悪霊令嬢、最凶の悪霊に出逢う2

 赤い。

 赤い。赤い闇が、あたしを包んでいる。

 体が軽い。

 どこまでも飛んでいけそうな気がした。

 この身を突き動かすのは、怒りだ。

 赤い闇の中で、ゆっくりと立ち上がる。

 白い裸身に、黒髪がぞわりと広がった。

 名前。あたしの名前……。

 名前が思い出せない。とても大切だったはずなのに。

 闇の中で吠える。名を失いつつある悲しみも、胸の内で燃え上がりうねる怒りに焼き尽くされていく。

 名前を失ったのではない。

 あたしは、名前を焼き尽くしたのだ。

 必要なのは、すべてを溶かし、焦がす怒りだけだ。

 喉の奥から咆哮が迸る。

 翼のように広がった黒髪が意思を持って逆立つ。

 ぬばたまの髪などいらない。すべてを刺し貫く針であればいい。

 美しく塗られた爪なんていらない。肉を引き裂く刃に変わればいい。真珠粒のような歯などいらない。喉笛を噛みちぎり、辺りを血に染める牙に変わればいい。

 望みは形へと変わる。そこに立つのは、異形の姿だ。

 再び吠え、彼女は赤い闇を切り裂くと身を躍らせた。

 行かなければ。全てを壊さなければ。 

 全員、全部、全部全部全部跡形もなく燃やし尽くしてやる。

「やめときなよお」

 闇を震わせたのは、涼やかな男の声だった。

 低すぎず、かと言って高いわけでもない、耳に心地よい涼風のような声。声音と裏腹に軽薄な台詞が投げかけられる。

「悪霊は現世に戻してはダメなんだ。悪いけど君はここで終わりだよ」

 振り向きざまに振るった刃のような爪は、銀色の本物の刃に阻まれた。

 刀身を紫色のいかずちが走る。

 獣のように四つ足をついて飛び退き、彼女――月子だったモノはその男を見た。

 闇に浮かび上がる、薄青色の装束。ゆったりした袂と幾重にも重ねられた上着はかなり昔の意匠だった。

 闇に浮かび上がるのは衣の色ばかりで、顔が影になって見えない。

 ただ、橄欖石ペリドットの色をした瞳ばかりが目立つ。

「成り立てにしては動けるね。丁度いい。オレも退屈してたんだ。遊ぼうよ」

 男はふわりと飛んだ。あっという間に彼女に肉薄し、刃が伸びる。それをまた既のところでかわして、彼女は自ら刃を掴んだ。殺す。こいつも殺してやる。全部。全部。炎が迸る。炎は男の着物を舐め、赤く燃え上がった。男はまったく動じなかった。体を舐める炎を意に介さず、ぐいと体を近づける。

でもう異能を使う!才能あるね」

 喉笛に噛みつこうとした彼女を、体をひねって避ける。

 男の衣には焦げ跡ひとつない。

「でも、ダメだよ。オレのほうが強い」

 彼女の攻撃を悠々と躱して、男は芝居がかった調子で指を鳴らした。

 闇が鋭く照らし出され、一拍置いて青い稲妻が彼女を刺し貫いた。地に縫い止められた彼女の首に、男の持つ白刃が迫り、そして目が合った。


 首を落とす寸前で刃が止まった。

「――――」

 男の声から、その瞬間に余裕が消えていたことに月子は気が付かない。


 その後に彼女の名前が、男の唇から溢れるのを彼女は聞いた。

 次の瞬間には月子の唇に、男の唇が重なっていた。何かが体から抜けていく気がする。

 針のような髪が元の艷やかな黒糸に変わる。

 牙と爪が失われ、青年に抱きとめられた月子は、一糸まとわぬ少女の姿に戻っていた。



「ぎゃっ!」

 月子は悲鳴を上げて、とっさに男の顎を裏拳で打った。

 そのせいで互いの歯が当たり、口の中に血の味がする。

「なにするの!?なに!?なんなの!?」

 流石にこれは取り乱す。

 前後の記憶が定かでないのに、裸で男に唇を吸われているのである。

「ゆ……夢?」

「いや、現実」

 顎を押さえて頭を振り、唇の端から滲む血を指で拭いながら男が言った。

 よく見ればまだ若い。月子とさほど違わないだろう。

 そして、抜群に整った顔立ちをしていた。

 わずかに癖のある髪は肩につくくらいで、無造作に一つにまとめてある。顔に垂れた一房の髪に底しれない色気があった。

 何よりも、その緑色の瞳だ。薄緑色の中に、チラチラと赤や青が角度を変えるたびに瞬く。複雑な細工をされた宝玉のようだ。こんな目を持つ人を、月子は一人しか知らない。知人ではない。古い、とても古い歴史と咒の書物で読んだ。

「氷雨の御子……。基内親王」

「オレのこと知ってるの!?」

 また、額が触れそうなほど近づかれ、さらにがっしりと手まで掴まれ、月子は再びぎゃっ!と鳴いた。

「そう!オレは帝の第五皇子!政権争いに敗れて殺された悲劇の御子!」

 自分でするにはどうなんだという自己紹介だったが、最も大事なところが抜けている。

「知ってる!知ってるわよ!その後に悪霊になって都を焼いた!都が移される原因を作った、稀代の大悪霊!」

「大正解!」

「ぎゃーっ!」

 ぎゅっと抱きしめられ、月子はもう何度目かわからない悲鳴を上げた。

 こんなに騒がしい女ではないのだ。あたしはもっと、理知的でもっとしっかりしていて……。

 逞しい腕に抱かれ、その衣から高貴な者しか身につけることの叶わない香の香りを嗅ぎ取って、いくらか気持ちが落ち着いてきた。

「本当に氷雨の御子なのね?あなたは都の北のびょうに祀られているはず。なんであたしの目の前にいるの?それにあたし、どうなったの?」

「胸、見てみて」

 胸?そういえば、なんてあたしは裸なんだと今さら恥ずかしくなり、見下ろした自分の胸の真ん中には、ぽっかりと穴が開いていた。

「へ?」

「こうするしかなかったんだよ。悪霊になった君を正気に戻すためには、この刀で斬らないとならないし、かといって魂魄こんぱく両方切っちゃうと君は体とのつながりを失って輪廻に戻っちゃう。仕方ないから魄だけ斬った。肉体との接続がなくなって、その分穴が空いてる。月子のすごく形がいい胸に穴を開けるの気が引けたけど、欠けている方が美しいって例も多いしオレはこれも全然いけるから!」

 氷雨の御子がにこにこと笑う。笑うと急に幼く見える美貌に、全部絆されになるが、言っていることはめちゃくちゃだ。何なのこれは。

 月子は額を押さえた。



「なんで胸に穴が空いているのかはわかった。ここはどこで、あなたのような大悪霊がここで何してるのか順番に教えてちょうだい」

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悪霊×令嬢、暗躍す いぬきつねこ @tunekoinuki

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