第十章【惜別】2

「――もう、頃合いか。そうさね、人間は最後の別れというものがあるのだろう?」


 女店主は腕を組み直し、私を――私達、三者を――改めて見た。


「時間をやろう。人間、灰色、朽葉。別れの時だ。最後の言葉を交わすんだな」


 私は思わず、灰色と朽葉を振り返った。灰色は珍しくその瞳を開いており、以前に白い猫と似ていると告げたら不快さを滲ませた闇夜を其処に静かに湛えていた。朽葉はその名前と同じ色の瞳で、私を何処か不安そうに見つめていた。私はというと、まだ女店主の言葉の指す所が分かり兼ねていて、ただ、はっきりと聞き取れた「別れ」「最後」という単語が、ゆっくりと頭の中で回転灯篭かいてんどうろうのように廻っていた。


「どうした、人間。別れの言葉は無いのか?」


 畳み掛けるように、女店主が私に問い掛ける。


「いや、言っている意味が……別れとは何だ?」


 ――否。私は、本当は分かっていた。


「お前を帰してやろうというのだよ。私の負けさ。最小の完全トーティエント数を越えること無く、お前は私に勝ったのだ。魂のかすれに、完全に惹かれることも無く」


 ふ、と女店主が笑んだ。


「お前は見込みがあると思ったんだがねえ」


「……帰す、とは」


「お前を現世に帰してやろう。今日で十三日目を迎えるお前に、もう用は無いさ。これ以上、此方を引っ掻き回されても私も困るのでね」


 ――帰す。帰れる?


「……どうやって」


「簡単な話さ。其処の沼に身一つで飛び込めば良い。すぐに導きが現れる」


「……灰色が、飲まれたのは?」


「奴は現世に未だ未練があるようだな。この沼は魂の未練を感じ取る。また、魂も沼を感じ取る。そういう意味でも、春野華はもう限界だったのさ。気にすることは無い。お前が元の場所に帰れば、全て分かること。それを記憶していられるかは、お前次第だがね」


「……そうか」


 私は、完全に納得したわけでは無かった。それでも、女店主の言葉には真実味があった。全てを語ってはいないだろう。だが、偽りは述べていないと。私は――少なくとも私は、そう感じたのだ。


「灰色」


 最早、彼の代名詞となった色の名前を私は呼ぶ。先程の水柱に飲み込まれたことからは回復したのか、灰色は開いた両目でしかと私を見て、何だ、と感情の読み取れない声で言った。


 ――ああ、そうだったなと思う。灰色は、いつも私の近くにいてくれた。その身を危険に晒しながら私を守り、振り返れ、という言葉で私を導いてくれた。ただ、その声と瞳からはなかなか感情が読み取れることは無かったように思う。それでもいつも私のことを考え、思っていてくれることは良く、分かった。


「どうやら、これで最後らしい」


「そのようだな。奴の言葉を信じるならば、だが」


「お前は最後まで不遜だな。一応は、女主人の、何て言うんだ」


「言いたいことは分かるが、私は私だ。誰の物にもならない」


「――そうだな。」


 少し、沈黙が流れた。


「これで最後なんだ。名前、教えてくれないか」


 私は、残酷かもしれない問いをした。


「無い」


 やはり感情の読み取れない声で、灰色は告げた。


「そうか」


「ああ。私も名前は忘れてしまった。それは遠く昔のことにも思えるし、そう遠くない、最近のことのようにも思う。此処にいると、時間の流れが良く分からなくなる。早いのか、遅いのか。ただ流れの中に身を置いて、揺蕩たゆたうしか無くなる。幸福も不幸も無いように思う。


 けれど、私は。もう知られているから正直に話そう。私は、帰れるものならば、帰りたい。自分が元にいた場所に。其処で帰りを待つ人が、もしも、もう誰一人いないとしてもだ。私は、もう思い出せないが故郷と呼ぶべき場所があった筈だ。其処に戻りたいと願って、誰が笑うだろう。いや、誰に笑われても良い、私は帰りたかった。お前に少なからず手を貸したのは、女店主の言うように、きっと自分とお前を重ねていたんだろうな。重ねていたんだ。そして、お前を助けることで、自分が助かった気になりたかったのかもしれない」


 灰色は一度、言葉を切った。開いていた目を閉じ、少しの間の後、それは再び開かれ、私を見た。


「利己的で、すまない。だが、お前を助けたかったのは嘘では無い」


「分かっている。ありがとう」


 灰色は、じっと私を見て、やがて朽葉へと視線を移した。私も、それに倣うようにして朽葉を見る。


「朽葉」


 私が呼び掛けると、朽葉はふよりと浮かんで何処か遠慮がちそうに私の正面に来た。


「あの、僕、あまり力になれなくて」


「そんなことは無いさ。灰色も朽葉も、本当に良く助けてくれた。立場などがあっただろうに。すまない」


「良いんだ。僕は、もう本当はどうなっても良いと、思っていたから」


「朽葉」


 私の驚いた声に、朽葉が自分を誤魔化すかのように、ふよりと漂った。


「僕はもう、此処での暮らしに飽きていたんだ。灰色のように、戻りたい場所も無い。名前は朽葉と付いたけれど、本当の名前はもう分からない。二度と帰れない場所、戻らない時間。そういったものを思いながら暮らして行くことに、少し、疲れて来ていたんだ。長い長い時間を、此処できっと過ごして来た。希望は無かった。代わりに、絶望も無かった。


 だけど、君と出会って、僕は君の力になりたいと思った。どうしてだかは明確には分からないんだ。灰色と同じ気持ちで、君を助けたかったのかもしれない。でも、何か違う。僕はきっと、灰色とは違う、別の気持ちで君を助けたかった。それは、僕がもう忘れてしまった、人としての気持ち。困っている人がいたら、助けたいと思う気持ち。勿論、灰色のように、自分と君を重ねていた所も、ある。だけど僕は、ただ君が困っていた、だから僕で力になれるなら、助けたかった。それだけなんだ。ごめん」


 何故か朽葉は謝り、その小さな手で頬を掻いた。


「謝ることなんか何も無い。謝るのは私の方だ。灰色同様、此処での暮らしの立場などもあっただろうに」


「良いんだ、そんなものは。僕は、もうどうなっても良いと」


「朽葉」


 それまで黙って聞いていた灰色が、口を挟んだ。


「すまない」


「どうして、灰色が謝るの」


「さっきのことを気にしているのだろう」


 流れる沈黙。私は良く分からなくて、灰色の言葉を待った。


「現世に未練があったという話だ」


「……うん」


「私は確かに帰れるものなら帰りたい。それは今も昔も変わらない」


「うん」


「だが、もしも帰れる日が来るのなら。私は、朽葉、お前と一緒に帰りたい」


 其処で、灰色の方を見ていなかった朽葉が、くる、と灰色を振り返った。


「お前とは長い。確かに故郷と呼べる場所には帰りたいが、お前を此処に残してまで、帰りたいとは思わない」


 朽葉、と灰色が改めて呼び掛けた。


「これからもよろしく頼む」


 そして、灰色が小さな手を差し出した。その手を朽葉が緩やかに握る。


「うん。僕も、よろしく」


 二者の纏う雰囲気が何処かあたたかいものになったように感じた。しかし、私がその和やかさを味わういとまも無く、女店主が別れを急かす。


「もう、良いかい。私としては不穏分子は、さっさと帰すに限ると思っていてね」


 退屈そうに言い捨てる女店主に、私は、ひとつだけ、と告げた。


「ひとつだけ、お願いがあります」


 すると、女店主の足元に控えていた白猫が、人間の分際で、と言ったのが聞こえた。それを女店主は制し、私に向かって告げた。


「言ってみるが良い」


「今回のことで、灰色と朽葉を責めないで下さい。全ては、私の責任です」


「ふん、その責任を取れないだろう? 何せお前は、これから現世に帰る身なのだからな」


 黒髪を流し、女店主は言う。


「まあ、良い。私の管理不足でもある。それに元来、私は面倒事が嫌いでね。今回のことは不問とする。他の魂にも影響は少ないようだしな。だが、今後は許さない」


 ぴしゃりと言って、女店主は朱色に染められた塗下駄ぬりげたを一歩、前に踏み出す。


 私が灰色と朽葉を振り返ると、二者は神妙な面持ちで女店主を見、その後、私を見た。そして二者がそれぞれの言葉で謝辞を小さな声で私に言った。それが聞こえていたのかは分からないが、その言葉を皮切りにしたのか、女店主は懐に手を遣り、塗下駄と同じ朱色の扇面に漆黒のかなめの扇子を取り出した。そして、ばっと開く。


「さあ、お客人のお帰りだよ!」


 女店主は扇子を高く掲げ、告げた。


 すると沼の中心部からどうっと水柱が立ち、その飛沫が私達を濡らした。


「灰色! 朽葉! 世話になった!」


 私は精一杯の叫びで二者に感謝を伝えた。


「もう来るなよ!」


「元気で!」


 灰色と朽葉が口々に言った。


 ――水柱が私を襲う。私を瞬く間に包み込む、水の柱。その水の音が耳鳴りのようにして響き始めた時、もっと遠く、いや近くで、いつかに聞いた鐘の音がいつまでも響き渡っていた。

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