第26話 風光明媚な地獄へようこそ!

 翌日も肌を刺す風雪だった。郁子は姉の恒子を伴って警察の前に立った。しかし、恒子は中に入るのを躊躇して足が竦んでいた。

「姉さん、ここまで来たのに今更何よ!」

「…怖い」

「何が怖いのよ、ここには助けを求めて来たんじゃないの!」

「…仕返しされる」

「新庄は約束を破るような人には見えなかったよ。奥さんもちゃんとした人だったから」

「あの男のことじゃない。徳蔵だよ。ここに来ている所を村の誰かに見られたら、徳蔵に知れて仕返しされる」

 警察に来たのを誰かに…特に渡辺キヨに見られはしないかと、恒子はそればかりを恐れて盛んに周囲を気にした。

「だったら急いで中に入ろ」

「駄目! 仕返しされる!」

「このままではいつまでも新庄に付き纏われるのよ!」

「私は徳蔵が怖い!」

 ふたりが警察署の隅でもめていると、沢口刑事を先頭に数人の刑事たちがパトカーに乗り込んで署を飛び出して行った。


 走るパトカーの後部座席で沢口刑事は苦虫を噛んでいた。

「沢口さん、そのタレこみは信用出来るんですか !?」

 後輩の高田六郎が何気ない発言に沢口がムッとした。

「疑いを持つなら車から降りろ!」

 車内が険悪なムードに包まれた。沢口の同僚の小塚洋光が吐き捨てた。

「沢口の感を信じろ」

「感…すか、感ね」

 高田は沢口の“感”に何度も空回りで振り回されていた。沢口は高田の捨て台詞に無言だった。沢口の息の掛かった住民のひとりから、拘束された加藤邦治が焼け跡に横たわっているのを見たと通報して来ていた。その男の声はそこで切れた。

 俵邸の焼け跡に到着したパトカーから一同が飛び出した。加藤の姿は見当たらず、蔵の中を探すことになった。強引に鍵を開けて3カ所の蔵を探したが、加藤の死体も徳蔵の姿もなかった。後輩の高田は腹立たしげに沢口を睨んだ。沢口は苦虫を噛んだままだった。小塚が軽トラの車輪の後が鬼ノ子山に向かっているのに気が付いた。しかし11月の鬼ノ子山はこのところの風雪続きで真っ白になって唸っていた。

 沢口刑事は徳蔵が軽トラで鬼ノ子山に向かったに違いないと判断し、大石署長に捜索を迫ったが、鬼ノ子村の山々どころか盆地一面に降り注ぐ今、二次被害の危険を考慮し、この雪が治まってからということになった。月末になってやっと雪が治まるやそれが雨に変わりぐんと冷え込み、最悪のコンディションが見舞ったため、またしても捜索は延期になった。しかし、新庄はこの雨をチャンスと見て、既に登山道入口に立っていた。それも一般の登山道入り口ではなく、マタギたちが入る道だ。新庄の読みは当たった。徳蔵が乗り捨てたらしき軽トラが雪に覆われた杉の葉の隙間から覗いていた。それを横目に、新庄は鬼ノ子山への登山道に足を踏み入れた。刺すような冷たい雨の中、すっかり逞しく成長したジャムとバターを伴って、鉱夫たちの飯場跡のある鬼ノ子山の頂上に向かった。村人の誰一人徳蔵のこととなると黙して語らなかったが、笹島文雄と八神一徳は別だった。新庄は、ぬかる雪面を踏みしめながら思い出していた。


 その日、たまたま笹島と八神は渓流釣りをしようと、いつもの釣場である “様の下” に下りて行くと、男たちの言い争う声が聞こえて来た。

「てめえの浅はかな計画で、オレはますます窮地に立ったじゃねえか! どうしてくれるんだ!」

「・・・」

「何とかしろ!」

「・・・」

「黙ってねえで何とか言え!」

 加藤は弁解出来ずに小さくなったままだった。

「ここで頭を冷やしてろ…夜になったら蔵に来い。真ん中の蔵で待ってるからな。そこでもう一度話を聞こう。逃げるなよ」

 加藤は微かに頷いた。徳蔵が川からの坂を登り始めて来たので、笹島と八神は咄嗟に坂の途中の藪に身を隠して伏せた。目の前を腹だち紛れの徳蔵の足が通り過ぎたその時、八神の目前を青大将がうねっている。思わず声を上げそうになったが息を止めて滑り去るのを待った。これも風光明媚の一部なのだと、美化した移住の現実が身に沁みた。笹島たちは釣をあきらめ、移住者の先人である新庄のもとに急ぐことにした。それから幾日も経たないうちに、俵邸であの悲惨な事件が起きたのだ。


 雨で広がった雪の足跡を追って頂上に辿り着くと、隠れ家らしき建物があった。つねの言ったとおり、そこはかつての鉱山労働者の飯場兼待機小屋の廃虚らしかった。中には確かに人の気配がする。気配を消して建物の隙間から中を覗くと、食料や水などの生活必需品が数日分運び込まれているのが見えた。待機小屋の裏から少しの場所には地面が2mほど掘られた所もあった。野菜などの食料を保存するつもりだろう。その傍の沢は微かに水が流れていた。徳蔵は暫くここに立て籠もるつもりかも知れない。待機小屋から死角になる場所を探すため、新庄はそっと小屋を離れた。冷たい雪まじりになった雨が風を伴って酷くなってきた。ジャムとバターは猟犬らしく新庄を察して気配を消して傍に寄り添った。

 暫くすると徳蔵が小屋を出て来た。何かを引き摺っている。人間だ。よく見るとこの世のものではなくなっている加藤の首に巻かれたロープを引き摺っていた。裏に掘った “あの穴” はそのためだったようだ。80越えの病み上がりだというのに、よくもまあ頂上まで死体を引き摺り上げて来たものだ。もうすぐ寿命が尽きる老人だと甘く見ていたが、徳蔵に限っては例外だ。

 新庄は激しい霙の中でふと違和感を覚えた。このところ悪天候が続いたにも拘らず、凍るには早い沢の水は枯れ掛かったままの状態にある。これはまさに鉄砲水の前兆と酷似していた…となれば土砂崩れの可能性もある。


 徳蔵が加藤の遺体を穴に埋め終った頃、新庄のライフルから発した一発の銃声が山に轟いた。加藤の眠る土の上で徳蔵が新庄に気付いた。

「てめえか…」

 新庄の銃口が徳蔵に定まった。

「オレを撃てるのか」

 嘯いた徳蔵の言葉を遮るように放たれた弾は、徳蔵の左頬を掠めて血飛沫を上げた。徳蔵は狂ったように笑った。

「これでやっとお前を人殺しに出来る。撃て、早く撃て!」

「死に急ぐことはねえだろ、クソジジイ。今まで散々てめえ好みのムラの掟に振り回されて来たんだ。今度はオレの掟に従ってもらう。ゆっくり甚振って地獄の苦痛を味わってもらうつもりだよ」

 徳蔵は新庄が本気であることを知って背筋が凍り付いた。

「さあ、死にたくなかったら逃げろ! 人間狩りゲームだ! 今から一時間逃げ切ったら、このライフルはおまえにやるよ。交替でオレの狩りをさせてやる」

「狂ったか、てめえ」

「狂ってるのはおまえだ!」

 新庄は構わず発砲した弾が今度は徳蔵の右腕を貫通した。

「あ、ごめん! その手じゃライフルが撃ち難くなったな」

「くそっ!」

「逃げないとまた弾が当たっちまうぞ!」

 徳蔵は逃げるしかなかった。右腕の出血を押さえながら沢伝いを一目散に駆け下りて行った。そのルートは紛れもなく鉄砲水と土砂崩れの危険のある新庄の思惑通りのラインだ。新庄は容赦なく発砲し、徳蔵の行く手の樹肌にヒットし続けた。

「徳蔵、そんなところを通ったらてっぴう水が襲うぞ!」

 徳蔵は慌てて沢から斜面に上がろうとするが、行く手に発砲されて心臓を絞めつけられながらも、老体を忘れて無我夢中で沢を駆け下りるしかなかった。勢い余って転ぶと、容赦ない新庄の弾丸は徳蔵の体ギリギリを襲った。

「休むんじゃねえよ!」

 徳蔵は息も絶え絶えに猪の如く泡を吹きながら沢を転げ落ちては這い摺って逃げ続けた。

 徳蔵の足元を見ると沢の水量が徐々に上がっている。どうやら上流の沢が鉄砲水で瓦解し始めたようだ。新庄は、間もなく怒涛の堆積物が雪崩れ込むだろうと、沢から離れて牽制の発砲だけを繰り返した。

 山が微かに揺れ、低い唸りが聞こえて来た。次の瞬間、鉄砲水が堆積した枝や周囲の木々を根こそぎ巻き込んで一気に沢伝いに崩れ落ちて来た。危うく新庄も足を掬われそうになった。先を這って逃げていた徳蔵の振り向きざまを、容赦なくその雑木連を絡めた大量の土砂が呑み込み、あっと言う間に徳蔵の姿は消えていった。新庄にはその光景が、村を愚弄し続けた老いぼれに相応しい風光明媚な山からの贈物に思えた。

 勢い甚だしかった鉄砲水に因る堆積物の速度が徐々に緩くなり、そして静かに止まった。新庄はその木々の残骸を眺めながら沢に並行して山を下って行きながら徳蔵を探した。

 あきらめかけたその時、土砂の一端に足がはみ出していた。駆け寄って引き吊り出すと加藤の死体だった。溜息を吐く新庄にジャムとバターが吠えた。そこには息も絶え絶えの徳蔵が土砂から半身弾き出されて転がっていた。

「しぶといな」

 鉄砲水の堆積物が下った距離は150m程だったが、瀕死の徳蔵を土砂から引き摺り出した時、老人のあまりの軽さが意外だった。これなら行けると、新庄は再び待機小屋まで徳蔵を担いで登ることにした。軽いとはいえ、徳蔵の瀕死の体は、登るに従って蒟蒻のようにへばり付いて重くなる。いつの間にかまた雨から霙になっている。足元の悪い急な山道を一歩一歩踏みしめていると、さらに激しさを増して忌々しくなった。ふと、徳蔵が少し軽くなった気がした。

「…死にやがったか」

 そう呟いてまた歩き出した。やっと廃虚となった飯場兼待機小屋に辿り着いた。中に入るや、新庄は徳蔵を床に転がした。彼岸を見ているような徳蔵の目…新庄は徳蔵の首の動脈に指を添えた。やはり、果てていた。村民の誰からも頼られ慕われた俵家代々の子孫であるこの痩せ細った哀れな老人ひとりが、ムラ社会を不穏な空気に包んでいだ。共に助け合って生きて来たはずの全村民は、相互への猜疑心を煽り、修復不可能な人間関係の窮屈なムラ社会にしてしまった。

 多くの移住者がこの風光明媚な土地に夢馳せて移住を決心したが、彼らの老後の資金は病んだムラ社会の掟に振り回されて潰えた。挙句に配偶者に先立たれ、その身は病に臥し、更に望みもしない土地の施設に追いやられる運命が待っているなどとは夢にも思わないことだろう。この老人は自分の身勝手が振り撒いた移住者如きの苛酷な結果になど頓着ないだろう。もし徳蔵にまだ意識があったなら、飯場の大鍋で煮え滾る湯にでも浸かってもらいたかったものの、あっけなく風光明媚の鉄砲水に押し流されて果てやがった。新庄は徳蔵に毒々しい視線を刺し続けた。

「風光明媚な地獄へようこそ!」

 新庄は、歪んだ死骸に吐き捨て、窓の外に目をやった。さっきまでの激しい霙が嘘のように晴れ、青々とした空の元で一面銀白の雪景色が広がっていた。その美しい景色に大きな溜息を吐き、転がっている死体に舌打ちし、廃虚を出た。


 移住による終の住居を探すなら、一年間その候補地の一角に住んで四季を体験せよといわれる。雪国の生活は特に体験しなければ分からないことが多々ある。冬場は1月から3月という印象があるが、雪国の冬は早くて初雪が降る11月にはその “戦い” の準備を完了していなければならない。燃料、冬囲いなどの冬支度は稲の収穫後から始まる。根雪になる前に全ての作業を終えなければならない。更に積雪路面は、スタッドレスタイヤが気休めにしかならないことも知るだろう。タイヤチェーンの装着が出来ないドライバーはJAFを呼べば済むと思っていたら大間違いである。待っている間の積雪が厳寒の孤立を生むこともある。雪国での油断は死と背中合わせとなる。抑々、風光明媚な僻地で身を守る術は意外なところにある。都会では運転免許証の返納が美談の如く扱われているが、移住を考えるなら絶対に返上してはならない。辺鄙な地域では車の運転が出来ないことは死を意味する。

 また、過疎地域での保険料・税金・生活費、特に燃料費は想像以上に高く付く。特に国民健康保険は人口の少ない過疎地域の場合、少ない年収と思っていても納付する額はすぐに最高限度額に達する。最高限度額は医療保険分65万円、後期高齢者支援金分20万円、介護2号保険分(国保加入者に40歳~64歳の方がいる場合)17万円で総額102万円になる。2018年7月から市町村から都道府県単位となったが、居住する地域の賦課金は未だに市町村単位だ。自治体の案内パンフレットではそうしたシビアな点には絶対に触れない。都会で働けど楽にならざる事を理由に、田舎生活なら何とかなるだろうと、自治体が募集している “地域おこし協力隊” に採用されたはいいが、住所変更しても常に余所者のボランティアスタッフ扱い。それにもめげずに、立ち上げた事業が軌道に乗るや自治体に取って代わられ、任期が切れたら使い捨て。税金も払えなくなって古巣に戻ろうとするも、帰るところを失った身では住所不定のネットぐらしをするしかなくなった御仁も少なくなかろう。都会で “ワーキングプア” になって、田舎に移住したはいいが、そこで居場所を失うや途端にホームレス地獄の一丁目となる。

 一方、これまで地道に働き抜いて、終の棲家のための退職金を手に満を持して取得した “見晴らし” のいい土地。その“見晴らし” 部分は誰の土地だろう。その豊かな自然の樹木があったはずの “見晴らし” は、ある日突然、伐採されて “見晴らしの恩恵を蒙れない場所” になることをいつかは覚悟しなければならない。移住地の仲介業者は慈善事業をしているわけではない。利益になれば土地の利用目的など相手次第である。

 その次に来る難題はムラ社会の理不尽な掟である。地元住民には許されることでも、余所者である移住者には許されないこと “だらけ” だ。その根拠は “余所者” だからだ。地元住民からの幼児性を纏った露骨な嫌がらせの数々は実にバラエティに富んで底無しである。余所者である移住者はその理不尽に対し無条件に耐えなければならない。余所者はいつ余所者ではなくなるのか・・・地元で生まれ育った住民にとっては、余所者は何十年経っても永久に余所者であることを知るだろう。人は皆平等であり、同等の権利を有するなどと安易に理解や譲歩、妥協などを期待しようものなら地元住民は途端に白い目になる。修復不可能な行き違いの始まりである。抑々、行き違いは必ず修復不可能となる。その先にすぐ来る地元住民の無視など “文化” と思うしかない。

 余所者に対し、どのような理不尽がなされるのか…例えば、普請の共同作業の集合時間が実は解散時間だったりする。余所者いびりのファーストステージの常套手段である。真っ正直に集合時間に合わせて行くと、作業は既に終わっている。そしてそこでは地元の古老たちが、恐縮している余所者をいびろうとと手薬煉を引いて待っている場だ。遅れていないが、強引に遅れたことにされた弱みに付け込んでプライベートに関する尋問が始まる。ずけずけと土足で踏み込んで来るが、ここで自分のことは何一つ話してはならない。話したら最後、その情報が後々の厄介事の伏線となる。

 土地によってはUターン移住者ですら稚拙な古老らのために村八分になり、執拗な嫌がらせを受け続けて、ついにその古老らに死と焼き討ちの報復をして死刑判決を受けた住民がいる。彼はそんな集落など捨ててすぐに出るべきだった。集落には彼に味方したくても古老らの手前、もの言える状況ではなかった。そんな腐った土地に終の棲家を期待する移住者の方がどうかしている。田舎は変わらない。そこに住もうとすれば、移住者のほうで変わらなければならない。忍耐の果てに、刑務所とどこが違うのか分からなくなるだろう。本来、田舎暮らしに夢を抱いたのは、人生に疲れて解放されるためである。解放どころか理不尽な我慢を強いられる柵だらけ所には最早住む意味などない。


 田舎暮らしは気軽な旅の延長と考え、暮らし難くなったらさっさと引っ越せばいいのだ。帰るところがあるからこそ、理不尽の只中でも我感ぜず精一杯冒険出来るのだ。そのためには、これまで住んでいた帰るべきところは絶対に手放してはならない。住民票を移住先に移すなど免許証返納と同等に自殺行為である。移住とは別に、今までどおり人口の多いライフラインが充実している都市圏に住民票を置けば人口の少ない移住地より数段税金も安い。それが最上の自己防御策である。骨を埋めて死にたいと思えるほどの移住先があったら奇跡であろう。

 では、少しでも快適な移住生活を持続させるために、移住暮らしで蓄積された我慢の限界はその都度どこに吐き捨てるのか・・・駐在である。駐在は、住民の口から炙れる我慢の限界を超えた人間関係の伏線が、あらゆる事件の伏線となる。となれば、住民の不満や愚痴を恰好の情報としているその土地の駐在に聞いてもらうのが合理的かもしれない。彼らには守秘義務がある。駐在の口から住民の不満や愚痴が洩れようものなら大失態となる。気を付けなければならないのは住職である。住職には守秘義務などない。寧ろ、主だった檀家のための情報源にすら成り得る存在だ。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだ。


 移住は原住民の土地を侵すということだ。その地に留まりたければ、住民が納得するだけの還元を覚悟し、その地の掟に無条件で従わなければならない。原住民による如何なる理不尽な鉄槌も甘んじて受けなければならない。改革という合理化や現状変更など絶対に許されない。それが移住の根本条件なのである。風光明媚な土地に住む住民もまた人間的に風光明媚とは限らない。風光明媚な土地は一年を通じて天候が激変の連続である。そうした厳しい自然に即して生きる原住民は、余所者とは考え方が根本的に違う。寧ろ真逆であろう。


 ムラ社会の悪しき権化ともいえる徳蔵は、余所者である新庄に出会ったのが不運であろう。新庄の怒りは、妻のハルへのムラ社会からの侮辱に起因する。新庄夫婦がムラ社会の掟に服従しなければならない余所者とは言え、侮辱まで受け入れる所以はない。徳蔵の洗脳を強いられた村人たちは、いつの頃からか余所者を侮辱する自分たちの傲慢さに無神経になっていた。新庄の報復のターゲットはそうした悪しきムラ社会の権化である徳蔵に定められた。


 あの日、ハルは、夫の新庄にもう一度糺した。

「あなたはどうしてこんなとこで暮らし続けるの !?」

 新庄は答えた。

「オレにはまだこの村でやることがある」

 ハルは笑顔で静かに頷いた。

「じゃ、お先に。向こうで待ってるわね」

 そうして、二人の移住生活は終わった。徳蔵の死んだ今、新庄にはこの土地に残る理由はもうない。妻のハルが待っている古巣に帰るだけだ。


 都市伝説ならぬ地方伝説がある。“地方は金が掛からない”…しかしそれは地方に住む親が現役で土地・田畑の運営が軌道に乗っている農家の恩恵を蒙ることの出来る極一部のUターン組だけに当て嵌まる話である。しかし、それも彼らの親が健在なうちの話である。後を継ぐにも農作業のノウハウのないUターン組は、親の死と共に事態が変わる。最悪、嫉妬と噂の独り歩きするムラ社会から孤立に追い込まれ、夢破れるIターン組と同じ憂き目が待っているかもしれない。

 一方の縁故のないIターン移住者は、村にとっての厄介者か不審者でしかない。村民の笑顔と親切の裏には、想像だにしないリスクがある。自治体に於いても、行政の移住支援策は釣り餌だ。人口減少と過疎化に歯止めを掛けるために、移住者大歓迎などという自治体の建前の裏には税収確保という本音がある。持てる者から徹底的に搾り取ろうとする地元と、土地に距離を置いて移住生活を謳歌しようと夢見る余所者の間に立つ移住斡旋業者にしても、双方の不都合などお構いなしだ。

 都会に出た地方出身者に盛んにふるさと納税を呼び掛けているが、ふるさと納税で税収を増やしても地方交付税は減らされないばかりか、税収を増やした分、地方交付税が減らされてしまうというジレンマがある。


 “クラウドハウス” の管理を沼田に委ね、荷を積み終えた新庄は思い深げに建物に振り返った。そしてこれからはハルへの女房孝行に努めようと決心をした。

 その背に向かって走り寄って来る者がいた。髪振り乱した渡辺キヨがドクゼリの潰し汁を塗った出刃包丁を構えて新庄の背に突進して来た。間髪で気付いた沼田が咄嗟に指笛を鳴らすと、ジャムとバターが一斉にキヨに飛び掛かった。その反動で足が縺れてバッタリと倒れたキヨの首には、その手に握られた出刃包丁が突き刺さり、キヨの首はゆっくりとその刃を滑りながら落ち、柄の口金で止まった。白目を剥いて無言で苦しみ、小刻みな痙攣の後、キヨは動かなくなった。

「最高のはなむけだ」

 新庄は息絶えたキヨに気怠く拍手を贈った。鬼ノ子山の徳蔵も今頃、冬眠し損なって腹を空かした熊の餌食になっていようなどとは誰も思うまい。駐在所の風に弄ばれる徳蔵の手配写真は半分剥れたままだ。その掲示板の横を、西根巡査はキヨの死体が待つ現場に出動した。もう一切この村に関わりたくない新庄は、沼田にクラウドハウスからの監視カメラ映像の提出と証言を任せ、被害届を辞退して検分現場を離れた。


 バックミラーの瀟洒なクラウドハウスが、脱出を祝福するかのように遠ざかる。管理を任された沼田はジャムとバターを伴っていつまでも見送っていた。新庄は知っている。此処を脱出したところでムラ社会から脱出したことになどならないことを。何故なら、この日本の国自体がムラ社会なのだ。政を司るあの永田村には、徳蔵やキヨのような手前勝手で陳腐な正義を翳す高学歴のクズどもがうじゃうじゃいる。やつらは今日も傷の舐め合いをしながらムラ社会の住民どもへの洗脳に余念がない。


 ガランとしたクラウドハウスの一角にゲームソフト『風光明媚な地獄へようこそ!』が残されていた。その中には、新庄が暮らした現実サバイバルゲームが全て記録されていた。


( 完 )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風光明媚な地獄へようこそ! 伊東へいざん @Heizan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ