第23話 ご乱心
豪雪地帯の乾燥は雪解けの春先まで続く。突然、俵邸の壁面にへばり付いた雪から濛々と白煙が湧き上がり、残雪の残る春先はこうして始まった。白煙の間から微かに見える炎は見る見る勢いを上げ、上昇気流を生み、次第に炎の火柱となって空を射抜いた。
徳蔵は魂が抜けたようにその空の火柱に見入っていた。そこにキヨと加藤が駆け付けて来た。
「徳蔵さん、しっかりしなさって…徳蔵さん!」
俵邸に駆け付けたキヨは歯をガタガタ振るわせて叫んだ。
「沼田のガキだ…沼田のガキに火を点けられた」
「沼田を見たんですか !?」
「オレが沼田と言ったら沼田なんだ!」
徳蔵に怒鳴られた加藤は歪んだ顔で頷いた。キヨの喧伝で “沼田の放火”が一気に鬼ノ子村中に広がった。徳蔵に睨まれた沼田が、これまで徳蔵の数々の圧力に泣かされて来たことは村の誰もが知るところだった。その積もり積もった恨みが放火という報復に繋がったというキヨのまことしやかな見立ては誰もが納得した。しかし、その誰もが沼田の凶行だとは思わなかった。ムラ社会の噂は真実などどうでもよく、噂こそが事実なのだ。
新庄の元に沼田耕一逮捕の一報が入ったのは桜子経由のハルからだった。
「目撃者がいるのか?」
「徳蔵さんが逃げて行く耕一さんを見たと言っているそうだわ」
「成程…耕一さんは犯行を認めているのか?」
「黙秘を通しているようです」
「となると、真実を知っているのは徳蔵と耕一さん本人だけということだな」
「村の人たちは耕一さんの犯行に間違いないと口を揃えてるけど、キヨさんの言触らしていることだからね」
「懲りねえババアだ。未だにこの村では噂による人狼狩りが行われているということだな」
「沼田さんの犯行じゃないとすれば?」
「そうだな…黙秘を通しているということが根拠と言えば根拠だな。彼は理不尽な仕打には慣れっこだ。この土地の警察は無実を主張したところでどうにもならない。それがこのムラ社会の不治の病だということを彼は良く知っている」
「放っとくの?」
「なるようにしかならんだろ」
投槍に答えた新庄だったが、本音は逆だった。ハルはそんな新庄の本音を承知していた。“なるようにしかならん” ということは “なるようにする” ということだ。
ムラ社会とは、有力者を中心として先祖代々のしきたりに拘り、余所者を受け入れない排他的な社会だ。集落の絶対的な掟や価値観を侵すものは、村八分などの制裁を受けることになる。警察も民事不介入という都合のいい理由で黙認している。村八分はコロナ禍以降都会にも蔓延して来た “同調圧力” と同類の集団ヒステリーの如き歪んだ正義の発作だ。抑々同調とは他人の主張や考えに自分の意見を合わせることを意味する。それを同調行動というが、お互いに譲り合って協力する前向きな “協調” に対して、同調には恐怖や不安が伴う不本意な場合が多い。現在全国的に蔓延している“同調圧力”は、少数意見に対して多数意見が暗黙的に強制する力だ。同意見の相手に対して親近感や安心感を覚える同調効果によって、人は無意識にその相手と同じ行動を取り易くなる。逆に、違う意見を持った人に対する不安は、同調を強要する心理が働く。多数派意見は正しく、その意見を逸にして嫌われたくないという気持ちが働き、自ら同調圧力に靡くことが正しいと判断する。少数派はストレスを強いられるが、多数派の中に自分と同じく我慢している人間がいることすら黙認する。
県警に連行された沼田は、連日沢口刑事の厳しい取調べを受けていた。
「目撃者がいるんだ。正直に話して楽になったほうがいいだろ」
沼田は相変わらず一切を語らなかった。沼田にはどうでも良かった。無実を訴えたところでこの刑事の作った台本に沿うまで受け入れられないということは百も承知していた。慈しまなければならない相手はもうこの世には誰もいない。沼田の心には “早くカネ子の所に行きたいという想い” が常に覆っていた。勝手に判決を下せばいいとすら思っていた。
「このままでは、あんたの犯行ということになってしまうよ、沼田さん。これまであんたは相当な苦労を強いられて来たことは私も知ってるよ」
「・・・」
「謂れのない噂で過去十数年間、外にも出られない生活だったそうじゃないか…」
「・・・」
「いつまでも黙ってないでさ、少しぐらいは話してくれたっていいじゃないか」
沼田は取調室の壁を見詰めて沢口刑事の軽薄さを塗りたくっていた。別室では沼田の犯行を目撃したという加藤邦治、福田完らが順に事情聴取を受けていた。沢口刑事はそうした複数の目撃証言から沼田の犯行であると断を下し、逮捕状を取る段になった頃、新庄が依頼した弁護士が県警を訪ねて来た。西隆司…彼も新庄のSNS仲間だった。逮捕状請求を急ぐ沢口刑事は苦虫を噛んで西弁護士に会った。
「状況証拠は揃ったんでね、沼田耕一の逮捕状請求の段階なんですよ」
「それは良かった」
西弁護士の意外な返答に沢口は気勢を削がれた。
「沢口刑事の勇み足にならなくて良かったです」
「勇み足だと !?」
「今日は被疑者に会いに来たわけではありません。沢口刑事に早くこの映像をお見せしたくてやって参りました」
「映像 !? 」
西弁護士は持参した映像を沢口に見せた。映し出された映像を見た沢口刑事は絶句した。
「沢口さん、この映像を見る限りでは、残念ながらあなたのシナリオとは随分違ったみたいですね」
「シナリオ !? 別に見込み捜査の取り調べなどしていません」
「それは良かった。お話を作るのが好きな刑事さんが多いもんでね」
「失礼じゃないか!」
「失礼なのはそちらじゃありませんか? さっき沼田耕一さんの逮捕令状請求の段階だと仰いましたね。その根拠は、あなたの見込み捜査によるものではないんですか?」
「複数の目撃証言によるものだ!」
「目撃者の話を鵜呑みにして善良な市民に放火という重罪の疑いを掛けて詰問するなど言語道断でしょ」
「こちらは仕事でやってるんです」
「では法に基づいた仕事をしていただきます。犯行の根拠が無くなったんですから、被疑者をすぐに開放してください」
沼田はすぐに取り調べから解放されたが、西弁護士は更に沢口刑事に食い下がった。
「沼田さんに謝ってください」
「法に基いて解放したからいいじゃないですか」
「よくありません。無実の人間を疑ったんです。善良な一般市民への厳しい取り調べで多大のストレスを強要したんですよ。仕事のためとは言え、これは歴としたパワハラです。あなたは職務というが、そのことで関係のない沼田さんには多大の緊張と恐怖を強いているんです。あなたたちが無神経になっている職権乱用ですよ。これがきっかけでPTSDにでもなったらどうします? 責任取れますか? 警察官として常識ある行動をとってください。沼田さんに謝ってください!」
沢口刑事は謝るしかなかった。沢口刑事の渋々の謝罪に沼田の表情は冷めていた。
「謝罪を受け入れるかどうかは、沼田さんがこれから考えると思います。それに、あなたは目撃者の偽証に肩入れをした可能性だって無きにしも非ずですからね。今日のところはこれで失礼します。偽りの目撃証言者らに対する処分が決まったらお知らせください。まさかこのまま無罪放免はないですよね。彼らはあなたにも恥を掻かせるところだった」
「…追ってご連絡します」
沢口はそう答えるのが精一杯だった。
「ご連絡をお待ちしてます」
西は沢口の言葉に被せてプレッシャーを掛けた。沼田を乗せて去って行く西の外車を、沢口は奥歯を噛んで腹立たしく見送った。
西が沢口に提示した映像は、小笠原村長になってから鬼ノ子村の数ヵ所に取り付けた「街頭防犯カメラシステム」からのリアルタイムの配信映像記録だった。そこには徳蔵自身の犯行の一部始終が映っていたのだ。
SNSで相談を受けた西のお手柄だった。しかし、西はそのまま事を治める気はさらさらなかった。
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