第112話 告白

 慶長六年七月中旬――

 本家屋敷の主殿の一角。

 奏は控えの間で、雅楽の衣装に着替えていた。

 ほうの上に着用する裲襠りょうとうは、羽毛でふちを飾る羽毛うもう裲襠りょうとう。紅地に雲の地紋を表した唐織で、前後に二つずつ丸紋があり、丸の内に龍が刺繍されている。袍は雲紋の地紋のある紅紗。窠紋かのもんが所々に施されている。袖先に紐があり、中指に掛けて手首の処で結ぶ。腰帯は当帯あておびで、金鍍金きんめっきされた牡丹ぼたん唐草からくさ透彫すかしぼりされている。当帯は紅の唐打紐で結び、ふわりと房を垂らす。指貫さしぬきは、紅地に雲水紋を表した唐織。裾の部分は紐でくくる。紅地紅紗と紅だらけだが、現代人から見れば、全て鮮やかな橙色だ。

 後は化物の仮面と牟子むしという頭巾を被り、白砂の庭で糸鞋しかいを履き、右手に金鍍金のばちを持てば、左方舞別装束さほうぶべつしょうぞく――陵王りょうおうの完成である。

 雅楽は古来より宮廷や寺社で伝えられてきた音楽で、舞を伴う国風歌舞くにふりのうたいまい舞楽ぶがく、器楽合奏の管弦かんげん、歌謡の催馬楽さいばら朗詠ろうえいなどがある。国風歌舞は、日本古来の歌舞を源流とする歌舞。舞楽は、五世紀から九世紀に掛けて、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた楽舞らくまいを源流とする楽舞。管弦は、外来の楽舞を元に作り替えた器楽。催馬楽や朗詠は、平安期に整えられた歌舞である。平安期の宮廷社会で大成し、中世に於ける衰退と乱世の荒廃を経て、当代に伝えられている。

 外来の歌舞は、中国大陸系の左方と朝鮮半島系の右方に大別される。

 左方の中心を成すのは、唐代中国の宮廷で大成した歌舞である。唐代中国の宮廷や楽舞は、古代以来の中国の伝統的な楽舞のみならず、シルクロードを経て西アジアやインドから中国に齎された楽舞の影響を受けていた。左方には、曲数は少ないが、林邑僧りんゆうそう――仏哲ぶってつなどが伝えた林邑楽に由来する楽舞の影響も受けている。

 右方には、高句麗、百済、新羅の三国時代の朝鮮から伝えられた楽舞と、中国東部から朝鮮半島北東部に興隆こうりゅうした渤海ぼっかいより伝えられた楽舞に由来する。

 陵王は、左方の曲目の一つだ。

 蘭陵王、羅陵王らりょうおうとも言い、別名を「蘭陵王入陣曲らんりょうおうにゅうじんきょく」とも言う。

 曲の由来は、北斉ほくさい蘭陵王らんりょうおう長恭ちょうきょうが美し過ぎて、味方の士気が上がらず、敵から侮られる事が多かった。そこで在る時、獰猛な仮面をつけて合戦に挑むと、見事に勝利を収める事ができた。それを祝して、この曲を作ったとされる。

 蛇孕村は、八百年前に外界から閉ざされた隠れ里。

 今でも雅楽や田楽でんがくなど平安期に流行した芸能が盛んで、幸若舞こうわかまいや能楽に疎いという不思議な土地である。


「よし、完璧」


 てきぱきと着替えを終えると、己を鼓舞するように言う。

 本当に完璧かどうかは、後で女中衆に確認して貰うしかない。京都の『科学者』が発明した姿見は、おゆらがマリアの為に購入し、蛇孕神社に寄進してしまった。マリアの私物を貸せとは言えず――奏が頼めば貸してくれるだろうが、巫女衆に余計な仕事を増やしたくない。女中衆が来るまで、控えの間で大人しく待機する。

 何故、奏が陵王の装束を着ているのか?

 その理由は、唐突な出世にある。

 先日、奏は薙原本家の当主になった。

 今月の評定でマリアが当主を辞めて、奏に当主の座を譲り渡したのだ。

 本家の血を引くとはいえ、男子が薙原家の当主に就くなど前代未聞。分家衆の反発も予想されたが、『无巫女アンラみこの御命』と『任期は三年限りと誓う起請文』と『本家当主の変更と関係なく、分家の権益を保護する安堵状』のお陰で、何の問題もなく評定で認められた。

 奏自身、会合や評定に出席したわけではなく、自室で起請文を書いていただけなので、実感が湧いてこないが……すでに必要な手続きを済ませており、マリアも正式に本家当主を辞めた為、後戻りはできない。

 奏が本家当主の地位を得たのは、超越者衝撃チートショックを未然に防ぐ為だ。『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』を捜す為、薙原家の力を如何に使おうと考えていたら、「本家の当主になった方が、色々と都合が良い」と気がつき、マリアや獺にその旨を伝えると、割と簡単に本家当主の座が転がり込んできた。

 本当は時間を掛けて、少しずつ薙原家の政を改善していくつもりが……マリアの暴走で後戻りできない状況となった。


 今すぐ本家当主になりたいなんて言ってないんだけど。マリア姉にお願いしたら、こういう結果になるよね。


「はう……」


 諦観の溜息をつきながらも、心の中で「因果応報」と繰り返し、己の浅慮を戒めた。

 当然、本家当主の地位に固執するつもりはなく、超越者衝撃チートショックを未然に防げば、三年以内に当主の座をマリアに返す予定だ。抑も三年という中途半端な期限も、超越者衝撃チートショックが再来年の元日ではなく、もう少し先に伸びた場合を考えて、時間的な猶予を設けただけだ。

 勿論、手続きが済んだから、これで終わりというわけではない。

 新しい当主の就任を祝う宴を催すわけだが、宴の内容でマリアと奏が揉めた。

 マリアは「今度こそ『かなたん音頭』の出番ね。かなたんの女踊りで分家衆の心を鷲掴みにしなさい」と言い張り、奏は「絶対に嫌! なんで分家衆の前で恥を掻かないといけないの! ていうか、マリア姉が僕の女踊りを慣習にしようとしている!」と断固拒否の姿勢を見せ、早くも新体制で内乱の兆しか――と危惧されたが、獺より「雅楽でいいんじゃないか。奏も陵王なら舞えるだろ」という助言を受け、「それそれ、それ――ッ!!」と奏が賛同した為、宴の席で陵王を舞う事になった。

 思い返すと「どれだけ必死だったんだ、僕……」と羞恥心を覚えるが、分家衆に『かなたん』音頭を披露するよりマシである。本当に獺と和睦して良かった。序でに『かなたん親衛隊』も解散して貰いたい。


 親衛隊長がマリア姉だからなあ。

 難しいのかなあ。


 奏は下らない事を考えながら、円座の上で端座した。

 円座の前には、横に長い机が置かれていた。

 机の上には、化物の仮面と牟子と桴と漫画マンガ

 面は木製。黒地で金漆塗り。丸い目玉が剥き出しで、鼻が高く突き出し、わしの嘴の如く曲がる。頭部の両側に翼が生えており、口髭や顎髭がついていた。顎は吊り顎で前歯が際立ち、頭に黄金の龍を戴く。牟子は橙色の頭巾。金色の桴には、当帯のように房がついていた。

 加えて漫画マンガだ。

 先月、マリアから譲り受けた『チェーンソーサムライ』である。何度も読もうとする度、おゆらに妨害されたり、おゆらに取り上げられたり、悉く漫画マンガを読む機会を奪われてきた。然しおゆらを座敷牢に幽閉した今、安心して漫画マンガを読める。


 まあ、読もうと思えば、昨日でも一昨日おとといでもよかったんだけど。頑張っておゆらさんから取り上げたわけだし。陵王を舞う前に、漫画マンガを読んで精神統一しよう。


 読書は、奏の数少ない趣味の一つだ。書物を読んでいると、自然と心が落ち着く。漫画マンガを読んだ事はないが、論語や荘子のように、頭の中を程良く解きほぐしつつ、心を平静に導いてくれるだろう。

 奏はドキドキしながら、『チェーンソーサムライ』の表紙をめくった。




『「チェーンソーサムライ」連載中止のお知らせ


 平素より月刊腐れ脳味噌をご愛読頂き、厚く御礼申しあげます。

 慶長六年二月号より弊誌にて掲載予定の「チェーンソーサムライ」に関しまして、同年二月号の掲載を中止させて頂く事になりました。

 読者の皆様を始め、関係各位には多大なご迷惑をお掛け致しました事を深くお詫び申しあげます。誠に申し訳ありません。

 同年一月号に掲載した「チェーンソーサムライ」の売り文句につきまして、「漫画マンガより作者が気になる」という多大な御指摘を受けて、編集部として改めて精査した処、「漫画マンガより作者が気になる」と認められるだけの行き過ぎた表現がある事、またそれらに対する配慮に欠けていた事で、編集部でも掲載判断に問題がある事を認識し、掲載見送りの判断に至りました。本件に係わり、ご迷惑をお掛けした関係者の皆様には、重ねてお詫び申しあげますと共に、同様の不備が起こらないよう厳重に留意して参ります。

 夏目葬式が考案した売り文句――「何故、吾輩が税務署に赴いて、課税事業者選択届出書を提出し、課税事業者にならねばならぬのだ! 権力者が、吾輩の粗利益の一部を奪うなど言語道断! 消費税は廃止一択! それすらできぬなら、吾輩は漫画マンガなど描かぬ! 吾輩に漫画マンガを描いてほしければ、消費税を廃止致せ! ガソリン税も廃止致せ! インボイス制度も廃止致せ! 社会保険料も減免致せ! PB黒字化目標も撤回致せ! 国債50年償還ルールも廃止致せ! ついでに財政法と財務省設置法も改正致せ!」は、夏目葬式個人の見解であり、弊社は一切関係ありません。

 夏目葬式先生の次回作に御期待ください。


                            慶長六年三月八日

                   株式会社「靴を履いて土俵に上がるな」

                          月刊腐れ脳味噌編集部』




「えっ――これだけ!? 編集部の謝罪文で終わり!? まさかの零話ぜろわ打ち切り!?」


 奏は驚いて、ぱらぱらとけつめくった。


「見開き二項が謝罪文で、残りは全部白紙!? なんで書籍化したの!? 誰が表紙を描いたの!? ていうか、畿内の数寄者オタクは、これをお城と交換したの!? マジで!?」


 思わず立ち上がり、改めて表紙を凝視する。

 奏は数寄者オタク文化に疎いが……表紙しか絵が描かれていない書物を漫画マンガと認められるだろうか。出版社に騙された気分だ。

 推察するに、編集部が夏目葬式に「漫画マンガを描いてください」と頼み込んだ。然し夏目葬式は、権力者に消費税を払いたくない為、編集部の誘いを断った。それで話が済めばよいのだが、すでに編集部が雑誌に売り文句を掲載していた。編集部は済し崩し的に漫画マンガを描かせようとしたが、夏目葬式は断固として拒否。結果的に零話打ち切りという悲劇が起きた。

 それでも金銭に眼が眩んだのか、編集部は夏目葬式に無断で『チェーンソーサムライ』を書籍化。これが畿内の数寄者オタクに持て囃されて、城一つと交換されるようになった。真面目に漫画マンガを描いている漫画マンガ家が、遣る気をなくしそうな話である。


 漫画マンガより作者が気になるって……塙さんでしょ? 夏目葬式の正体、塙団右衛門直之でしょ? 表紙を描いたのが、誰かは知らないけどさ。


 もう一度、謝罪文を読み返してみるが、奏の疑念が解消される事はない。


 作者が気になるというか……豊臣政権は、畿内の民に消費税なんて掛けてるんだ。室町将軍家の『緊縮財政』で懲りてないの? それとも消費税を掛けなければならないほど、畿内だけ物価上昇率が高いとか? そんなわけないか。先生の話が確かなら、外界の武士が外界の民を弱らせたいだけだろうし。


 色々と考え始めたら、陰鬱な気分になってきた。


「はう……」


 奏は溜息をついて、「チェーンソーサムライ」を机の上に置いた。

 漫画マンガを読んだ気がしない。

 抑も漫画マンガを読んでいない。


 狒々祭りの時もそうだけど。読書をする度に、僕の心が掻き乱される。悪い狐狸こりにでも取り憑かれてるのかなあ。マリア姉にお祓いして貰おうかなあ。


 馬鹿馬鹿しい事を考えていたら、不意に木戸が開いた。


「あっ、マリア姉」


 控えの間を訪れたのは、女中ではなく許婚だった。

 くるぶしまで届く黒髪に、白くて華奢な首筋。白衣びゃくえの上に蒼く染め抜いた千早ちはやを羽織り、下は紫色の袴と白い絹のしとうず无巫女アンラみこの礼装を着ているが、禍々しい仮面は被っていない。

 許嫁同士とはいえ、木戸を開く前に「入っていい?」と確認くらいしてほしかった。奏の心中など気にも留めず、マリアは堂々と控えの間に入る。


「私が来る前に着替え終えていたのね」


 マリアは両の瞼を開くと、抑揚を欠いた声音で言った。


「奏の着替えを手伝うつもりで、控えの間に来たのだけれど……どうして奏は、いつも着替えるのが早いのかしら」

「僕の着替えは早くないよ」


 マリア姉が遅いんだよ。

 本家の御屋敷で迷子になってるだけだよ。


 と心の中で突っ込みを入れた。


「どこか変な処ある」


 奏は両腕を広げて、マリアに陵王の衣装を確認して貰う。


「とても良く似合うわ。別におかしな処もないわね」


 黄金に輝く双眸が、奏の佇まいを精密機械の如く確認する。


「でも奏が一人で着替えを終えた所為で、私の遣る事がなくなったわ。今すぐその衣装を脱ぎなさい。私がもう一度、着替えさせてあげるわ」

「無茶を言うな。僕が着替えた時間を無駄にしないで」


 許婚の無茶振りを軽い調子で拒絶する。

 薙原家の毎度の遣り取りだ。


「その漫画マンガ……読んだの?」


 マリアは、奏の持つ漫画マンガを指差して尋ねた。


「ああ……うん、読んだよ」

「どういう話だったの?」

「えっ!?」

「私は、その漫画マンガを読んでいないから……漫画マンガを読んだ奏の感想を聞きたいのよ。もし万が一、私が勧めた漫画マンガが『吐き気を催すほどつまらなかった』なんて事になれば、私はとても傷つくわ」

「……」


 それなら自分が読んだ漫画マンガを薦めてよ……と心の中で突っ込むが、黄金に輝く双眸に射竦められ、二の句を継がせてくれない。


「結局、どういう話だったの?」

「……とても高尚な作品だったよ。内容も……無門関むもんかんみたいな感じ」

「無門関」

「そう無門関。いぬに仏性はあるのか――みたいな。色々と考えさせられる内容だった」


 嘘が下手な奏は、咄嗟の思いつきで誤魔化そうとする。

 無門関とは、宋代の禅師――無門むもん恵海えかいが編んだ公案録であり、禅宗の経典に相当する書物だ。


「奏は、狗(動物)に仏性はあると思う?」

「それは……『無』なんじゃないの」


 唐突な問い掛けに、奏は戸惑いながらも答えた。

 無門関の公案は、『趙州じょうしゅう狗子くす』から始まる。


『趙州和尚、ちなみに僧問う、「狗子に還って仏性有りや」。州いわく、「無」』


 現代語訳をつけると、


『或る僧が趙州和尚に向かって、「狗(動物)にも仏性はありますか」と問うた。趙州は「無」と答えた』


 この先は『無門曰く――』と続き、無門禅師の話が始まる。


「狗(動物)に仏性はないわ。人は『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』ができるけれど、他の生類はできない。加えてGautama SiddharthaもHomo sapiens sapiensとして生まれてきたわけだから。つまり狗(動物)に仏性なんてないわ」

「……」


 奏は無言で瞬きをする。

 マリアの話が難しすぎて、全く理解できない。


「座りなさい」

「あ……うん」


 奏は円座の上で端座した。


「陵王を舞うまで時間がある。その間、少し講釈をしましょう」


 マリアも瞼を閉じて、奏と向かい合うように座った。


「奏は、人の魂や脳について考えた事がある?」

「えーと……」

「無理に答えなくてもいいわ。先ず人の魂について定義しましょう」

「人の魂を定義できるの?」

「私は定義できるわ。人の魂を定義できないと、聖呪で『残鬼無限ざんきむげん』を再現できない。『一人目のおゆら』の魂を『二人目のおゆら』に移す事もできなくなる」


 奏が不思議そうに尋ねると、マリアは決然と言った。


「人の魂とは、『意識や記憶の集合的な能力。想像したり、認識したり、過去を思い出したり、夢を見たりするもの』よ」

「なんか……曖昧なものなんだね」

「曖昧なものを定義しようとすれば、曖昧な表現に辿り着くわ。人の脳は、もう少し具体的に説明しようかしら」

「……」

「人の脳は、千億個のニューロンが千兆本も相互に接続し合い、毎秒千回も電気信号を送り合う。加えて脳内では、ニューロンだけではなく、多種多様なグリア細胞や免疫細胞も様々な役割を果たす。他にも脳は、呼吸や心拍数、運動機能の調整、不随意反射など異なる役割を持つ部位が存在する。最も外側に位置する大脳新皮質は、記憶を保存したり、計画を立てたり、考えたり、想像したり、夢を見るという役割を担う。他にも脳は、気分に影響を与えるセロトニンや記憶学習に関わるヒスタミンなど様々なホルモンや腸内細菌や心臓神経からも影響を受けている」

「ごめん。何が何やら……」


 具体的に説明されても、専門知識を持たない奏は、マリアの説明が全く理解できない。


「人の魂と脳の解析は、すでに完了しているのよ。人の魂と脳の解析を終えたうえで、人とは何か。他の生類と何が違うのか。答えは先程も述べた通り。人は『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』ができる。他の生類はできない」

「……」

「人は、他の生類よりも前頭葉が発達した。前頭葉は、本能の抑制や理性的な判断や論理的な思考を行う。大脳辺緑系が生み出す恐怖や不安や怒りという本能を抑制し、他の生類を超える進化を促した」

「進化……」


 奏は鸚鵡返しに呟いた。


「貨幣で例えると分かりやすいかしら? 人は貨幣を創れる。猿は貨幣を創れない。なぜか? 人は『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』ができるから。借りパクが当たり前の原始時代に耐えられない。それゆえ、前頭葉で本能を抑え込み、貸借関係を築いた」

「……」

「貨幣は負債の一種。貸借関係を作らなければ、貨幣を生み出す事もできない。抑も人より前頭葉が未発達な猿は、貸借関係を構築できないのよ。頭の良いニホンザルが観光客からお菓子を三個盗み、そのうちの二個を仲間に貸して、『それ、貸しだからな。来月、三個にして返せよ』と言い、仲間のニホンザルが観光客からお菓子を四個盗んで、債権者のニホンザルにお菓子を三個返す――なんて事は有り得ないわ。それは『猿の惑星』に出てくる猿ね。人の脳を持つ進化した猿よ」

「……」

「Cro-Magnonは、集団狩猟に優れていた。彼らは死者を花や石と共に埋葬し、呪術的な儀式を催し――洞窟の中で暮らし、狩猟や儀式の様子を壁画として残した。アルタミラ洞窟壁画には、遠近法が用いられている。牛の角の長さを変えて、奥の馬の脚は彩度を落とす。とても高い知能を備えていたけれど……洞窟に隠れ潜む暮らしは、彼らの脳にストレスを掛けた。夜の洞窟は、狭くて暗くて汚くて恐ろしい。彼らは脳に掛かるストレスを減らす為、洞窟の外に飛び出した。獲物を連れて旅に出たのよ」

「牧畜?」

「正解」


 奏が尋ねると、マリアは冷然と答えた。


「次に農業を始めた。農業を続ける為に村を作り、外敵から身を守る為に国を作り、人口の増加を受けて都市を造り……インターネットが普及すると、人は都市から地方に移り住んだ。人は他人と顔を合わせるだけで、脳にストレスが掛かるから。人の多い都市を避けて、地方に生活基盤を持つようになった」

「……」

「自分の外見にストレスを感じる者は、整形手術で外見を変えて。子供ができなくてストレスを感じる者は、不妊治療を行い。常人である事にストレスを感じる者は、遺伝子すら造り変える。わざわざ世代を跨ぐ必要もない。戦場に新型機を導入するように、自分達の意志で進化を続ける」

「……」

「生物の適応進化……私がおゆらに刷り込んだ言葉だけれど。全ての生類の中で、人だけが生物の適応進化から逸脱している。自然選択により環境に適応した遺伝子が広がるわけではなく、脳に掛かるストレスを減らす為に環境を造り変える。極めて特殊な生物と言えるわ」


 超越者チートは、自然選択に於ける誤謬を正す。

 生物の繁栄と考えれば、世界の支配者は微生物類だ。ウィルスなどが良い例である。凄まじい速さで進化を繰り返し、次々と環境に適応した新種を生み出す。然し微生物類は、『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』ができない。

 脳がないからだ。

 或いは猿に限らず、海洋哺乳類も高い知能を有しているが、『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』ができない。雄大な海原を漂う鯨が、「最近、餌の魚が減ってきたな。養殖で鰯を増やすか」とは考えない。他の生物と同様に、餌が少なくなれば、新たな餌を求めて彷徨うしかない。

 然し人間は違う。

 全ての生物の中で、現生人類ホモ・サピエンス・サピエンスだけが『脳に掛かるストレスを減らす環境造り』を粛々と行う。自然界に於いて、極めて異常な存在である。


「じゃあ、なんでおゆらさんに生物の適応進化なんて吹き込んだの?」

「『超越者衝撃チートショック』を未然に防ぐ事ができなければ、自然選択が正しい事になる。人が環境に負ければ、『種の起源』を発表した生物学者の勝ち。奏が環境を造り変えれば、奏の勝ちよ」

「別に学者さんと戦う気はないけど……」


 奏は困り顔で頬を掻いた。


「人は仏性を宿しているから、仏僧でなくても衆生しゅじょうの救済を願う。『共同体みんな』を守る為に――己の脳に掛かるストレスを減らす為に、何度も過酷な環境を造り変えてきた。だから奏も『超越者衝撃チートショック』を阻止できるわ」

「マリア姉……」


 奏は呆然と許嫁の名を呟いた。

 ニューロンやらインターネットやら、全く知らない言葉が続いたので、話半分のつもりで聞いていたが……ようやくマリアの意図が理解できた。

 不器用ながらも、奏の背中を押している。

 環境マリアに挑む人間(奏)を励ます為に、無門関に独自の解釈を加えて、迂遠な話を語り聞かせているのだ。


「尤も私は、一度も奏に勝てた事がないから。わざわざ『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』なんか捜さなくても、最終的に奏が私を斃して終わるわ」

「マリア姉は勘違いしてる」

「……どういう事かしら?」


 穏やかに微笑みながら言うと、マリアが珍しく怪訝そうな顔をした。


「マリア姉も勘違いしてる……が正しいのかな。先生も朧もおゆらさんも……みんな、僕がマリア姉を斃す為に、『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』を捜したり、本家の当主に就任したと考えてるけど。僕はそんな事、一言も言ってない。僕は『共同体みんな』を守りたいんだ。勿論、『共同体みんな』の中には、マリア姉も入ってる」

「……」

「僕はマリア姉を斃すつもりはない。マリア姉を救いたいんだ。不老不死とか永遠の命とか……どう考えても辛いだけだよ。家族や知人が死に絶えても、ずっと一人で生き続けるなんて……時間を掛けた拷問じゃないか。僕はマリア姉に、他の人と同じように生きて、他の人と同じように死んでほしい。僕と一緒に生きて、僕と一緒に死んでほしい」

「……」

「僕はマリア姉に幻想を押しつけてきた。自分で勝手に理想のマリア姉を創り上げて、勝手に尊敬したり、勝手に喜んだり、勝手に舞い上がったり、勝手に幻滅したり……現実のマリア姉を置き去りにして、自分の事しか考えてなかった。もう少し早く本当のマリア姉に気づけたらよかったんだけど……ごめんね、僕も余裕がなかったから」

「……」

「でもこの一ヶ月で色々な事があって……僕も少しは成長できたから。今の僕ならマリア姉を救えると思う。特に根拠はないけど――なんとかなる。だから僕と一緒に生きて、僕と一緒に死んでほしい」


 奏は言葉を選びながら、途切れ途切れに想いを伝える。

 果たして奏の想いは、正しく相手に通じたのか――マリアは左手の人差し指を唇に当てて、無表情で考え込む。

 やがて――


「……私は、奏から愛の告白をされているのかしら?」


 マリアは抑揚を欠いた声で、告白した当人に現状を確認した。


「そうだけど……嫌だった?」


 奏は頬を朱に染めて、照れくさそうに尋ね返す。


「嫌ではないわ。嫌ではないのだけれど……酷く動揺しているわ。何と答えればよいのか分からないくらい……心が動かされているわ」


 全く感情が乱れているように見えないが、マリアは無表情で黙考を始めた。


「これほど感情を掻き乱されたのは、どれほど前の事になるか。初めて奏の女装を見た時以来ね。とても懐かしいわ」

「……」


 マリアが奏を女装させたのは、先月の狒々祭りの前日である。

 意外に最近の事だった。

 然し奏は空気を読んで何も言わなかった。


「今の私は、平静を喪失している。間違えて密林でサソリ型のゲーミングチェアを二台もポチるくらい平静を喪失しているわ。どうして蛇孕神社にサソリ型のゲーミングチェアが二台もあるのかしら?」

「……」


 マリア姉が間違えて二台も買ったからでしょ……と心の中で呟くが、マリアが平静を取り戻すまで静かに待ち続ける。


「とにかくそう……私の敗北で間違いないのだけれど。毎度の如く、私が奏に負けただけなのだけれど。とても気分が良いわ。奏ふうに喜びを表現するなら、『勝ち確演出キタコレ! 彼氏ガチャでSSR引いたったわ!』という処かしら。たとえ奏に負けたとしても、正室メインヒロインの私が他の雌豚共サブヒロインどもに負ける筈がないと、惰弱共に証明してみせたのよ。幸せのお裾分けという事で、フォロワーに米国政府を配ろうかしら?」

「……」

「奏と共に生きて、奏と共に死ぬ。とても素敵な未来ね。私も奏の理想に共感したわ。奏に置き去りにされないように、超越者チートなりに研鑽を積み重ねましょう」

超越者チートが努力すると、僕の望みが叶わなくなるけど……マリア姉に僕の気持ちが伝わってよかったよ」


 ようやくバグが修正され始めた許婚に、奏は優しい声音で言った。

 結局、奏の気持ちは変わらない。超越者チートであろうがなかろうが。人類と異なる生命体であろうがなかろうが。価値観を共有できようができまいが。心根に立ち返ると、マリアを慕う気持ちは変わらない。誰かを好きになる気持ちは、自分でもどうにもならないんだな……と奏は他人事のように、自分の気持ちを受け入れていた。


「奏の尊さを再認識した処で……そろそろ私も広間に戻るわ。壇上で新しい御本家を出迎えなければならない」

「うん」

「奏は――雌豚共サブヒロインどもや分家衆に、幽玄オサレの美を見せつけてやりなさい。誰が薙原本家の当主に相応しいか、滑り台を滑るしか能のない惰弱共に思い知らせてやるのよ」

「ええと、宴の席で陵王を舞う前に激励してくれてるんだよね? 僕は中二病じゃないから、幽玄オサレの美は伝えられないと思うけど……恥を掻かないように頑張るよ」


 許婚の激励を受けた奏は、普段通りの遣り取りに安堵し、雲一つない快晴のような笑みを浮かべた。




 慶長六年七月中旬……西暦一六〇一年八月中旬


 袍……日本や中国などで用いられる衣服。日本に於いては、朝服の上衣の一つ。一番上に着る上着。


 裲襠……貫頭衣


 紅紗……薄く透き通る紅色の絹織物


 窠紋……数個の円弧形を繋ぎ合わせた中に、唐花や花菱などを入れたもの。木瓜とも言われ、家紋として用いる。


 当帯……裲襠の上から絞める腰帯


 透彫……金属、板、石などを表から裏まで透けるようにり抜いて、模様を表す事。またその彫り方や彫ったもの。欄間の装飾、刀剣の鍔、金灯籠などに見られる。


 指貫……袴の一種。八幅やのの穏やかな長大な袴で、袖口に紐を指し貫いて、着用の際に袴を括り、足首で結ぶもの。


 林邑……現在のベトナム


 田楽……平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と踊りなどから成る。田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した。


 能楽……能


 糸鞋……白い紐の組紐で編んだ履物


 仏性……仏の本質。仏としての本性。


 Gautama Siddhartha……ゴータマ・シッダールタ。釈迦。


 Homo sapiens sapiens……ホモ・サピエンス・サピエンス。ヒト。現生人類。


 Cro-Magnon……クロマニョン


 アルタミラ洞窟……スペイン北部、カンタブリア州の州都サンタンベルから西へ30㎞ほどのサンティリャーナ・デル・マル近郊にある洞窟。ユネスコの世界遺産に登録されているアルタミラ洞窟壁画で知られる。


 衆生……命あるもの。心を持つ者。

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