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 こん、こん、こん。 

 尾瀬おぜ瞳美ひとみは満月の下で咳をした。

 ここは埼玉県トコロザワ駅近く、アルバイトで勤めている小さな不動産会社の屋上。マスクを外して思う存分に空咳をする。

 ちまたで流行りの症状だ。あまり苦しくないし発熱もないが、ただ奇妙な咳だけが出る。かかった人が皆そろいもそろって十日目には治まるので、九日咳ここのかぜきと呼ばれていた。

 こん、こん、こん……ふう。

 咳の発作もひとまず落ち着いてきたが、瞳美はこれで十三日目だった。聞いていた症状と違うので不安を覚える。ペットボトルの水で喉をうるおし、まん丸い月を眺める。

 煌々とそそぐ光線が、遠い雲のかたまりを照らしている。この場所からは十キロメートルくらい先だろうか。その渦巻く雲はおどろおどろしい赤紫色で、葉脈のような稲光がときどき走る。

 あれは怪奇雲かいきうん。瞳美が生まれ育ったニシタマ市を二年前から包んでしまった、得体の知れない異常気象だ。あの下では今でも奇怪な現象が起きていると噂されるが、確かな情報は流れてこない。

 ほとんどの住民は尾瀬家と同じように二年前に転居してしまっているので、街に残っているのは土地を離れられない人や怪奇雲を気にしない人、もしくは物好きな人たちだけだという。

 しかもあの不気味な雲は、今なお徐々に広がり続けているのだ。

(卒業から二年経ったけど……変われてないな)

 瞳美は手すりに身をもたせかけ、切り揃えた前髪を指でつまんだ。

 あか抜けないショートの髪型も、筋肉のついてない猫背も、三白眼気味でじとっとした目つきも、変わっていない。頭上に異様な暗雲が立ち込めたあの日は、何かが起こって冴えない日常が変わるような予感すらしていたのに――。

 高校時代は〝ジトミ〟なんて呼ばれてからかわれた。〝ハイエナみたいな目〟などと陰で笑われることもあった。

 図書室の大きな図鑑で調べたハイエナはつぶらな瞳でかっこよくて懸命に生き抜いていて、(全然違うじゃん)と悪口にすら引け目を覚えた。

 あのときも『ハイエナの方がお前より可愛いわ!』なり『あんたの喉笛を噛み砕いてやろうか!』なり、なんでもいいから言い返していられれば、もっと良かったのだろうか……。

 そんな物騒なセリフを考えつつ、休憩を終えて残業に戻ろうと決めたとき。

 怪奇雲の方から、白く輝く何かが飛んでくるのが視界に入った。

 光の尾を引き、ぐんぐんと手前の方へ接近してくる。目を細めて瞳美はそれを凝視した。

「…………キツネ!?」

 たしかに狐だ。遠くからでも見えるほど大きな獣だ。体長は十メートル、いや二十メートルくらいありそうだ。

 全身が白銀の光を放ち、風を受けてたなびく長い尻尾は、一本ではなく何本もあった。

 スローモーションのようにはっきり見えていたその巨大な狐は、放物線を描いて駅前の繁華街の方へ消えた。三階建てビルの屋上からでは、そのゆくえは見えない。

「…………」

 しばし絶句していた瞳美だったが、仕事が残っていることを思い出して、戻ろうと思った。別に人々の騒ぎ声も聴こえてこないし、いま見たものはなにかの間違えだったのだろうと思い込もうとしたとき、無視できない事態が起きた。

 こん、こん、けほっ、けほっ、ごほごほごほ!

 咳の発作だ。これまでで一番激しい。瞳美は体をくの字に曲げて、胸を押さえた。

 呼吸が苦しいだけではない。突然、全身が燃えるような熱さを感じた。体じゅうの皮膚と骨と内臓を、電撃が走ったのかとも錯覚した。

 ごはっ、おえっ、こふっ!

 目から涙が出た。周囲の灯りがにじんで見えた。

『ううう~~……』

 一分近くも続いた発作が収まったとき、自分の手を見て瞳美は、それが黒く茶色く毛に覆われて、手のひらや指の腹には肉球があり、指先の爪は鋭くなって、獣の手――肉食獣と人間の中間のようになっていることに気づいた。

『――はああぁ!?』

 つい声を上げてしまった。

 動かす口にも、喉から出た音声にも違和感がある。ポケットから出したスマートフォンを肉球でなんとか操作し、顔をインカメラで映してみると――それもやっぱり肉食獣だった。たてがみがあり、目つきも独特で、ちょうど図鑑のブチハイエナみたいな顔だった。

 自分が全身ハイエナ人間になっていることを、数分かけて瞳美は確認した。

『これって、ヤバい……!』



 瞳美は通勤用に着ている白い上着のフードを目深に被り、こそこそと会社から抜け出した。社員の鶴巻さんには、体調不良で退勤することをスマホのメッセージで送っておいた。

(なんなのこれ~?!)

 これでは不審者、というか怪物だ。ハロウィンの仮装とでも思ってもらえればいいが、それにしてはあまりにリアルすぎるし、今はそもそも春でしかない。

(急いで家に帰ろう! 布団にくるまって一晩じっとしていよう!)

 パニック状態の頭でそう考え、繁華街へ歩いた。裏路地を選んで突っ切っていこう。両親と暮らす家まで、一駅分歩くのだ。

 ぴかぴかと輝き、平日だが人はそれなりに多い繁華街。

 どうしても大通りを横切らなくてはいけない場所に出くわし、顔を隠すためフードをさらに下へ引っ張る。ちゃんと不織布マスクを着用しておきたいのだが、耳の位置も鼻面の長さも変わっており、もはや外れてしまっていた。

(ばれないように、ばれないように……)

 歩行者信号は赤。気持ちばかり急くが、最前列に行ったら怪しまれてしまう。瞳美は物陰で青信号を待った。

「具合でも悪いのかい、お嬢ちゃん」

 いつの間にやら横に立った年上の女性が、時代がかった言葉をかけてきた。歳は二十代後半だろうか。すらりとしていて、瞳美より頭一つ分くらい背が高い。スマートなパンツスーツを着て、さらさらの黒髪だった。

 口ごもりながら、『大丈夫です』と返事したつもりが、口から出るのは変な唸り声だけだった。喉の感じが違って、全然うまく発声できない。

「ほんとに大丈夫?」

 信号が変わった。気遣ってくる女性から逃げるように、瞳美は横断歩道を渡る。

(……あれ? わたしの言ってること、わかったのかな)

 ふと疑問が浮かんだとき、瞳美は転んでしまった。段差もなにもない場所だ。

 足の形も変わっていて踵がうまく入らなくなり、突っかけていたパンプスが脱げてしまったのだった。

 横断歩道の途中に突っ伏す。いたたたた……。

 顔を上げたとき、周りの人たちが自分を見ていることに気づいた。顔は毛むくじゃらのハイエナ面。手も毛むくじゃらで鋭い爪。膝下スカートの裾からは、毛むくじゃらの脚とふさふさの尻尾が覗いている。

 瞳美は、頭の中が真っ白になった。

『あ……あの、これ、違うんです!』

 なにが違うのか自分にもわからないが、そう言ったつもりでも、出てくるのは吠え声だけだ。周囲の通行人たちが尻込みし、人によってはスマートフォンを取り出すのが見えた。

「ほらほら、危ないよ」

 後ろから駆け寄り、瞳美を助け起こしてくれたのは、さっきの黒髪の女性だった。

「写真なんか撮るんじゃない。失礼だよ!」

 彼女が鋭く言い放つと、スマホのカメラを向けていた人たちはびくっと固まった。言葉に、なんらかの力が込められているかのようだ。

 さ、と優しく言って、女性は瞳美の手を引いた。手早く靴も拾ってくれた。

 ハイエナの足の裏には肉球があり、それはアスファルトの上でも衝撃を吸収してくれていた。

 横断歩道を渡り切り、少し脇道を走ってから路地に入り、建物の隙間にある誰の目も届かない場所で止まった。行き止まりだ。

『あの、わたし……』

 思わず涙が出てくる。瞳美の頬に生えそろった褐色の毛を、涙の粒が滑り落ちた。

「転んでケガはないね。ワーハイエナの毛皮は丈夫だから」

 ……え? 耳を疑う。

「いきなりで悪いけど、一緒に来てもらうよ。あんまり余裕はないんだ」

 女性の目が、妖しく光るのを瞳美は見た。どこかでパトカーのサイレンが聞こえた。

「――その前に野暮用だ。ちょっとの間ここで待ってておくれ」

 彼女がにやりと笑ってみせたとき、瞳美は恐怖を感じた。その不敵な笑顔にではなく、さらに数メートル向こう、路地の入口に立っている男に対する恐怖だった。

 その男は突如そこに存在していた。長身で体格がいい。焦茶の鍔付き帽とショートコートを身に着け、口元には異様な銀のマスク。眼は赤橙色に爛々と光っていた。

 瞳美は総毛立つ思いだった。いや、実際に体毛が逆立ったのだろう。男が放つ雰囲気は異常だった。

『クビ、ククリ』

 男が言う。マスクの中からくぐもった声が響く。

 首、くくり? 物騒な言葉が女性の名前であると、瞳美は彼女の表情から察した。

「やっぱり来たね、吸血鬼。ここはサービス圏外だ。大事をとって逃げさせてもらうよ」

 女性が身を翻したとき、幻のように彼女の姿は変わり、瞳美の眼には赤色と銀色が映った。

 その赤は鮮烈な色で――しかし形状は芋ジャージとしか言いようのない服だった。

 その銀は、長く乱れた銀髪と――しなやかでボリューミーな、狐の尻尾の色だった。その本数が九本あると、瞳美はなぜか瞬時に理解した。

(狐――!)

 瞳美の脳裏に、空を駆ける大きな狐の姿がよみがえった。恐らくククリ、という名の女性は、いつの間にか瞳美と同じに獣の、狐の顔をしていた。

 密生した不思議な尻尾から、ククリは二本の刃物を抜いた。それは六十センチ近い刃がくの字に曲がった、ククリナイフと呼ばれる蛮刀だ。

 地面を蹴って全身で回転しながら、ククリはナイフの刃を吸血鬼――彼女がそう呼ぶ者へ叩き込んだ。

 目にも止まらぬ早技だったが、吸血鬼はそれを左腕で受け止めた。衝撃が辺りを襲い、窓ガラスがびりびり震える。

 ククリの刃は男のコートを斬ったが、それ以上進まない。コートの中にある吸血鬼の腕には頑丈な鎖が巻き付けられており、刃を防いでいるのだ。

『フンッ!』

 気合の声とともに、吸血鬼が右腕でククリの腹を殴った。右拳にも鎖が巻かれ、ナックルダスターとして機能していた。

 振り切った拳がククリを吹き飛ばす。瞳美の頭上を通過して、九尾の狐は建物の外壁に激突した。

『あ、あの、ククリさん!』

「下がってな!」

 吸血鬼が追撃をかけてくる。左右の手首から鎖が伸び、鞭のようにククリを襲った。吸血鬼の両腰のリールから、金属音とともに鎖が繰り出される。

 ククリは襲い来る鎖と、その先端にあるアンカー――鈎と刃を兼ねた形状をしている――を避けた。壁を蹴って路地を抜け、通りの信号機を足場にして避け続けた。

 避けながら、片手のナイフを投擲する。回転しながら高速で飛ぶナイフは、邪魔な鎖を弾いてなおも突き進み、吸血鬼へと襲いかかった。その軌道は素早く複雑で、物理法則をも無視している。

 その刃が到達する寸前、吸血鬼も飛び上がった。十メートル近くも跳躍し、近くにあるビルの屋上へ降り立つ。

 妖力で飛来するナイフが弧を描き、ククリの手に戻ってきた。彼女もまた、他のビルを足場にしていた。

 吸血鬼は伸ばした鎖をリールに戻し、拳に巻きつける。

「しつっこいねぇ。あたしゃ今夜は忙しいんだよ」

『諦めろ。怪奇雲を出たのが運の尽きだ』

「へっ。あの子を置いて帰るわけにもいかないんでね……!」

 両者は同時に飛翔し、空中で激突した。

 刃と拳がぶつかり合う、妖の者と魔の者の戦いだ。異能の力で上昇する両者は、空中で赤い火花を散らした。

『あわわわわ……』

 路上に取り残された瞳美は、震えながらそれを見上げていた。

 そして、周囲に一般人が誰もいないことに気づいた。これだけの大事であるのに、騒いだり悲鳴を上げる人はいない。

 そしてそれに代って、一般でない者たちに囲まれていることにも気づく。

『え……?』

 十数メートル先からにじり寄ってくるのは、盾を持った警官たちだ。

 頑丈そうなヘルメットを被り、大きな盾を構えた警官たちが、左右の通りから合わせて十五人ほど、接近してきている。

『わたし、猛獣じゃないんです!』

 弁明しても、やはり伝わる言葉は聞き入れられない。

 警官たちが慎重に近づいてきたとき、瞳美はその内のひとりが、こちらへ向け銃器を構えていることを認識した。

『ひっ……』

 ライフルの銃口が閃き、瞳美は反射的に横っ飛びした。地面で銃弾――それは猛獣用の麻酔弾だった――が跳ねた。

 銃弾を回避した事実に、警官たちも瞳美自身も戸惑う。

 戸惑いつつ瞳美は、先程までいた路地に駆け込もうとしたが、ぱんっ、とクラッカーみたいな音が響いてなにかが瞳美に覆いかぶさり、それは阻止された。

 瞳美に向けて発射されたのは猛獣捕獲用のネットランチャーで、覆い、絡みついてきたのはワイヤーでできた網だった。反射的にどけようとするが、簡単にはいかない。網の目の向こうに、再びライフル銃を構える警官も見えた。

『やめてください!』

 力の限り瞳美は足掻いた。脚をバネの限り伸ばし、ワイヤーネットごと数メートル飛び上がった。

 隊員が放った麻酔弾はまたも外れた。驚愕の声がもれる。

『うううう〜〜!』

 瞳美は路面に落ち、絡みつくネットから逃れようとした。普通に脇から抜けている余裕はない。鉤爪のついた両手で、ネットを引きちぎった。

 ハイエナ人間になった自分の力は、きっと本物のハイエナ以上だった。金属製のワイヤーがぶちぶちと千切れ、瞳美は、息も絶え絶えに脱出した。

 その拍子に、盾を構えた警官たちの目の前に倒れ込んでしまった。

 狙撃要員の隊員が、あわててライフルを盾の隙間から突き出してくる。

『あ……』

 呆然とする瞳美。至近距離から発砲されたら、避ける術はない。

 そのとき、頭の中で声が響いた。本能の呼び声だ。

 ――噛みつけ!

 瞳美はそれに従った。従わざるを得なかった。

 ライフルの銃口に、正面から噛み付いた。

 猛烈な力の顎は、一瞬で銃身を噛み潰した。ワーハイエナの膂力はそれにとどまらず、ライフル銃自体を奪い取った。

 狙撃要員と、その周囲の隊員が巻き込まれて転倒する。他の隊員がそれをかばい、瞳美は盾を押し付けられ、もみくちゃにされた。



 数十メートル上空で、ククリと吸血鬼は切り結んでいた。

 二刀流のナイフと鋭利なアンカーが互いの体を狙い合う。重力を忘れたような、異次元の戦闘だった。

 上空から打ち込まれたアンカーを紙一重でククリが避けたと同時に、吸血鬼はその鎖を巻き取った。

 アンカーの鈎がククリの脇腹に突き刺さる。

「ぐぉ……!」

 そのまま鎖を振り回し、吸血鬼はククリを上方へとぶん投げた。赤いジャージを、紅い血が染めていた。

 苦痛のあまり、ククリの動きが一瞬止まった。

 その隙にコートの中から、吸血鬼が一挺の銃を抜いた。

 ウェイトの入った長い銃身、五角柱のシリンダー弾倉。馬鹿みたいな大口径のリボルバー拳銃だ。

 それを軽々と真上に向け、吸血鬼はトリガーを引いた。

 夜空に轟音が鳴る。狙いは正確で避けようがない。

≪――反応防御 リアクティブアーマー!≫

 ククリは妖術を発動させた。緊急時に身を守るための術だ。

 鋼の塊のような弾丸が肉体に触れる寸前、その狭間で炸裂が起きた。青白い光が爆ぜる。炸裂は、弾丸の軌道を逸らして銃撃を防いだ。

 当然≪反応防御≫の反動はククリをも襲うが、弾丸に貫かれるよりはマシだ。

 無言のまま吸血鬼は鎖を引っ張ってククリの動きを制限し、もう片方の手で次弾を放つ。

≪反応防御≫が再び閃き、ククリの体を衝撃が苛んだ。

 三発目、四発目。ダブルアクションの連射。妖力不足により≪反応防御≫の出力が弱まって弾丸を逸らし切れず、弾がククリを掠った。ジャージが千切れて焼け、鮮血が舞う。

『終わりだ』

 吸血鬼は、シリンダーに残った最後の弾丸を放つ。照準はククリの顔面だ。

 超音速の銃弾が命中する寸前、ククリはナイフのブレードを眼前にかざして防御した。ナイフの腹がかろうじて弾丸を弾くが、ブレードはククリの額を強打した。

 昏倒した九尾の狐は空を落下する。鎖が弛んで鈎が脇腹から抜けた。

 吸血鬼の腕から伸びて蠢く二本の鎖が、触腕のようにククリを捕えようとする。九本の尾は力なく広がっている。

 否、捕らえられる寸前、ククリの体は羽根のように鎖を避け、下方へと加速した。

 内野フライ失敗。そんなタイトルの画だった。

「馬っ鹿ヤローが」

 ククリは嗤ってみせる。

『……!』

 吸血鬼の背中に、ククリの人差し指が叩きつけられた。厳密には、指の先端で十円玉硬貨が。

 十円玉は青白い狐火を纏っている。銅貨を残してククリは落下していく。

 吸血鬼の背中で妖力が膨らむ。吸血鬼は落ちていくククリを睨んだ。マスクの奥で歯噛みして。

「あたしは帰る! テメェーも帰んな!」

 ククリの妖術がまたひとつ発動した。妖力を一点集中し、高出力の爆発が生み出される。

≪――狐狗狸の偽太陽 コックリサンファイア!≫

 夜空に猛烈な火球が広がった。


『あああああああうぅ!!』

 盾と警杖でもみくちゃにされていた瞳美は、吠えながら周囲の警官たちを弾き飛ばした。

 距離を詰めなくては銃器で狙われるため、どうしても懐に入って射撃を阻止するしかないのだ。

 瞳美も必死だが、警官たちの疲労も限界のようだった。

「よう、やってるね! お待たせだよ」

 ククリが、ふわりとビルの上に着地した。鈎と銃弾のダメージで、あちこちがズタボロだ。

『ククリさん!』

 瞳美はククリを見上げて悲鳴のような声を上げる。

「おいで。さっさと逃げちまおう!」

『はい! ……って、高いって!』

 ビルの上まで跳び上がるような芸当は、当然チャレンジしたこともなかった。 

「おまえならひとっ飛びさ。おいで!」

『〜〜〜〜!』

 思い切って膝を曲げ、バネを利かせて跳躍する。

 瞳美の体は、驚くほど高く跳んだ。でもあと一歩で、ククリの高さには届かない。

 屋上の角にぶつかりそうな瞳美を、ククリは腕を掴んで引っ張り上げた。

「ほら見な。届いただろう?」

『い、いえ……』

 荒く息をする瞳美を抱え上げ、ククリが飛んだ。ニシタマ市へ、怪奇雲の方角に向けて。

 あとに残されたのは、呆然とする警官たちだけだった。


 とんでもなく高い。瞳美がしがみつくと、ククリは姿を変えた。

 半獣形態から妖獣形態へ変化し、大きな九尾の狐になる。いつのまにか瞳美はその首筋をひしと抱いていた。

 街の明かりが遥か下にある。目を瞑って瞳美は死を意識した。

「はは、怖がることないよ」

 ククリの明るい声に、ゆっくりと目を開けてみる。ふさふさと毛を纏った狐の体温が伝わってきて、寒くなかった。

『……どうして、こんなことになったんでしょう』

 しばらく風を感じてから、瞳美は誰にともなく問いかけた。異様な出来事だらけでまともに頭が働いていないようだったが、ククリに助けてもらったことだけはわかる。

「ああ、おまえは元々妖獣の血筋が混じってるみたいだからね。≪狐憑き≫の反応を手掛かりに見つけて、迎えに来たのさ」

『は?』

 すごく衝撃的な説明を聞いた気がする。

「なんもなければずっと人間のままだっただろうけど、あたしの妖力波動の影響で、みごとワーハイエナに覚醒したんだねぇ」

『え?』

 ……つまり、ククリのせいでこんな事態に巻き込まれたということだろうか?

「それは違いないね!」

 勝手に瞳美の思考を読んで、ククリは回答した。

『ええ~~~~ッ?!』

 悲鳴を上げる瞳美をよそに、威勢よくククリは言う。低く立ち込める怪奇雲は、もう目の前だった。

「かみなり雲に突っ込むよ!」

 せいぜい全長五メートルくらいだった九尾の狐は、はじめに見た十メートル台にまでいきなり巨大化した。

『どうして大きくなるんです!?』

「雲の中には雷獣がいるからね! 打ち落とされないよう脅かしてやるのさ!」

 瞳美は突入した雲の内側から、青紫色の稲妻を見た。割れるような大音量が恐ろしく、しかし幻想的で、雷の向こう側にはなにか獣の影が見えた気がした。

 この世界は知らないことだらけなのだと、圧倒されるばかりだ。

 九尾ククリは分厚い怪奇雲を抜け、降下していった。


 ククリと瞳美は、あるビルの前に降り立った。

 ククリの姿が人間に戻る。しかしそれは中途半端で、狐耳と一本の尻尾を生やした、亜人形態と呼ばれる姿だった。赤の芋ジャージは相変わらずボロボロで、血の染みが黒く固まっていた。

 痛々しいその様子を見て、瞳美は心配そうにおろおろした。降りかかったトラブルの原因がククリだと理解していても、なにか手当をしてあげなくては、と思わずにいられなかった。

 対するククリは瞳美の心配などよそ吹く風で、ビルに招き入れようとする。

 赤紫の雲の下、佇立するビルの入り口には〝白山ビル〟と銘板が掲げられていた。

「ようこそ、我が領地へ! 歓迎するよ、ハイエナのお嬢ちゃん」

 この夜から尾瀬瞳美の、予測もつかない日々が始まるのだった。

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①病院ビルの九尾ククリの棲家 子鹿白介 @kojikashirosuke

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