ドット虚無♪来迎!

鳥尾巻

~The coming of Amida Buddha to welcome the spirits of the dead~

檀家ファンのみんなーー!!今日は俺達『ドット虚無コム』の最後のライブに集まってくれてありがとーー!!檀家ダンケシェーーン!!」


 壇上ステージで虚無僧の笠を被った赤い絡子らくすのリーダー、大日如来マハーヴァイローチャナ、通称ロー様が叫ぶ。


しーーーーーーーーん。


 これは私達のいつものお約束。静まり返ればそれだけ後が盛り上がる。


「おいおい、なんだ、なんだぁ?葬式かぁ?僧だけに!?」


 ロー様、煽る、煽る。そして檀家達のどよめき。


うぉぉおぉぉおぉぉ!!


「今日も涅槃ニルヴァーナ見せてやるぜぇ!!ついて来いよ~~!!」


 拳を突き上げたロー様の、私達の声を掻き消す雄叫び。黄色絡子・千手観音サハスラブジャ様の激しいドラムの音から入る最初の曲『釈迦釈迦シャカシャカ 荒魂ロック』。

 ここ突っ込まないで。この世は全てくうだから。理由になってないって?ほっといてよ。


「天!上!天!下!唯我独尊!」「応供おうぐ!!」×3!

「タターガタ!タターガタ!覚醒めざめし者よ!」

「応供!!」


 応供ってのは宗教的に最高の境地に達した聖者のことね。ここでは合いの手だけど。OH!みたいな感じよ。

 ロー様の獄卒声デスボイスと他メンバーの合いの手、そして歌い出すボーカルの阿弥陀如来アミターバ様!檀家の興奮は最高潮!

 なんで如来が獄卒かなんて聞かないで!「こまけーことは気にすんな」って説法エムシーの時にロー様が言ってたわ!!


 これで、これで最後なんて、もう滝の涙が止まらない!!


うぉぉおぉぉお!!!うぉぉおぉ……うぉおぉ……うぉぉ……ぉぉん




 あの伝説の解散ライブから二年―――私、上条かみじょう 海鈴みすずは抜け殻と化していた。


 ロックオタクの私が高校生の時からずっと追いかけていた伝説のインディーズバンド「ドット虚無コム」。深編笠 (天蓋というの)を被ってそれぞれのカラーの絡子らくすまとった虚無僧姿の5人のメンバーが、派手なパフォーマンスを繰り広げる。絡子っていうのは僧侶が平素用に身にまとう簡易袈裟のこと。


 もうね、最初は宗派無視の罰当たりな覆面コミックバンドかと思ったけど、演奏技術は確かで歌もすごくいい。ファンの事は「檀家」と呼び、チケットは「拝観料」投げ銭は「お布施」、檀上ステージ前で激しくぶつかり合う行脚モッシュは危ないから禁止だけど、興奮したら忘れちゃうよね。そして最後はみんなで合掌して終わる。


 あの日のセットリストは「釈迦釈迦シャカシャカ 荒魂ロック」から始まって、ラップ混じりの軽妙な「如来さまにお願い」、優しい和魂バラード「千の手を君に」、有名な例の曲替え歌「禅禅禅武」、釈迦如来シッダールタ様渾身のギターテク冴える「一切合切金輪際」、盆の坊主の忙しさを歌った「八面六臂はちめんろっぴBOUZ」、他にも色々あったけど、トリはやっぱり和魂バラード「煩悩の数だけ」……本当に最高だった。

 特に私が好きだったボーカル&ギター担当ピンク絡子の「阿弥陀如来アミターバ」様の作詞。私はいつも阿修羅のTシャツを着て最前列で彼を見ていた。


 公式・檀家衆ファンクラブ『ダーナパティ』には色々特典があって、毎月『混む混むドット虚無通信』がメルマガで届く他、お得な前売り情報なんかも先行で届く。少しグレードアップすれば声聞弟子プレミアム会員になれるし、限定 法具グッズ永代供養料ねんパスの為に必死でお小遣いとお給料を貯めたのに、その前に解散だなんて泣けてくる。


 ドット虚無の荒魂ロックのパフォーマンスはかなり激しくて、一度など客席に五体投地ダイブしたアミターバ様の絡子も小袖も檀家に剝ぎ取られ深編笠まで取られてしまうところだった。

 その時見えた腕に彫られた阿弥陀如来、上半身をはだけたまま「喝!!!」と叫んだ荒々しさ。もう、興奮が最高潮で心臓が止まりそうになった。

 なのにお腹に響く美しい低音で歌う彼の和魂バラード『煩悩の数だけ』は本当に心洗われるようで、檀家たちの大半は涅槃ニルヴァーナが見えていたと思う……。


『どんなに修行を重ねても 君への煩悩は消えない

 どんなに苦行を重ねても 君への俗念は消えない

 三千世界の鴉を殺し 君と朝寝がしてみたい

 教えてよ愛染明王ラーガラージャ 眠れない夜座禅を組んで

 教えてよ愛染明王ラーガラージャ 眠らない夜滝に打たれて

 煩悩の数だけ 君を想うよ Humm Humm♪』


 ああ、なんていいお声。耳が幸せ……激しい争奪戦の末、手に入れた限定版CDを聞き返して涙にくれる私。


 最後まで決して正体を明かさなかった彼等だけど、一度奇跡的にアミターバ様に握手をしていただいた時は、白檀サンダルウッドのものすごく良い香りがして、そのままうっかり昇天するかと思った。


 そうよ、あの時は血迷った檀家ファンが楽屋まで押しかけて、アミターバ様たちの正体を暴こうとしていたから、体を張って阻止したの。本物の檀家ファンなら決して侵してはならない領域というものがあるのよ。中の人の私生活を暴くなんて檀家ファンの風上にも置けん!

 その時「ありがとう」って良いお声で優しく仰ってくれて、他の子と揉み合って服も髪もボロボロの私に大きな手を差し出して握手をしてくださったの。もう一生手を洗わないつもりだったけど、ずっとビニール手袋嵌めてたら臭くなっただけだし、ママに叱られたから泣く泣く洗ったわ。


 ああ、なんで解散しちゃったの……ドット虚無。一時はメジャーデビューの噂もあったのに。

 うっ、うぅ…私の人生もう光明こうみょうが見えない……。涙を流しながら亡者声デスボイスで歌っていると、部屋のドアが開いて、誰かが入ってきた。


「うるさいわねぇ、海鈴みすず、あなたまたそれ聞いてるの?」

「だって…だって……昨日会社で嫌なことがあったんだよぉ……これを聞かないとストレス解消できないぃぃぃ」


 我が家に遊びに来ていた従姉の上条かみじょう紗月さつきちゃんが、ドアの枠に凭れかかり細い眉を優雅にひそめている。

 ゆさゆさ揺れる大きなお胸の前で腕を組んで小首を傾げると、なんてことない仕草なのに、妙に色っぽくて女の私でもドキドキしちゃう。同じ血筋とは思えない。Aカップにも満たない私にちょっと分けて欲しい。


「そんなに好きだったのね、そのバンド」

「そうよ、私の救い、私の光明……」

「ねえ。そんなにお坊さんが好きなら、お寺にお嫁に行ったら?」

「お坊さんが好きな訳じゃないもん!!ドット虚無が好きなの!!アミターバ様がいたから辛い今生こんじょうを生き抜いてこられたのよ!」

「あらそう」


 紗月ちゃんは綺麗に塗られた赤い爪の先を気だるげに見つめながら、興味なさそうにしている。

 私はベッドの上に起き上がって涙を拭い、音楽を止めた。三つ年上でいつも身綺麗な彼女に比べて、大学出て社畜生活三年目の25歳、金なし・色気なし・彼氏なしの苦海浄土くかいじょうどを生きる私はパジャマ代わりのバンドTシャツと短パン姿。肩までの髪はぼさぼさだし、お肌もカサカサ。

 まあ、それは大袈裟だけどさ。苦海浄土ってあれよ?この世の苦しみの際限なく大きいことを海に例えたこと。苦界とも言うわ。

 最近年下イケメン彼氏ができたらしい紗月ちゃんはますます色気に磨きがかかっている。なんでも九州から紗月ちゃんを追いかけて来たんだって!羨ましすぎて阿修羅 (帰依前)になりそう。


「今日はどうしたの?」

「ん?あ、そうそう。明日暇ならヨガでも行かないかと思って誘いに来たの」

「よがぁ??私が体硬いの知ってるでしょぉ?」

「体の柔らかさは関係ないわよ。凝りに凝ったその体、ほぐしてリラックスしなさいな。あなた顔は可愛いんだからその猫背なんとかしなさい?胸も大きくなるかもしれないわよ?」

「やーだー寝るー。胸なんか今さら大きくならないもーん!休日出かけるくらいなら惰眠を貪るぅぅぅ」


 ベッドの上にひっくり返ってバタバタする私を呆れたように見つめて、紗月ちゃんはまたお胸を揺らした。ぐぬぅぅぅ。くそぉぉうらやま……。


「まあ聞いて。それは建前で、海鈴についてきて欲しいのよ」

「なんで?」

「お寺で座禅体験も一緒にするんだけどね。そこの若住職が超イケメンで予約もなかなか取れない人気コースなの。折角彼氏と2人分取れたから行こうと思ったらあの子急に行けなくなっちゃって……」

「ああ……察し」


 紗月ちゃんの彼氏は嫉妬深くて彼女が行くとこ全部チェックして干渉してくるらしい。坊主とはいえイケメンがいる場所に一人で行かせるはずがない。まあ、気持ちは分からんでもないけどね?弁財天もかくやなこの麗しさ。

 私は紗月ちゃんの豊満なお胸を横目に考え込んだ。このまま腐っていても胸が膨れる訳じゃない。ここは人助けついでに女子力とやらを磨きに行ってみますか!



 ……………そう思っていたこともありました。


 やってきました金全寺きんぜんじ。私は午前中のヨガだけで既にひいひい言っていた。

 まず体と筋肉を温める準備運動の段階から無理。屈伸も前屈もまともにできない。隣の紗月ちゃんはむっちむちのTシャツとスパッツ短パン姿でグニャグニャ体を曲げているというのに、同じような格好の私はむちむちどころかスカスカのカチカチ。

「プラサリータ パードッターナ」って何!?美味しいの!?ちょっと高級なインド料理の名前!?あれで初心者向け?

 背筋を伸ばして上体を股関節からゆっくりと前屈するんだけど、床に手を触れるどころかヨガ用のブロックにすら届かない。身体が硬すぎて終わる頃には股関節ががくがくしてきた。


 今は精進料理をいただいて、これから座禅体験の予定。お料理はヘルシーで効いてる気がするけど、なんかもう座っているのも辛い。

 まぢ無理。結跏趺坐けっかふざなんて出来ない。あ、結跏趺坐っていうのは座禅の時の座り方ね。

 まず坐蒲ざふと呼ばれる座布団の上に浅く腰かけるような具合にして普通の胡坐あぐらをかいたうえで、右足を右の股の上に、かかとが下腹につくくらいに乗せる。次に左足をその上から右の股の付け根に持ってくるやり方。今、あんな「人間知恵の輪」みたいな事したら死ぬ。


「紗月ちゃん………私もう駄目」

「まあそう言わずに」

「ちょっとトイレ……」


 呆れた顔の紗月ちゃんを置いて、ふらふらと本堂から出てトイレを目指した。ああ、太陽が眩しい。足元が覚束なくて玉砂利を蹴散らして転びかけたその時。


「大丈夫ですか?」


 深い深い、お腹の底まで響くような美声と共にしっかりした腕に抱き止められる。ふわりと漂う甘く爽やかな薫香。衝撃に備えて閉じかけていた私の目がクワッと開く。

 この声、そしてこの香り!!あの日アミターバ様から香ったインド産「老山白檀」ではないかっ!!あの一瞬が忘れられずオタクの執念で鼻がいかれるほど探しに探したこの香り、嗅ぎ間違えるはずがない。

 ガバッと顔を上げると、日輪を背に剃り跡青く煌めく禿頭とくとうが見える。丸く美しいフォルム、宇宙から見た青い地球を縁取る最初の太陽の光、奇跡のご来光、私は知らず知らずのうちに涙を流し手を合わせていた……。


「どこかお怪我でも?」


 心配そうに見下ろしてくるその顔は、名彫刻師ですら再現は不可能と思われる麗しくも男らしい美貌。すっと通った鼻筋に墨を刷いたような黒く形の良い眉、切れ長の一重の瞳には柔和で知的な光が溢れ、薄く上品な唇に慈愛の笑みが浮かんでいる。


「アミターバ様……」


 思わず呟くと、その唇から笑みが消えた。


「……よくご存じですね。阿弥陀如来は梵語サンスクリットでアミターバと呼ばれています」

「いいえ!!ドット虚無のアミターバ様でしょ!?その声、その香り、忘れる訳ないわ!どうして解散しちゃったんですかぁぁ!?」

「え!?ちょっと、しーーーっ!!」


 彼は慌てて私の口を押えて本堂の陰に引っ張り込んだ。覆い被さるように目の前に立った彼の袈裟からあの芳香が漂ってくらくらする。


「君、ドット虚無のファンだった子?あれ?……もしかして………アシュラちゃん?」

「アシュラちゃんとは……?」

「あ、ごめん。いつも最前列で阿修羅のTシャツ着て見ててくれたよね。名前が分からないからメンバーが勝手にアシュラちゃんて呼んでたんだ」

「そうなんですか。覚えていて頂けて光栄です!」

「………変わってるね。いや、あのバンドのファンて皆変わってたな……」


 アミターバ様、戒名・とうしん様、本名・金田かねだ当真とうまさんは、頭痛を堪えるように形の良い額を押さえた。


 彼の話によると、ドット虚無は元々高校の軽音部で組んだバンドだそうだ。最初は断り続けていたけど、「お前 (の声・ボーカル)が欲しい」というロー様のしつこい勧誘に根負けしたとか。

 でも寺の跡継ぎである当真さんがステージに立つと、本物の檀家さんなどに知れたら何かと不都合があるので、身バレを防ぐ為に深編笠を被って出ようと冗談で言ったら採用されてしまった、らしい。

 一時はメジャーデビューの話もあったが当真さんが家業を継ぐのをきっかけに解散、その後は僧侶として地域に貢献してこられた、と。

 なんと素晴らしい。そういう理由であれば仕方がない。「うんうん」と頷く私に彼が言った。


「あのさ、ずっと手を合わせて話聞くのやめて?あれは僕も若気の至りだったというか……」

「うう……合掌の癖が抜けません……」


 説法エムシーの間は合掌で聴くのが檀家ファンの暗黙の了解ルール。身に沁みついた癖って恐ろしい。

 当真さんは男らしい眉を微かにひそめめて苦笑する。ああ、素のアミターバ様のご尊顔を拝める日が来るなんて!生きてて良かった!もう合わせた手が離せない!

 

「ほんと変わった子だね」

「だって大・檀家ファンだったんですよ!!もう少しで声聞弟子になれるとこだったのに解散しちゃって残念です。アミターバ様の和魂バラード『煩悩の数だけ』、本当に素晴らしかったです。♪どんなに修行を重ねても君への煩悩は消えない♪」

「わあああ!!こんなとこで歌わないで!!」


 大きな手が私の口を塞ぎ、肺いっぱいに甘く痺れるような香りが流れ込む。真っ赤になった白皙に映える墨色の袈裟。仏と崇めていた彼の人間らしいその表情に心臓が止まりかける。


 ああ、このまま昇天したい―――!!


「え?ちょっと?どうしたの?アシュラちゃん!?」

「……かみじょう……みすずです……」


 召される前にせめて墓に刻む名をお伝えせねば……そう思って声を絞り出したのが、その時の最後の記憶。

 当真さんは感激しすぎて気絶した私を抱え青くなって駆け回ったと、家のベッドの上で目覚めた時に紗月ちゃんに教えてもらって、羞恥のあまり墓穴はかあなを掘って埋まりたくなった。アミターバ様のお手を煩わせるとはなんという大罪、これはもう地獄に落ちるしかない。




 ……なんて、その日は激しく落ち込んでいた私だけど、次の日早速謝罪の為に退社後お寺に押し掛けてしまった。上司の目が痛かろうと残業などしてる場合ではない。自己満足なのは分かってるけど、どうしても気が済まなかったの!


「そんなに気にしなくていいのに……」

「いいえ!このままでは私の気が済みません!ご迷惑なのは分かってますが、ここで何かさせてください!」


 頭を下げる私に当真さんは困ったように禿頭を撫でる。ああ、こんなに坊主頭の似合う男前いるかしら。綺麗な形の頭に後光が差してるようだわ。

 うっとりしていると、彼は何かを思いついたように、目を輝かせた。


「上条さん、お仕事は平日だけって言ってたよね?」

「は、はい」

「休みの日に来られる時だけでいいから、講座の受付スタッフやってくれると助かります。最近予約が増えてサポートスタッフが足りてなかったんですよ」

「はい!はい!もちろんです!ありがとうございます!この上条海鈴、全身全霊命を懸けて務めさせていただきます!!」

「命は懸けなくていいから……お仕事忙しいだろうから無理しないようにね」


 思わずまた合掌してしまった私を許して欲しい。それくらい嬉しかったんです。私の体まで気遣ってくれるなんて神ですか?いや、仏ですね!?

 連絡先を交換していただいて、ほくほくしながら家に帰る。ようやく見えた光明、例え一筋の細い糸でもアミターバ様と繋がれたのが嬉しい。


 結局、早朝も押しかけて、お寺の境内のお掃除とか周辺のゴミ拾いなどもさせてもらった。どうせ残業代なんか雀の涙だし、どれだけお局様に圧力掛けられても残業も休日出勤も断って、イベントの方を優先した。


 嗚呼、当真さんの朝晩の勤行の声が私を浄化する。五臓六腑に染み渡る美声。和魂バラードも素敵だったけど、木魚の音と共に聴くお経はまた違う趣がある。

 半分魂を抜かれたように、箒を手にぼーっとしていた私は、いつの間にかお経の声が止んでいることに気付かなかった。静かに玉砂利を踏む足音が近づいて、深みのあるお声が耳に届く。


「海鈴さん、今日も来てくださったんですね。いつもありがとうございます。無理してない?」

「いえ、大丈夫です!アミターバ様のお声を聞いたら一日の疲れが吹き飛びます!」

「その呼び方はやめて……」


 この頃になると、当真さんも少し態度が和らいで、「上条さん」から「海鈴さん」と呼んでくれるようになっていた。彼に呼ばれると、まるで自分の名前が七宝の一つになったような気さえする。

 七宝は、仏教の無量寿経むりょうじゅきょうという経典における宝のことで、「金」「銀」「瑠璃ラピスラズリ」「玻璃クリスタル」「しゃこ」「珊瑚」「瑪瑙」を指すの。

 私がそう言ったら、「じゃあ、海鈴さんには海の字が入ってるから『珊瑚』かな」と優しく笑ってくれて、邪にもドキドキしてしまった。いかんいかん。邪念は捨てよう。


 6歳違いの弟さんがいること、弟さんはやんちゃなのでいつも心配してること、バンドメンバーとは今でも交流があること、私の会社の話、そんな他愛のない会話ができる事が畏れ多くも嬉しい。

 そして、今日はなんと「一日だけの復活ライブがあること」を教えてくださったの!!嬉しすぎる!!

 私は思わず当真さんの手を両手で握ってしまった。飛びつかない理性が残っていたことを褒めてもらいたい。


「ほんとですか!?」

「う、うん。海鈴さんには最初に教えてあげたいと思って。公に発表するのはもう少し後だから、他の人にはまだ内緒ね」

「わああ!嬉しい!じゃあ、じゃあ、『煩悩の数だけ』も歌うんですか?」

「……詳しいセトリは後でメンバーと相談だけど……君、あの曲ほんとに好きだね」

「だって、当真さんの美声がじっくり味わえる名曲ですよ!?もちろん他の曲もいいけど、あれは作詞も当真さんだし思い入れも深いでしょう?」

「……うーん……まあね……思い入れというか、勢いで書いたというか……」


 何故かじわじわと赤くなる当真さんを、私は思わずまじまじと見つめてしまった。あらまあ、珍しい。あの日私が大声で歌ってしまって以来の赤面。

 いつも穏やかで感情を波立たせることも少ない御方なのに、どうしたことでしょう。当真さんは、居心地悪そうに私から目を逸らして、ボソボソと言った。


「以前、檀家ファンの子達が楽屋に押し掛けて、僕達の正体がバレそうになったことあったでしょう?」

「はい、本当に腹が立ちますよね。好きだからって何しても良い訳じゃないと思います……って、いま押し掛けてる私が言う事じゃないですけど、本物のファンなら決して侵してはならない領域というものがあると思うんですよ!」


 鼻息も荒く捲し立てる私に、当真さんはますます居心地悪そうにもぞもぞしている。ハッ!手を握りっぱなしだった!

 慌てて手を引っ込めようとしたら、逆に強い力でぎゅっと握り返されてしまった。


「ありがとう。あの時ドアの前で仁王立ちしてた君が忘れられなくて……ファンとしての気遣いだっていうのは分かってたんだけど……」


 そこで言葉を切って、思い切ったように私に視線を合わせてくる涼やかな目。ええ?髪掴まれてボロボロクシャクシャの地獄の餓鬼みたいな恰好なんて忘れてほしい。

 握られた手が熱い。当真さんの目尻がほんの少し赤らんで、清浄ながら仄かな熱を孕んだ瞳がじっと私を見下ろす。どうしたんでしょう、今日の当真さん。普段なら百も二百もドット虚無に対する愛を語れるこの私が、なんだかドキドキしてしまって言葉が出ない。


「……あれは君のことを考えて作ったんだ」



 そんな、深い深いお声が脳天どころか心臓まで直撃して、私はまた、昇天しそうになった。

 一日限定ライブ後、「檀家ファンとしてではなく、一個人として付き合ってほしい」と言われた時も、危うく召されるところだったのだけどね。


 数年後、いつかの紗月ちゃんが言った通り、お坊さんのお嫁さんになったのはまた別のお話!

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ドット虚無♪来迎! 鳥尾巻 @toriokan

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