Ⅱ
スミス氏は一週間後に再び事務所を訪れるように言った。それまでには何らかの手がかりを見つけておく、ということだった。今は彼の言葉を信じるしかない。妻がどこかへ姿をくらましたとしても、おそらくそう遠くへはいけない、というのが彼の見解であり、俺もそれには同意する。近年当局による検問が強化され、人狼が街に出入りすることが難しくなっているからだ。街は塀と門で囲まれ、通行する際には身分や年齢を問わず審査を受ける。具体的には小さな銀の玉を数秒素手で握らされる。それだけだ。人狼であれば皮膚が焼けるような痛みと共に、銀が触れた場所に火傷のような痣が現れるという。
当局の努力によって確かに人狼の流入は抑制されているようだが、既に都市に入り込んだ人狼たちは当局や検問に対抗するため、地下組織を作ってさまざまな活動を行っているという噂もある。妻がそういった連中と関係を持っていたのかどうかはわからない。だがもし関係を持っていなかったとしても、これから持ちうるという可能性は大いにある。そうなれば妻はまさに人類の敵になってしまう。俺が会いに行ったところで、何ら建設的な結果を生み出さない可能性の方が圧倒的に高いのだ。彼女だってそんなことを望みはしないから、俺の前から去っていったのかもしれない。だとしたら俺は彼女に対して、二重の裏切りをしているのではないか。妻のいない家に帰りついた後もその考えは消えなかった。
次の日の朝、俺は来客を告げるベルの音で目が覚めた。居留守を決め込もうかと思ったが、そのベルはなかなか鳴りやまない。もしかしたら、と俺の中で不吉な想像が膨らむ。スミス氏が昨日の件を当局に通報していたとしたら、既に彼らは動き始めているはずだ。そして物証を抑えるためにここにやって来た——。そうだとするなら多少の抵抗は無意味だ。とにかく事実を確認するためにも、俺は玄関の扉を開けることにした。そこに立っていたのは見知った人間だった。
「おい、ウィル! 心配したじゃないか。何かあったのか?」
そう言ったのは同僚のリチャードだ。俺より二歳年上だが独身で、その理由は彼の意志の問題にあった。今の職場では一番交流が深い人間であると言っていいだろう。すっかり忘れていたが、俺は昨日人生で初めて無断欠勤をしたのであった。
「……ああ、リチャードか。わざわざすまない」
「いったいどうしたんだよ? 顔色が悪いぞ」
それはあるいは彼の先入観だったかもしれない。だが今はとても仕事に行くような気分になれなかったので、その言葉に便乗することにした。
「どうも気分が悪くてね。ただの風邪だと思うが、ちょっと仕事には行けそうにない」
「やっぱりそうか。……ん、そういえば奥方は?」
部屋の奥は暗く人がいる気配はない。病人がわざわざ客を出迎えるというのも不自然だ。俺は適当にごまかした。
「風邪をうつすと悪いから知人の家に行ってもらってる」
「はは、相変わらずの愛妻家っぷりだな。でも一人で大丈夫か?」
「問題ない。……それより仕事はいいのか?」
「おっとそうだった。まあしばらくはしっかり休めよ。あ、これポストに刺さってたぞ」
リチャードは俺に新聞を手渡して足早に去っていった。愛妻家、という言葉が鼓膜の奥に張り付いている。どうやら他人から見ると俺はそういう評価になるらしい。半年前、いや一年前なら俺はその言葉を無条件に肯定できたかもしれない。気を紛らわそうと何気なく目にした新聞、そこに表記された文字列の意味を理解した時、俺の精神は転調を余儀なくされた。
『三番街で惨殺死体。犯人は人狼か』
人狼の犯行だとされる殺人事件は半年に一回ほどのペースで起こっている。不謹慎な言い方をすればさほど珍しいことでもないのだが、今回は事情が違う。もし、妻が人を殺したのだとしたら。この仮定はある意味では妙なものだ。妻が人狼である以上、これまでの生涯において人を殺めた事がない、という可能性は極めて低いのだ。この事件の犯人が彼女であったとしても、それは流血の大河に新たな一滴が加わるだけであって、彼女にとってすれば大した変化ではないかもしれない。だが俺にとってはそうではないのだ。
アリシアが血に汚れた醜悪な殺人者となった時、俺は彼女を愛し続けることができるだろうか。彼女が人狼である、というのはつまりそういうことなのだ。机の上に置かれた拳銃の奥から、銀の弾丸が悪魔のように囁きかけるのが聞こえた。
「エドワーズさん、お入りください」
その日は五分ほど待たされただけですぐに応接室に入ることできた。スミス氏は本棚に寄りかかるような格好で俺を待っていた。手振りで俺に座るよう促す。俺はソファに腰を下ろしながら彼に問いかける。
「それで、妻の居場所は?」
「まあお待ちください、エドワーズさん。実は前回、一つ聞き忘れていたことがありまして」
「というと?」
「あなたがなぜ奥さんを人狼だと疑うに至ったか、ということです」
探偵の視線が俺の目を捉える。彼は気づいているのだ、俺があえてそれを語らなかったということに。だが彼はその理由までは洞察し得なかったのではないか、と思った。
「あなたは強い確信を持ちながらこの件を当局には知らせなかった。それは奥さんを守るためです。しかし銀の弾丸を携えて自ら奥さんに会いに行こうとしている。論理的には甚だ矛盾しています」
「……確かにそうですね」
まるで他人事のような返事だな、と自分でも思った。だが彼の指摘が間違っていないことは認めざるを得ないのだ。たった一発の銀の弾丸は、俺の理性にも深い亀裂を刻みつけた。
「その辺を説明する鍵がそこにあるのではないかと思いましてね。ぜひお聞かせ願いたいのですが」
「それを話さない限り、妻の居場所は教えられない、と?」
「まあそういうことです。仕事柄、わからないことをわからないまま放置しておくわけにはいきませんので」
誰にもこの話をするつもりはなかった。俺と彼女だけが知っていればいい、いや、彼女ですら知るべきではない。だがそういうわけにもいかなくなってしまったようだ。俺は深いため息とともに胸の奥にしまった過去を吐き出した。
あれは去年の冬、俺たちの三回目の結婚記念日だった。結婚した当初は、三年後には俺たちも子宝に恵まれて、二人の記念日を祝う余裕なんてないと思っていた。だが幸か不幸か、俺たちにはまだ子どもがいない。だからお高いレストランで二人きりの記念日を楽しもうと思ったのだった。
彼女は細くしなやかな体とは裏腹に俺にも負けず劣らずの食欲を持っている。そのくせ偏食の傾向があって、特に匂いの強いものは嫌っている。だから予めシェフに確認して料理には気を使っているつもりだった。だが運ばれてきた料理を満足そうに眺めていた彼女の表情は、一瞬凍り付いたように固まった。
「……なにか駄目なものあったか?」
細心の注意を払ったつもりだが、俺だって彼女の全てを知り尽くしているわけではない。しかし彼女は小さく微笑み、何事もなかったかのように食器を手にした。
「ううん、なんでもない」
俺はわずかな不安を抱えながらも、食事が終わる頃にはそのことも忘れて、ささやかな記念日に彼女と幸福を分かち合えたことに満足していた。
異変に気付いたのはその日の夜だ。どちらから求めたわけでもなく、俺たちは互いに吸い寄せられるようにベッドに体を預けた。例え子どもができなくても、こんな日々が続いていくのならそれもまあ悪くないか、と思えた。ゆっくりと夜が溶けていくような心地よいまどろみの中で、俺はふと彼女の手のひらに痣のようなものがあることに気づいた。それが何なのかすぐにはわからなかったが、以前はそんなものはなかったことは確かだ。次の日仕事から帰ると、俺を出迎えた彼女の手には包帯が巻かれていた。
「職場で窯を使ってるときに、うっかり火傷しちゃった」
彼女の職場はパン屋だから、そういうこともあるかもしれない。だが長年勤めている彼女が今更そんな初歩的なミスをするだろうか。俺は何か釈然としないものを感じながら、その答えを導き出せないままでいた。だが仕事で隣町に行くことになり、門をくぐるために当局の審査を受けようとした時、漠然とした不安の欠片が繋がり一つの疑惑になった。手のひらに乗せられた小さな銀の玉。レストランで使った食器も同じ輝きを放っていた。
スミス氏はその場に佇んだまま何かを考えているようだった。俺も彼に対して返答を催促する気にはなれなかった。短い沈黙の後、スミス氏はゆっくりと口を開いた。
「あなたの奥さんは、その肌を焼くような痛みを顔色一つ変えずに耐えきったのでしょう。自分の正体を隠すため、そしてあなたからの愛を裏切らないために」
それがどれほどの痛みだったのか、どれほどの覚悟だったのか、俺にはわからない。だが俺が彼女のその思いを裏切ったことだけは確かだった。スミス氏はソファの前の机の上に一枚のメモを置いた。
「おそらくあなたの奥さんはそこにいます。謝礼の方はそこに書いてあるとおり、後日ここへお持ちください」
「すぐ払わなくていいのか? 俺が無事で帰ってくる保証なんてどこにも——」
「うちは成功報酬ですから、あなたが実際に奥さんにお会いになって初めて依頼達成となります。まあ私は人を見る目は確かだと自負しておりますので、あなたならきっとお戻りになると信じていますよ」
穏やかな目をした探偵は、そう言って静かに笑った。
そこは人通りの少ない細く狭隘な路地だった。先に進んでいくとさらにいくつもの小道に枝分かれしており、それはまるで都市に穿たれた坑道を思わせる。メモに描かれた地図を頼りに俺は湿気の立ち込める暗がりに踏み入っていく。
ふと人の話し声が聞こえたような気がして俺は足を止めた。レンガ造りの背の高い建物の隙間に申し訳程度の狭い道が伸びている。まさに人の目を避けるには絶好の場所だ。俺は音をたてないよう慎重にその道を進んでいく。半ば無意識に俺の右手は懐にしまった拳銃に伸びる。今度ははっきりと人の声が聞こえた。男の声が、見えない誰かに向かって何かを語りかけている。そして微かな違和感を覚えた。その声はどこか聞き覚えがあるように思えたからだ。道の先が少し開けて小部屋のようになっている。俺は壁に身を寄せ、そっと様子をうかがった。
「……リチャード?」
そこにいたのは先日うちを訪ねてきた同僚だった。そしてもう一人、艶のあるダークブラウンの髪をした俺の探し人。俺は身を隠すのも忘れて二人の前に歩み出た。同時にこちらを振り返った二人は、互いに驚愕の色をその表情に称えて、そしてアリシアは半歩後ずさった。だが俺の意識は本来その場にいるはずのないもう一人の方に集中した。
「リチャード、お前、なんでここに……」
リチャードは大きく首を振ってため息を吐き出した。
「そりゃこっちのセリフだよ。まったく未練がましいというか、執念深いというか……」
その瞳に今まで感じたことのない凶暴な光が宿ったように見えた。それはまさに飢えた獣の目だった。
「役所勤めってのは便利でな。個人情報は筒抜けだし、その気になれば当局の動向だって探ることができる。この辺の仲間は皆俺を頼ってくるんだよ」
「まさか、お前……!」
「あのまま家で大人しくしてればよかったのになぁ、ウィル。そうすれば見逃してやったのによ」
変化はすぐに起こった。リチャードの口が裂けるように広がり、その隙間から白い牙が覗く。肌は黒い体毛に覆われ、大きな手からは鋭い爪が生えてくる。そこに現れたのはスーツを着た魔物、正真正銘の人狼だった。その時初めて妻の声が聞こえた。
「待って! あの人には手を出さないって——」
「事情が変わった。もうここで始末するしかない」
その時になってようやく俺は自らの命の危機を察知した。だがここで逃げ出せばもう二度と妻には会えないかもしれない。そう思うと足は動かなかった。
「俺たちは本能で同族を見分けられる。初めて見た時は驚いたよ。こんなに人間とよろしくやってる奴がいるなんてな」
その言葉にはどこか嘲笑に似た響きが含まれていた。それは俺と、そしてアリシアに向けられたものだった。心の奥底で、恐怖とは違う何かが芽生えたのを感じた。リチャードは一歩踏み出す。
「まあお前が死ねばアリシアも踏ん切りがつくだろう。こんないい女、人間にはもったいないぜ。心配しなくても俺が——」
その言葉を聞き終える前に俺の理性は決壊した。ほとんど反射的に拳銃を引き抜き、怒号と共に引き金を引いた。
「その名を気安く呼ぶな!」
銃声と共に顕現した殺意がリチャードの体に突き刺さる。当たったのは——右腕。胸を狙ったはずだったが、人狼の卓越した反射神経によって彼は致命傷を逃れたのだった。大きくよろめき地面を血で汚しながらも、リチャードは左手を振りかざし俺に飛び掛かった。鋭い痛みと共に俺は地面に押し倒される。暗がりの中で殺意を滾らせた鋭い眼光が俺を捉えていた。
そして、もう一つの眼光がその奥に見えた。
獣の声が狭い路地に響き渡る。アリシアの髪と同じ色をした獣がそこにいた。とっさに振り返ったリチャードの顔面に鋭い爪が突き刺さる。怒声とも悲鳴ともつかぬ叫びをあげながらリチャードはのたうち回る。獣になったアリシアは、今まで見たどんな彼女よりも悍ましく、そして美しかった。
「この女ァ! ぶっ殺してやる!」
血に塗れた顔を怒りに染めてリチャードがアリシアに飛び掛かり、二匹の獣は殺し合いを始める。だが右腕を負傷し機先を制されたリチャードが劣勢なのは明らかだった。力任せに振り下ろされた爪をかわしたアリシアは、壁を蹴って舞うように跳び上がり、体勢を崩したリチャードの
狭い路地の上に静寂が戻り、獣と人間と死体が残された。俺は体を起こそうとしたが、右肩に鋭い痛みを感じたので断念する。薄汚れた地面に背中を預けてゆっくりと呼吸を整える。人狼は死んだ。弾はもうない。そして何より、妻に会うことができた。俺の望みは結果的には全て叶えられたのだ。もはや何をする気にもなれなかった。
「なんで……」
小さなつぶやきのような声が聞こえる。獣の姿をしたアリシアはリチャードの死体を茫然と見つめていた。
「なんで私を撃たなかったの?」
妻の愛を永遠のものにするため用意されたたった一発の銀の弾丸は、ほんの一瞬の激情によって本来の役割を放棄した。それは無意識の自己防衛だったかもしれないし、単純で稚拙な嫉妬心のせいかもしれなかった。しかし結局のところ、やっぱり俺は妻を殺したくなかったのだと思う。その理由は誰よりも俺自身がわかっていた。
「君が好きだから」
こういうセリフをプロポーズの時に言えていたら、もう少しかっこつけられたかもしれない。アリシアは俺の方を見やって半ば呆れたように笑った。
「……しょうがない人ね、ほんと」
人の姿に戻ったアリシアが俺の体を抱き起す。同族殺しの人狼と、その人狼を愛した人間。裏切り者同士、結構お似合いの二人かもしれない。徐々に深さを増していく暗がりの中を、俺は妻と二人で歩いて行った。
銀の楔 鍵崎佐吉 @gizagiza
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます