第113話 蘭陵王

 澄み渡る夜気が、本家屋敷の庭園を包んでいた。

 夜空には、星が散りばめられていた。煌々と月が輝き、月光を遮る群雲むらくもさえない。青白い月光が、灯火ともしびまばらな本家屋敷を明るく照らし、辺りは静寂に満たされていた。

 沢を渡る清流の音も、微風そよかぜが揺らす葉擦はずれの音も、夜を忍ぶ梟の声さえも、荘厳な静寂を揺るがす筈がない。山野に跳梁する獣達も、静寂の中で眠りに就こうとしていた。

 然し静寂の夜は、もう少しで終わりを迎える。これから本家屋敷の庭園で、雅楽の公演が行われるからだ。

 陵王面りょうおうめん牟子むしを被り、右手に金鍍金きんめっきばちを持ち、白砂の庭で糸鞋しかいを履いた奏は、少し離れた場所から雅楽の舞台を眺めていた。

 正方形の舞台は、高舞台たかぶたいと呼ばれている。高さ三尺の舞台の周囲を朱色の高欄こうらんが囲い、擬宝珠ぎぼしという欄干につける飾りがついていた。舞台の中央に三間四方の緑色の布が敷かれており、前後に階段がある。

 器楽を奏する管方かんかたは、高舞台の後ろの高間に列していた。赤い布で覆われた高間は楽屋と呼ばれ、龍笛りゅうてきしょう三之鼓さんのつづみなど、様々な楽器を携えた管方が、床机に腰を掛けている。楽屋の真ん中に釣太鼓つりだいこ。楽屋の下手に鉦鼓しょうこが置かれていた。

 管方は全員、襲装束かさねしょうぞくを着ていた。

 常装束つねしょうぞくとも唐装束からしょうぞくとも言う。

 襲装束は、鳥甲とりかぶとほう半臂はんぴ下襲したがさね指貫さしぬき赤大口あかのおおくち金帯きんたい(或いは銀帯ぎんたい)、忘緒わすれお踏懸けがけ、糸鞋からなる。管方では、袍は楽長のみがつける。

 加えて管方は皆、白い仮面で顔を隠していた。奏以外の異性は本家屋敷に入れない為、蛇孕神社の巫女が管方を務める。

 夜の帳に包まれる中、四基の篝火が火の粉を散らし、高舞台と楽屋を照らしていた。さながら薪能たきぎのうのようだ。

 玄妙な景色を眺めていると、楽長が白い仮面を此方に向けた。舞人まいにんに雅楽の開始を確認してるのだ。

 舞人の奏が頷いて応えると、官方の一人が龍笛を吹いた。

 陵王は小乱声こらんじょう陵王乱序りょうおうらんじょさえずり沙陀調音取さだちょうのねとり当曲とうきょく安摩乱声あまららんじょうからなる。

 前奏曲として龍笛と太鼓、鉦鼓による小乱声から始まり、陵王秩序で舞人が登台とうだいし、舞台に登る時の所作――出手でるてを舞う。途中で無伴奏による囀を挟み、次いで当曲の前の間奏曲――沙陀調音取が奏され、演目の中心となる当曲を舞う。最後は龍笛と太鼓、鉦鼓による安摩乱声となり、舞台から降りる時の所作――入手いるてを舞い、舞人は舞台から退場する。

 これが雅楽――陵王の一連の流れだ。

 小乱声が終わり、陵王秩序が始まった。

 釣太鼓や鉦鼓の音に導かれるように、奏は高舞台へ向かう。

 両手を腰に据えた姿勢で歩き、舞台の下手から高舞台に登った。

 高舞台の中央に立つと、俯きながら左脚を広げ、桴に左手を添えて掲げた。即座に桴を下げながら、右脚を左脚に引きつけて閉脚し、両腕を左右に広げる。再び左手を桴に添えて、左脚を開いて開脚。両手を腰につけ、開脚したまま腰を下ろす。

 子供の頃から舞い慣れており、无巫女アンラみこの神楽を笛ではやし立てた経験もあるので、公の場に立たされても臆する事はない。

 入手を舞いながら、奏は本家屋敷の広間を見遣る。

 上手と下手に分かれた分家の当主が、奏の舞いを静かに見物していた。

 年寄衆の娘達と女童だ。燭台の灯りしかない為、雅楽の舞台より薄暗く、各々の表情は視認できない。緊張で顔を強張らせてるのか。或いは、男性当主の誕生に顔をしかめているのか。

 おそらく年寄衆の娘達は、奏に憎悪の視線を向けているだろう。奏と符条が余計な事をしなければ、无巫女アンラみこが暴走する事もなかった。櫻井優子が乱心したのも、他の年寄衆が九山八海二号に造り替えられたのも、奏と符条の謀略が原因である。

 年寄衆の娘達からすれば、奏は親の仇に等しい。加えて奏の真の目的は、超越者チートを人間に変える事だ。マリアを現人神の如く崇拝する彼女達が、絶対に認めるわけがない。

 怨恨の緩和に努めつつ、分家衆に自分の目的を隠し通す。

 前途多難だ。

 先生と話し合わないと、どうにもならないな……と考えていたら、獺と千鶴の姿を見つけた。先日の評定で問題なく復帰したと聞いていたが、自分の目で確認する事ができて、奏の心は少し軽くなった。同時に正装したヒトデ婆を発見し、奏の心は少し重くなった。一応、差し引きゼロである。

 気分を変える為に、壇上に視線を向けると、奏の許婚が座していた。

 控えの間で顔を合わせた時と変わらず、无巫女アンラみこの礼装を着ており、禍々しい鬼面で超絶の美貌を覆い隠し、壇上の中央で端座している。

 マリアが本家当主の地位に就いてから、一度も壇上に腰を下ろしていない。抑も本家屋敷の広間に入る事すらなかった。それが新当主の就任を祝う宴に出席し、壇上で奏の舞いを見学しているのだ。マリアが奏を溺愛する証左と言えるが……超越者チートの破天荒な行跡を知る分家衆からすれば、ただ只管ひたすら不気味な光景である。

 次いで壇上の下手に、常盤の姿を見つけた。

 普段の南蛮幼姫ゴスロリ装束ではなく、小袖姿で打掛を腰に巻いている。

 他の分家衆も同様だ。

 灯りが少ない為、常盤の表情も確認しにくい。おそらく緊張と恐怖で、顔も身体も硬直しているだろう。本人が望もうと望むまいと、本家の猶子であるがゆえに、无巫女アンラみこと同じ場所に座らされる。常盤が拒めば、分家衆から「薙原家の序列を乱した」と難癖をつけられ、常盤が受け入れると、「難民の子が、无巫女アンラみこ様と同じ場に座るなど許し難し」と憎まれる。分家衆が足を置く事さえ許されない場所に、薙原家と血の繋がりを持たない余所者が座るのだ。分家衆が恨みを抱くのも当然。とはいえ、常盤からすれば、酷く理不尽な話である。これも奏が時間を掛けて解決しなければならない問題だ。

 朧は雅楽の舞台から少し離れた濡れ縁で胡座を掻き、ぐびぐびと瓢の酒を飲みながら、奏の舞いを静観していた。腰に大小を帯びていないので、宴の席で問題を起こすつもりはないのだろう。単純に奏の舞いと酒と肴に釣られただけか。

 塙の姿が見えないのは、単純に男だからである。本家屋敷は、奏以外男子禁制。本家に仕える侍でも例外はない。

 勘助の場合は、少し事情が入り組んでいる。

 朧と塙が決闘騒ぎを起こした後、奏が勘助に仕官を勧めたら、意外にも丁寧な口調で断られた。理由を尋ねると、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が没落した際、行き場のない笠原正巌と勘助を篠塚家が保護し、一族郎党の面倒を見てくれたそうだ。勿論、篠塚家も慈善事業をしていたわけではない。正巌が持つ人脈を利用し、関東で商いを行う足掛かりとしたのだ。勘助も篠塚家の思惑を承知しているが、それでも御恩は御恩。「篠塚家に恩返しをするまでは、他家に仕えるつもりはないです! 押忍! これからも篠塚家の護衛衆を続けたいです! 押忍!」と明言された。篠塚家の護衛衆を解体したから、本家に仕官を勧めているのだが……理由はどうあれ、千鶴の護衛を続けるなら、暫く蛇孕村に逗留するだろう。蛇孕村を離れなければ、奏も無理強いする気はない。

 小半刻ほど舞い続けただろうか。

 絶妙と言い切るほどではないが、無事に陵王を舞い続け、後は入手を舞いながら舞台から退場するだけだ。

 然し奏は後ろの階段に向かわず、前の階段を降りた。

 入手の続きのように、堂々ときざはしを登り、広間の濡れ縁に立った。

 左右に並ぶ分家衆に目も向けず、流麗な所作で壇上に向かう。

 蘭陵王の装束を纏う奏は、壇上の前で立ち止まった。

 本家当主の陵王面が、无巫女アンラみこの鬼面を見下ろす。


「――」


 打ち合わせ通りの行動だが、二人の間で空気がきしんだ。張り詰めた空気に亀裂が奔り、今にも砕け散りそうな緊迫感がある。

 分家衆が固唾を呑んで見守る中、マリアが静かに立ち上がる。

 奏と視線を合わせた後、壇上の上手に座り直した。

 壇上の中央で胡座を掻き、奏は分家衆を睥睨する。


「第三十六代薙原本家当主――豊臣朝臣とよとみのあそん薙原なぎはら武蔵守むさしのかみ秀親ひでちかである。皆の者、我に従え」


「えい、言うにや」


 櫻井家の当主が頭を垂れると、


「「「えい、言うにや」」」


 他の分家衆も声を揃えて、新しい本家当主に深々と頭を下げた。




 糸鞋……白い紐の組紐で編んだ履物


 三尺……約90㎝


 高欄……装飾的な手摺り


 三間……約5.67m


 龍笛……雅楽に使う横笛


 笙……十七本の竹管を円状に束ねた吹奏楽器


 三之鼓……腰が括れた砂時計形の太鼓。右手にのみ桴を持ち、片面で打突する。


 釣太鼓……管弦かんげんなどで用いられる太鼓で、鋲打びょううちの両面太鼓が火炎飾りのある木製の枠に吊り下げられている


 鉦鼓……皿形の鉦を火炎飾りのある木製の枠に吊り下げ、二本の桴で摺るように打ち鳴らす打楽器


 上手と下手……上手は舞台の左側(客席から見て右側)、下手は舞台の右側(客席から見て左側)


 鳥甲……鳳凰の頭をかたどった被り物


 袍……一番上に纏う上着


 半臂……袍と下襲の間に着用する胴着


 下襲……袍や下襲の下に着用する内着


 指貫……赤大口の上につける袴


 赤大口……緋色の大口袴


 金帯……袍の上で絞める腰帯。右方の雅楽装束では銀帯、左方では金帯という。


 忘緒……半臂を結ぶ紐


 踏懸……脛の部分を覆うもの


 登台……台に登る事


 小半刻……三十分


 豊臣朝臣薙原武蔵守奏秀親……豊臣がかばね。苗字が薙原。武蔵守は僭称。歴代の薙原本家の当主が、勝手に名乗っているだけ。奏は幼名。織田信長の息子達と同様に、幼名がそのまま通称になった。秀親がいみなである。


 えい、言うにや……「はい、言うに及ばず」の意

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傾奇ナル中二病 さとうのら @satonora

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