第十一章【魂】

 ――此処は、何処なのだろうか……。頭の中にかすみが懸かったようで、自分の居所が分からない。そもそも、私は何なのだろうか……此処に存在していて、良いのだろうか……。この思考をしている私は何者なのだろうか……。


 暗い。暗闇だ。私は、瞳を開けてみても深淵の闇の中にいた。私の他に、誰かいるのだろうか。何か、あるのだろうか。些細な情報も入って来ない。私は何者で、何処へ行こうとしているのだろうか?


 不意に息が苦しくなった。ごぼ、という音が聞こえた。上方へと上がって行く泡の塊。それは今、私が口から吐き出した空気であった。私は水の中にいるのだろうか。だが、寒くはなかった。不思議と、あたたかくさえあった。そんな、気がする。


 何もかもが曖昧で、混沌の中に私はいた。ただ、息苦しさは徐々に増して行く。少しずつ、体内の酸素が失われて行く。私は焦った。自分が何者であるかということよりも、酸素を取り込みたかった。


 此処が水の中であるならば上の方を目指せば良いのだろうかと思い、私は腕で水を掻いた。だが、私のものである筈の右腕は重く、気怠く、力が入らなかった。では、もう片方の、と思い、私は左腕で水を掻いてみる。しかし、結果は右腕と同じであった。どうしたことだろう。


 私は、頭上を仰ぎ見た。やはり何処までも暗闇が続いていて、終わりなど無いかのようだった。だが、目指すしかないだろう。私は力の入らない両腕で必死に上方へと水を掻いた。両足も使った。進んでいるのかいないのか、良く分からないままに私は動き続けた。ごぼごぼと吐いた泡達は、すぐに上へ上へと昇って行く。その速さに負けないように、追い付けるように、私は焦燥に焦がされて泳いだ。


 すると、真上では無く、前方に一条の光がすっと差し込んだ。細い、儚い光であった。だが、私はそれを希望と見て取り、その細い光の柱に方向を変えて泳いだ。


 懸命に泳いで行くと、光を背にして魚と思しき群れが横切って行った。小さな魚影達は、全体が一匹の魚であるかのような姿で私の前を悠々と泳ぎ去って行く。それを見て、私はふと背後が気になった。小魚がいるのならば、大魚もいるのではないかと思ったのだ。私のことを密かに喰おうと狙っているかもしれない。私は、息苦しさを堪えながら、振り向こうとした。その、矢先。


 ――振り返るな。


 誰かの声が聞こえた。振り返るな、と私を静かに制する声だった。私は、声の持ち主に心当たりは無かった。だが、何処かで聞いたことがあるような気がした。 


 其処まで考えて、ごぼ、と一際、大きな泡を私は吐いてしまい、それによって一気に胸が苦しくなった。私は振り返ることをやめて、当初の目的であった光を目指して泳ぎを進めた。光の柱には確実に近付いていた。比例して、どんどんと息が苦しくなって行く。


 もう、駄目かもしれない。そう思った時、何かが私の体全体を後ろから強く、強く押すような――同時に、私の体全体を前方から強く、強く引き上げるような――そんな感覚に包まれ、気が付くと私は光の柱の中にいた。


 私が柱の中に入った瞬間、光の輝きは見事に増し、その円周も長くなった。巨大化した光の柱――その中で、私は頭上を見上げた。何かが、見える。初めて見る筈の何かに、私はひどく郷愁を覚えた。懐かしい。


 そうだ、私は貴方に会う為に、此処までやって来たのだ――。


 


 


 ――目が覚めた時、私は一人では無かった。周囲に多くの人達がいるのが、朧気おぼろげな視界の中で分かった。彼らが、何を言っているのかまでは分からなかった。口々に発せられているのは言葉なのだろうが、私には理解が出来なかった。


 私は、ふと自分の手を見た。ひどく小さい。はて、私の手は、こんなにも小さく頼り無いものだっただろうか――そう考えていると、どうしたの? と、私の頭上から慈愛に満ちた女性の声がした。仰ぎ見ようとしても、うまく体が動かなかった。何故かは分からない。


 女性が、少し体勢を変えるように動いた。その時、私はこの女性に抱かれているのだと分かった。先程からあたたかいのは、女性の体温が伝わっているからだと理解した。此処は何処ですか、そう問いたいのに言葉にならなかった。私は――そう言おうとしても、うまく言葉が紡げない。


 私は焦った。私には記憶が無かった。自分が何者で、此処は何処なのか。これまでどうしていたのか。何も分からなかった。その上に、自分の考えを相手に伝えられないのでは絶望的だ。私は、とても悲しくなった。何処か、もう戻れない所に何か大切なものを置いて来てしまった、そんな気がした。だから私は、自分の名前も言葉も居場所も分からないのではないだろうか?


 一度、そう思うと、たちまちにそれは私にとっての真実となって行く気配がした。私は、また同じことを思う。自分の名前も、言葉も、居場所も分からない、と。


 その時、女性が言った。私は、その言葉は理解出来た。夕日が綺麗ねえ、と女性は言ったのだ。そして、続けた。


「夕日はね、一日の終わりに太陽が沈むから見ることが出来るのよ。一日、頑張った太陽に、さようなら、またね、また明日ね、って言う時間なのよ。貴方の名前は、貴方の大きな産声と、綺麗な夕日から貰ったの。ねえ、鳴日なるひ。生まれて来てくれて、ありがとうね」


 ――なるひ。それが私の名前だろうか。その女性の他にも多くの人達が近くにいて、また口々に何かを言ったが、それは私にはやはり理解出来なかった。


 ただ、なるひ、と再び女性が私を呼んだ。その声と言葉だけは私の頭の中に、すうっと入って正しく音となって言葉を形作った。


 なるひ――鳴日。これが私の名前なのだろう。そして、良く分からないが、私を抱く女性は私の存在をひどく喜んでくれているようだった。


 不意に私は、それだけで良いのではないか――と、思った。何故だろう。抗い難い、表現し難い、あたたかく強いものがその女性から感じられたからかもしれない。


 その内に、女性の体温がひどく心地好くて、私は眠りたくなった。うとうととしつつ、良く動かない首を何とか窓の方へ向けると、ビルの谷間に吸い込まれるようにして落ちて行く、赤く輝く太陽――夕日が眩しく見えた。その綺麗な赤い色に、私は既視感を覚えた。記憶の無い私に既視感などある筈が無いのに。だが、周りを良く見てみると、既視感はますます強まるものとなった。


 灰色のビルの群れに赤い太陽が落ちて行く。窓辺には、綺麗な朽葉色の葉を纏った樹木が見えた。その景色に見覚えは無い。初めて見るものだった。けれど私は、その景色をとても懐かしいと思った。


「さあ、そろそろ夕御飯にしましょうね」


 女性は私を抱いたまま立ち上がり、静かにカーテンを閉めた。






〈了〉

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警鐘を打ち鳴らせ 有未 @umizou

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