殺人猿
福沢雪
殺人猿
自分の指先すら見えない闇の中、俺は「やつ」から必死に逃げている。
息を荒らげ、けれど全速力ではない小走りで、追ってくる「やつ」の気配から、なんとか遠ざかろうとしている。
足下で、ぴちゃんと水の音がした。
俺はその場にひざまずき、地面に口をつけて水をすする。
口の中に土臭さが広がった。いまは真っ暗でなにも見えないが、俺が「やつ」と出会ったのは山の中だ。足下に都合よくきれいな水はない。
それでも俺は泥水をすする。
もう小一時間「やつ」から逃げ続け、喉がからからだった。心臓は音が響きそうなほど早く脈打ち、走り続けた体は闇に赤く浮かびかねないくらい熱を持っている。
疲労のせいか、頭も重い。
できるなら、このまま倒れて眠ってしまいたい。
しかしそうすれば、俺は「やつ」に殴り殺されるだろう。
「どうしたら、逃げられる……」
つぶやいた俺の視界には、「黒」以外のなにも映らない。
空を見上げても、不思議なことに月も星もない。
視力を奪われたに等しい闇の中、頼りになるのは聴力と触覚だけだ。
とはいえ東京出身の俺のイメージに反し、地方の山は静寂とはほど遠い。ずっと虫の音と木々のざわめきが聞こえていて、集中して耳をすましていなければ、「やつ」が近づいてくる足音さえも聞こえない。
そしてもしも耳が音を拾ったとしても、「やつ」から遠ざかるのは簡単ではないだろう。
なにしろ辺りは漆黒の闇だ。足を前に踏みだすだけで、すぐに樹木や山肌に顔をぶつけてしまう。
だから俺は両手を前方にかざし、誰かの背中を押すような姿勢でここまで逃げてきた。それでも枝や藪は避けられず、体中に傷を負っている。
痛みと疲労で肉体は限界だ。頭も意思に反してふらつく。
「あきらめるしかないのか……山の中で『猿』に勝てるわけがない……」
そう。俺を追ってくる「やつ」は猿だ。もちろんただの猿じゃない。
捕食のためではない暴力そのものに快楽を覚え、人間を撲殺することを至上の喜びとする、殺人猿だ。
そんなゴリラのような猿が、この国にいるわけがない――。
俺だって、「やつ」に会うまではそう思っていた。
「キャンプ動画は安定して再生数を稼げるけど、一回はバズりたくね?」
正午をすぎたばかりの頃、焚き火台の片づけをしながら相棒が言った。
俺は動画配信を生業にしている。山でキャンプをしながら、グッズの紹介やレビューをするのだ。最初はひとりでやっていたが、それなりの収益が出るようになって友人をスタッフとして雇った。
「バズりを狙って炎上したら元も子もない。キャンプ動画は地味だが、視聴者も俺もそういうのが好きだ。これでいいんだよ」
「別に犯罪まがいのことをしようってわけじゃないさ。ほら、昔のテレビ番組であっただろ。『秘境の奥にUMAの影を見た!』、みたいな」
「探検隊のやつか。あれこそヤラセだろう」
「明らかなヤラセはネタ動画っていうんだよ。たしかこの山、『殺人猿』の噂があっただろ」
ある。この山には、迷いこんだ人間を殺す猿がいるらしい。地元の人間からは、「加賀猿」と呼ばれていた。百万石のなごりだろう。
「おまえが猿にビビりながら歩くだけで、視聴者は喜ぶよ。な? せっかくスタッフに加わったんだから、俺にも企画を立ち上げさせてくれよ」
相棒の気持ちはよくわかる。俺たちはふたりとも、うだつの上がらないアルバイトだった。それが自分たちで稼げるようになったのだから、今度こそ本気でチャレンジしたいと思うのは当然だ。
俺は相棒の提案を受け入れ、カメラを回して山に入った。
「いまんとこ、普通の山ですね。紅葉がいい感じです」
秋の涼しさもあり、落葉の山道を登る足取りは軽い。
「詳しいことはテロップで説明しよう。とりあえず殺人猿について、現時点での感想をくれるか」
相棒の指示にうなずき、俺は自然な口調を意識して語る。
「殺人猿の怖いところって、やっぱ『人間を撲殺する』ってとこですよね。どんだけデカい猿なんだっていう」
話半分であまり真剣には聞いていなかったが、地元の人間は『加賀猿は人間を殴り殺す』と言っていた。反応がなくなるまで殴り続けるようなイメージがわき、さすがに肝が冷える。
「まあそんな猿、いるわけないんですけど――おっと」
そのタイミングで、まさしく猿を見つけた。猿は頭上十メートルほどの木の上で、なにかを食べながら俺たちを見下ろしている。
「あそこに猿がいますけど、『猿まわし』でよく見るニホンザルですね。さすがにあれが殺人猿ってことはないでしょう」
俺は猿に指をさし、笑いながら後方のカメラを振り返った。
「お、おい! 飛んだ! あいつ飛んだぞ!」
ふいに相棒が顔色を変える。おおげさだなと振り向いて樹上を見ると、猿が俺の顔を目がけて飛びかかってきた。
「うわっ!」
俺は自分が頭を覆ったのか、避けたのかすらも覚えていない。
情けないことに、その瞬間に意識を失ったからだ。
気がつくと、辺りはすっかり夜だった。山を登り始めたのは午後に入ってすぐのはずなので、四、五時間は寝ていたらしい。
東京と違い、山の夜は鼻をつままれてもわからないほどに暗かった。
俺は背負っていたリュックから、懐中電灯を取りはずそうとする。しかしカラビナにぶら下げていたそれに手が触れない。
慌てて地面に這いつくばり、落ちていないかと手を動かした。しばらくは土と草の手触りしかなかったが、やがて指先が異質ななにかを感じ取る。
やわらかい。布の手触りだ。ほのかな温もりがある。
しばらく指を動かしていると、温かいそれには凹凸があった。上のほうには毛が生えている感触もあった。毛の辺りはなにかで濡れている。
「まさか……おい、相棒か! おい!」
凹凸が人の顔だと気づき、ネルシャツを着た体を揺さぶる。するとなにかが腐ったような臭いが鼻をついた。相棒が目を覚ます気配はない。
半分寝ぼけていた俺の頭が回り始めた。
さっきの猿は、やはり殺人猿だったのではないか。
噂から化け物のような猿を想像していたが、現代人からすれば普通のニホンザルだって怪物に等しい。
あのとき俺は早々に気を失ったが、相棒は違う。
相棒は夜になるまで、猿に殴られ続けたのではないか。頭が濡れているのは出血のせいではないか。俺が見逃されたのは、寝ている人間を殺しても面白くなかったからではないか。
そんな想像をしたとき、どこかで甲高い獣の声がした。
鳥だったかもしれない。けれど俺はがくがくと全身を震わせ、覚束ない足取りでその場を逃げだした。
「あいつのためにも、俺は死ぬわけにいかない……」
泥水で渇きを癒やした俺は、気力を振り絞って考える。
一応は希望もあった。俺たちはさほど山奥に入っていない。逃げる際も下っていたはずなので、そろそろふもとに着く可能性がある。
だがいまだ光は見えなかった。どこを向いても闇が広がっている。
そのとき、どこかで枝の折れる音がした。
息を殺して耳をそばだてる。
するとさっきよりもそばで、ぱきりと音がした。
なにかが確実に近づいてきている。
だが、それ以上の動きはなかった。
もしかすると、「やつ」は夜目が利かないのではないか。だとしたら俺と同じで、聴覚を頼りに獲物を追っているのかもしれない。
いや、それだけではないだろう。野性動物には嗅覚もある。
現時点で「やつ」が動かないのは、おそらく俺が風下にいるからだ。
となれば次の行動は、声で威嚇して俺を逃げさせようとするだろう。
「ガアアアアアアッ! ギャァアアアアッ!」
予想通り、殺人猿は雄叫びを上げた。
俺はあらかじめ身構えていたが、あまりの迫力に思わず後ずさる。
すると木の根かなにかを踏んだ。よろめいた。倒れまいと伸ばした手が、灌木を盛大に揺らした。
長く闇の中にいるからか、感覚が研ぎ澄まされている。
なにかの気配が、尻餅をついた俺に猛スピードで近づいてくるのがわかった。
ずんと、背中が重くなる。
俺は恐ろしさに絶叫した。
しかし不思議なことに、自分の悲鳴が聞こえない。
それどころか、ずっと山中に響いていた虫の声まで聞こえなくなった。
俺は死んだのだろうか。いや違う。手には地面の冷たさがある。鼻は草いきれの名残を嗅いでいる。まるで聴力だけが失われたようだ。
ふと、恐ろしい可能性に思い当たった。震えながら耳に手を伸ばす。
すると耳たぶより先に、毛の生えたなにかに指が触れた。
目にも同様に、ふさふさした感触がある。
間違いない。俺は猿から逃げているつもりだったが、「やつ」はずっと俺と一緒にいたのだ。
だから頭に重みを感じ、夜でも月が見えなかったのだ。
いま俺の目は「やつ」に、耳は雄叫びを上げながら襲ってきた「二匹目」の猿の手でふさがれている。まるで「見ざる、聞かざる」のように。
「俺は、『殴り殺す』を聞き間違えていたのか――」
目をふさいで視界を奪い、耳をふさいで聴力を奪い、最後に口をふさいで息の根を止める。地元の人間は「殴り殺す」ではなく、「なぶり殺す」と言ったのではないか。
「次にくる猿は、言わざる――」
気づいたときには遅かった。俺の口を、毛の生えた手がふさいでいる。
こいつは五感を奪われて逃げ惑う俺を見て、樹の上で手をたたいて笑っていたに違いない。
俺はこのまま死ぬのか。せめて一矢報いることはできないか。
そう思ったが、三匹の重みで立ち上がれそうになかった。
口をふさぐ手をどけようにも、最後の猿の戒めは恐ろしく強い。
意識が、だんだんと、遠くなっていく……。
「おい、起きろ!」
目を覚ますと、相棒が俺を見下ろしていた。
「おまえ……生きていたのか!」
思わずネルシャツに抱きつくと、なにかが腐ったような臭いが鼻をつく。
「猿に熟した柿をぶつけられたくらいで死なねーよ。まあ気絶はしたけどな」
相棒の頭はオレンジ色の夕陽を背に、オレンジ色に濡れていた。
「じゃあ、あれは夢だったのか……?」
そう思いたかったが、俺は全身すり傷だらけだった。口の中には白っぽい毛が大量にある。決して夢なんかじゃない。ではなぜ俺は生きているのか。
「そうか……『言わざる』は、最後の猿じゃなかったんだ……!」
猿たちは、人間をじわじわなぶり殺したい。だから気絶していた相棒には手を出さなかったし、俺の目が覚めるまで待っていた。
そうして目をふさぎ、耳をふさぎ、口をふさいだ。
しかし人間は、それだけでは死なない。
「最後の猿は、『加賀猿』――」
いきなり毛の生えた手が伸びてきて、俺の口をふさいだ。
見れば相棒は、頭に乗った猿に両目をふさがれている。すぐに二匹目が飛んできて、相棒の耳もふさいだ。
「ぎゃはははは! ぎゃっはははは!」
最後の猿は俺の鼻をつまみながら、人間のように笑っていた。
殺人猿 福沢雪 @seseri
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