ウサギと蛇

はたらま

第1話

 俺は今猛烈に後悔している。握り締めたスマートフォンの画面には去年別れた元彼の名前。寄りを戻したいという旨のメールが残された送信履歴。そして、二十分程前に受信した「今から行く」。酒が抜けきっておらず、おまけに一切の記憶が無い。ズキズキとした頭痛が俺を襲った。

 これで何度目だ?俺は何度酔った勢いで彼奴に縋り付き、何度手をあげられた?今までたくさんの後悔をしてきたはずなのに。

 不安な気持ちが二日酔いによる吐き気を加速させる。悶々と思考を巡らせていると、遠くでガチャリと扉が開く音がした。恐怖と少しの期待が入り混じった気持ちの悪い感情に思わず汗が吹き出す。足音が次第に大きくなる。連動するように心臓の音がボリュームを上げ、脳内に五月蝿いくらいに鳴り響いた。

 ついに背後に存在を感じ、恐る恐る振り返る。


はる、久し振り」


 部屋に凛とした声が響いた。


京也きょうや……」


 あんなにたくさんの痣を作られたのに、顔を見ただけで思わず胸が高鳴った。否が応でも心を引き寄せられる。此奴は出会った頃から何も変わっていない。あの頃と変わらず美しいまま、きっと一生俺を魅了し続けるのだろう。

京也は整った顔に薄く笑みを浮かべ、綺麗な黄金色の髪を揺らした。彼の口元が三日月を描く。


「昨日メール来た時本当に嬉しかった」


 京也は喜びの色を浮かばせる。寄りを戻す度に彼はそう言う。そうやって俺をその気にさせてまた裏切るのだろう。


「ごめん、京也。メール忘れて。昨日酔ってて」


 もう殴られるのは御免だ。そう言って突き放したいと強く思うが、長年与えられ続けた恐怖には打ち勝てない。顔もまともに見られないままなんとか弱々しくそう告げるが、彼の眉をひそめる仕草一つで俺は情けなく怖気付いた。

 一気に嫌な記憶がフラッシュバックする。京也の機嫌次第で、その日俺の体に刻まれる傷の度合いはかなり違う。高校生の頃、京也の両親が離婚した日は頬を打たれた。空き教室で一人で涙を流す彼に、授業をさぼって放課後まで寄り添ったことをよく覚えている。頬は痛かったけれど、京也の気持ちが収まるならそんなことはどうでも良かった。高校では三回寄りを戻した。

 大学に上がってからはパチンコで負けた腹いせに顔面を殴られて鼻の骨を折ったっけ。足元が鼻血で真っ赤に染まる異様な景色が、今でも脳内に鮮明に残っている。そういえば骨折したのはこの時が初めてだったな。暴力に嫌気がさした俺から彼を振っては酔った勢いで連絡を取り、結果大学生のうちに五回寄りを戻した。結局四年間同じアパートで一緒に暮らしていたと思う。学習しない俺達は、社会人になってからも同じ流れを何度か繰り返している。

 脳の奥底に仕舞い込んでいた忌々しい記憶達が呼び起こされ、気付けば手足は震えを起こしていた。震えながら床に座り込む俺を彼は力強く抱き締める。じんわりと温もりを感じた。そうだ、京也は体温が高いんだ。嫌な記憶ではなく過去の楽しかった思い出が徐々に蘇り、途端に胸が苦しくなる。殴られることが怖くて堪らない筈なのに、彼に触れられた瞬間、何とも言えない高揚感が身体に走った。


「嫌だ……」

「もう絶対に陽のこと傷付けないから」


 寄りを戻す時の常套句。そんなこと分かっているのに。そう言って俺に手をあげなかった試しはないのだが、京也の甘い声を聞くだけで満たされてしまう。

 己の言葉に反して彼の背中に震える手を回す。俺に不安と恐怖を与えているのは京也自身だが、その彼の大きな背中に触れただけで魔法でもかかったかのように安心感が押し寄せた。気付けば手足の震えも収まっている。


「出会った時からずっと陽が好きだよ」


 抱き締める力が強くなり骨が軋む感覚がした。痛みすら感じる抱擁からは絶対に離さないという意思を感じる。彼の香水の香りに包まれると、ついには力が抜け、だんだんと頭が回らなくなってきた。

 次は離さないでいてくれる?殴らないでいてくれる?そんなわけがないよ。わかっているのに。ああ、駄目だ。好きだ、大好きだ。俺は彼のことを今でも愛している。


「俺も、ずっと好き、好きだよ、京也、すき」


 蓋をしていた想いが沸騰し始め、ボロボロとこぼれ始める。言葉が止まらない。涙が溢れ出し、京也の肩をじわりと濡らした。

 彼の手が体から離れ、頬に触れる。京也と目が合うと、彼の顔には歓喜が浮かんでいた。まるで子供のような表情だ。俺は彼の自分の感情に素直なところが大好きだった。だから、どんなに殴られたって命の危険を感じるところまでは我慢出来た。

 京也のビー玉のように冷たい瞳をじっと見つめていると、食らうように強引に唇が重ねられた。そこから先はよく覚えていない。

 もはや共依存というべきか。傷つけ合いながら俺達はどうしようもなく互いを求めあっている。京也は一生俺を離すつもりはないのだろう。彼奴はまるでウサギを捕食する蛇だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ウサギと蛇 はたらま @ht_q

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ