銀の楔
鍵崎佐吉
Ⅰ
「ただいま」
扉を開けながらいつもと同じ調子でそう言って、俺は我が家に帰って来た。けれどいつもならすぐに返ってくるはずの妻の返事がない。どうしたのだろう、出かけているなんてこともないだろうし、と思いつつ何気なく机の上を見て、俺は戦慄した。そこに並べてあったのは一丁の拳銃と、照明を反射して鋭く輝く純銀製の美しい弾丸だった。半瞬ほどの思考停止の後、冷たい血流が全身を侵していくように俺の体を駆け巡る。それらは妻に悟られないよう俺が密かに用意したものだ。銀の弾丸——唯一人狼に対して致命傷を与えることができる凶器。引き出しの奥にしまっていたそれを、彼女は見つけてしまったのだ。なぜ愛する夫がそんなものを隠し持っていたのか、彼女は悟らざるを得なかっただろう。そして俺自身もまた、妻がここにいないという事実から、何よりも残酷な現実を悟らざるを得なかった。
俺は妻を疑っていた。そして俺の妻は、人狼だったのだ。
「アリシア……」
その呼びかけに応えてくれる者はもういない。巨大な後悔と絶望の中に、かすかにこの現実を予期していた自分がいることに気づいて、俺は強い吐き気を感じた。
人狼。人間を欺き、見下し、時にはその生命をも脅かす半獣の魔人。それは古くから人間社会の中に潜み、無辜の民衆の富と血肉を狙っている。かつては辺境の田舎町で起こる獣害のようなものとして認識されていたそれも、時代の進歩と都市の拡大、それに伴う人口の流入によって社会問題の一つとなっている。都市部では警察の他に人狼専門の捜査局がおかれ、日夜その摘発に心血を注いでいる。それは人類を宿主としてその血を啜って生きる寄生虫のような存在だった。誰も彼らとの共存など主張しなかったし、事実それは不可能であるように思われた。
そんなご時世であるから護身用の銃を買い求めることも珍しいことではないし、多少値は張るが一般人でも対人狼用の銀の弾丸を手に入れることはできる。俺がそれらを求めたのは今から半年ほど前のことだ。だが役所勤めの俺が銃の扱いに慣れているはずもない。小太りでよく喋る店主に勧められるまま、素人でも使いやすいという黒くて飾り気のない拳銃を一丁、そして純銀製の弾丸を一発だけ購入した。
「一発だけでいいんですかい? 奴らは徒党を組んでいることも多いと聞きますし、当然外すことだってあるでしょう。五発は買っといた方がいいと思いますがねぇ」
粘り気のある脂っこい声でそう告げる店主に、俺は愛想笑いをしながら答えた。
「いや、これはお守りみたいなものだよ。一発だけでいい」
もし俺が引き金を引くことがあるとすれば、その相手は既に決まっていた。その最初で最後の一発を外したのであれば、もはや運命に抗う必要はないだろう。愛した人の手によってこの世を去るのであれば、それもまた人生の終幕として相応しいような気がしたのだ。
次の日の朝になっても妻は帰ってこなかった。俺の方だって彼女が帰ってくるのを待っているというわけではなかった。もし彼女が再びここを訪れたら、俺は机の上の銃を使わなければならないし、彼女だってそんなことはわかっているはずだ。むしろ彼女は引き出しの奥で見つけたそれをそっと元の場所に戻して、何食わぬ顔でいつもと同じように俺を迎えればよかったのだ。そして安心しきっている俺にキスをするふりをして、その強靭な牙で喉笛を食い千切ればいい。後は証拠を隠滅するなり、俺の財産を持ってどこかへ逃げるなり、何とでもなるはずだ。
だが彼女はそうしなかった。それがなにを意味するのか。俺の疲弊しきった頭脳はおぼろげな希望を示すのみで、思考は確信へとは至らない。どのみち望んでいた未来はもはや手に入らない。しかしそうであるなら、せめてもう一度だけ彼女に会いたかった。彼女に殺されるか、彼女を殺すか、それとも別れの言葉を告げ、新たな人生を歩み始めるか。どんな結果になるにしても、この耐え難い寂寥感を抱えたまま生きていくよりはマシなように思えた。
もう出勤すべき時間はとっくに過ぎていた。俺は軽くシャワーを浴びて眠気を体から追い出す。服を着て、これからすべきことを頭の中で整理する。一つだけ目的地として相応しい場所に心当たりがあった。コートを羽織ってその場所を地図で確認し終えた時、視界の端に銀色の輝きが映る。一瞬のためらいの後、俺は静かな自己主張を続ける銀の弾丸を装填し、拳銃を懐にしまって家を出た。
彼女は肉が好きだった。運動神経が良かった。物音に敏感だった。火の扱いが苦手だった。なぜか犬に好かれた。魔除けやまじないの類を嫌っていた。そして、俺のことを愛していた。満月の夜は彼女は決まって俺を求めた。そういう時の彼女はいつもより大胆で、俺たちはまるで獣のように愛を貪った。だが結婚して三年経っても彼女は妊娠しなかった。行為が終わると彼女は疲労とも羞恥とも違う声色で静かに呟く。
「ごめんね、ウィル」
その言葉に込められていた真意を、今ようやく悟ることができたように思う。そして、それでもなお俺の彼女に対する思いは変わらなかった。変わらないと思いたかった。彼女の方はどうだっただろう。夫が自分に対して猜疑を抱き、胸の奥に殺意を、引き出しの奥に凶器を隠し持っていたと知った時、彼女は昨日と同じように自らの夫を愛し得ただろうか。懐にしまった銃はその本来の重量以上に重く感じられた。
「エドワーズさん、お入りください」
三十分ほど待たされただろうか。扉の向こうから男が俺の名を呼んだ。俺は椅子から腰を上げ、扉を開けて部屋の中に入る。整然とした雰囲気の広い応接室の真ん中で四十代くらいの男が俺を出迎えた。短く整えられた口髭が精悍な紳士という印象を与える。
「お待たせしてしまってすみません。色々と依頼が立て込んでおりまして……」
そう言いつつも男の口調からはどこか聞く者を落ち着かせる余裕が感じられる。俺にソファに座るよう促しながら、男は俺に問うた。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「……あなたはとても腕のいい探偵だという評判だ。それに依頼者の秘密も決して他言することはない、と聞いている」
一度、妻の身元調査を頼もうとして探偵を探していた時期があった。だが妻が人狼だとわかれば探偵が当局に通報する恐れがあると気づき、結局その計画は途中で取りやめることにした。その時にこの探偵スミスのことを知った。彼は名探偵として名声を得ているわけではなかったが、自らの仕事と顧客に対して誠実であることが多くの人間から評価されていた。
「いやはや、恐縮ですな。とはいえ皆様のおかげで、どうにか探偵として食っていけていますよ」
口では謙遜しつつも、その口調からは確かな自信とプロとしてのプライドが感じられた。俺は一呼吸置いてから本題を切り出す。
「私の妻、アリシア・エドワーズを探してほしい。……ただし、本人にはそれを悟られないように」
「ほう……何か事情がありそうですな。お話しいただけますか?」
「昨日家に帰ると既に妻はいなかった。……そして机の上にこれが置いてあった。私の物だ」
俺は懐から拳銃を取り出し、机の上に置いた。スミス氏はさして驚いた様子も見せず、静かにその拳銃を観察している。やがてそっと拳銃を手に取り、装填された弾を確認した。その時初めて探偵の表情にわずかな変化が生じた。
「これは……銀の弾ですか?」
「ああ」
俺の最低限の返事から、探偵は全てを推察したようだった。拳銃を机の上に戻し、数瞬ほど沈黙する。彼の頭脳の中では、凄まじい速さで様々な討議が重ねられているのだろう。やがて探偵はゆっくりと口を開いた。
「私は探偵として依頼者の秘密は口外しませんし、基本的には私に解決できる依頼は全て引き受けるようにしています。ただしいくつか例外もあります」
「それは?」
「私の行いが犯罪行為になる場合、それと犯罪者を利することになる場合です」
探偵の目はまっすぐ俺の目を捉えている。それは相手を威圧するものではなく、瞳の奥の真意を透視しようとするもののように思えた。
「あなたは奥さんを殺すおつもりなのですか?」
「……わからない。ただ、私は妻に会いたいんです」
他人から見ればそう捉えられてもおかしくはない。この銃と弾丸はまさに殺意の具象化であって、それ故に俺たち夫婦の仲を打ち砕いたのだ。だが俺にとってこれは一種の言い訳のようなものだった。もし俺がなんの準備もせず彼女に殺されれば、俺は彼女に欺かれたことになる。しかし俺の疑惑が先であれば、彼女は生き残るために俺を殺したということになる。そうすれば彼女が俺を愛していたという事実だけは残るのではないか。そんな倒錯した淡い期待が、半年間俺の心を支えてくれていたのだ。俺の返答を聞いた探偵は半ば呆れたようにため息をついて肩をすくめた。
「やれやれ、困ったお人だ。まあ人狼と発覚した時点で市民権は剥奪されますから、例え射殺したとしても罪に問われることはありませんが……」
「では依頼を引き受けてくれるのか?」
「ええ。その代わり謝礼は弾んでいただきますよ。人狼の捜索は本来当局の管轄ですし、何かと危険も多いですからね」
「構わない。借金してでも払う」
「それは結構。まあうちは成功報酬ということでやっているので、請求の方はまた後日。それよりもう少し奥さんの話を詳しく聞きたいですな」
「妻の話……というと?」
「人探しの基本は情報収集ですよ。もちろんこちらでも動きますが、夫であるあなたの持つ情報が一番重要でしょう。そうですな……例えば、奥さんとの馴れ初めとか」
スミス氏が個人的な好奇心からそんなことを聞いているとも思えなかったので、俺は自らの記憶を掘り起こして彼女との思い出を語ることにした。それはさほど難しい作業ではなかったが、時折鋭い針が心臓に突き刺さるような感覚を覚えずにはいられなかった。
アリシアと会ったのは五年前、二十三歳の時だった。転勤して単身この街にやって来た俺は、近所のパン屋で店員として働く彼女に出会った。滑らかなダークブラウンの髪が印象的な、活発そうな女性だった。彼女はいわゆる看板娘というやつで、多くの常連客と同様に、俺にも明るく接してくれた。彼女目当ての男性客の中でも、俺は特別熱心だったわけではない。幾人かが彼女を自分のものにしようと、ある者は財力で、ある者は自らの美貌で彼女の心を射止めようとしたが、その全てが失敗に終わったようだった。失意のうちに彼らは去り、気づいたら彼女の一番近くにいる男は自分になっていた。それでも俺は彼女に愛の告白をしようとはしなかった。さしたる取柄もない平凡な自分が特別彼女に認められているとも思えなかったからである。彼女はその距離感をむしろ気に入ってくれたようだった。
他愛ない世間話をしつつ、その中で彼女は少しずつ自分自身について語った。数年前に田舎からこの街に出てきたこと、既に両親は他界し頼れる親戚もいないこと、そして自分に戸籍がないこと。急速な近代化を迎えた社会にとって、特に貧困層の人々の中でそういった戸籍を持たない者は珍しい存在ではなかった。俺は役人として、そして彼女に思いを寄せる人間の一人として、その事実を看過することができなかった。とはいえ戸籍を獲得するのは容易なことではない。特に人狼の被害が拡大してからは、戸籍の新規登録に対して政府はかなり消極的になっている。身元の証明ができない、頼れる保証人もいない彼女が戸籍を獲得するのは不可能に近かった。
だから俺は彼女に唯一の可能性を提示した。つまり誰かの配偶者になることである。そしてその候補者にウィリアム・エドワーズの名をあげた。それはプロポーズとしては落第同然だっただろう。見知った者の名を聞いた彼女は一瞬驚いて、そして笑った。
「それ、プロポーズのつもり?」
まるで下手なジョークでも聞いたかのように、半ば呆れたような口調で彼女はそう言った。
「不快に思ったなら、断ってくれ」
「……不快ではないから、受けることにするわ」
それが二人の馴れ初めだった。
今になって思えば、彼女の選択はただの打算の結果だったかもしれない。それでも彼女と過ごした三年間は、今なお色褪せることなく俺の心を照らしている。銀の弾丸と、それによってもたらされる死が二人を分かつとも、その真実だけは変わらないと信じたかった。
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