第2話
真琴は千影と連れ立って、屋敷の片隅にある黒漆喰の蔵へとやってきた。一番外側の、観音開きの戸前はすでに開いている。しかし蔵の扉は二重三重となっており、見るからに頑丈そうな木戸がまだ行く手を阻んでいた。
木戸の鍵穴へ真琴は鍵を差し込む。
「回らないわ」
錠はびくともしなかった。
「見てみましょう」
千影が鍵穴を覗く。
「これは何やら仕掛けですね」
「仕掛け?」
「どこかに本物の鍵穴があるはずです」
木戸のあちこちに触れていると若干の凹凸があるのに真琴は気づいた。
「これは……」
よく見れば扉に継ぎ目がある。継ぎ目の部分の板は取り外すことができた。すると別の鍵穴があらわれる。
「用心深いこと」
千影が言い、真琴は肩をすぼめた。
真琴はふたつ目の鍵穴に鍵を差し込む。今度は確かな手応えを感じた。小気味よい金属音がし解錠される。
「千影先生、手伝ってください」
二人がかりで重たい木戸を開け、やっと蔵の中へ足を踏み入れた。
「まあ、すごい」
「姫様気をつけて」
入り口から差し込む光がぼんやりと内部を照らす。蔵の中には書物が天井付近までうず高く積まれていた。
「落ち着かないわ。どれから読もうかしら」
真琴は和綴じ本を一冊手に取り目を輝かせる。埃を払い、色褪せた表紙をうっとりとながめた。どれもが検閲を免れた貴重な書物である。綴ノ国では思想統制のため書物は検閲にかけられる。特に空想の世界を描いた書物や物語は、厳しく取り締まられた。
さっそく袴が汚れるのも気にせず蔵の床に座り込むと、真琴は嬉々としながら書物を開いた。びっしりと書き込まれた文字に胸が躍る。すっかり夢中になっていると「姫様、姫様」と千影に肩を揺すられた。
「姫様、そろそろ日が暮れます。森の魔物が目を覚ます頃です。屋敷に戻りましょう」
「……ええ、でも、あと少し」
森の魔物は凶暴だ。急がねばならないと分かっているのに、真琴の頁を捲る手は止まらない。
「大丈夫ですよ、姫様。時間はたっぷりありますから」
少し呆れたように千影は言った。それでも真琴の目は文字を追い続ける。
「いいえ……多分、私に残された時間はほんの僅かでしょう」
真琴の命は鬼の手の中だ。たとえ生かされようともこの先姫として扱われることはないだろう。そうなれば二度と、物語に触れることはできないはずだ。だからこそ。
一字一句漏らさず胸に刻み込みたい……。
真琴は一心不乱に書物を読み続ける。
そうしていると、哀しい声が波のように真琴へと押し寄せてきた。
『可愛そうな姫様……能力さえあればこんな惨めな思いはせずに済んだのに』
千影は心の中で泣いているようだ。
『菊川に生まれたばかりに、年頃の娘の幸せも奪われ……』
年頃の幸せとは何だろう?
ただの娘だったなら心ゆくまで物語の世界に浸りたい。それが私の幸せ、と真琴は考える。しかし。
『暗い屋敷に閉じ込められ、生涯、姫は恋も知らずに生きていくのだわ……』
恋を知らずに……?
それは哀しいことなのだろうか。真琴には分からない。
『私もいつまでお側にいられるか』
普通の幸せなど望んでいない。とはいえ、一人きりで生きていくことなど想像もできない。千影の憐れみは真琴の心を深く沈めるのだった。
◇
その日も真琴は土蔵の石段に腰掛け書物を読んでいた。
むかしむかしの話、遠い異国の話、天空におわす神様の話、どの物語も真琴を魅了する。厳しい境遇にいようとも、書物があればさほど悲嘆せずに済んだ。
もし物語が失われたら、どう生きていこう?
物語の海から水面へ、ぷかりと真琴が顔を出したときだ。
大きな音を立て、鳥たちが一斉に森を飛び立っていった。さらには、獣たちの鳴き声や、木々の隙間を吹き抜ける風の音が響き渡る。
人の気配を感じて屋敷のほうを見ると、濃紺の軍服が目に入った。腰に刀は見当たらないが軍帽は被ったままだ。巽の姿に驚き、真琴は息を呑む。
巽は、森の奥深くを睨みつけるようにしていた。すると不可解にも、騒がしかった森がぴたりと静かになる。
こんなところにあらわれたということは、真琴を探しに来たのだろう。真琴は、悪戯が見つかった子供のように固まった。
ところが、巽が真琴を気にかけるような素振りはなかった。
『…………』
やはり巽の心は無音だ。真琴は不可解に思い、じっと巽を見つめる。
屋敷や蔵は、もとは菊川のものだ。とはいえ、今の真琴が勝手をしていいわけがない。
お咎めがあるはず――。
怖い……。
鬼面を付けた奇妙な外見は気にならない。それなのに、真琴の心臓は巽を畏れて蠢いた。
しかし、相変わらず、巽は素知らぬふりをしたままだ。
庭にある立派な景石の上に寝転がると、軍帽を顔に乗せる。どうやら昼寝をはじめたようだ。
あんなところで……。真琴は驚きながらも何も言えなかった。意外と粗野な巽に、何故か心は落ち着いていく。
大目に見てくれているのだろうか。
だったら、もう少しだけ。
真琴は再び書物に視線を戻した。爽やかな風が鳴らす葉音は、さっそく真琴を物語の世界へと誘う。
真琴は巽が側にいるのも忘れて書物に没頭した。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
『日が落ちる。そろそろ屋敷へ戻れ』
流れ込む巽の言葉に空を見上げれば、もう夕暮れだった。
「はい」
真琴は素直に返事をした。
巽の後を追って真琴は屋敷へと向かう。もしかして、見守ってくれていたのだろうか。森の魔物が暴れないよう、制していてくれたのだろうか。何も言わない背中に問いかけようか迷ったが、結局、真琴は沈黙した。
それからも、書物を読む真琴から程よい距離に、気づけばいつも巽の姿はあった。たまに珍しい菓子を渡され、寒い日には上着を貸してくれる。
巽が側にいるとき、やはり真琴には、森が息を潜めているように感じられるのだった。
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