里還り

ころく

里還り

 気持ちいい青が広がる空。時折見掛ける白い雲は、ゆっくりと風に身を任せて漂い流れる。

 そんな果て無い天井に浮かび、今日も容赦無い日射しを照らす太陽。チリチリと肌を刺激し、熱気がさらに体温を上昇させる。

 気温は優に三十度を超え、何をしていなくても汗を掻いてしまう真夏日。

 そんな外出など遠慮したくなる日中に、一人の少年が手頃な石の上に座っていた。Tシャツの襟元に付くか付かないかの長さの黒髪をして、サンダルを履いたラフな格好。

 外見からするに、歳は大体十七、八ぐらいだろう。


「暇、だなぁ」


 少年は目の前を流れる川のせせらぎを耳にしながら、木陰でただぼうっとその景色を眺めていた。

 辺りには緑が多く、風が吹くと木々の葉が騒めく音が辺りを支配する。

 周りにビルや大きな看板などは一切無く、あるのは民家、林、田んぼ、砂利道。たまに電信柱。

 コンクリートジャングルには程遠い、ドの付く田舎。


「やる事もないし」


 かと言って、やりたい事もない。と膝に頬杖を突いて暇をもて余す。

 何かを忘れているような気もするが、忘れてしまうなら大した事じゃないだろう。

 暑さで考えると頭がショートしてしまいそうなので、出来るだけ思考するのは遠慮したい。そう思い、少年はすぐに考えるのをやめる。

 八月中旬。暑さも更に増して、項垂れるような日が続く時期。その辺りになると、少年は毎年この田舎に帰ってきている。

 こんな田舎じゃやる事も無く、常に暇をするだけ。なのになぜ毎年帰って来るのかと聞かれれば、毎年帰ってきているから。と言うだろう。

 つまり、理由は無い。ただなんとなく、それが習慣になっていた。学校で、くだらない行事を毎年やるのと同じようなものだ。去年もやったから今年もやる。そんな感じだ。


 とは言え、やはり暇なものは暇。

 暑さから逃れようにも、道路だって鋪装されていない。車だって少なく、田んぼを耕すトラクターの方が多いド田舎。そんな所に、空調の効いたコンビニなどある筈も無く。

 なので少年は、少しでも涼しもうと近くにある川へと来ていた。

 対岸まで二十メートルはあり、それなりに大きく深そい所も多そう。田舎なだけあって水は綺麗な透明で、水面を覗けば川魚も泳いでいる。


「昔はよく、ここで釣りをしたり泳いだりしたんだけどな……」


 流れる川を眺めて、少年はぽつりと呟く。

 大きく広い川で、流れも浅瀬は緩やかで泳げて、川魚もいて釣りが出来る。しかも今日みたいに暑い日であれば、地元の子供達が水遊びをするには持ってこいの場所だろう。

 だが、今ここには夏休みではしゃぐ子供など居らず、少年一人しかいない。

 理由は、河原に立てられた看板に記されていた。どうやらこの川で泳いでいた人が溺れて亡くなった事があるらしい。

 それ以来、ここは遊泳禁止になり、誰も来なくなった。看板に「泳ぐと幽霊が出るぞ!」なんて事も書かれていたが、川に子供を近寄らせない為だと考えられる。

 たまに何人か土手を歩く人がいたりしたが、誰も少年に話しかけたり注意をしてくる者はいなかった。

 この川は遊泳が禁止なだけで、少年のようにただ眺めているのは構わないのだろう。


「にしても暑い……し、暇だ」


 暇な時ほど時間が流れるのは遅い。まさに今眺めている川のように緩やか。

 看板の注意書きなど無視して泳げば暑さは凌げるが、なんとなく川に入りたくはない。

 はぁ、と少年は気怠く溜め息を吐く。


「こんにちは」


 溜め息を出しきったあたりで、少年の後ろから声を掛けられた。

 優しく落ち着いた、透き通るような女性の声。


「え?」


 不意に掛けられた声に多少驚きながら、少年は顔を上げて後ろへ振り向くと。

 そこには茶色いセミロングの髪で、真っ白いワンピースを着た女性がニッコリと微笑んでいた。


「あなた、一人?」



 黒い瞳は大きくて丸く、整った顔立ちにはまだ幼さが見え、綺麗と言うより可愛さが目立つ。

 歳は少年より少し年上で、おそらく成人は迎えているだろう。


「まぁ、そうだけど……」

「私は人と会う約束があってここに来たの。良ければ、時間までお話に付き合ってくれない?」


 言って、彼女は耳元に手をやって風で靡く髪を抑えながら、また微笑んだ。


「特にやる事もなかったし、いいよ」

「本当? ありがとう」


 元々暇をしていた少年には断る理由も無い。寧ろ有り難い話だった。

 少女はワンピースのスカートをふわりと揺らして移動し、少年の隣に座り込む。


「あなた、朝からずっとここに居たね」

「実家がこっちで毎年この時期に帰って来てるんだけど、なにもやる事がなくてさ」

「そうなんだ」

「生まれてからずっとこの町に住んでて、何にも無くて、嫌になるくらい暇な所だけど……なんでか、気付いたら帰って来てるんだ」

「ふふっ。君、おかしな事を言ってるね」

「え?」


 彼女の言葉に、少年はちくんと頭痛が走った。

 少年はその痛みを誤魔化すように、小さく頭を左右に振る。


「君は? ここが地元なの?」

「私も君と同じ。ちょっとだけ里帰りしに来たの」


 そう言って、彼女はニッコリと笑った。何処か懐かしく感じ、そして、何か寂しげな笑顔で。

 それから話が弾み、時間など忘れて話をした。気付けば陽も暮れ、ひぐらしが鳴いて辺りは暗くなっていた。

 結局、待ち合わせ相手は現れず、彼女は帰っていった。




 ――翌日。

 少年はまた川にいた。と言うより、気付いたら来ていた。理由は、昨日の少女が気になってしょうがなかったから。

 昨日別れる際、約束をした訳でもない。でも何故か、今日も彼女が来るんじゃないかと予感していた。

 すると少年の予感通り、真白いワンピースの少女はやって来た。あの柔らかい笑顔をして。

 また今日も、石に座って何気無い話をして時間が流れていった。


「今日も暑いな」

「本当、夏って言ったって限度があるわよね」


 あまりの暑さに、少女も頬を膨らませて愚痴を漏らす。


「ははっ、足だけでも川に浸ければ少しはマシになるんじゃない?」

「……それは嫌」

「え?」


 楽しげな口調が一瞬にして変わり、彼女は顔に影を落として暗い表情だった。


「私、水が怖いの。嫌いなの。だから、それだけは嫌」


 顔を俯せ、少女の声は微かに震えている。


「実はさ、俺も川に入る気にはなれないんだよな」

「なん、で?」


 俯せていた顔をゆっくりと上げ、彼女は少年を見る。


「わかんない。けど、いくら暑くても川に入ろうとだけは思わないんだ」


 目の前の川で魚が跳ね、ぽちゃん、と音を立てて水面に小さな波が出来た。


「幽霊が怖いのかな、俺」

「……ぷっ、あはははっ!」


 少女は真剣な表情を崩し、腹を抱えて大笑いする。


「あれ、そんなに笑う?」

「うん、笑っちゃう! あー、お腹痛い……」


 笑いすぎて荒くなった息を整えてから、目に溜まった涙を指で拭う。


「いっぱい笑ったし、暗くなってきたから今日は帰ろうかな」


 少女は立ち上がり、お尻を軽く叩いて汚れを落とす。

 日は暮れ始め、空は茜色と黒の二色だけになっていた。


「じゃあね」


 手を振りながら、少女は帰っていった。


「そういや、あの子の待ち人……結局今日も来なかったな」


 今更な事を思い出して、頭を軽く掻く。


「ま、いっか」


 また明日来ると言っていた訳でなく、会う約束をしたでもない。

 けど、明日も会えるという確信に似た予感が、少年にはあった。




 ――翌日。

 少年の予感通り。また、白いワンピースの彼女は川へやって来た。

 いや、少年の所へ来たと言うべきか。


「こんにちは」


 初めて会った時と同じ言葉を掛けて彼女が現れたのは、正午を過ぎてだった。


「あ、こんちは」


 そして、彼女は定位置である少年の隣に座る。

 今日も日射しが強く、快晴。三日連続の真夏日。


「今日も相変わらず暑いな」

「うん、そうね」


 どこか素っ気なく、 相づちにも似た返事。


「……」

「……」


 会話が続かず、二人の間に流れる沈黙。辺りの林からは油蝉の鳴き声だけが喧しく聞こえてくる。

 そして、沈黙を破ったのは彼女だった。


「私ね、高校に入ってすぐに重い病気にかかっちゃったんだ」

「病気……?」

「見付かったのが遅くて、おそらく高校は卒業できないだろう、って。あ、暗い話じゃないからね? こうして成人だって迎えたんだし」

「だ、だよな。いきなり病気の話されてビックリした……」

「闘病生活がすごく辛かったけど、いつも励ましてくれた人が幼馴染が居てね。とても心強かったし、嬉しかった。一緒に高校を卒業して、都会の大学に行くんだろ、って口癖のように言われてたなぁ」


 辛かったはずの闘病生活が、今では懐かしく優しい記憶だと。

 彼女は当時の事を思い出して、ふふっと小さな笑い声を零した。


「体調のいい日はよく外に連れ出してくれてね。娯楽が無い町だから、来るのは結局いつもこの川。私はその幼馴染と逢う為に、ここに帰ってきてたんだ」


 彼女の話を聞きいていると、少年の心臓の音が段々と高くなっていく。

 同時に、酷い不安と焦燥感に駆られる。


「だから、今日はお別れを言いにきたの。私、もう戻らなきゃいけないから」

「……え?」


 彼女の言葉に、少年は固まる。

 いつかは別れが来るのは解っていた。けど、こんなに早くだとは思っていなかった。


「あなたも、今日で戻らなきゃいけないでしょ?」

「――っ!」


 その言葉に、少年の心臓が締め付けられた。

 ずくん、と。


「で、でも、君の待ち合わせの相手はまだ来ていないじゃないか」

「ううん。待ち合わせの人とはとっくの前から、ずっと会っていたわ」


 少女は答えて、小さく首を横に振る。


「私ね、昔……ここの川で溺れた事があるの」

「……え?」


 彼女は少年へと視線は向けず、悲しみに満ちた目で流れる川を見つめる。


「幼馴染と二人で遊んでて……あの辺りかな、急に深くなった所で足がもつれて」


 川を指差し、彼女は続ける。


「そして、私を助けようとして彼は――亡くなったわ」


 また、少年の心臓に痛みが走り、頭には違和感が駆け巡る。

 ずくん、ずくん、と。


「まだ思い出せない?」

「っは、あ、ぁ……」


 早まる心音に、激しい頭痛。暑さとは別の汗が顎から落ちて。

 額を押さえ、少年は深く俯く。


「あなたはこの三日間の記憶、どれだけ残っている? いつ起きたか、何を食べたか、私以外の誰と話したか……覚えている?」


 彼女の問いに、少年は気付き、目を見開く。


「……い」


 そして、出た一言。


「覚えて、無い」


 少年は覚えて無かった。朝起きた時間も、どこで寝たかも、昨日何を食べたかも、過ごした筈の実家の事も。

 気付けばここにいた。気付けば、この川に来ていた。

 記憶にあるのは、この川にいる時だけのもの。


「は……そうか、そうだ。俺は、もう……」


 全てを思い出した少年は、先ほど彼女が指差した川を確かめるように見つめる。

 暑さと直射日光で体が熱くなる半面。頭が妙に冴えていく感覚。


「たった三日間だったけど、あなたと話が出来て嬉しかった」

「そうだよ、思い出した。俺はこの川で、お前を……」


 やっと、少年は思い出した。忘れて思い出せずにいた、何かを。

 少年は会う為に帰って来たのだった。自分の命よりも大切だった、彼女に。愛していた幼馴染に。

 そして、知らぬ内に、目的を果たしていた。


「お前の元気な姿を見れて……良かったよ」

「うん」


 少年の眼差しは優しく、それに彼女はあの柔らかい笑顔で答える。

 大人になった彼女を潤んだ瞳で見つめ、少年が持つかつての面影と重なって。喜びと嬉しさから微笑む彼は。

 まるで光に溶けていくように、体が薄く透けていく。


「あぁ、どうやらお前より先に、俺が帰らなきゃいけないみたいだ」


 はは、と。少年は苦笑いするも、満たされ優しい顔だった。


「また、いつ……か……」


 少年は笑みを浮かばせ、小さな蛍火のような光を残して。

 空よりも高い場所へ、昇って行った。


「うん。また会おう」


 消えていった少年を追って、少女は空を仰いで言う。

 柔く微笑み、優しい瞳を向けて。


「来年のお盆に、ね」


 そして少女もまた、最後に笑顔を残して――――消えていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

里還り ころく @korokuroko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ