悪霊×令嬢、暗躍す

いぬきつねこ

悪霊令嬢、最凶の悪霊に出逢う1

18歳の誕生日に、月子つきこは殺され、悪霊になった。





           





 重い石の棺が閉じる間際に見た空にあったのは、わずかに欠けた青い月だった。


 月。夜空を照らすもの。母から寝物語に聞かされた、月に生えるという美しいかつらの樹と、その下に佇む男の話が頭をよぎる。男は金糸の束を手にしていて、その糸を下界へと垂らしては縁のある二人の小指を密かに結ぶという。だから、どれだけ離れていても、結ばれる者は引かれ合うのだと。


 ——他にもたくさんのいわれがあるの。月がいくつもの形に姿を変えるように、たくさんの物語が月にはあるのですよ。月子。あなたの名前は月から頂いたのです。




 母の声が聞こえる。幻聴だ。だってもうお母さまは死んでいるのだから。


 ことさらゆっくりと、石棺の蓋が閉じられた。


 僅かに残っていた意識に霞がかかる。


 だが、現実は月子を微睡まどろませることを許さなかった。


 月子の手首と足首には、体の動きを封じ、さらに絶え間なく痛みを与える咒文じゅもんが獣の血で書かれていた。


 混濁しかけた意識が千の針で体を刺すような痛みでまた蘇る。月子は狭い棺の中で唇を噛んだ。




 月子は、18歳になった今日、屍の人形となることが決まっていた。



「クソッ」


 月子はさほど多く持っていない罵倒の語彙の中から選んだ言葉を吐き捨てた。


 途端に全身を痛みが貫いて、うめき声をもらすしかできなくなる。



 月子の一族は墨染スミゾメという名を持っていた。


 咒術じゅじゅつを生業とし、その中でも特に守りのまじないを得意とする一族だった。この都の表の世界の有力者が貴族であるならば、裏の世界を統べるのは咒術師である。彼らは咒により都と貴族を守り、そして敵を退ける。熾烈な争いが繰り返され、その中で墨染一族は東雲シノノメの一族に敗北した。


 10年前のことだった。


 月子はななつになったばかりだった。

あの日のことを忘れた日はない。今も鮮明に記憶が甦る。

 墨染の屋敷は血と肉片に塗れて赤く染まっていた。墨染の名の通り、美しく光を吸い込む漆黒に塗られた柱も、優しかった父の部屋も、兄と駆け回った庭園も、遊びに行ってはつまみ食いをさせてもらっていた炊事場も、全部真っ赤だった。肉塊が転がり、どこもかしこも鉄に似た血の匂いがした。


 父と兄の首が、晒されるのを見た。


 母が東雲の当主に辱められるのを見た。


 そして、その日から、月子と母は東雲の一族の人質になったのだ。


 屍人形にするためだ。飼い殺し、恨みを熟成させ、そして新たな手駒とするために、生かされたのだ。




 絶対に殺してやる。

 月子はまた唇を噛んだ。憎い仇か。東雲の当主。

 唇が切れて、赤い血が紅のように月子を彩る。

 長いまっすぐな黒髪。光を跳ね返す大きな柘榴色の瞳は気の強さを表すように目尻が上がっており、小さな輪郭の中に行儀よく並んでいる。たおやかに微笑む時も、感情の炎を瞳の奥に燃やしている。そんな魅力的な娘だ。

 殺してやる、と月子はまた声には出さずに呟いた。

 そして、この恨みや怒りもまた、あいつらの掌の上なのだと気がついて、頭が燃えるように熱くなった。

 屍人形になったら、絶対にあの首に食らいついて噛みちぎってやる。落ちた首を見て、思い切り笑ってやる。

 月子はその様を夢想して、ほんの少しだけ痛みが和らぐのを感じた。

 


 屍人形は、咒で動く死骸である。


 東雲の一族が最も得意とする術が、咒具である屍人形の作成だった。

 月子の一族は屋敷内に放たれた屍人形によって壊滅させられた。

死人に疲れはなく、腕がもげようと頭を半分飛ばされようと、術師の意のままに動く。それを大量に投入されれば、いかに結解に長けた墨染の一族かて勝ち目はなかった。

 

 屍人形をつくりには、生きたままの人を箱や石棺に入れ、苦痛を引き延ばす咒をかけて土中に埋める。それだけだ。あとは何もしなくていい。

 埋める場所は人通りの多いところがいい。月子が埋められている大路なぞ最適だ。

 今も太陽が落ちてしばらく経つ時刻だというのに、土の上は生きた者たちが歩き回る音がしている。そう。生のざわめきとでもいうものが満ちているのだ。


 牛に引かせた車の車輪が軋む音、野良犬が餌を求めてさまよい歩く音、春を売る女の甘ったるい声、獲物を咥えた猫が軽快に壁を駆け上る音。それらが土の中にまだ聞こえていた。聞こえるのに、二度とその世界にはこちらの声は届かない。


 この生きている者たちの鼓動が死にゆく者に恨みの力を与える。


 叫んで、絶望して、そしてこの世の全てを恨みながら死んだ女の体が、屍人形の材料になる。


 苦痛に満ちて死んだものほど、恨みが強く残るから長く使える。女の方が男よりも様々な用途で使い勝手がいいから、東雲の屍人形は女ばかりだった。


 石棺の中の酸素は徐々に薄くなり、月子の意識は何度も途絶える。その度に両手足の咒文が体を苛んだ。


(あたしがもっと優秀な咒術師だったら……)

 

思考は暗いほうに暗いほうに落ちていく。

月子に使える術は多くない。

墨染の一族が命を絶たれ、その術を教えるものがいなくなったからだけではない。

元から、月子に咒術師としての適性は乏しかった。それでも、できそこないの末娘に対して父も母も、兄も優しかった。


 自然と思考は、幸せだった幼いころに遡てゆく。



(いけない……。余計なことを考えるな……。東雲を恨むことだけ考えろ)

 月子は手を強く握りしめようとした。全く力が入らない。いやだ。死にたくない。

 そう考えてしまったことに恐怖する。

(死にたくないなんて思うな。怒りを絶やすな。お母さまは屍人形になって、東雲の者を5人も殺した。あたしだって、あたしだって……やってやるわよ……!)

 月子の瞼の裏に、母の姿がまた蘇る。

 母は2年前に屍人形にされた。

 石棺から取り出された母は、そのまま東雲の者に踊り掛かった。長く伸びた爪を振るい、当主の息子たちを3人、東雲の術者を2人も殺した。制御と服従の咒を幾重にもかけた首輪を嵌められるまで、母は暴れ、屋敷のあちこちにを破壊した。柱に穿たれた深い傷は今もある。

 それでも、母は東雲の当主には敵わなかった。

 隷属を意味する咒文の入った赤い首輪をつけられて、今は彼の元に大人しく傅ている。屍人形は、それを支配して御す者にはどこまでも従順だ。御せるほどの力があれば、どんなことにでも使える。

 月子が最後に見た母は、何の感情も無くなった瞳で、当主の膝にもたれていた。東雲一族を象徴する、朝もやに煙る曙色あけぼのいろの衣を着せられた母の姿は、今もすぐに思い出せる。

 苦い怒りとともにだ。

 衣は肩まで引き下ろされ、だらしなく着付けられていた。屍人形を長持ちさせるため、母も月子も衣食住は十分に与えられていたから、丸みを帯びた胸と肉付きの良い太ももがよく見えた。

 生きていたころの母は、こんな着こなしはしなかった。母が、敵を屠る兵士以外の方法でも使われていることは明確だった。

 東雲の当主は、月子に聞こえるように「」と囁いた。

 その意味がわからないほど、月子は初心うぶでもなかった。だから、次に言われた言葉の意味はもっとよくわかった。

 

「なってやろうじゃないの……」

 月子はもはやほとんど見えない目を開けて、柩の蓋の裏を睨んだ。屍人形は恨みの強いものほど強くなる。殺す。殺してやる。風の入りようもない棺の中で、月子の髪がざわめいた。

(絶対にあの男の首を……。そして、お母さまを……お母さまを解放しなくては……)

 絶え間ない苦痛さえも、いつしかわからなくなってくる。その時、恨みと憎しみに塗りつぶされた心の一点が、体の痛みとは違う痛みを発した。

(あたし、死ぬんだ……。せめて……)

 せめて、恋ぐらいはして死にたかったかもしれない。

そう願ったことさえ、真っ赤な闇に塗り込められた。





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