第11話 望む空

 艦隊司令官の呼び出しを待たせるわけにはいかない。

 10分程度でシャワーを済ませて司令官室の扉を叩くと、友達を招き入れるような気軽な口調で入れと命ぜられた。

 かといって、気軽に司令官室へ立ち入るのは憚られる。

 学んできた上官の部屋への入室要領に従い、失礼しますと一言述べてからドアを開け、待っていたイリンスキーへ敬礼する。


「グライヴィッヒ准尉、参りました」


「そんなに畏まるな。私的に呼んだのだから楽にしろ」


 ソファーにでも掛けてゆっくりしろと言われるが、それを真に受ける者はいるまい。

 社交辞令として受け取りながらも、ソファーへ腰を掛けて姿勢を正す。

 ふてぶてしいユウジとは違ったその佇まいこそ、本来の軍人のあるべき姿であるはずなのだが、イリンスキーは苦笑いを浮かべていた。


「そうも畏まる奴は久しぶりだ」


「他の人たちも、隊長のような態度を?」


 そうだとすれば、北洋艦隊の規律はだいぶ緩んでいることになるだろう。

 しかしイリンスキーは首を横に振る。少なくとも、エルナの懸念していたことにはなっていないらしい。


「そもそも、他の奴らは用もないのに司令官室に来ないからな」


 それはそうだ。最高司令官の所へ遊びに来るなど、この艦隊に所属する中でも上澄みの幕僚位の筈だ。

 一介の大尉が遊びに来た上に、我が物顔でくつろいでいるなど、普通ならばあり得ない。

 その普通ではないことが、この司令官室という神聖な場所ではまかり通ってしまう。

 本来ならばお付きの係がお茶出しをするところであるのに、イリンスキー自らコーヒーを淹れて差し出してきた。

 上の人にそんな雑用をやらせたのを知られたら最後、神の怒りに触れるが如くの目に遭うのが軍という組織ではあるが、イリンスキー以外に人はいない。

 つまり、そんなことは起きていないも同然ということだ。

 ここで艦隊が何をしているのか、その中の更に小さな空間で何が起きているのかなんて、当事者以外の世界は知る由もない。

 知らないことは起きていないも同然として扱われるのが、この世界の理だ。


「部隊には慣れたか?」


「……まだ一週間も経っていませんから」


 イリンスキーは苦笑いを浮かべる。はっきりとは言い切らずとも、慣れていないというのが伝わったのだろう。

 エルナをその部隊に配属した張本人に対して、慣れていないなんて面と向かって言えるような奴がいる訳もない。


「それもそうだろうな。というより、はっきり言って構わん。君のケアが目的なのだからちゃんと言ってもらえた方が助かる」


 最高司令官自らが一士官のケアをするなんて、普通ではありえない。そういうのは直属の上官、この場合はユウジの役目の筈だ。


「中将がケアですか?」


「サガミ大尉だけに任せてはおけん」


「ならば、どうしてブラッドムーンに配属したんですか?」


「一番の理由は、女性パイロットを配属しても間違いを起こさない確証があるからだ」


 確かに、女の尻よりも敵機の尻を追いかける方が好きな男だから、そういう間違いは冒さないだろう。

 特に、この艦隊にいる兵士も一人の人間だ。そういう欲望は勿論あるし、娼館のない空母に閉じ込められて数か月も暮らしていて、そういったことをする者もいる。

 その点では安心出来る隊長だが、その配下はどうだろうか。


「不安そうな顔だが、ラッツァリーニ中尉やガリチェンコ少尉は安心できる。特に、ラッツァリーニ中尉はナンパ野郎ではあるが女に手を出さん」


 どういうことだろうか。カルファ人の男と言えば、ワインと女に命を懸ける人種であり、美女をナンパするのが生きがいというステレオタイプがある。

 アレッサンドロも例に漏れず気さくな陽気で、機体に女性を描いている。一番手を出してきそうなだけに、意外であった。


「根拠は?」


「フィアンセがいた」


 それしか言わない。過去形であることに疑問は残るが、他人の秘密を本人の知らぬところで言いふらすのは良くないことだと思ったのだろう。

 エルナを安心させるよりも、アレッサンドロを慮る方を優先したらしい。

 エルナは根掘り葉掘り訊くつもりもない。誰しも何かを抱えていることは知っているから、そういうことだと思っておくのが一番だ。


「それで、ブラッドムーンにいてどう感じた?」


 イリンスキーは珈琲を啜ってから話題を変える。エルナの沈黙を見て、あの話題は終わりだと判断したのだろう。

 どう感じただろうか、この数日を思い出してみた。

 気まずかった日々よりももっと色にあふれていた。最初の一日とユウジの過去に僅かに触れた翌日が頭を過ぎる。

 そして何より、あの甲板で風と嘲笑を切り裂き、自分だけの沈黙の世界を作り出してしまう程の美しい翼が頭から離れない。

 今も、あの光景を思い出すたびに胸が高鳴る。そうして抱いた憧れこそが、答えだ。


「憧れました。何よりも、隊長みたいに鋭く飛びたいです」


「あいつの真似をするのは危険だぞ」


「分かっています。でも、知りたいんです。どうしたらそんなに鋭く飛べるのか、隊長やサンドロ、イリヤに何があって、今の飛び方が形作られたのか」


 それを辿れば、私も強くなれるだろうか。エルナはそう思って答えたのだが、イリンスキーの表情は渋い。


「真似するのはやめた方がいい」


 低く響く声が静寂を生み出す。エースの飛び方に憧れて、少しでも近付きたいと思うのはエルナだけではない。

 そのためには、生き様も知る必要があった。そして、あんな風に飛ぶためにはそれを真似することになるのだろう。

 どうして、やめた方がいいというのだろう。 

「お前はお前の生き方を、飛び方をしろ。お前にしか飛べない空がある」


 それがどういう意味なのか、その場では理解できなかった。

 自分にしか飛べない空なんてあるのだろうか。あのイヌワシにすらも届かないような、高い高い青空が。


「私は、真似もせず強くなれそうにはありません」


「そんなことはない。低空でバレルロールからのカウンターを出来るルーキーなど、お前で2人目だ。十分にエースの素養がある。サガミ大尉もそう言っていた」


「隊長が?それに、2人目って……」


「1人目が当のサガミ大尉だ。あの野郎、ルーキーのころから恐れ知らずで負けん気も強くてな。昔の自分を見ているようだと言っていたぞ」


 そこまで見ていてくれているとは、本当に驚かされる。

 それでも、自分はそこまでの域に辿り着けていない。過大評価だとしか思えないのだ。


「買い被り過ぎですよ」


 謙遜したわけではない。ルーキーの自分には余りに高い評価だから怖気付いたというべきだろう。

 そんなエルナの姿にも、イリンスキーは笑って返した。


「そのくらいでいい。自信満々な奴ほど死ぬからな。そのくらい臆病で、慎重でいればいい」


 逆に評価されてしまい、やはりむず痒く思える。そんなエルナの気持ちを察したのか、イリンスキーは笑って珈琲を啜っていた。


「すぐにとは言わん。生き残って、自分の飛びたい空を探せ。それがある限り、お前は墜ちん」


 その言葉がやけに引っかかった。自分の飛びたい空は、どんな空だったのだろうか。

 少しだけ、見つめ直すにはいい機会なのかもしれない。

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