第24話 市日

 鬼ノ子村には雑貨を兼ねた酒屋と村外れのガソリンスタンドがそれぞれ一軒と道の駅があるだけだ。どこの街にも見掛けるような洋服店や本屋やコンビニエンスストアはない。ドラッグストアも映画館も勿論ない。まるで歌手・吉幾三の “俺ら東京さ行ぐだ” の世界である。流石に今は村で牛を連れ歩く人はいないが、抑々村を歩く人間すら殆ど見掛けない。高齢化と徳蔵所有の土地離れが増え、耕作地放棄で休耕地が多くなり、働き手は村を出て他地域に生活基盤を築いているので、野良仕事の姿はまだ何とか動ける数人の村人だけとなった。このところ、実験施設への山林復活事業に携わる移住者の人口はかなり増加の途にあった。光伝寺に数件の墓地予約が入ったり、実験エリア内に飲食店が開業するなど僅かな変化はあるが、まだ始まったばかりの計画である。効果が目に見えて現れるのは数年先になろう。

 鬼ノ子村は近隣の集落とともに鉱山景気に湧いていた古から、定期的な市日開催の風習が続いていたが、規模を縮小しながらもその慣習が未だに続いているということは奇跡に近かった。鬼ノ子村の市日は今に至っても5の付く日に開催される。かつては鬼ノ子村の主要道路沿いに数十件の店が軒を連ねて祭りのような賑いを見せていたが、今ではその数3軒となった。道の駅あにの駐車場の一角で雑貨屋、魚屋、八百屋の三軒が細々と軒を連ねている。たまに駐車場に車が入ったかと思うと、市日の屋台を片目に皆、道の駅に直行する。このまま自治体が市日の付加価値を見出せなければ、折角観光風情のある市日の慣習は後継者が途絶える極近い将来には廃止になってしまうだろう。


 昔の市日は、集落民が一堂に会する情報交換の場でもあった。副村長だった村田恒夫が、職場の部下だった吉田翔の妻・和乃にしつこく言い寄っていることで “不倫” の噂があっと言う間に村を駆け巡ったのも、規模が縮小したとはいえ、この市日からである。そして自分の出番とばかりにキヨがしゃしゃり出て無神経な噂を喧伝して周った結果、村田は職場の不穏な空気に苛まれ、村八分を恐れて、新庄の庭にある絞首刑台で首を吊って果てた。

 三軒のうちの雑貨屋に加藤恒子という市日を仕切る世話役がいる。恒子は口八丁の占いで村々の住民に市日を待ちかねて頼られるほど信頼は厚かった。彼女は村田恒夫の妻・郁子の実姉である。そのことに、あざとく目を付けたのが加藤邦治だった。加藤は郁子の伯父であり、その夫・村田恒夫の役場時代の上司だった。加藤は恒子を利用しようと図った。その軽薄な計画を吹き込むと、新庄の抵抗に手間取っていた徳蔵は機嫌よく乗った。


 西根巡査は西弁護士から与った映像を提出するため、鷹巣署に来ていた。大石所長以下、数人の担当刑事たちはその映像を見て苦虫を噛んだ。映像テープを握り潰そうとしていた沢口刑事は、まさか西根巡査が同じものを持って鷹巣署に来るなどとは思っても居なかった。

 映像に現れた徳蔵は、小型除雪機で邸を囲むように位置した三カ所の蔵に除雪機から放出される雪で蔵を覆うように吹き付けていた。蔵がすっかり雪に覆われると、徳蔵は小型除草機と共に一旦画面からフェイドアウトした。暫くすると噴霧器を背負った徳蔵が現れ、邸に液体を吹掛け始めた。

「何を吹掛けてるんだ?」

「灯油かガソリンでしょうね、燃えたんだから」

 時折、咽る徳蔵を見て大石署長が呟いた。

「ガソリンだな」

 邸全体にガソリンを噴霧しているのか、徳蔵は暫く画面から消え、噴霧器の音だけがした。暫くして画面に黒い煙が立った。そして白煙が広がり、炎が立ち上がったかと思うと、火はあっという間に邸全体に広がった。冬の火事は雪の蒸気が伴って白黒入り混じった凄まじい煙を噴きながら、画面一面を覆った。

「どうなってるんだ !?」

 また大石署長が呟いた。

「…古い日本建築は燃えるね」

 やっと白黒の噴煙が治まると、邸だけが黒焦げになって崩れた無残な焼け跡の奥に、無傷の三つの蔵が姿を現した。

「沢口、おまえは見なくていいのか?」

 大石所長は映像に関心を寄せない沢口に声を掛けた。言い淀んでいる沢口を見て西根巡査が言葉を挟んだ。

「沢口刑事は既に西弁護士から映像テープを預かったと思うんですが…」

「・・・」

「沢口刑事はこの映像は既に見てますよね」

「そうなのか?」

「ええ…」

「何故提出しない?」

「これから提出しようかと思っていたんですが…」

「すみません。私が余計なことをしてしまって…」

 沢口刑事は西根巡査の言葉を無視していきり立った。

「自分の家に火を点けるバカはいない! これは誰かに脅されてのことに違いない! 脅した人間の目途は経っている。今すぐ事情聴取すべきだ!」

 沢口刑事は慎重意見を述べる大石所長をゴリ押しし、新庄の事情聴取に我を通した。それは沢口なりに徳蔵からの事情聴取で手応えを感じていたからだ。沢口刑事は老いた徳蔵の事情聴取に嘘はないと信じていた。

「あんた、これが嘘だったら更に罪が重くなるよ」

「この年で助かりてえなどとは思わない。だけど嘘は吐きたくねえ」

「なら、何故あの二人に偽証をさせた」

「あの二人?」

「加藤邦治と福田完だ」

「そんなこと知らねえ。ふたりが新庄に脅されているオレのことを気の毒に思って勝手にやってくれたんだと思う」

 何度も新庄に脅されて放火したことを強調して泣き崩れる老いた徳蔵の取り調べ風景が頭にこびりついていた。その沢口刑事への徳蔵の必死の訴えが、しつこく新庄に立ちはだかった。

「あんたに脅されて放火したと言ってるんだが…何か思い当たることはある?」

「あんたらは好き嫌いで罪のない人を平気で追い詰めるんだな」

「その言種はないだろ。こっちはただ、事の真相が知りたいだけだ」

「事の真相はあの映像が全てですよ。私に何らかの罪を押し付けても、真実が明らかになれば改竄した者が恥を掻くだけだ。好きなだけ疑えばいいさ。オレには覚えはない」

 沢口は執拗に問い詰めて来たが、新庄はそれっきり口を噤んだ。

「疑念が晴れない以上、今日はここに泊まってってもらうしかないな」

「・・・」

「不当勾留だとでも言いたいようだな」

「・・・」

「黙ってたって顔に出てるよ」

「・・・」

「じゃ、泊まってって貰うしかないか」

 一向に相手にしなくなった新庄に、沢口が苦虫を噛んでいる取調室に西が入って来た。

「取り調べ中だ!」

 西の後ろから署長の大石怜次が現れた。

「沢口くん…君に本部から呼び出しが出ている」

「何ですって !?」

「先般の沼田耕一さんの不当逮捕、今般の新庄要さんの不当な取り調べに対し、本部からの呼び出しが来ている。すぐに出頭しなさい」

「…ということです」

 と、新庄は皮肉たっぷりのニュアンスで口添えした。

「あんたが仕組んだのか」

 沢口は西弁護士に矛先を向けた。

「仕組んだ !? 聞き捨て成りませんね。申し上げたはずです。謝罪を受け入れるかどうかは、沼田さんがこれから考えると。その結果、あなたを告訴することになりました。あなたは全く反省していない。沼田さんに強いた職権乱用を今度は新庄さんにも強いている。新庄さん、帰りましょう。沢口刑事は本部に出向く用事が出来たので、ここに居ても仕方ありません。宜しいですね、大石署長?」

 大石は苦しそうに頷いた。西は大石に一礼して、新庄を取調室から連れ出した。大石は沢口には構わず、西たちを送るために同行した。ひとり取調室に残った沢口はがっくりと机に項垂れた。


 西弁護士は、沢口刑事の横暴な取り調べの証拠と上申書を添えて、本部「観察室」に内容証明郵便で抗議文を送付していた。沼田耕一に対する不当な取り調べ、徳蔵の根拠なき虚言と加藤恒子の悪意ある噂の流布を盲目的に信じた沢口刑事の見込み捜査、市日の行商が悪しき縄張り集団であること、業者を仕切っていた加藤恒子は、かつての部下である故・村田恒夫の妻であり、姪・村田郁子の姉であること、恒子が市日を開くそれぞれの村の住人たちに絶大な信頼があり、市日の度に村人の相談にも乗り、住民の悩みを聞いて口から出まかせのインチキ占いで小金を稼いでいたこと、徳蔵が新庄に脅されて自宅に火を点けたという恒子の噂を疑う者はなく、彼女の一方的推定が真実として広がったこと、沼田の件、新庄の件、徳蔵の圧力の事実で、沢口刑事の度重なる横暴な見込み捜査が無実の人間を複数追い詰めていることなど担当者がうんざりするほど事細かに抗議し、受け入れられない場合はマスコミを通じて広く社会に問う旨を添えた。

 本部「観察室」は、徳蔵が加藤恒子に圧力を掛けて噂を流させた一件を見逃していたことを最も重視し、沢口を厳重注意処分とすることを伝えてきた。


 後日、新庄は鬼ノ子村の市日に書類送検中の恒子を訪ねた。恒子は閑古鳥の鳴く屋台の一角で炭の熾る七輪に両手を翳して暖を取っていた。新庄は徐に訊ねた。

「徳蔵が人に脅されて放火したと吹聴してるそうだが、何か根拠があったのなら教えてくれないかな?」

「あんたは !?」

「あんたの噂の主・新庄だよ」

恒子の顔色が変わった。

「オレが徳蔵さんを脅したらしいが、そのことについても詳しく聞かせてくれないか?」

 絞り出すような小声で恒子の弁解が始まった。

「当たるも八卦だべ。徳蔵さんが自分の家に火を点けたのは余程の事情があったんだと思って占ってみたんだべよ。したら占いにはそう出たんだよ。何も吹聴なんかしてねえ。占いさ出だって言っただけだ。それが罪になるのけ?」

「じゃ、占ってもらえるかな?」

「何を?」

「あんたのこれから先の運勢だよ」

「… !?」

「あんたの占い、当たるんだろ?」

 新庄の口調が変わった。

「占ってみろよ、自分のこの先の運勢を。オレの占いでは市日の帰りに大怪我をさせられると出たんだけどよ。どうだろうね」

 恒子は精一杯の無言の虚勢を張ったが、震え出していた。

「どうした? 七輪を独り占めしてても寒そうだな。どっか体でも悪いのか? 店を早仕舞いしたほうがいいんじゃねえのか?」

 恒子は新庄への敵意を露わにし睨み返して来た。

「医者に診てもらったほうがいいよ。ついでに頭もな。占ってもらえねえんなら今日は帰るわ。また日を改めて来るから、そん時は占ってくれよ。占ってもらうまで他の村の市日にもあんたを訪ねて顔を出してみるよ…」

 新庄は一言も発せずにこの場を乗り切ろうとしている恒子の魂胆を、穏やかで陰湿な口調で更に逆なでした。

「この地区の市は一週間に何か所か決まった集落を周るそうだな。一度、全部の市日を覗いてもたいと思ってたから丁度良かった」

恒子の振るえが大きくなり止まらなくなった。

「2の付く日は米内沢…3の付く日は阿仁前田…4の付く日は阿仁合…5の付く日はこの鬼ノ子村…6がなくて残念…7の付く日は鷹ノ巣…8、9がなくて残念…10の付く日が合川…オレは全部行くよ、何度でも」

恒子の胸を抉り続ける呪文のような新庄の言葉で、恒子は腰が立たなくなって失禁をしていた。

「…じゃあな」

 市日は内陸線沿いの6つの集落を決まった数の日に周るが、恒子はどの村の市日にも顔を出さなくなった。恒子を利用しようという加藤の企みは、徳蔵の首を更に絞める結果を招き、自業自得の蟻地獄に堕ちて行く結果となった。

「加藤のヤロウ…」

 これまでの加藤の軽薄さに、徳蔵の怒りは限界に達していた。

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