本文
それはまるで世界中の絶望を集めたかのような光景だった。
空間がどんどんと崩れ去り、逃げ惑う人々を飲み込んでいく。
ゆっくりとゆっくりとそれは確かに世界を壊して行っているかのように見えた。
人間も動物も関係ない。
死は誰にでも平等に訪れる。
それから逃げることはもはや不可能のように思えてくる。
「お母様、お父様」
逃げ惑う人々の合間を少年は風のように切って走る。
父親と母親を必死に呼び、少年の腕の中で暴れまわる少女を何とか抑え込んで、少年は走り続けた。
行く当てなどない。
世界が崩壊し始めた今、この世界のどこにも逃げ場などないのだから。
それでも、何も知らないこの少女を、たった一人、この世界に連れてこられたこの少女を、なんとかして助けることだけを考えて少年は走り続ける。
足を痛めても、腕から大量の血が流れても、少年の足が止まることはない。
走った距離も時間も分からない。
ただ走った。
ただ逃げた。
行き先もなにも分からぬまま。
腕の中で叫んでいた少女はいつの間に深い眠りについていた。
きっと叫び疲れたのだろう。
自分の置かれている状況などきっと理解できていない。
いや、理解しても信じたくないはずだ。
少年だって信じたくなかった。
幼い頃から自分の世話をしてくれた人達が、この子の両親の命が、もう潰えてしまっていることを。
今すぐにでも引き返したかった。
彼らの名を呼びたかった。
その思いを捨てて少年は走り続ける。
彼らに託されたこの小さな命を守るために。
腕の中の少女を見れば、とても穏やかな顔だった。
それを見れば走り疲れて痛い足も、血が流れ出る腕の痛みも、全てを忘れ去れるような気がした。
少女は真っ暗な世界に差す一筋の光だった。
周りの人間の叫び声も、わめき声も、少年の耳には届かない。
静寂。
まるで少年の世界から音が消えたようだった。
人々の叫び声も、崩れていく建物の音も何も聞こえない。
少年は走る。
命からがら逃げ続ける。
世界の崩壊が始まってどれくらいの時が過ぎただろうか。
「少年」
走り続けた少年の前に一人の女性が立ちふさがった。
少年はゆっくりと足を止めた。
なんとなく、そうしなければならない、そんな気がした。
どこか穏やかな雰囲気の女性だった。
身長はそれほど高くなく百五十センチ前後。
白いドレスに身を包んでいた。
あったことなどないはずなのにどこか懐かしい雰囲気を感じる。
「もう大丈夫」
大丈夫ではないはずだ。
今も少年の後ろでは世界の崩壊が起こっている。
それでも、その声に少年はホッと胸を撫でおろした。
その女性は少年の手の中ですやすやと眠っている少女を抱きかかえる。
「この子は、私が責任もって育てます」
初対面の誰とも知らない女性にそんなことを言われても信用できないだろう。
普段の少年なら間違いなくやめてください、と女性の手から少女を奪い返していたはずだ。
だというのに出てきたのは正反対の「よろしくお願いします」という言葉だった。
「よく頑張りましたね。今はゆっくりおやすみなさい」
ああ、もう大丈夫なのだ。
少年の心に広がったのは安堵だった。
なんの根拠もない。
この女性が誰かも分からない。
それでも、少年にはそう思えたのだ。
「一度、楽になりなさい。あなたたちは再び出会う。それがきっとその姿でなくても。それまでしばしのお別れですよ」
女性のその言葉を少年がどこまで聞こえていたのかは定かではない。
安堵した少年の意識は徐々に闇へと沈んでいく。
「アフィーリア様、どうぞ、ご無事で」
最後に願うのは少女の安全。
少年の願いは少女の耳には届かない。
それでも少女を抱きかかえた女性は笑顔で頷いた。
その穏やかな笑顔を見てから、少年は意識を手放した。
「ここにも、僕の記憶の手掛かりはない、か」
廃墟となった超巨大なビル群の中心でクトラフは一つ大きなため息をついた。
周りには見上げなければいけないほどの巨大なビル、ビル、ビル。
緑のツタが表面を覆い、今にも崩れそうなビルも多数ある。
そのビルとビルの間にできた道にクトラフは立っていた。
全身に黒いローブを纏い、手には怪しげな黒い刀身の剣を握っている。
身長は百七十センチより少し上ぐらいだろうか。
黒い髪はぼさぼさだが、手入れをしていないわけではなさそうだった。
クトラフの周りにはすでに息絶えている魔獣が数十体転がっていた。
その返り血がクトラフの整った顔にべったりとついていた。
「あら、残念。私とあなたの旅もここまでかと思ったんだけどね」
クトラフの手に握られた剣がつまらなそうに口を開く。
最初はなれなかった剣がしゃべっているというこの状況も今ではすっかり日常の一部へとなっていた。
「そうだね、僕もそろそろ君と離れたいと思っているんだけどね」
もちろん本気で離れたいとは思っていない。
この剣とはもう長い付き合いなのだ。
今更居なくなられて困るのはクトラフの方なのである。
だからこれはちょっとした仕返しだ。
「ちょ、そ、それ、本気で言ってるの? だとしたら怒るわよ」
だが、あいにく今日の彼女(剣なので彼女ではない可能性も大いにあるが)には冗談が通じないようであった。
少し低い声で怒りを隠そうともしない黒い剣。
二人(正確には一人と一本だが)の間に不穏な雰囲気が漂い始めた時のことだった。
地面からゴゴゴという地鳴りと共に、クトラフの前に立っていた巨大なビルがゆっくりと崩れ始める。
「ちょ、クトラフ。何が起こってるのよ」
「僕に聞かれてもわからないって」
二人がそう言いあっている間にもビルはどんどんと崩れていく。
「ねぇ、これって」
崩れていくビルの下から現れた巨大なものに二人は目を疑った。
「うそ、よね。ねぇ、クトラフ。私の目が可笑しくなったのよね。クトラフには何も見えてないわよね」
黒い剣はパニックに陥ったように叫びまわる。
「そ、そうだったら、よかったよね」
そういったクトラフの声は明らかに震えていた。
目の前に現れた巨大な人型の何か。
「き、聞いてないわよ」
剣がいつもより数段高い金切り声を上げる。
「こんな小規模の迷宮街に、こんな機械魔術兵器がいるなんて。ねぇ、クトラフ速く逃げましょ。それならまだ助かるかも」
「無理だよ」
震える手をどうにか押さえつけてクトラフは冷静に返答した。
クトラフの目には完全に立ち上がった巨大な人型魔術兵器。
体は石で作られ、かつて人間が作ったというロボットの様な体。
その巨大な魔術兵器が一歩足を踏み出せば、あちこちに大きな被害が出ることだろう。
クトラフは手に握り絞めた剣を一度しっかりと握り直す。
「戦う気! クトラフ。あなた正気なの!!」
「正気だよ。魔術兵器、僕は一度は倒してる。それは君も知っているはずだ」
「あのときとは訳が違うわ。大きさも、雰囲気も、あの時のやつとは比べものにならないわよ」
「分かってる」
クトラフがそれを声に出すことはない。
きっと剣も分かっている。
こんな巨大な魔術兵器、それから逃げおおせる事の難しさを。
戦うと逃げる、どちらも待っているのは死だと。
ならば、もう一度クトラフは剣の柄を握りなおす。
「行くよ」
クトラフが覚悟を決め、地面を蹴ろうとした。
その瞬間だった。
「お、に、い、ちゃーん」
魔術兵器の胸の部分が開き、そこからみしらぬ少女がクトラフの胸の中に飛び込んでくる。
戦闘直前の出来事にクトラフも剣も驚きを隠すことができない。
「は?」
「へ?」
動かなくなった魔術兵器の前で一人と一本の間抜けな声が響き渡った。
③記憶喪失黙示録 焔ホムラ @miturugisin
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