寝台特急おぼろ

Range

寝台特急おぼろ

 今日は変わった日だと、そう認識せざるを得なかった。


「……は?」


 休日に買い物をするために行った最寄り駅、そこに停まっていたのは、見慣れた通勤電車ではなく、青い車体の客車だった。


「そんな馬鹿な……」


 それはブルートレインだった。2015年に全て廃止されたはずのブルートレインだった。

 彼は混乱した。何故ブルートレインが最寄り駅に停まっているのか。そもそもブルートレインはもう走らせる事ができないはず。

 彼が鉄道ファンで知識があるだけに、その混乱は大きなものだった。

 だが、それと同時に、彼はこのブルートレインに乗りたいと思った。

 彼が成人になった時、既に展示物でしか存在しないブルートレイン。もしそれに乗れるのであれば、いくら払ってもいい。

 

 ふと、彼は近くにいた男性に声を掛けられた。


「お兄さん、切符、落ちていますよ」


 男性から受け取った切符を彼は覗き込んだ。


 ”寝台特急おぼろ A寝台1人個室”


 そこにはこのような文言と、最寄り駅から青森までの切符であることが書かれていた。

 ブルートレインの行先表示にも、「寝台特急おぼろ 青森」と書かれている。


「これはもしかして……」


 何故こんなところに切符があったのか。そのような疑問を抱きつつも、発車ベルが鳴った。

 ええいままよと思い、彼はブルートレインに乗った。



 彼にとって、ブルートレインの旅は興奮しっぱなしだった。

 A寝台個室が思った以上に広かったのもあるが、2段式ベッドであるB寝台、そしてテーブルのある食堂車。博物館でしか見たことが無かった存在が走っていた。

 しかし、彼が車内をいくら歩いても、他の乗客の姿は見かけなかった。

 不思議に思いつつも、彼は個室の中で車窓を楽しみつつ過ごした。


 

「失礼します。切符の拝見を致します」


 しばらくすると、個室の扉をノックして、車掌が彼の個室を訪れた。

 拾った切符を見せると、車掌は特に表情を変える事無く鋏を入れた。

 そのまま去ろうとする車掌に、彼は声を掛けた。


「すみません。ブルートレインは全て廃止されていますよね。一体この列車は何なのですか? それに、他に乗客がいないように思いますが……」


 車掌は少し笑顔を綻ばせた。


「このブルートレイン、寝台特急おぼろは、ブルートレインへの想いが強い方の前に現れる幻の列車なのです」

「幻の列車……?」


 彼は困惑した。


「往年の鉄道ファンにとって、ブルートレインは憧れの的ですからね。好きで何百回もブルートレインに乗られた方もいるくらいですよ」

「それは凄いですね……」

「そして、若い鉄道ファンの中には、ブルートレインに乗る前に廃止され、乗りたくても乗れない想いを抱いている方もいます。お客様もその一人ではありませんでしたか」

「まぁ……」


 彼は鉄道ファンであったが、その興味は新幹線よりも夜行列車の方が強かった。


「寝台特急おぼろは、そんな鉄道ファンの前に現れ、その想いを叶えさせる、いわば鉄道の神様が鉄道ファンに与えるサービスのようなものです」

「そうなのですか……」

「他にお客様が居ないのも、じっくり車内をご覧になるための配慮でございます」


 そう車掌が答えた後、「まぁ、運賃は頂きますけれども」と付け加えたが、彼にはよく分からなかった。


「ただ、何故青森行きなのでしょうか?」

「それはお客様が青森行きのブルートレインに憧れを持っているからではないでしょうか。西日本に行くブルートレインに憧れを持っているお客様には、寝台特急おぼろは長崎や西鹿児島といった行先で現れます」


 彼ははっとした。彼がブルートレインで真っ先に思い浮かべるのが、上野始発の夜行列車から始まる演歌だったからである。


「しかし何故鉄道の神様はこんな事をしたのでしょうか?」

「今年は新橋から横浜まで鉄道が開通して150年になります。それを記念して走らせたという理由では弱いですか?」


 そう言うと、車掌はその場を去っていった。



 その後、彼が車内をいくら探しても、乗客はおろか、車掌の姿も見かける事は無かった。

 折角の機会と思い、彼は車内の写真を数十枚撮影するも、次第に夜は更け、彼は眠気が強くなっていった。

 このまま青森まで寝ずに車窓を見ようと思うも、いつの間にか彼は眠りについていた。



 目が覚めると、彼は自宅のベッドで横になっていた。


「……あれ? ブルートレインじゃない……?」


 一体あれは何だったのだろうか。スマホを見ると日付はブルートレインに乗った日の朝に戻っていた。

 ブルートレインで撮影した写真を確認するも、その写真は存在しなかった。


「あの経験は夢なのだろうか……?」


 彼はそう思うことにした。

 しかし再び買い物に出掛けようとして財布を覗いた時、彼は財布の中の現金が3万円程無くなっている事に気づき、驚いた。

 自宅の中を必死に探すも、3万円は出て来ず、彼は相当落ち込んだ。



 なお、彼は失念していたが、寝台特急おぼろの切符に書かれていた価格は3万円弱だった。

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