綴ノ国の夢詠み姫

タカナシ

第1話

「いい日和ですね」


 籠から降り立ったのは、愛らしくも凛とした、強い光を宿す姫だ。


 日差しを受けて煌めくのは、金糸の刺繍。艶やかな唐衣裳からぎぬも装束を纏う菊川真琴きくかわまことは、綴ノ国つづりのくにを統治する菊川家の姫であるが――。


 悲しくも、高価な香炉も螺鈿箱らでんばこも自室に残したまま、身一つで生まれ育った城を去り下屋敷へと移り住むこととなった。


 綴ノ国には古くから受け継がれる様々なしょがある。そしてそれらは、読み手を選ぶ、不思議な書だった。


 菊川家は心を操る書をむことができる。故に、人々の心を動かす力を持った。異能によってまつりごとを執ってきたのである。


 ところが、国主の落命により情勢は激変する。あろうことか、菊川の家臣であったあおい家が謀反を起こしたのだ。無血開城の道を選んだのは菊川の第一姫である真琴だった。


 真琴は、ついに能力の片鱗さえ示すこと無く十八歳を迎えた。力を持たない者には国を治めることはもとから難しい。また、綴ノ国の泰平が何よりの望みであった真琴に城や政への執着は少しもなかった。


「姫様の宝まで奪うとは、葵は欲深い」


 怒りに満ちた言葉を放ったのは、立襟に長袖という洋装姿の女性だ。年頃は二十代半ば。切れ長の涼やかな目。なかなかの美貌の持ち主である。彼女は真琴の家庭教師で松風千影まつかぜちかげという。


『私が姫を守らなくては』


 千影の思いが真琴へと流れ込んできた。しかし気づかぬふりをする。


「だけど、お部屋に草木や花を飾るのもおもむきがあると思うの。私は、楽しみでしょうがないわ」


 家庭教師にだけ届くよう、真琴は静かに言った。母の生家であるここ葛ノ葉くずのは邸を気に入っているのは本当だ。幼い頃に訪れた記憶を辿りながら真琴は周囲を見渡す。


「懐かしい」


 手入れが行き届いていないのか、広大な敷地は木々が生い茂り、森のように鬱蒼としていた。気味悪がる従者もいたが、真琴にすれば小鳥のさえずりや自然の草花は、堅苦しい城の暮らしよりずっと魅力的に思えた。


「さあ、行きましょう」


 真琴が一歩踏み出すと、暗い影を落とす小道はふわりと明かりを灯したようになる。あるじを待ちわびていた樹木たちが葉を潜め、陽の光を通してくれたのかもしれない。


 ◇


 葛ノ葉邸は森に覆われているせいか屋敷の内部も薄暗く、そして埃っぽかった。


 千影は手巾ハンカチで口元を覆い不満を述べる。


「このような場所に姫様を住まわせるなんて信じられません」

「平気よ。すぐに慣れるわ」


 そんな真琴に、千影は「いじらしい」とさらに嘆いた。


 決して強がりではなかった。当然、城で暮らしていた頃のように華やかさはない。お付きのものもほとんどいない。それがかえって真琴には嬉しい。

 きっと自由な時間が増えるはずだ、と。


 いけばなや楽器を愉しむよりも、書物を好きなだけ読みたい。常々真琴はそう願っていた。


 屋敷の奥には数多あまたの書物が眠る土蔵がある。亡き母の形見でもある蔵の鍵は、すでに真琴の手にあった。


 一人になれたならさっそく蔵に忍び込もう。密かに企んでいたものの、なかなか真琴は一人になれずにいた。


「姫様、お着替えお手伝いいたします」


 女中に言われ、真琴は素直に「はい」と返事をする。


 城では姫の着替えや化粧は女中の仕事だ。しかし、真琴はもう一国の姫ではない。自分は皆の者にとって憂いでしかないと思い知る。


 正装から小袖袴へと着替え、少し楽になったとはいえ、いつもより乱暴に髪を梳かす女中に、ひどく気が滅入った。


『屋敷も姫も気味が悪いったらないわ』


 女中の声にならない声が真琴へと届く。


 この者の心が鎮まりますように――。


 真琴は胸に手を添え、そっと祈る。


 女中たちが自分を恨む気持ちもよく分かっていた。仕えた姫が無能であったがために、都を遠く離れ、親兄弟と別れることになったのだから。


 ごめんなさい。心の中で謝ることしかできない。

 真琴には、女中を責める気持ちなど微塵もなかった。

 すると、廊下からひどく乱暴な足音が聞こえてくる。


「何事ですか」


 荷物を片付けていた千影が、部屋の奥から顔を出す。


『姫はどこだ』


 真琴の心に、鬼の声が聴こえてきた。

 鬼がこちらへとやってくる――。

 鈍色に光る刃を自分へと向けながら、静寂の中に佇む鬼の姿を、真琴は咄嗟に脳裏に浮かべた。それは、葵家が城を占拠した日の記憶だ。


 あの日、切っ先を前に、真琴は微動だにしなかった。


 命は惜しくない。殺されてもかまわない。覚悟はできている。父の生き様を見てきたからだ。

 あとは天命に従うだけ。

 心を落ち着け、目を閉じたが――鬼の刃が真琴を斬りつけることはなかった。


『姫はここか?』


 あの人がお見えになった――。


 部屋の襖が勢いよく開き、真琴はそちらへと向き直る。


「ひっ……」


 鬼の姿に、女中は震え上がり小さな悲鳴を上げた。


 異様な霊気を纏い、鬼面で顔半分を隠した男が、真琴を見下ろしている。濃紺の軍服の袖には将を示す大金線が三本。腰のベルトには軍刀が吊られていた。


 姿を見せた鬼は、今や軍人皇子となった、葵巽あおいたつみという青年だ。年は真琴より三つ上の二十一歳と聞いている。巽は、魔物を滅する力を持つ葵家の中でも抜きん出た能力者で、一介の軍人であった頃からその名を轟かせていた。


 ところが、巽の絶大な力を恐れた菊川の国主によって言葉を封じられてしまい、彼もまた厄介払いで城を出ることとなった。つまり巽は、もはや喋ることも文字を綴ることもできない身なのである。


『姫よ、心は決まったか』


 鬼面から見える半分だけでも美貌の青年だと分かる。また、威圧的な見た目にしては爽やかで通る声をしていた。


「何度も申し上げておりますが、私に術を解くことはできません」


 巽に向かって言葉を発する真琴に、事情を知らない女中が目を白黒させる。恐ろしい鬼を前にして気が触れたと思ったのかもしれない。


 無能とされてきた真琴だが、実は巽の言葉を受け取ることができるのだ。


『ならば、覚悟はできているな』


 真琴はゆっくりと頷く。

 菊川の姫であるからには鬼に憎まれることも宿命だった。

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