えてくれる巽にすっかり心を許していた。


「これからはどうぞ私を女中として扱って下さい」


 すると巽は、慌てたように真琴の両肩を掴んで持ち上げた。そこで視線が合わさると、すぐさま元に戻して手を離す。今度はのそりと立ち上がり、真琴の視線から逃れるように背を向けた。


『姫は分かっておらぬ』


 巽の不満げな声が、真琴の中に流れ込んでくる。


わしは姫を妻に娶ると申しているのだ』


「私を妻に……!」


 真琴は両頬を真紅に染めた。女中として仕えるつもりが、まさか妻として迎えられるとは思ってもいなかったのだ。


『呑気な姫君だ』


 あの夢は、もしかして――。


 昨夜見た夢はただの願望ではなかったのかもしれない、と真琴は思う。それは、巽が筆でしたためた文字をながめているだけの、なんともしれない夢だった。ただし、思いのほか達筆な文字に感心したせいか、はっきりと夢の詳細まで覚えている。


 夢の中の巽は鬼面を付けておらず、顔半分を覆い尽くす痣があった。巽から「真琴、恐ろしいか」と訊ねられたが、真琴は「いいえ」と答えた。

 面を付けていようが、痣があろうが、変わらない。

 巽の心は、変わらない。

 あたたかで柔らかな心を感じ、夢の中で幸せな気持ちになった。


 あれは、未来を視たのかしら――。


 真琴は夢の中で、「姫」ではなく「真琴」と巽から名を呼ばれたのが不思議だった。もしかすると、巽の妻になるという暗示だったのかもしれない。


 ますます真琴は赤くなる。


『さあ、屋敷へ戻ろう。また明日、好きなだけ読めば良い』


「はい。ありがとうございます」


 真琴は優しい鬼に向かって微笑んだ。


 これもすべて八目の筋書き通りなのかもしれないが、もはや知る由もない。



 了

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綴ノ国の夢詠み姫 タカナシ @birds_play

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