荒れ狂う嵐の中、それは唐突に起きた。

 直刀を霧の繭に突き立てて破ろうとしていたタカラは、その堅牢さに手を焼いていた。叩けば千切れるほど脆いものが、直刀を突き立てた途端に鉄の如き硬さを誇りだす。全身で体当たりのようにしても同じことで、痛む箇所が増えるだけだった。

 どれほど繰り返したか──柄を握る手は痺れて赤くなり、腕の筋肉は張っている。砂浜と雨まじりの暴風が気まぐれにタカラの体をすくっては転ばせ、力には自信のあったタカラの息も次第に上がっていく。肩で息をしつつ、唾を飲み込んで立ち上がる。

 汗は雨に混じって流れていった。腰を落とし、柄を両手で握りしめて踏み込む。砂が踏み込みの力を逃がしてしまうのを苦く思いながら、タカラは全身で直刀を突き立てた。だが、刃が震え、痛みを伴う衝撃が体を巡るだけである。申し訳程度の欠片が横切るも、それ以上の効果はなかった。

 喉の奥に押し込めていた息が戻り、タカラは俯いて胸元を握りしめる。雨と共に逃げなかった汗が額から手へと落ちた。その雫が手に宿る熱を奪って更に落ちていく。

 歯を食いしばり、もう一度と面を上げた時だった。直刀で突いた部分に黒い線が走る。初めての変化にタカラは目を見開いた。黒い線は瞬く間に繭の表面を駆け巡り、まるで割れる前の卵のような姿になった後、変化を止める。

 タカラは呆然とそれを見つめていたが、静かになったところで意を決し、踏み出す。黒い線と繭の両者の間に、表面においての差異はなかった。傍目には墨を引いただけのようにも見え、触れても同じだった。

 繭はいくらか固くなったが、その分、堅牢さが増した。叩いても斬りつけても微動だにせず、なまじ期待を寄せていただけに落胆が大きい。タカラは逸る気持ちを抱えながら拳を強く握り、繭を睨みつけ、息を大きく吸った。

「……アトリ!」

 これまでで一番に大きな声であった。その声は嵐にも怯まなかった。雨粒を叩き、暴れる風にも噛みつく。様々な感情の混じった言葉は、複雑な色を成していた。

「戻れ! こっちに来い! お前が本当に怒るべきは、おれだ!」

 タカラの飲み込んだ息に雨と海が混じる。舌が砂でざらついた。

「戻れ! アトリ!」

 黒い亀裂が色を深くする。常人にはわからないほど些細な変化の後、霧の繭は突如として爆発した。

 内側に押さえ込んでいた暴風が繭を破壊しながら飛び出し、傍にいたタカラの体は海岸沿いの低木の茂みにまで吹き飛ばされた。風は霧の繭の破片を吹き飛ばし、雨を遠ざけ、嵐を破り、天を貫いてその黒雲に穴を開けた。そのさまは遠方からでも確認でき、ウフキを助けに来ていた組の面々は呆然と見上げた。

 穴の開いた黒雲は息絶えたように静かになった。渦巻く雲はその流れを止め、大小の塊となって千々に切れる。漂うだけとなった雲は陸からの風に押されて、一つまた一つと先達を追いながら旅立っていく。その内に、駆け足の雲の隙間から陽光が粛々と階を下ろしていく。やわらかな光の中で舞う繭の破片が、光の粒を散らした。

 やがて、彼方に青空が顔を出す。冴えない青の中で、黒雲はよりいっそう牙を抜かれていく。

 中空にある繭の欠片と遊ぶように、一本の風が海へと駆けていった。




 気絶したタカラの手が緩慢な動作で砂を握った。その感触を確かめるように何度か手を動かした後、わずかな呻き声と共に起き上ろうとしたものの、左腕を支えにしたところで崩れ落ちた。低木に叩きつけられた衝撃で折れたようだった。

 タカラは深呼吸を繰り返して痛みを宥め、片腕で体を起こした。そして低木の枝を頼りに立ち上がろうとした時、目の端を横切るものに気付いて動きを止める。

「……雪」

 見上げた空は既に嵐の装いを脱ぎ捨てようとしていた。射し込む陽光は少しずつタカラの体を温めていく。驚きつつ出した手の先にその一片が降れると、ふわりと散じて消えた。爆発して散じた霧の繭の破片のようだった。それがちらちらと降り注いでは何かに触れるごとに、霧と散じて消えていく。消える際には微かに緑の匂いがした。

 タカラははっとして辺りを見回す。軋む体を無理やり動かして身を乗り出し、視線を巡らせた。小さな白い花が咲いては消えるような光景の彼方、段々と太くなりゆく光の階を背に海岸線で佇む大きな影がある。それはゆっくりと浜へ進み、タカラの姿を丸い瞳に収めると安堵したように倒れこんだ。背に乗った小さな影が傍らに落ちる。

「アトリ……!」

 タカラは強引に体を動かして駆けだした。何度も転びながら駆け寄ると、倒れたアトリと乗騎の鹿を波が洗っていた。鹿の胸は動くことなく、半分開いた瞳は空を映している。タカラは息を飲んでアトリの傍らに膝をつき、波に飲まれないよう顔を持ち上げて頬に触れた。指先に氷のような冷たさが宿り、瞬間的にタカラの息は詰まる。しかし、耳を顔に近づけると微かな呼吸音が聞いて取れた。タカラはアトリの体がこれ以上濡れないよう、陽の当たる所まで引っ張っていく。

 その途中、誰もいないと思われた砂浜で行き違いに海へと向かう人影があった。後ろ向きだったとは言え、砂を踏む音も聞こえず、すれ違う瞬間まで気づかなかったタカラは驚きつつその背を見つめて目を丸くする。

「……ココ様」

 長い黒髪に白い装束──ココであった。しかし、タカラの知る姿より背が低く幼い印象を受ける。よく似た姿をタカラはかつて集落で見かけており、思わずその名を口にした。

「──トトカラ?」

 その人物は振り返ることなく裸足で進み、息絶えた鹿の前に立つ。そして膝をつき、鹿の額に口づけをした。途端、硬直の始まっていた肢がわずかに動く。タカラは息を飲んだ。かの人が体を離して立ち上がると、鹿の四肢は空を駆け、ぐったりと落ちるだけだった太い首が起き上がる。そして何度か体を動かす内にそのひと蹴りが砂をとらえ、巨体を一気に持ち上がらせた。鹿は首から尾まで丁寧に体を震わせて砂を落とし、目の前の人物へ鼻を近づける。

 鹿の顎を撫でながら、穏やかな声が聞こえた。

「……せっかく託したのに、君が置いて行ってはいけない」

 白い手が首筋を軽く叩くと、鹿は軽く首を振った後にタカラたちの元へと歩き始めた。先刻まで息絶えていたとは思えない。毛先にまで生気を満たした鹿とその人物を前に身動きが取れずにいたタカラは、ようやくの思いで声を絞り出す。

「……お前は誰だ」

 かすれるタカラの声に促されるようにして、それは振り向く。瞬間、一筋の風が海より吹いた。突風は砂を巻き上げタカラへと突進する。

 真正面に風を受けたタカラは咄嗟にアトリの体を守るために覆いかぶさり、手を掲げて振り向いた顔を確認しようとする。しかし、風は強く吹き続けてタカラを拒む。

 その中で、声だけはやたらくっきりと耳へ届いた。

「また会えるよ」

 不明瞭な視界の端で踵を返すのが見える。「待て」とタカラは叫んだが、裸足は海へと進んだ。そしてもう一度声を張り上げようとした時、アトリの乗騎が間に入ってタカラの顔をなめる。

「お前、おい、こら」

 巨体が壁となって風を受け止めるものの、タカラの視界には邪魔である。何度も避けようとするタカラを鹿はしつこく追いかけ、そうしてたしなめる内に風は止み、ようやく鹿を脇に避けさせると海岸にその姿はなかった。

 無数に舞っていた霧の欠片もいつの間にか消え、嵐の跡だけを残して日常が回帰する。空には鳥が戻り始めていた。

 顔を袖で拭き、タカラはぼんやりと海を見つめる。膝の上ではアトリが穏やかな寝息を立て始めており、先刻よりも頬に血色が戻りつつあった。

 様々なことがタカラの前を通り過ぎていった。そのどれをもタカラが中心を捉えることは許されず、先刻のように触れることが出来たのは奇跡とも言える。タカラは大きく息を吐いてアトリの乗騎に告げる。

「……帰ろう」

 遠くから声が近づいてくる。ゴザたちが迎えに来る声だった。




 様々な鳥の声が響く。小さな声が重なって会話をしているところへ、大きな羽ばたきの音が覆いかぶさった。お喋りの小鳥たちは飛び去り、辺りは静かになる。枝でふんぞり返っているのは鷹である。頭を巡らせて周囲を見渡していたが、すぐに飛び立ってしまった。反動でたわむ枝から散っていく葉を、一筋の水がすくいあげる。

 その水は地を走るかわりに、中空を駆けていた。葉を巻き込んだ水は糸のように伸びて木々の間を縫う。後から追いかけてくるもの、先を行くものと水の糸は先を争うように勢いを増していた。

「頭を低くしろ」

 面越しにイチジが指示をする。アトリはその通りにした。頭上を数本の水が通り抜けていき、雫が外套に落ちる。

「これも毒?」

「人にとってはな。だから触るなよ」

 移動する、と言ってイチジは体を起こす。二人は水の合間を縫って走った。竜の皮をなめした靴が湿った土をうまく跳ね返す。多分に水を吸った山肌はぬかるんでいた。その上を事もなげに走るイチジの後ろを、アトリは必死になって追いかける。転ばないだけ上等、と彼らに笑われる走りだが、ここに至るまで一年かかった。

 彼らは体の扱いも鹿の扱いも上手い。ぬかるむ山肌を抜けて渓流へ出ると、イチジは岩の上を跳ねるように走っていく。竜革の靴は決して軽くはなく、それを感じさせない軽業の数々をアトリはこの一年で目にしては打ちのめされた。息の上がり始めたアトリを微かに振り返って、イチジが「急げ」と言う。岩に手をつけず、跳躍だけでどうにか追いかけられるようになったアトリは舌打ちをした。

 それでも追いかける、一年前にそう自分で決めた。

 渓流の傍を水の糸が走る。数本から数十本へ、そして束となって先を急ぐ。渓流を抜ける手前の巨岩の影でイチジは足を止め、アトリは数秒遅れてその隣に立った。

「遅すぎる。もう少し急げ」

「……わかった」

 荒い息を繰り返しながら応え、アトリはイチジの視線の先を窺った。渓流の終わり、そこは深い山間の沢である。曇天のせいで密度を増した杉の影を水の糸が縫い、悠然と漂う瘴気が辺りの輪郭を濁していた。イチジとアトリは装備を整え、更に窺う。すると、沢の上流から水の弾ける音が聞こえる。ぶつかり、落ち、弾け、水と水が重なる音が束となって近づいてくる。

「来るぞ」

 アトリは頷いて竜革の靴を脱いだ。その下には通常の革靴を履いており、紐をきつく結びなおす。腰には蛙笛、薬玉、小刀、背に弓矢、外套を脱げば更に身軽となる。

 重なる水の音が迫った。アトリが顔を上げると、ちょうど山の影から巨大な頭が見えるところだった。

 それは透明な竜であった。深奥で湧き続ける水、あるいは洞窟の地底湖のような、光と数多の死骸を飲み込みながら濁ることのない、静寂をたたえた冷たい水──それが竜の形を成している。枝のような角を持ち、左右の耳に飛び出た四つの鰭、透明の目が三つ。四肢はなく、背から長大な翼が伸びて風を掴んでいた。

「雫の竜だ。万年雪の雫から生まれてくる。気性は穏やか、初心者向けだ。いいか、竜の前にも後ろにも行き過ぎるな。傍にいる。それだけを心がけて、あとは教えた通りにやれ」

「わかった」

「よし。行け」

 アトリは岩の影から飛び出した。出来る限り爪先で走るように、枝は踏まず、水の中を走るのは避ける。無用な音は竜を刺激する。特に人が発した音に彼らは敏感だった。穏やかな雫の竜であれば怯えさせてしまう。

 雫の竜は骸になりかけていた。かろうじて正気を保ってはいるものの、澄んだ体から放たれる瘴気は竜を追いかける内に日々濃くなっていた。長い体の横を走りつつアトリは頃合いを見計らった。

 沢を挟む山の片側、一か所だけ地滑りで崩れて稜線が低くなっている所がある。イチジらと共に下見をした際、見つけていた場所だった。更に地滑りが広がらないかと危惧していたが、幸いにも下見の時と様子は変わっていない。

 アトリは蛙笛を取り、背の矢筒から矢を抜いて先端に括り付けた。そして竜の腹の下をくぐり、地滑りしている箇所の傍を駆け足で上る。そして中腹まで来たところで木に登り、枝にまたがって矢を崩れた稜線に向けてつがえた。

 雫の竜の頭が地滑りの下に来た時、弓を思い切り引いて矢を放つ。矢の勢いで風を飲み込んだ笛の音が、空気を震わせながら稜線を越えていった。

 アトリは木の上から竜を振り返った。頭の中ほどまで進もうとしており、アトリは下唇を噛む。

──届かなかったか。

 だが、次の瞬間、樹上のアトリの横を水の糸が通り抜けていった。初めは数本、次第に数十本と増え、それらの後を追うようにして雫の竜の巨体が地滑りした山肌を上り始めた。腕を掲げて顔を守りながら、アトリは流れゆく長大な体を見つめる。その中には木々や葉が浮かび、どこを通って来たのか季節外れの花がちらちらと色を添えていた。

 竜の頭が稜線を越えようという瞬間、山を越えた向こうからその時を見越したかのように同じ笛の音が、同じ方向へ飛んでいく。霧の竜は体をそちらへ向けていき、そうして稜線の彼方へ尾の先が消えた。

 アトリは木から降りた。瘴気は次第に薄くなり、水の匂いはたちまちに消えていく。辺りの風景がはっきりとするまで待ってからうつ鏡と面を外し、大きく息を吸い込んだ。水を含んだ土と少し腐った葉の匂いがする。

「……馬鹿者。風向きで瘴気が戻ってきたらどうする」

 下でイチジが睨みつけていた。

「この時期、この辺りでそんな風の吹き方はしない。それより、いいのか。駄目なのか」

 イチジは頭をかいて溜息をつき、「腕は」と尋ねた。アトリは頭を振って応じる。

「……まあ、足手まといにはならんだろう。明後日には出るから集落に戻ったらすぐに準備だ」

 アトリは吸い込んだ息を詰め、そして吐き出しながら「わかった」と答えると、蛙笛つきの矢を拾いに山を上っていった。




 集落に戻って自身の天幕をめくり、アトリは小さく息をついた。靴を脱ぎ、道具や装束をその場に置いて寝転がる。軽くなった体を何枚も重ねた敷物の上に横たえるとひんやりとした。人のいない天幕は静かに温度が下がっている。

 寝返りをうった先には畳んだ寝具と小さな行李があった。元から荷物は少なく、トトカラを失って更に減った。ここ一年では逆に増えた方で、行李はそれを見かねた女衆から譲り受けたものである。使い込まれた表面はうっすらと光を跳ね返し、アトリはその網目を指でなぞっていた。右手は問題なく滑らかな感触を伝える。アトリの視線は行李から右腕に巻いた包帯へと移り、その結び目を解いた。

 包帯の下から顔を覗かせたのは、二つ並んだ黒い穴である。その前後にある小さな丸い傷の列は一年かけて引き攣れとなったが、この霧の竜の牙の痕だけは穴として残った。触れれば腕の感触はあるが、光の下にあっても黒い。竜に噛まれたせいか、それとも場所のせいか、人にはわからない範疇のものだ、とハハキは言った。

 痛みも熱もなく、腕としての機能は十分かそれ以上、右腕だけ腕力が倍以上になり、更には遠くにいる竜のことがわかるようになった。穴を瞼に押し当てるようにすると、風と土の匂いがアトリの意識を外へ飛ばす。それは山を越え、谷を越え、雲の彼方を飛び越えて彷徨う竜を見つけ出す。姿かたちまでははっきり見えないものの、そこに竜がいる、ということだけは確かにわかった。

 アトリは起き上り、革袋から折りたたんだ地図を取り出す。これまでは地図など必要とせず、皆の後をついていくだけで良かったが今後はそうはいかない、とイチジに叩きこまれた。見えた地形を思い出しながら辿り、場所の見当をつける。遠い北の果て、断崖の連なる海岸線に近い。

 あれ以来、竜は静かだった。骸が生まれることはなく、放浪する竜もいない。おかげでイチジはつきっきりでアトリの教育に当たれたが、常になく静かな一年は否が応でも不安を誘う。他の迅人が各地へ飛び、時々に帰ってはくるが頭を振るばかりであった。

 死が歪んだ──アトリの脳裏にココの言葉が木霊する。悪い予兆でなければよいが、と皆で話していた矢先、アトリの右腕にこの変異が訪れた。すると次第に竜の骸も見られるようになり、イチジがアトリの出立の日を決める契機にもなった。

 竜が見えたらゴザとイチジへ報告するよう言われている。アトリは天幕を出ようとしたが、そこで足を止めた。

「今、いいか」

 入口にタカラが立っていた。アトリが頷いて中へ入れようとすると「ここでいいよ」と断る。

「……出ていくのか」

 ああ、と頷いたタカラの姿は旅装だった。直刀と短刀を佩き、大きな背嚢には簡易式の天幕と蓑がくくりつけられ、革で作られた外套と手袋はいかにも重そうであった。殯に使うのとは異なる、完全な旅装の出で立ちである。

「昨日、やっと長の許しを得た。組長やハハキ様もそれで観念した。皆の気が変わらないうちにと思ってね」

「タカラまで出ることはない」

 タカラは笑う。

「違うな。迅人見習いは出るとは言わない。お前はここに帰るために行くんだ。でも、おれはそうはいかない」

「……私への償いのつもりなら迷惑だと言った」

「おれには必要なんだ。そうさせてくれ。それでおれが満足するだけの……まあ、これもまた独りよがりな考えで、こういうところが駄目なんだが……」

 タカラは深呼吸をした。

「……おれは知らなすぎる。ここで笛吹きとして先頭を走るのもいいが、それでは駄目だ。一年前の件で頬をひっぱたかれたからかな」

「そういう我儘の方がまだいい。私への償いは本当に考えないでほしい。私はそうされる必要はない。しなければならないのは私の方だ」

 そうか、とタカラは呟いて空気を柔らかくした。

「いつ出発する」

「明後日」

「どこかで会うこともあるかもな。じゃあ、元気で」

 手を挙げて去ろうとしたタカラを、アトリは呼び止める。不思議そうな顔で振り向いたタカラの胸に、アトリは指を突き付けた。

「どこかでお前を見かけたら、笛を吹く。だからタカラもそうしろ」

 目を見開くタカラの前で、アトリは頬を緩めた。

「下手な音を出したら許さない。お前の笛はトトカラも好きだった。……憧れるほどに」

 タカラは目を赤くして頷いた。

「毎日練習するよ」

 アトリも頷いて指を離す。タカラは手で目をこすった後、踵を返して天幕を出る。足音は遠ざかり、やがて別れを惜しむ声を残し、ゆっくりと蹄の音が消えていった。




 翌日、行李に衣類を詰めていたアトリの元へ、ウフキが顔を出した。その手には鞘に収まった小刀が握られ、思わず身構えるとウフキは顔をしかめて外を示す。

「迅人がそれじゃ恥ずかしいわ。切ってあげるから、こっち」

 アトリは髪の毛をつまんだ。組に入る以上、あからさまに女だとわかるような姿ではいけないと、アトリは容姿への関心を一番下げていた。おかげで傍目には男にしか見えなかったが、迅人として訓練を積み、出発への日取りが明らかになるにつれてウフキが顔をしかめるようになった。

 一年前の出来事以来、ウフキのアトリに対する憎悪は綺麗に消えていた。無論、それまでのしがらみまでも消えるわけではないが、日常の会話程度なら抵抗なく行う。これには誰もが驚き、初めは身構えていたアトリも次第にその警戒を解いていった。ウフキの態度はそれからも変わることなく、一年をかけ段々と軟化していった。

 ウフキと共に外へ出たアトリは、天幕の傍に置かれた椅子へ座るよう指示された。どうやらウフキが用意したものらしく、同様に準備してあった大きな布を首からすっぽり被らされた。

「じっとしてなさいよ。余計なものまで切られたくなかったら」

 態度は軟化したが、言葉の厳しさは変わらない。それでも、氷で刺されるような痛みを感じることはなくなった。

 小刀が伸ばしっぱなしの髪を滑り、その先から重みが消える。切られた髪の房が覆った布を滑り落ちていくのを、アトリは目で追っていた。

「明日出るんだってね」

「日の出と一緒に」

 なりたての迅人の出発は日の出と共に行うと決められていた。見送りは最小限、一族の者は天幕の内よりその無事と活躍を願うものとされている。

 ウフキが「変なしきたり」と言って笑う。

「それにあんたも私も振り回されていたわけだけど。何を好き好んで、また迅人なんてものになりたいんだか」

 清々とした口調にアトリは強張っていた肩を緩めた。

「私は生き方がわからない。だから、その方法を少しでも多く知りたい」

「あんた、ここには合わなそうだもんね。イチジは喜んでいたけど」

 アトリが微かに振り返る様子を見せると、ウフキが両手で元に戻す。

「組に入れるのは勿体ないって、父さんに何度も愚痴っていたのよ。自分の跡継ぎくらいには考えているんじゃないの」

「ニズカラがいるのに?」

「ああ、あれは駄目。性格悪いもの」

 ウフキは後ろ髪を切り終えると、アトリの前に回って前髪に小刀を当てた。その手の動きを見つめながらアトリは問う。

「もう、痛まないのか?」

「腕? 痛まないけど、前みたいに動かすのはもう無理ね」

「弓も?」

「遠くへは飛ばせない。だから組へ入りたいっていうのは諦めるしかないわ」

 というか、と続けてウフキは苦く笑った。

「それもあんたへの当てつけからだもの。当てつける相手がいないのに組へ入ってもね。タカラもいないし」

 アトリは視線を落とした。ウフキは前髪を梳いて落としながら言葉を続ける。

「だからといってタカラを諦めたわけじゃないし。あと、私、ハハキ様から巫女の教えをいただくことになったから」

「え!?」

「わっ」

 アトリが思わず顔を上げた反動で、片側の前髪だけがざっくりと落ちていった。やたら明瞭になった視界の先ではウフキが顔をしかめて小刀を握っている。

「……これあんたの所為だからね。まったく、仕事増やして」

 長いままのもう片側の前髪をどう処理したものか、とウフキは手を伸ばす。

「巫女の教えをいただくって……」

「そのままよ。一年前の件でハハキ様はもう巫女のお勤めを果たせなくなったんですって。で、一族の中では私が適任だったってだけ。まあ、組に入れないにしてもどうにかして直接竜に関わりたいとは思っていたから、良かったわ」

 どうして、と呟いたアトリにウフキは黙り込んだ。それから少しだけ声の調子を落として答える。

「……あんたたちが羨ましかったのよ。私たち女衆が知るのは骸片だけ。その本体を見られるのも危ないからって遠くから。私はもっと近くで竜を見て、竜を知りたかった。組に入れるならそれが一番だけど、巫女として関わるのも、まあ悪くはない筋でしょう。あ、迅人は無理。あんなの人のやるものじゃないわ」

 話しながら髪を切る方向性が定まったらしく、ウフキは小刀を動かす。遠くから眺めたりしながら細部を揃え、全体を整えた後に小刀を鞘にしまった。

 伸び放題になっていたアトリの頭はすっきりと整えられ、後ろ髪や思わず切られた右側の前髪は短めに、左側の前髪は流れるような長さで風に揺れる。アトリから布を外して髪をはたき落したウフキは、畳んだ布を小脇に抱えて「ちょっと待ってて」と言うと自分の天幕へ行く。そうして戻ってきた手には、陽光を薄く透かしてみせる包帯が握られていた。アトリは目を丸くする。

「……これ、夏の衣じゃないのか」

「そう。あの時、どうにか回収したやつ。……あんたと私の大馬鹿比べの証拠」

 言いながら巻きを解いた。一重になると更に透明感が増す。朝露が陽の光を反射して見せる、涼やかな輝きがあった。

 ウフキに右腕の包帯を解くように言われ、解いて露わになった二つの穴を見つめ、ウフキは溜息をついた。

「それ、治らないのね」

 アトリは苦笑した。ウフキは持っていた夏の衣の包帯をアトリの腕に巻き始める。薄くしなやかな生地は肌にぴたりと貼りつき、それでいて空気をよく通した。あまりの軽さに身に着けていることを忘れそうなほどだが、いかんせん輝きが過ぎる。

「少し目立つな」

「あんたが竜を引き過ぎないようにって、ハハキ様に言われて作ったのよ。夏の衣としての効力はもうないけど。……ハハキ様から言伝、傷に引き込まれるな、だって。それで竜の居場所がわかるって本当なのね」

「初めはおぼろげだったのが、最近はよく見えるようになってきた。歪んでいたものが元に戻ったのか、私がこれに馴染んできたのかはわからないけど」

「……あまり見すぎるなってことでしょう。こちらが見えている時、向こうにも見えているものだから。それはその時の盾ね。普段は手甲でもしているんでしょ? それで隠していれば問題ないわ」

 ウフキは踵を返す。

「じゃあね、見送りはしない。あんたは好きに生きたらいい。私も好きに生きる。もし死にたくなったら戻ってらっしゃい。私たちの傍で死ぬ分には皆で焼いてあげる」

 アトリは立ち上がって半分だけ明瞭な視界でウフキを見つめた。

「ありがとう」

 ウフキは立ち止まりかけたが、アトリを振り返ることなく去っていった。




 朝靄が気だるく漂う中、小さな姿が天幕を出る。他に人の姿はなく、それは静かに眠る天幕の間を抜けて木に繋いだ鹿の元へ行く。鞍や鐙をつけ、解いた綱を引いて進み、天幕の群れを出るところで振り返って一礼をした。足音を立てないのは迅人として必須の技術である。誰もがその出立に顔を出すことはなかった。

 集落から十分に離れたところでイチジが立っていた。アトリの姿を認めると自身の乗騎に乗り、アトリもそれに倣う。二騎はしばらくの間そうして山を駆けて北を目指した。道中、言葉を交わすことはなく、これもしきたりの内なのかとアトリが考えていると、暗い木々の隙間から白い光が入り込む。日の出であった。

 山は徐々に明るくなり、色が洗われていく。気だるい朝靄は消え、吹き抜ける風に潮の匂いが混じった。アトリは顔を上げ、イチジの行く手を見つめる。山を進みながら海を目指しているようだった。枯れた沢を抜けると、そこは海を臨む崖だった。足元で轟く波の音に耳を傾け、海に散る朝日に目を細めた。見慣れた風景であるのに、今朝は全く別の風景を見ているように感じる。未知への恐れと高揚──期待じみたものが自身に宿り始めている。

 しばらく崖沿いに進んでいるとイチジが止まった。木や岩を巻き込んで進む先が崩落している。だが最近出来たものではなく、崩落跡にはたくましく木々が根を張っていた。向こう側へ跳躍して越えるには難しく、山側に迂回するしかなさそうだった。イチジはアトリを振り返る。

「別れを言うならここでしておけ」

 別れ、と口にしてアトリは海を眺めた。割れる波濤が別れの時を無遠慮にかき回し、彼方では白波の合間に海鳥が突入しては魚をくわえて飛び立つ。

「……まさか、その為にここへ来たのか」

「うるさい。やらないなら行くぞ」

「あ、いや……」

 手綱を引くイチジを止め、アトリは首にかけた笛を出した。小さな竹笛だが短く、音階を奏でることは出来ない。砕けたトトカラの笛を手直ししたものだった。手にした部分から熱が笛に広がっていく。

 アトリは唇を当てて息を込めた。澄んだ音が長く響き渡り、目覚めつつある世界をいっとき止める。海のざわめきも、山の木々が葉をこすり合わせる音も、獣たちの息遣いもはるかに遠く、笛の音は矢のように飛んだ。

 笛を唇から離したアトリは深く息を吸い込んだ。遠ざけたものたちが段々と近寄る中、不意に山の彼方から似たような音が響く。イチジが顔を上げ、アトリもそれに気づいて小さく笑った。その音はアトリのものよりゆったりと飛び、波濤に混じって消えた。イチジが溜息をついて「まったく」と頭をかくのをアトリは見つめ、そして海へと視線を転じる。

 そこで、アトリは目を見開いた。彼方の鳥山に隠れ、海面に誰かが立っている。なびく黒髪と白い服、不思議と恐れよりも懐かしさが先立ち、アトリは口を開いた。だが、その名を呼ぶ前にイチジが「行くぞ」と声をかけ、アトリは振り向いて応じた後に海へ視線を戻したが、既にその姿は消えて鳥山は散り、波が揺れるだけだった。

 動こうとしないアトリを、進みかけていたイチジが振り返る。

「何かいたか」

 アトリは逃れがたく海を見つめていたが、やがてその視線を振り切った。

「いいや。──行こう」

 二人は崖を折れ、山へ進んでいく。その姿は潮騒から遠ざかり、山の影に隠れ、そして見えなくなった。



終り

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竜の骸とり かんな @langsame

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