第113話 蘭陵王
澄み渡る夜気が、本家屋敷の庭園を包んでいた。
夜空には、星が散りばめられていた。煌々と月が輝き、月光を遮る
沢を渡る清流の音も、
然し静寂の夜は、もう少しで終わりを迎える。これから本家屋敷の庭園で、雅楽の公演が行われるからだ。
正方形の舞台は、
器楽を奏する
管方は全員、
襲装束は、
加えて管方は皆、白い仮面で顔を隠していた。奏以外の異性は本家屋敷に入れない為、蛇孕神社の巫女が管方を務める。
夜の帳に包まれる中、四基の篝火が火の粉を散らし、高舞台と楽屋を照らしていた。さながら
玄妙な景色を眺めていると、楽長が白い仮面を此方に向けた。
舞人の奏が頷いて応えると、官方の一人が龍笛を吹いた。
陵王は
前奏曲として龍笛と太鼓、鉦鼓による小乱声から始まり、陵王秩序で舞人が
これが雅楽――陵王の一連の流れだ。
小乱声が終わり、陵王秩序が始まった。
釣太鼓や鉦鼓の音に導かれるように、奏は高舞台へ向かう。
両手を腰に据えた姿勢で歩き、舞台の下手から高舞台に登った。
高舞台の中央に立つと、俯きながら左脚を広げ、桴に左手を添えて掲げた。即座に桴を下げながら、右脚を左脚に引きつけて閉脚し、両腕を左右に広げる。再び左手を桴に添えて、左脚を開いて開脚。両手を腰につけ、開脚したまま腰を下ろす。
子供の頃から舞い慣れており、
入手を舞いながら、奏は本家屋敷の広間を見遣る。
上手と下手に分かれた分家の当主が、奏の舞いを静かに見物していた。
年寄衆の娘達と女童だ。燭台の灯りしかない為、雅楽の舞台より薄暗く、各々の表情は視認できない。緊張で顔を強張らせてるのか。或いは、男性当主の誕生に顔を
おそらく年寄衆の娘達は、奏に憎悪の視線を向けているだろう。奏と符条が余計な事をしなければ、
年寄衆の娘達からすれば、奏は親の仇に等しい。加えて奏の真の目的は、
怨恨の緩和に努めつつ、分家衆に自分の目的を隠し通す。
前途多難だ。
先生と話し合わないと、どうにもならないな……と考えていたら、獺と千鶴の姿を見つけた。先日の評定で問題なく復帰したと聞いていたが、自分の目で確認する事ができて、奏の心は少し軽くなった。同時に正装したヒトデ婆を発見し、奏の心は少し重くなった。一応、差し引きゼロである。
気分を変える為に、壇上に視線を向けると、奏の許婚が座していた。
控えの間で顔を合わせた時と変わらず、
マリアが本家当主の地位に就いてから、一度も壇上に腰を下ろしていない。抑も本家屋敷の広間に入る事すらなかった。それが新当主の就任を祝う宴に出席し、壇上で奏の舞いを見学しているのだ。マリアが奏を溺愛する証左と言えるが……
次いで壇上の下手に、常盤の姿を見つけた。
普段の
他の分家衆も同様だ。
灯りが少ない為、常盤の表情も確認しにくい。おそらく緊張と恐怖で、顔も身体も硬直しているだろう。本人が望もうと望むまいと、本家の猶子であるがゆえに、
朧は雅楽の舞台から少し離れた濡れ縁で胡座を掻き、ぐびぐびと瓢の酒を飲みながら、奏の舞いを静観していた。腰に大小を帯びていないので、宴の席で問題を起こすつもりはないのだろう。単純に奏の舞いと酒と肴に釣られただけか。
塙の姿が見えないのは、単純に男だからである。本家屋敷は、奏以外男子禁制。本家に仕える侍でも例外はない。
勘助の場合は、少し事情が入り組んでいる。
朧と塙が決闘騒ぎを起こした後、奏が勘助に仕官を勧めたら、意外にも丁寧な口調で断られた。理由を尋ねると、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が没落した際、行き場のない笠原正巌と勘助を篠塚家が保護し、一族郎党の面倒を見てくれたそうだ。勿論、篠塚家も慈善事業をしていたわけではない。正巌が持つ人脈を利用し、関東で商いを行う足掛かりとしたのだ。勘助も篠塚家の思惑を承知しているが、それでも御恩は御恩。「篠塚家に恩返しをするまでは、他家に仕えるつもりはないです! 押忍! これからも篠塚家の護衛衆を続けたいです! 押忍!」と明言された。篠塚家の護衛衆を解体したから、本家に仕官を勧めているのだが……理由はどうあれ、千鶴の護衛を続けるなら、暫く蛇孕村に逗留するだろう。蛇孕村を離れなければ、奏も無理強いする気はない。
小半刻ほど舞い続けただろうか。
絶妙と言い切るほどではないが、無事に陵王を舞い続け、後は入手を舞いながら舞台から退場するだけだ。
然し奏は後ろの階段に向かわず、前の階段を降りた。
入手の続きのように、堂々と
左右に並ぶ分家衆に目も向けず、流麗な所作で壇上に向かう。
蘭陵王の装束を纏う奏は、壇上の前で立ち止まった。
本家当主の陵王面が、
「――」
打ち合わせ通りの行動だが、二人の間で空気が
分家衆が固唾を呑んで見守る中、マリアが静かに立ち上がる。
奏と視線を合わせた後、壇上の上手に座り直した。
壇上の中央で胡座を掻き、奏は分家衆を睥睨する。
「第三十六代薙原本家当主――
「えい、言うにや」
櫻井家の当主が頭を垂れると、
「「「えい、言うにや」」」
他の分家衆も声を揃えて、新しい本家当主に深々と頭を下げた。
糸鞋……白い紐の組紐で編んだ履物
三尺……約90㎝
高欄……装飾的な手摺り
三間……約5.67m
龍笛……雅楽に使う横笛
笙……十七本の竹管を円状に束ねた吹奏楽器
三之鼓……腰が括れた砂時計形の太鼓。右手にのみ桴を持ち、片面で打突する。
釣太鼓……
鉦鼓……皿形の鉦を火炎飾りのある木製の枠に吊り下げ、二本の桴で摺るように打ち鳴らす打楽器
上手と下手……上手は舞台の左側(客席から見て右側)、下手は舞台の右側(客席から見て左側)
鳥甲……鳳凰の頭を
袍……一番上に纏う上着
半臂……袍と下襲の間に着用する胴着
下襲……袍や下襲の下に着用する内着
指貫……赤大口の上につける袴
赤大口……緋色の大口袴
金帯……袍の上で絞める腰帯。右方の雅楽装束では銀帯、左方では金帯という。
忘緒……半臂を結ぶ紐
踏懸……脛の部分を覆うもの
登台……台に登る事
小半刻……三十分
豊臣朝臣薙原武蔵守奏秀親……豊臣が
えい、言うにや……「はい、言うに及ばず」の意
傾奇ナル中二病 さとうのら @satonora
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