第三章 言えない

「川島さん!」この原稿チェックしといてくれる?


新卒で大手の編集社に入った私は、文芸部に配属され、忙しくも充実した毎日を送っていた。 好きなことに関しては、無尽蔵に力が湧いてくる私は、この仕事に大いに満足していた。

でも、仕事に打ち込みすぎて周りからは休め休めと言われる日々を過ごしていた。

もともと文章が好きだった私はそう言われることの方が耳が痛いと感じていた。だって、休みを取ったって、ほぼほぼ寝てるだけだから。


唯一の趣味といっていい音楽は、昔は自分でやっていたものの、今は聴くだけに留まっている。週休含めさすがに週三日で寝るというのは気が引けたので、ぶらりとどこかに行こう、とノープランな計画を立てた。

もともと都会育ちという訳でもないので、人混みに紛れるということが好きではない。

近くのショッピングモールも行きすぎた感が否めないのも事実である。久し振りに楽器でも弾く?

いや、そういう気分でもない。

それはその時決めようと、思考を一旦シャットダウンした。


家に帰り、もうすぐ〆切の文学賞をチェックしていた。年々新しい賞が増えて、それを知ることも編集者としては大切だと気づいた。


そのサイトは、文芸だけでなく創作全般のコンテストについても知ることが出来るものだった。私は中高美術部だったのだが、絵が好き、の延長線でやっていたことなのでそこまで熱中して成果を出そうとはしてなかったことを思い出した。

・・・そういえば、相沢くんはすごかったな。

美術の時間、よく先生に褒められていたっけ。周囲の人からも驚嘆の声が上がっていたことを思い出した。

それで、内心美術部としての面子無いな、とも思っていた。

私はよく見た目よりも大雑把と言われることが多いので、細々した作業が苦手だった。

だから、運動も勉強も、まして芸術までカンペキな相沢くんに内心シットしてたっけ。そこまで考えた時、嫌に冷えた身体に気づいた。

去年の夏から冷房から除湿に替えたことで、より涼しくなりやすくなったのだが、まだ六月前半には早かったみたいだ。近くにあったブランケットを羽織り、何をするでもなくベッドに凭れ掛かる。隣の部屋から天気予報が聞こえてきた。もうすぐ、梅雨が来る。


□機会

自分の中では大博打を仕掛けた、というつもりでやった今回の「個展」はなんとか大成功に終わりそうだった。


殆どは“俺”ということを知らずに来てくれた人が多いらしく、告知のデザインを長期間悩んだ甲斐があったと思った。

この企画に携わってくれたスタッフにも本当にお世話になった。

もちろん俺もこの場に出向き、表向きスタッフとして七日間様子を見ていたが、卒展に向けての制作を見られるより何倍も緊張した。


――あの頃は自分の技巧を半ばひけらかしたくて、という気持ちがあったのかもしれないが、それとは全く意志が他の方向に動いていた。―何気ない日々に確証が欲しくて、気付いたら作品を作り始めていたのだ。見栄とか、建前とか、そういうもの全部なしで、本能のままに作っているところがあった。

一切気を抜かずに、衝動のまま描いていた。


納得の行く所までつくりきって、でもその後得も言われぬ喪失感に囚われる、その繰り返しだった。試行錯誤を繰り返しているうちに安定して制作に取り掛かれるようになった。

その頃から、すこしばかり交流があった仲間とも連絡を取り始めた。たまに会ったりもして、俺なりに刺激になった。在学中は、ただずるずると過ごしていたから、自分から見ても今のジブンは新鮮だった。ただ、過去の女には見せたくない、と思った。


あれから、相沢くんと幾つかの事象を経て、私たちは知り合い以上恋人未満と称せるくらいには心的距離が近づいていた、と思う。彼の近くを通ることすら胸をはやらせていたけど、それすら良い思い出だった。

二年で私たちはまた一緒のクラスになったけれど、三年で全く別のクラスに離れた。ショックだったけどそれをどう表現したらいいか、消化したらいいか分からず淋しいを隠して他の誰かと笑っていた。

もし、私たちが恋人だったなら、素直に淋しいと言えていたんだろうか?彼のクラスまで会いに行けたんだろうか?――臆病な私に出来る筈もなかった。淋しくないふりをして、一番傷ついたのは多分彼だと思う。

私が素直じゃなかったから。思い出すとバカだなぁと思う。

加えて、たまに涙が出てくる。


もうどうしようもないのに――。

意固地で卒業式で彼を無視した馬鹿な私を。♢


隣の声も聞こえないくらい土砂降り。だから、柄じゃないことも言えてしまう。楽しくて、ずっとこのままがいいって思えるほどだ。いったい空は、どれだけの雨を降らせたいんだろうか。そこかしこに生徒を迎えにきた車がずらりと並んでいる。そろそろ来るかな、と辺りを探すと、いつの間にか私達以外の人がいることに気づいた。見覚えがあるような背格好だと思ったけど、ジロジロと見るのも気が引けて、何とも思わないことにした。

けど、それが相沢くんだったんだ。


時計の針も天井を向き始めた頃、私は力無くベッドに上がり、窓の外を見ていた。そして今日の帰り、合コンに誘われたことを思い出していた。けど、どうにも私はその類が駄目らしかった。

今まで微かに好意を持ってくれた人達もいたことも知っているけど、その手を取ろうとするとどうしても貴方が心の中に居座っていることに気付く。薄々分かっていたけど、私がいつまでも「恋愛」を有耶無耶にしてしまうのは、まだあの雨の中で立ち止まっているから。――誘ってくれた彼女には悪いけど、合コンは断っておこうと思う。


外は雨が降りだしていた。



後ろからスタッフの声が聞こえる。

何やら、電話が掛かってきているみたいだった。今代わります、と保留ボタンを押され、はい、とスマホを渡される。誰?とスタッフに聞くと、先日此処に来てくださったお客様の中にクリエイター関連の人がいたらしく、その人から連絡があったらしかった。事情を理解し、咳払いを一つして応答する。「はい、藤沢です」アーティストで生きていくと決めてからそのままの名前で活動するかそれとも別の名で活動するか迷った挙句、元の名前から5割とったものにした。昔からの名を呼ぶ人もいれば、‘藤沢奏人`の方で呼ばれることもある。

旧知の仲に違う呼び方をされるのはこそばゆくも、また寂しくもある。

仕事上の人だけがこの名を呼ぶみたいな勝手になってた。その声の相手は、まだ若そうな男の人だった。

俺は扉の合間から展示部屋の方を見ながら用件を受けていた。


ほぼほぼノープランで始まった休日は、遅めの朝食から始まった。昨日の肌寒い天候はどこかに行き、絶好のお出掛け日和だった。私の住んでいる所は、文房具の揃っている雑貨屋から少し遠い。髪のスタイリングをしながらどうやって行こうかとしばし考えていた。


明朗な画廊の中に、見たことのある背中がある気がして、危うく携帯を取落としそうになった。


――記憶の中で、最後に見た彼女の姿と重なって、不意に動悸がする。

穏やかだった昼下がりの順路に青い稲妻が走ったみたいだった。こんなにも俺を変えた人が目の前に現れるなんてそんなことあるのか?

俺はこの上なく気が動転していた。

電話から聞こえていた声は、もう途切れ途切れにしか聞こえなかった。‘存在を否定したいくらい’の激情を招いた人である筈なのに、本能が目を逸らす事を許さなかった。

彼女は“藤沢奏人”が俺だと分かって来たのだろうか?

だとしたらあなたはひどい人だ。――いつもいつも大事な時に現れる。

そうしている間にも彼女は順路を行っていた。俺は、なんて間抜けな人間なんだろう。十年ぶりの再会に立ち尽くすしか術がないだなんて。もう何十分もそこに居座っていた気持ちになり、いつの間にか浅くなっていた呼吸を吐き出した。呆然としていたように見えたのか、スタッフの1人が心配そうに俺に話しかけてくる。しかし、俺はそれに答えることすらできずに、視界から消えた彼女を捉えようとスタッフルームから出た。そこには、他でもない「俺」が再び歩きだすきっかけになった一枚絵を見ている彼女がいた。

―その表情はよく見えない。

でも、失恋後、何年も腐っていた俺とは違って彼女は、何もかもあの時のままだった。

順路の真ん中で突っ立っている俺は、多分「不審者」でしかない。

でも、言いようのない気持ちが優に許容を超えていて、行動と感情がうまく噛みあってない。――不安を掻き立てるように、次第に空が雲っていく。見たいようで見たくない。まるで俺の全部を見られているようで、彼女の行為を止めたかった。「藤沢さん!」

立ち入り禁止の札の向こうから誰とも分からない声が聞こえる。


この場では、もう目の前のこと以外情報が入ってこなかった。

ポツ、ポツと何処からか予報外れの粒が地面に落ちていく。

きっともう彼女は現れてくれないと思った。その予感が俺の喉を掻っ切る。――合わせる顔もないのに。掛ける言葉すら見つけられないのに。


在りえない、こんなにも彼女が俺の中を占めているなんて、頭を回転させたいのにそれもできなくて目の前の光景が、ただの映像に見える。


耳の中で雷鳴が響く。――彼女はもう出口へ向かおうとしていた。多分、藤沢奏人が俺だとも知らずに。


彼女は、一瞬上を見上げる仕草をした後、雨が降っているのにも関わらず、彼女は繁華街の方向に向かって歩き出した。


「っ、」


もうこれが縁の切れ目なのだろうか?いや、それより彼女がずぶ濡れになってしまうことの方が心配だ。


でもこの期に及んで俺の足は動こうとしない。


その時、俺の中の雷鳴が一際大きく轟いた。


あの日みたいに。十年前は、きっとたまたまだったのかもしれない。でも今は違う、きっとこうなることは“必然だったんだ”。


つけていたマスクと帽子を取って俺は傘もささずにギャラリーを飛び出した。


彼女の歩は思ったより遅く、走り出したらすぐに捕まえられそうだった。

しきりに降る雨の中で、なんともないように歩く貴方は淋しそうに見えた。――無駄に伸ばした前髪が鬱陶しい。貴方を捉える邪魔をする。

どこにも行ってほしくなかった。俺が貴方の中で何とも思っていな存在であっても、もう我慢ならなかった。


見る目も構わず、坂の上を駆ける。それでもなお振り向いてくれない彼女に最後の願いを込めて言った。

「川島さん!」

あまりの怒号に、振り返った彼女は、何が起こっているのか分からないといったように立ち尽くしていた。

息の絶え絶えになっている俺を用心深そうに見、次の瞬間何もかも悟った表情になった。どうして、眦から戸惑いの大きさが見て取れた。

でも、息を吐くだけで精一杯な俺は、言葉を捨てていた。

何から伝えればいいのか分からない。

でもそんなことより、濡れた彼女をどうにか救ってあげたかった。徐々に上半身を元に戻すと、彼女は驚きと情けなさが混じった表情をしていた。数秒視線が交わった後、こわごわ彼女が声を出した。


「え、」ふじさわく、


彼女がぜんぶ言い終える前に、その名前で呼ばれたくなくて、一方的に彼女を抱きしめた。ますますひどくなっていく雨の中で、俺達だけが仲間外れみたいだった。


あ、先客がいる。風が吹き付けて前髪がくちゃくちゃでよく見えないけど、どこかで見たことがあるような気がした。随分盛り上がっていて、こっちのことなんかまるで気にしてないのが新鮮に映った。

身体から蓄積した毒気が抜けていくようだ。周りの奴らも滅茶苦茶で、自然と気分が上がっていくのが分かる。

こんな風に笑ったのは久し振りだった。

前も見えないくらいの土砂降りで、行くに行けないのが逆に楽しかった。家に帰ったら、親に怒られるだろうことは目に見えてる。    

どこかで車のクラクションが鳴り、校庭の方を向いた時、瞬間的に目が合った。その女(ひと)は、いつも見る彼女じゃなかった。

彼女は笑顔で、隣の奴と喋っていた。目が合ったら駄目なのに、合ってしまった。そういう風に見受けられた。

一瞬固まったようになって、でも次の瞬間に視線は逸らされ、何もなかったように時が流れ始めた。

――違和感を感じている。どうしてこんなに鼓動が早まっているかも分からない。


身長が思いの外違っていた俺達は、均衡を崩して倒れた。


あぁ、でも「生き」ていると思った。


ずっとこのままでいいと感じた。


俺は結局、君が創作の切欠だなんて、

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順路 ひら @misonodayo

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