第25話 きみまち阪
初冬の重く冷たい霙の中、新庄の揺さぶりのターゲットが血相を変えて訪ねて来た。村田郁子である。
「どういうつもりですか! あなたが姉を脅したので商売出来なくなっています!」
「 “脅し” とは穏やかじゃないね。占いを頼んだだけですが、それが脅しだと?」
「占いを強要したんでしょ!」
「 今度は “強要” ですか…でも、奥さんはいいところに来た。お見せしたいものがあったんですよ」
郁子は気勢を削がれて怪訝な顔をした。
「きみまち阪の映像ですよ。ご存じでしょ、きみまち阪」
郁子は返事をしなかったが、新庄は構わずパソコン画面にその映像を流した。画面はきみまち阪から見下ろす “きみまち阪公園” から始まった。この公園は県立自然公園であるが、かつてはこの地域を流れる米代川の川岸を見下ろす険しい山で、その名も「
きみまち阪の正式な漢字は「
「ここ、知ってますよね」
「さあ、あまり出歩かないんで」
「…そうですか?」
映像にその坂を歩く男女連れが現れた。
「公園の崖の上の坂を歩く二人連れがいるでしょ? 誰だかご存じですよね」
「…さあ」
恍ける郁子に新庄は、映像の二人連れにズームさせた。ぼやけた画像をシャープ処理すると二人連れの人相がはっきり現れた。紛れもなく加藤邦治と村田郁子である。
「思い出しましたか?」
郁子の表情は硬直していた。
「加藤さんは郁子さんの伯父様にあたるそうですね。本当に優しい伯父様のようですね」
「・・・」
「鬼ノ子村のリアルタイム映像が移住者の増加に一役買ってくれたことが評判になって、この二ツ
「・・・」
「まさか、お二人が映ってるなんてね。もう一つご覧ください」
新庄は郁子に他の映像も見せた。
「これは隣町の鷹ノ巣地区の映像記録です」
映像には、ここでもまた加藤と郁子が仲睦まじく歩く姿が映っていた。腕を組んだふたりは駅前のビジネスホテルに入って行った。郁子は目を背けた。
「これはご主人の村田恒夫さんが亡くなって間もない頃の映像です。お二人とも幸せそうですね。まるで伯父姪の垣根を越えたご夫婦みたいです」
「何が言いたいんですか!」
「…何も…ただ懐かしい映像をお見せしただけです」
郁子の目は泳いでいた。
「そう言えば、お姉さんのことでいらっしゃったんですよね。宜しく言っといてください。占ってもらうのを楽しみにしてますって」
「今後、姉にも私にも近付かないでください!」
「私から近付いた覚えはありませんよ。占いで私を噂したのはあなたのお姉さんのほうです。そして今日はあなたが自らここに来られた…自分たちから拘っといて、私に近付かないでというのは可笑しな話ではありませんか? いいですか? 占いは必ずやってもらいます。それとこの映像は二ツ井町の観光宣伝に使われるようですよ。良かったですね。お二人の仲の良さが二ツ井町の全住民にもしらしめられる。では、私もこれから仕事がありますのでそろそろお引き取り願えますか?」
郁子は急に土下座した。
「何の真似です?」
「お願いです、観光には使わせないでください!」
「そう言われてもね、これは二ツ井町の所有映像ですから」
「何とか新庄さんからお願いしてもらえないでしょうか?」
「質問!」
「・・・!?」
「お姉さんはどうしてあんな噂を流したんですか?」
「・・・」
「質問に答えたら二ツ井町に相談してみます」
「・・・」
「お客さんが帰るよ! 玄関までお送りして!」
新庄はハルを呼んだ。ハルはにこやかに出て来た。
「郁子さん、お久しぶりね」
てっきりハルが死んだと思っていた郁子は驚いた。噂では交通事故で病院に搬送されて亡くなったと聞いていた。
「驚いた顔ね。私、村の噂で一回殺されてるらしいのよね。交通事故を起こして入院中に死んだって…この村の噂って怖いわよね」
ハルは気さくに笑った。
「わたし、移住者だから分からないけど、この村は噂で人殺しするところなの?」
ハルは駄目押しでまた笑った。
「で、どうして主人を貶めるようなあんな噂が流れたの? それを教えてくれたら、主人のことだから、」あなたの悪いようにはしないと思うわよ」
郁子は重い口を開いた。
「…徳蔵さんに…姉は市日開催の利権を交換条件に出されたんです」
「成程、主人の読みどおりだわ。その話、警察に行って話してくれたら、観光PRの映像を替えてくれるよう二ツ井に説得してくれるわよね、あなた?」
「そうだな…夜まで待とう」
「今日のですか !?」
「ええ、PR映像は明後日から流れるんですって。だから今夜までに連絡しなかったら二ツ井町のPR映像は変更不可能になるのね。私たちはどっちでもいいけど、あなたはそうもいかないでしょ。ご足労だけどお姉さんのためにもご自分のためにも頑張らないとね!」
ハルは愛想よく郁子を急かして玄関まで送った。一段と雨脚が強くなった。早い冬の訪れで、散りそびれた紅葉を音を立てて叩き付ける霙の中を、郁子は小走りに去っていった。
「彼女、この足で警察に行くと思う?」
「さあね…一応、西根巡査には連絡しといた」
「ということは、二ツ井町のPR映像には…」
「残念だけど、どっち道もう間に合わないんだ」
「じゃ、何故あんな期待を持たせるようなことを !?」
「彼女は警察でこの事を話さなければ徳蔵の柵から逃れられない」
「彼女のためということね」
「それに、今朝早く徳蔵は自宅の焼け跡から消えた。このところ毎朝、ジャムとバターの散歩をしてくれている沼田さんが駆け戻って来て徳蔵のことを教えてくれた。いつも徳蔵の邸の前を通る時に唸るジャムとバターが今朝に限って唸らなかったそうだ。徳蔵はもうあの邸には居ない」
「沼田さんは今、役場所有の山林の間引き作業で忙しいんじゃないの?」
「彼は毎日仕事に出る前の薄暗いうちにジャムとバターを迎えに来て散歩に連れてってくれてるんだよ。この頃はジャムとバターも玄関に出て沼田さんが来るのを待ってるし…」
「…沼田さんって律儀ね」
ハルの “律儀ね” には二人が移住して来たばかりの冬の思い出がある。その頃は二人も移住生活に夢を抱いてやって来たばかりだった。敢えて移住を冬に選んだのは厳寒を経験して永住の是非を決めたかったからだ。役場での移住手続きを終えた帰り掛け、民家の火事に遭遇した。野次馬は誰一人居ない降雪の朝に、ひとり煤だらけになった男がランニング姿で震えながら立って家が燃えるのをただ茫然と見ていた。新庄はその男に自分の上着を渡した。男は受けとるのを躊躇したが、新庄は半ば強引に男の肩に掛けた。男は新庄の思い遣りに胸を詰まらせた。新庄夫妻はそれが沼田だとは知らなかった。
「消防車は !?」
男は項垂れたままだった。随分後になって全てが分かった。男の名は沼田耕一。徳蔵に睨まれて村八分に遭っている男だった。畑も潰され、飼犬も殺され、そして家に放火されて、生きる糧を全て奪われて立っていたのだ。その時以来、新庄夫妻は焼け跡の片隅に引籠る沼田に対し、何かと世話をするきっかけとなった。そしてそのことが徳蔵の逆鱗に触れたが、新庄は無視し、敵対が今日にエスカレートして行く発端にもなっている。いつの頃からか沼田の姿を見掛けなくなったのは、免許を取った沼田が県外への出稼ぎで出張続きだったせいだ。そして沼田のことはすっかり忘れていたが、村に帰って来た沼田にとって、火事で焼け出された日以来の新庄の恩は忘れていなかった。
「沼田さんは役場にとっても欠かせない人になったわよね」
「下らん村の掟に潰されている時間が勿体ないんだよ。村の掟というより、徳蔵の身勝手だけどな。村人たちは虐げられることが当たり前の俵家の奴隷として飼われているんだ。そのストレス発散のために、誰かを性質の悪い生贄のターゲットに絞り、悪い噂を立てて甚振る。外から入って来た我々移住者にはその異常ぶりが分かるけど、ここに生まれ育った村人にはそれが当たり前のことなんだ。自分たちのやってる事が常軌を逸してるなんて一生分からんだろうな」
「沼田さんはあなたの影響もあって、その呪縛から奇跡的に解かれたのよね」
「オレの影響でそうなったわけじゃない。彼は自分の力で呪縛から脱したんだ。いや…カネ子さんの力こそ大だったかな」
「そうね、カネコさんはあなたにとっても命の恩人よ。ほんとに気の毒な人」
「彼女の死は無駄になんかしない。このままで済ますつもりはない。村人以上に移住者は自分の意志で立ち上がらなければ、この限界集落で生きぬくことなど出来はしない。二ツ井町のPR映像は、この村のいい刺激になるだろう」
そう言いながら新庄は、雪や霙の降り続く日が多くなった本格的な冬を迎える鬼ノ子山に目をやった。
午後になって吉田きぬが訪ねて来た。息子の吉田翔は小笠原村長の引立てで、今は副村長の要職にある。妻の和乃はかつて副村長を務めていた村田恒夫に散々言い寄られた挙句、村中からの不倫の噂の毒牙に苦しめられた。思い余った和乃は、鷹ノ巣の実家に隠れ住む双子の姉・昭乃のもとに身を隠す憂き目に遭っていたが、今は亡き村田の横暴による村人たちの悪意ある噂と分かり、晴れて再び翔のもとで暮らせるに至っている。
きぬが持って来た情報は新庄を震い立たせた。
「悪事が全てバレた徳蔵は鬼ノ子山の鉱山跡の待機小屋に逃げたに違いないんだ」
「どういうことだ、きぬさん」
「あそこの鉱山跡は地下で繋がっている」
俵家は鉱山で財を成した。かつて金銀の生産を誇っていた鬼ノ子六鉱山も胴の産出量すら減少し、明治政府の官営となって政府は外国の鉱山技師に鉱山の改革を依頼した。鉱山技師の計画は、まだ採掘の可能性のある三カ所の鉱山を地下の坑道で繋げて一元化することだった。明治17年、鬼ノ子山から
徳蔵が幼い頃からこの坑道を、父に隠れては潜り込み、秘密の遊び場にして内部を熟知していたことを、きぬの母・クメは知っていた。きぬの父・昭三郎も鉱山労働者だった時期がある。クメは、鬼ノ子鉱山の待機所の飯場で賄い婦をしていたことが縁できぬの父と結婚した。幼かった頃にきぬはよく賄いの母に同行していた。その折、徳蔵が坑道から連れ出されて父に怒られている姿を度々目撃していた。戦後、坑道の詳細な内部資料は焼失して残っていない。今では徳蔵の記憶が唯一の資料と言えるかもしれない。ここに逃げられたら、捜索はほぼ不可能となる。
徳蔵の祖父は、鉱山景気に湧いていた頃は鬼ノ子村から半ば強制的に鉱山労働者として大勢の働き手を現場に派遣していた。今ではそうした鉱山への “人夫出し”は違法とされているが、その頃は何の御咎めもなかった。その徳蔵の祖父が関わっていた鉱山こそが隠れ家ではないかというきぬの読みである。何故この情報を新庄に持って来たのか…和乃を鷹ノ巣の実家に避難させたのは姑のきぬだった。きぬは息子の嫁の仇を晴らさでおくべきかとこの機を待っていた。そして愈々その機がやって来たが、老婆の自分に何が出来よう。その仇を取れるのは新庄しかいないと駆け込んで来たのだ。
徳蔵の隠れ家の目途が付いた以上、新庄のやることは一つだった。かつて、移住生活にピリオドを打った妻が新庄のもとを去っていく日、新庄に糺した。
「あなたはどうしてこんなとこで暮らし続けるの !?」
新庄は答えた。
「オレにはまだこの村でやることがある」
ハルは笑顔で静かに頷いた。
「じゃ、お先に。向こうで待ってるね」
そう言って車に乗った。都会住まいに戻るハルは国道を走りながら涙が止まらなかった。
“グループシンク(Groupthink)” という言葉がある。アメリカの社会心理学者のアーヴィング・ジャニスが説いた『集団浅慮』という現象だ。鬼ノ子村のような外部から閉鎖されたムラ社会や組織では、互いの友好関係を維持するために集団の決定に反対する意見は慎む傾向にある。火事に遭って“みんなと同じなら安全”という正常性バイアスや、つい他人と同じ行動を取ろうとする同調性バイアスの心理状態になるのだ。徳蔵のように土地の長となった権威者は公正な議論を嫌い、自分の意見を強引に通そうとする。そのため忖度を余儀なくされた集団は、高いストレス下に置かれたまま次第に自尊心が薄くなり、権威者の怒りを買うような議論を避け、権威者の言うがままの決定を急ぐ。集団はその理不尽な大義に目を瞑り、恰も全会一致の幻想に着地して安堵する。移住者など“外敵”が持ち込む情報に対し、“グループシンク” で培われた大義、決定、結束力などを脅かす者から集団を守ろうと同調圧力を掛け、権威者を守るために己のリスクを無視した捨て身で理不尽な掟を揺るがす余所者の排斥に向かうのだ。
新庄がそうした歪みまくった理不尽に、危険を承知で真っ向勝負を掛けたのは、ハルのためだった。ハルの涙は悲しみの涙ではない。夫が妻である自分を侮辱されたことに対する命懸けの報復を決意していることへの感謝の涙だった。
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