其之拾参 上に立つ者 【立志篇・第一段】
「それは誠か……男か。そうかそうか。よくやってくれた。して、妙は?無事なのであろうな?」
まだ信秀は固まっている。顔が険しいということは障子の外にいる侍女の付き人にも、声の震え具合から安易に想像できた。侍女は口を開いた。
「奥方様は無事に在らせられます。今は若様を産湯に使わせているのを安堵された様子でご覧になっておられます。」
信秀は堰を切ったように涙を流した。そして声をあげた。男の泣いているとは思えない程に泣いた。
「大事無いか!そうか!……良かった。良かった。……良かった。ああ、良かった。」
信秀は泣きながらではあるがやっと笑い出した。「良かった」の文言を壊れたかの様に何度も何度も慈しむように言い続けた。勝幡城本丸の主殿には歓喜の嗚咽と「良かった」がひたすらに響いていた。
して、この男児には程なくして名が与えられた。この男児は嫡出では長男だが、信秀が町娘や名の知れぬ家臣の娘とこさえた子を勘定に入れると三男であったため、単純に三郎と名付けられた。もう一つの名前、諱は、人の師となれるほどの高い学識や経験を持った聡明な人間となる事を願い、吉法師と名付けられた。織田三郎吉法師である。因みに信秀の家名も三郎であった。自分の様になって欲しいという願いも込められているのかも知れない。これは信秀が口に出さなかった為真相は闇の中である。
「ようやったぞ妙!儂は其方が無事で何よりじゃ!」
信秀は土田御前のいる寝殿を訪れた。やっと先ほどの侍女から面会を許されたのである。吉法師が生まれてから早一週が経っていた。
「おお、おお。この子か!ほれ、こっちゃあ来い!……」
土田御前は吉法師を信秀の腕に移した。吉法師はぼおうっとしていた。
「あ、見てみぃ。おみゃーに顔がそっくりだがや!」
信秀は上機嫌で言った。確かに土田御前の様に端正な顔つきをしている。
「でもこの目は、おみゃーさまに似てることない?」
「それは……儂の顔を見た事がないから分からぬな。だははは!」
吉法師は泣き出した。信秀の大きな低い声にびっくりしたらしい。吉法師は父の腕からの逃亡を試みた。
「おお、暴れるな!落ちたら危ないぞ!」
信秀はすかさず抱き直す。捕まった吉法師は更に暴れた。見兼ねた土田御前は信秀から吉法師をやんわりと取り上げた。
「母が恋しいのですねー?よしよーし。ふふ、めんがらしい子。」
吉法師は泣き止んだばかりか喜び出した。
「何じゃ?ととさまは嫌いか?」
信秀はしょげた。そして、奇しくも吉法師は右手で信秀を払いのける様な仕草をとった。
「何だと⁉︎……ふっ。ははははは!こいつ、儂のことを払いのけおったぞ!気が強いのもおみゃーに似たようだがや!」
「やめやぁ!……気なんて強くありません!……もう!」
土田御前は頬を赤らめながら笑って信秀をどついた。ここだけ見ていると今は戰の世であることを忘れてしまいそうである。
「……いつもがこんな日なら、どんなに良いことか……」
信秀は寝殿から庭を見つめた。そこには静かな石庭が広がっている。苔の生えた岩の山の合間を砂利がゆったりと流れている。その砂利の大河は波紋を変えずにそこにあり続けていた。——砂利は流れないのだが。この庭で時に応じて移ろいゆくのは苔の胞子嚢と、どこからか咲いた、一輪の小さめの青紫の花である。この花は数年前から咲いている。信秀はそれを見ていた。
「お、また今年もあれが咲いたぞ!名は知れぬがどえりゃー美しい花だわ。毎年毎年水無月が来ちょーたんびに砂利を掻き分けて咲いてくる。そうだ!」
信秀は何を思ってか徐に立ち上がると庭へ出た。砂利の波紋を崩さぬ様に石橋を渡り、飛び石を歩いてその青紫の花の場所まで行った。そしてそこの砂利を掻き分けて花を助け出してやった。
「どれ、これでいいだろう。」
信秀は来た道を戻り、吉法師の元へ戻った。吉法師は土田御前の腕の中でご機嫌であった。
「ほれ、吉法師。綺麗だろう?おみゃーさまもあの花の様に瓦礫を押しのけて押しのけて逞しく生きてきんさい!」
信秀は力強くそう語った。土田御前は先程の失態をするまいと必死に吉法師をあやしつけている。
「それから、儂の様に、弱き者を瓦礫から救ってやる様な、優しい武士となりゃー!武を持って民を脅しつけちゃいかん。おそぎゃぁ、おそぎゃぁ思っとる民が従うなんてたーけた話はあらすきゃあ。民は民の為に尽くしてくれる主を求めておる。民の為に如何なることが出来るか、おみゃーさまが想像するよりもまっとかんこーするのが上へ立つ者の心得で……」
「おみゃーさま、吉法師はもーはい寝たがや。寝せてやってちょーよ。」
「そうか……。そうだなも。いつ斬られるかも知らんこの世。好きなだけ寝かせてやろう。少なくとも今だけは。」
信秀はだらんとした吉法師の腕を戻してやった。吉法師は幸せそうに寝ていた。庭先の青紫の花はしゃんと立ちながらも、少し弱めの潮風に吹かれて揺れながらその様子を見ていた。天文三年の五月も終わる昼下がりのことである。
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