其之拾肆 母譲り 【立志篇・第二段】
「ぎぃやぁぁぁぁぁ‼︎」
勝幡城寝殿に女の金切り声が響いた。それを聞いた柴田勝家は寝殿へと脇差をスラリと引き抜きドタドタと走っていった。
「何奴!今川の手先か⁉︎この柴田権六勝家が撫ぜ切りにしてやる覚悟いたせ‼︎」
勝家は例の部屋の前で構えた。しかし侍女たちは安堵するどころか更に震え上がっていた。
「さぁかかってこい!下郎共!女を斬る下郎共がっ‼︎」
しかし曲者はどこにも居ない。勝家は狐につままれた様に立ち尽くしていた。
「……池田殿の細君殿、曲者は?」
「曲者など居ませんよ!それよりも、若君様がっ‼︎」
「若君様が……如何されたかな?」
若君様が、と言われて勝家には御館様の御嫡男が思い浮かんだ。吉法師である。思わず勝家は乳母の腕に抱かれている幼子を見た。じたばたしている。それを数人の乳母が必死になって宥めている。そしてその乳母達の奥の方に侍女が一人、はだけた左胸を押さえていた。
「如何なされた⁉︎心でも痛むかっ⁉︎」
勝家は彼女が心臓を抑えていると思ったらしいが、それは違ったらしい。彼女は泣きながら力無く首を横に振った。そして胸を抑える両手を取り去った。勝家はギョッとした。
「なんたることっ……医者かっ⁉︎医者を呼ばねばなるいぞ‼︎……しかしどうしてそんなことが……」
彼女の乳首からは微量の白い液体とそれを超える量の紅の液体が流れていた。勝家はその紅の液体を初陣をしたこの年、いやと言うほど見てきたためそれには見覚えがあった。血だ。乳ではなく血が流れていた。勝家は滅多に見せない“戦慄”の表情をしていた。少し前まで構えていた脇差は床に向けてだらんと垂れている。
「……若君様が!」
別の乳母か叫んだ。
「若君様の気分がよろしくなかった様で……。お乳を噛みちぎられたのです!」
「なんと……おそぎゃあ子だぎゃあ……」
勝家は震え上がった。吉法師は彼らとは対照に安らかな顔をしていた。
“吉法師が乳母の乳首を噛みちぎった。”その噂は城中を駆けて回った。そして乳母達が最も知れて欲しくない者の耳にそれが入ってしまった。
「何ですって?あの子が?」
土田御前は切れ長で細い目をかっと見開いた。林秀貞は頷いた。
「あれがきっかけでおそぎゃーで乳が出なくなったとの事に御座います。誰か代わりを探さねばなりませぬが……。」
「……が?……どうしたのですか?」
土田御前は不機嫌になった。秀貞がなかなか「が」の後を言い出さないからである。
「その……」
「はよ申せ!この愚図っ!その口切り裂いてやろうか⁉︎」
土田御前は懐から短刀を取り出して抜き、切先を秀貞の鼻先に突きつけた。形相は、それでも美しいことに変わりはないが、恐ろしいものだった。思わず刀など見慣れた肝の据わっている秀貞でさえ男とは思えない声が漏れ出た。
「ま……ままっ……まずはその刀をお納め下されっ……話せることも話せなくなりますっ……」
秀貞は舌がもつれて“まあまあ”が言えなかった。土田御前は「ならばはよ申せ。」と言い捨てて凶器をしまった。
「……新しく据えた者もあと少しでやられ…いえ、……噛みちぎられそうになり、なんとか我々で引き剥がしたのです。……このようなことを申してはならないとは……思いまするが……その、他を当たっても、無理やもしれませぬ……。」
土田御前は表情を変えずにじっと秀貞を見て話を聞いていた。勝幡城東院の空気は張り詰めていた。
「……ならば本人に選ばせましょう!誰の乳が好きか。」
土田御前は急に元気になった。秀貞は思わず無礼にも「はい?」と言ってしまった。まずい、この前では首を飛ばされる、そう怯えた秀貞であったが土田御前はそんなことも気にせずに続けた。
「乳母を集め、吉法師に一人一人乳を与えさせ、吉法師の気に召した者を後任に据えるの。」
土田御前は早口で言い終えてしまった。秀貞がぽかんとしていると、土田御前は舌打ちをした。
「よいから早くやらぬか‼︎」
「は、はっ!」
秀貞はうち立ち、寝殿への廊下を慌てて走っていった。
戰國平定錄【立志篇】 天ッ風 月読丸 @netsumura
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