最終話 そして雨は上がる

 着弾と同時に力を解放した。久野座くのざの頭部が、次いで肉体から弾き飛ばされた精神が粉々に砕け散る。

『オ……オオォ…………』

 久野座の声にならない叫びが段々と小さくなっていく。

 真白ましろは、生に執着した男の残滓が薄くなっていく様を黙って見つめた。

 久野座は一体何人の身体を渡り歩いてきたのだろう。

 長く生きて、何をしたかったのだろう。

 いつしか、生きること自体が目的になっていたのではないだろうか。

 今となっては、もう、確かめることはできない。

 やがて、久野座は塵一つ残さずに消え失せた。

 息を吐いた真白はデザートイーグルをスクールバッグにしまった。

 それから少し待ったが、家が消える気配はない。きさらぎ駅のように、消滅すると思ったのだが。

 そういえば、久野座は、ここは真白が作った空間だと言っていた。だとしたら、自分が願えば消えるのだろうか。

 試しに消えろと心の中で念じてみたが、なにも起こらない。いっそ力で吹き飛ばそうかと思ったところで、電話機が目に入った。

 ――そうか。これか。

 真白は電話機の前に立つ。

 力ではない。自分は、この空間からの脱出方法を知っている。

 受話器を手に取る。かけるべき番号は、すっと頭に浮かんだ。

「――もしもし?」

 受話器から、茉理まつりの声が聞こえた。こちらからの電話番号がどう表示されているかわからないが、電話に出てくれたことに感謝する。

「茉理、私です」

「真白? どこからかけてるの?」

「昔の私の家、と言えば伝わるでしょうか」

「昔の家? あ……!」

「けりはつけたのですが、どうやら、出られなくなってしまったみたいです。迎えに来てくれますか」

「――わかった。ちょっと待ってて。すぐに行くから」

 電話が切れた。

 受話器を戻した真白は、ソファに腰かける。

 場所の特定はきっと協会でしてくれるだろう。以前のデータがあるはずだ。

 うつむいた真白は額の古傷をさすり、頭を抱えた。

 ――お父さん、お母さん、六花りっか……。

 これでよかった。自分は間違っていない。

 両親も六花も、真白の選択を是としてくれるだろう。

 ――でも。

 視界がにじむ。

 やっぱり、さみしいよ。

 そうして、真白は、声もなく泣いた。


 泣き疲れてソファでぼんやりしていると、不意に雷の音が聞こえた。この空間でも天気が変わるのか。

 真白は中庭に出て空を見上げた。夕焼け空の一部分に黒い雷雲がかかっている。ちょうど家の上だ。

 と、雨が降ってきた。

 寒い日の、身に突き刺さるような冷たい雨ではない。あたたかな、どこか涙を思わせる雨だった。

 そして、稲光と共に空が割れた。

 そこから現れたのは、異形の獣だった。

 頭は猿、身体は虎で尻尾は蛇。

 平家物語にもその名を残す、あまりにも有名なあやかし。


「――ぬえ


 真白は呆然と呟いた。

 絵図で見たときには、恐ろしい魔物のように見えた。

 だが、実際に目にする異形の妖獣は、神々しい美しさを放っていた。

 鵺は、真白の前に軽やかに降り立った。そして、そのときにはもう、真白は鵺が誰かわかっていた。

「茉理、なんですね」

 鵺は正解、と言うように真白の頭に虎の腕を乗せた。固めの肉球がくすぐったい。

「真白、迎えに来たわよ」

 鵺が口を開いた。

 紛れもなく、茉理の声だった。

 煙が立ち上る。

 見慣れた姿の茉理が眼前に立っていた。女物の服を着た、俳優顔負けの美青年だ。

 真白は、思い切り茉理に抱きついた。顔を猫のように茉理の胸にこすりつける。

 茉理は黙ってただやさしく抱きしめてくれた。

「茉理。私には、外なる神の血が流れているそうです。知っていましたか」

 茉理に抱きついたまま、真白は言った。

「いいえ、初めて知ったわ」

 茉理の言葉に、嘘は感じられなかった。

「――では、それを知ってもなお、茉理は私と一緒にいてくれますか」

「もちろん」

 茉理は即答した。

 茉理なら拒絶はしないだろうという期待はあった。だが、それでもやはり胸があたたかくなる。

 涙がにじみ、茉理に悟られたくなくて、真白は一層強く顔を胸に押しつける。

 こもった声で言う。

「いいんですか。汚れたものの親分みたいな存在の血ですよ。正真正銘のバケモノです」

 協会の関係者にとって、ひととあやかしに敵意を持つほとんどの汚れたものは排除対象だ。

 ならば自分の立場はどうなるのか。茉理がかばってくれても、ばれたら処分されるかもしれない。

「関係ない。私にとって、真白はかわいい真白よ。ぐだぐだ言うやつがいたら、相手が誰であろうとぶっ飛ばしてやるわ」

 茉理は真白の頭をなでる。

 ああ、そうだ。このひとは、どこまでもやさしいひとなのだ。

「それにね、真白。バケモノ具合なら私の方が上よ。見たでしょ、私のすっぴん」

「きれいでしたよ。神獣みたいでした」

 茉理の胸から顔を離し、真白は笑って言った。茉理も微笑む。

「うれしいことを言ってくれるわね」

 変わらない微笑み。思えば、茉理は最初からやさしかった。

「――ねえ、茉理。そもそも、茉理が私を引き取ろうと思ったのは、支局長に言われたからなんですか」

 ついに訊いてしまったと思う。

 最初のきっかけなんてどうでもいいと思うようにしていた。茉理が真白と暮らしたいと願ってくれた。その結果だけでいいと。

「打診されたのは事実よ。でも、決定権はあくまで私にあった」

 茉理は真白の肩に両手を乗せる。

「本当はね、直前まで迷っていたの。あやかしの私に人間の子を育てられるのかって。まあ、前例がないわけじゃないんだけど、私には自信がなかった。私と暮らして、あなたが幸せになれるかどうかの確信も持てなかったし」

「だったら、どうして」

「病室で銃を突きつけられているあなたを見たら、身体が勝手に動いてた。母性本能ってやつなのかしらね」

 茉理はおどけたように笑う。それから真顔になって、

「それで気づいたの。私は、あなたと一緒に生きていきたいんだって。……もしかしたら、私は、母親っていう役割に憧れたのかもね」

「憧れ……」

「時々、思うのよ。私って一体何者なんだろうって。得体の知れないものを鵺みたいだって表現するけど、言い得て妙だと思うわ。私には、確固たるアイデンティティがなかったの」

 初めて聞く茉理の、偽らざる本音だった。

 いつだって茉理は自分自身を肯定し、自由に生きてきたのだと思っていた。

 だけど、違った。茉理もまた、揺れ動いていたのだ。

「ひとでもないし、自分の性別すらよくわからない。そんな私が母親だなんて、おかしいっていうのはわかってるんだけど」

「――ぜんぜん、おかしくないですよ。茉理は、私にとってお母さんみたいなひとです。――ううん。それだけじゃない。お父さんでもあるし、お兄さんでもあるし、お姉さんでもある。つまり」

「つまり?」

「家族、ってことです」

 外なる神の血が流れる人間とあやかし。この上なく奇妙で、それでいて唯一無二の家族だ。

「真白……」

「茉理は、私の自慢の家族ですよ」

「――ありがとう、真白。真白も、私の自慢の家族よ」

 心が満たされる。

 真白が生まれ育った家が、街が、真白が作り上げた空間が消えていく。

 

 気づけば、真白と茉理はいつかの無人駅のホームに立っていた。

「茉理。今回の件が落ち着いてからでいいので、私の両親のお墓の場所を教えてください」

「いいけど……大丈夫なの?」

「正直言って、一人だと不安です。なので、お墓参りについてきてもらってもいいですか」

 今までは怖くてできなかったお墓参りも、茉理とならできる気がする。

「――ええ、もちろん」

 茉理は微笑む。

「春になったら、お花見にも行きましょう。夏には海水浴もいいですね」

「どうしたの。ずいぶん積極的ね。あなたから提案してくるなんて珍しい」

「そうでしたか?」

「そうよ」

 言われてみれば、確かに自分は茉理に遠慮していた節があったのかもしれない。

「――そうだ、茉理。ついでといってはなんですが、今日の晩ご飯のリクエストをしてもいいですか」

「いいわよ。なにが食べたいの?」

 頼むものは決まっていた。初めて茉理に会った日、給食で好きな献立は? と訊かれて、真白はこう言ったのだ。

「ゆで卵のマヨネーズ焼き」

 茉理は驚いたように目を見開いて、それから、笑った。

「あなたがその料理を頼むのは初めてね」

 どうやら、茉理も覚えていてくれたらしい。

「家庭では作るのが難しいんですよ。母も、うまく作れませんでした」

「あら、責任重大ね」

「私も一緒に作りますよ」

 微笑んで、真白は手を差し出す。

「帰りましょう、茉理。私たちの家に」

 茉理が真白の手を取る。

「ええ。帰りましょう」

 

 きっと、これから先も自分が歩む道は平坦ではないのだろう。そして、もがく真白を見て、無貌の神はにやにやと笑うのだろう。

 外なる神の血を引く自分の、それは避けられない定めみたいなものだと思う。

 とんだ神さまに気に入られたものだ。ひょっとしたら疫病神の類かもしれない。

 ――だけど、大丈夫。

 自分はもう道を違えない。一緒に歩いてくれる存在がいるのだから。

 真白は手をつなぐ茉理の顔を見上げる。


 ――私は、茉理と生きていく。


 いつしか、雨は上がっていた。

 

 

 

 終



                                         

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きさらぎに雨が降る イゼオ @shie0901

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