彼方でタカラの声が響いている。しかし、遠いその声は、誰に届くこともなく空に溶けて消えた。何か音が響く──アトリの感覚にさざ波を立てただけでそれは終わり、アトリの全ては目の前の光景に向けられていた。

「トトカラ……」

 トトカラの姿はあの時のまま、髪の長さも背丈も変わらない。だが竜に貫かれたはずの胸は傷もなく綺麗で、閉ざされたトトカラの両目に対し、腕に抱えた霧の竜に残った二つの右目が爛々と輝いていた。

「あれは君の弟であって君の弟ではない」

 身を縛られた状態でココが告げる。

「彼こそが霧の竜だ」

 ココの声に嘲笑が滲んだ。すると、霧の竜の顎が薄く開かれて声がもれる。

「お前は少し黙っておいで」

 地鳴りのような声と共に霧が束ねられ、帯となってココへ殺到する。悪態をつく間も与えずに帯はココの耳目と口をふさいだ。

 次いで、霧の竜は薄く開いた口から口笛のような風を吐き出す。途端、アトリの背中に張り付いていた圧迫感が消えた。軽くなった手足は容易に持ち上げることができ、起き上がっても体は沈まなかった。ココが口をふさがれた状態で抗議したが、トトカラは構う様子もなくアトリの前に立つ。

「初めまして」

 腕に抱えた頭が口を動かし、そこから低い声が漏れる。若いような老いたようなその声は不思議な響きで空気を震わし、聞きようによっては男女のどちらの声にも聞こえた。先刻の迫力を想像して身構えていたアトリは、労わるような音に虚を突かれる。

「私は霧の竜。まさか、かような形でお前と見えるとは思わなんだ」

 アトリは時間が止まったように感じた。喉を冷たい空気が鋭く通り過ぎる。浅い呼吸が口をつく。そうして数秒見つめた後、声を引き絞るようにしてアトリは「なぜ」と言う。

 霧の竜はじっと次の言葉を待った。辛抱強く、まるで芽吹きを待つ農夫のように待った。次第にアトリの目からは涙が溢れ、しゃくりあげる喉からは言葉が出ない。

 霧の竜は黙って見つめた後に小さく「そうだな」と呟く。

「お前はずっと、私に胸を貫いてほしかったものな」

 霧の竜は再び息をついた。すると、頭を抱えたトトカラが踵を返す。反射的に真っ赤な目を上げたアトリに、霧の竜は「おいで」と告げた。アトリが呆然と見つめる先で、トトカラは構わずに歩を進めていく。アトリはもたつきながら立ち上がり、小走りでその背を追った。背後でココが叫んでいたが、口が塞がれているので言葉にならない。それが、不思議とアトリの足に力を与えていた。

「少し私の話をしよう。それを、あれに聞かれるのは気分が悪い」

 あれ、と言われてアトリはちらりと後ろを振り返った。抗議するココの少し後ろで、青い馬がこちらを見つめている。

 アトリは涙をぬぐい、前を歩く小さな背中を見下ろした。慣れ親しんだトトカラの背中が今は遠い。

「初め、私は山間をたゆたう霧の一つだった」

 冬の朝、無彩色の山の輪郭をぼかし、視界を白く濁らせる霧の群れ。固まりつつ、時に散りつつ裾を広げ、顔を覗かせた曙光によって切り裂かれてゆく。

 そのうちの一つが風に巻き上げられた。やや白さの滲む青空へ向かって高く長く伸びてゆく。地上からそれを認め、人々は指さして言った。

──やあ、竜が昇ってゆく。

「それが私の始まり。霧の竜というものを生み出したのは、お前たち人間だ」

 アトリは鼻をすすりながら後に続いていた。

 不意に、背後から濃い霧が駆け寄る。驚いて辺りを見回しているうちに霧は前方へと回り込み、トトカラの背中を消した。アトリは手でかきわけながら名を呼ぶ。しかし白く重い霧がその声を吸い込んでしまう。

 更に声を張り上げようとして吸い込んだ息に、刺すような冷たさが混じった。この妙な空間に招かれてからついぞ感じたことのない、しかしよく知る風の匂い。これは冬の気配である。

「……始まりの私は何ものでもなかった」

 霧の竜の声を合図に、周囲を取り巻いていた霧が勢いを増す。アトリは思わず顔を手で覆った。渦巻く霧はアトリを置いて彼方へ消え、残ったのは暗闇──だが、薄い。墨を滲ませたような暗さは冬の夜明けの色である。目をこらせば、なお暗い木々が立ち並ぶのが見えた。その枝の間を霧がすり抜けていく。

 奇妙な動きをする霧だった。時に風に逆らい、落ち葉と遊ぶ。だが、辺りに漂う霧ほどの存在感はない。アトリが一息吹けば、飛んで消えそうなほどの希薄さだった。

 薄い闇の中に動く影がある。籠を背負った人だった。採集か旅か商いか、その姿かたちは木々や獣たちよりも朧である。判然としない顔が霧を見上げて呟いた。

──面白いのがいるもんだ。

 その言葉に、希薄な存在の霧が震えた。流れるだけの霧に規則性が生まれ、その場に留まろうとする。アトリの目に映ったそれは長い何かであった。竜と呼ぶにはまだ形が足りない。しかし、先刻よりもその存在ははっきりと知覚出来る。霧の群れから逸脱して動くようになり、その後を微かな霧が衣のようについていく。

 再び、背後から猛烈な追い風が吹き寄せる。風には春に咲く白い野花が混じり、辺りを白く染めた。アトリが顔を手で覆っていると人の声が響き渡る──また強そうなやつだなあ。間延びした声には驚嘆と恐れが混じっていた。

 舞い踊る花々の隙間に銀色の光が見える。あの長い何かであった。だが先刻よりも大きく、長く、そして四肢と呼べるものが伸びている。四肢には鋭い爪が伸び、大きな顎にはあらゆるものを噛み砕く牙が並んでいた。そのどれもがアトリの体の大きさを遥かに超え、眼前を通り過ぎていく。

 花々に青葉が混じる。風は温もりを帯び、微かな湿気が滲んだ。アトリの額に汗が滲む。白陽を過ぎた頃、数日訪れる暖かさだった。顔を覆うアトリの手に触れる葉は柔らかい。そして再び声が聞こえる。──ああ、なんと美しい。感嘆と畏怖の溜息がもれる。

 荒れ狂う青葉の隙間に再び銀色の光が翻る。それも先刻の比ではない透明度と輝きを持ち、その光の中には巨大な鱗が連なって長躯を覆っていた。銀糸のような毛が背中を流れ、頭からは水晶を削り出したかのような角が枝を広げている。顔には金の燭を灯した目が四つ──

「……人が私を見出すたび、その姿に意味を認めるたび、それが私を形作っていった。……かれこれ数百年ほどの話になる」

 風が止み、青葉は勢いを失って落ちていく。それは次第に枯葉となって舞い落ち、アトリの足元に積み重なっていった。

 どこからか冷たい風が吹き、枯葉を奪い去っていく。見回すと再び冬の山に戻っていた。暗い空から白いものが落ちてくる。見上げたアトリの頬に触れると溶けて流れていった。彼方の夜空に銀の光跡が一筋渡る──霧の竜であった。

 誰かが見上げる、誰かが指をさす、そして恐れ、祈る。その全ての姿が曖昧だった。ただ動く何かというだけで、アトリにもそれが声を発するまで人とは思えなかった。

──ああ、だから孤独なのか。

 竜は人がわからない。動植物は自らと近いためにそれとわかっても、人は異なる。自然の中にただ在るよりも、意味を見出されたことによって竜の孤独は極まる。竜であると人が言うごとに、竜はより孤独になっていく。その深さを人が真に理解することは出来ない。理解が追いつく前に、人は竜を置いて死ぬ。

「お前たちは何かを遺して消えてゆく。だが私にそれはわからない。だからいつまでもお前たちがわからない。わからぬものを労わることは難しい。衰え、病んだ身であれば尚のこと」

 アトリの眼前を風が鋭く吹き上げた。その切っ先が前髪をかすめ、たった今吹き上げたのは風ではないことを知る。アトリの足元が揺れた。視線を向ければ波打つのは長大な尾、その先で霧の竜が均衡を失っているのをアトリは中空に浮かんだ状態で見下ろしていた。

 耳の奥で拍動が響く。これは三年前の光景である。ならばとアトリは探し、そして見つけた。地上で霧の竜から剥がれ落ちた骸片へ旗矢を刺している小さな人影。三年前のアトリである。

 殯への参加は初め、旗矢を立てる役目から始まる。後方の安全な場所から竜を観察し、組の動き方を知る。自らの身を自分で守れるようになってから、前方への参加を許された。笛吹きはその中でも一番に危険な役目だが、そのために殯の花形とも言えた。組に参加する男は誰しも、笛吹きに憧れる。ココを間近で見られるからという者も少なからずいた。三年前の自身を見下ろし、アトリは苦いものを喉の奥に下す。

 死を間際にした霧の竜の長躯が揺れる。長い尾がうなりを上げて鞭のように振れた。鋭い爪は空をかきむしる。三年前の霧の竜の暴れようもひどいもので、組の陣形は崩れつつあった。けが人が少しずつ増え、後方へと下がっていく。骸片を回収する班はけが人を回収する班へと様変わりしていった。各々の表情に不安の色が見える。笛の音はまだ聞こえない。殯の失敗を誰もが感じ始めていた。

 地上を走るアトリは旗矢を射るのを止め、けが人の回収に徹していた。あの時、骸片はほとんど落ちてはこなかった。霧の竜がまだ死んではいなかったためである。残った命を燃やし尽くそうと動く竜に組は翻弄されており、アトリもまた知らぬ間に前へと入り込んでいた。

 気づいた何人かが声を張り上げる。アトリは振り向かず、濃い瘴気の渦へと進んでいった。数人がその後を追おうとしたが、小さな影はすり抜けていく。

「アトリ!」

 トトカラが叫んだ。アトリと同じ役についていたトトカラも鹿を駆る。アトリより幼く、身も軽いトトカラは速かった。そして年齢に似合わず冷静なところがあり、それが買われてアトリと共に殯への参加を許されていた。

 アトリはぐんぐん竜へと近づいていく。前方の仲間がそれに気づいて手を伸ばすが、アトリは器用にかわした。道中、けが人が倒れていたがもはやアトリの注意はそちらにない。その目はもがく竜へ、その手は爪へと伸びていく。

「待って! アトリ!」

 トトカラがなおも叫ぶ。その声に気付いた仲間たちが急いでアトリを追った。そして彼らよりもトトカラは速く、それは勢いのついた竜の爪よりも速かった。

 アトリの眼前に竜の爪が迫る。その刹那、アトリの体は宙へと放り投げられた。回る世界の中心で鮮血が花開く。濃い瘴気の向こう、トトカラの小さな体は竜の爪にひっかかったまま、上空へと消えていった。

──彼方で甲高い笛の音が天を衝く。

 アトリははっとして目を開いた。驚いた自分の顔が眼前に広がる。それは不安定に揺れていたが、鼻筋を通って落ちた涙が表情を打ち消した。あぐらをかいた足を掴む手には汗が滲み、走ってきたかのように息が荒い。

 体に熱がこもり、汗が噴き出す。アトリは顔を上げ、トトカラの腕に抱えられた霧の竜の目が合った。首を巡らせると、霧に拘束されたココと青い馬がいることを知る。アトリはあの場所から一歩も動いていなかった。

「……夢」

 アトリは涙に触れた。指先がわずかにひんやりとする。

「……」

 アトリは涙に触れた手を握りしめ、顔に押し当てた。

 霧の竜が口を開く。

「長い話だ。お前たちには長すぎて間に合わない話だった。……だが、ようやく終わりの話が出来る」

 アトリは押し当てていた手を下ろした。

「終わり?」

「そうだ。あの時、私の命は尽きかけていた。残る力で這いずり、この身を受け入れてくれる場を探していた。だが、どこも私の死を拒む。どこへも行けぬ、しかし終わろうとする身は待ってはくれぬ……あの時ほど、時間を感じたことはない」

 山を抉り、川を砕くほどの苦しみを人間が理解出来るはずもない。竜が人のことをわからないように、人もまた竜のことを真に理解しているとは言えない。

「だが、永劫にも思える時が、ある一瞬を過ぎた頃に全て消えた。ようやく私は迎え入れられたのだと思った。だのに、妙なものが入り込んでくる。ある人間の姿だ……」

 それは小さな子供であった。好きに伸びた髪は汚れて目はぎょろつき、削ぎ落せるものは全て削ぎ落された体には骨と皮だけが残っている。足音を立てぬよう歩く姿は罪人のそれと同じであり、足裏の薄い皮が地より離れる音が迫り、霧の竜はそれをうるさいと感じた。

 途端、その子供と目が合った──そのように霧の竜は思った。俯瞰する身から子供の背丈へと視点が変わり、辺りの光景が一変する。

 炎が躍動していた。その中で大型の木組みがいくつも燃えている。霧の竜はそれが人間の住居だと知ってはいたが、常日頃見るものとは意匠が異なる。それはいつも上空から見下ろしているものが、見上げる視点になっているせいではなかった。

 息を吸い込む度に喉が焼ける。熱は胸を焦がそうとし、傷だらけの小さな手が口を覆った。その手も土と血と煙の匂いにまみれ、深く息を吸うごとに激しく咳き込んだ。

 霧の竜は混乱する。だが、その困惑を置いて視点は進んでいく。焦げた丸太のようなものをいくつも目にし、時には飛び越えた。それが上手くいかなかった時には盛大に転び、丸太だと思っていたものは人間の死体だと知る。それでも視点の主は構わず走っていたが、ふと足を止める。小さな子供の泣き声がしていた。

「声のする方へ走った。死体と炎を越えて私は探した。そして、それはすぐに見つかった。井戸の傍らで子供が泣いていた」

 アトリの目が赤くなり、霧の竜は「そうだよ」と言う。

「お前の記憶だ。だが、トトカラの記憶でもある。……子供を拾って後、再び風景が変わった。今度はずっと同じ位置から変わらない。誰かを見上げている。黒く痩せた顔を私は見上げていた。骨のような腕が私を抱え、それが私を守っていた」

 顔の向こうの風景は常に暗く、そして動いていた。空腹と寒さに泣く度に、あの骨のような腕が体を揺り動かす。大きく変わる風景に気もまぎれて笑うと、いつも見上げていた顔がこちらを向いて微笑みかけてくれる。それに安堵して微睡み、気づくと今度は背負われている。見上げていた顔が見えずに泣くと、足を止めていつもの場所へと戻してくれる──日々がその繰り返しだった。

「見える風景は寂しいが、道中は楽しかった。……だがある日、山の頂を越えた時、あらゆるものが一変した」

 骨のような腕が硬直した。動き続けていた風景はいつも以上に長い時間をかけて止まった。両者の間にあった、張りつめながらもわずかな緩みのあった緊張が、一方的に断ち切られた。

「……私には見慣れた風景だ。色に乏しい山々、切り立つ稜線。命の色を探すのも難しい。鋭い風は、渇いた者を更に枯渇させる。極限にまで切り詰められた命たちを私は見慣れていた。だが、お前はそうではなかった。トトカラも同様に」

 霧の竜の金瞳にアトリが映り込む。霧の竜は「そうだ」と息を吐くように応えた。

「あの時、トトカラもお前と同じだった。……お前の絶望は、お前だけのものではなかった」

 アトリは目を見開いた。そして乾いた唇を動かそうとするのを制し、霧の竜が言葉を続ける。

「ああ、わかるとも。トトカラから教わった。言葉も、思考も、人間というものも、お前のことも、全て」

 金の目が細められる。

「それは対価だ。あれにその意志があったかはわからないが、私に得るものはあった。だから、代わりに私はあれの願いを叶えることにした」

 願い、とアトリは口にする。トトカラから聞いたことのない言葉だった。そして聞いたことがない、ということそれ自体を、アトリは一度として気にかけたことがなかったことに気付く。

 黙り込んだアトリを霧の竜は静かに見下ろした。

「不思議なものだ。人は自身の願いでいつも手を一杯にしている。それを取りこぼさぬよう常に必死だ。だというのに、それを投げ打つ時の潔さたるや獣の比ではない。その姿を見ていると、お前たちも我々の一部なのだということがよくわかる。……わかったつもりになっているのかもしれないが」

「随分、謙虚じゃないか」

 突如として割り込んだ声にアトリと霧の竜は顔を上げた。霧の帯で拘束されていたはずのココが体を動かし、からみついた帯をはぎ取っている。真っ先に現れた口元が笑みを形作っていた。

「竜はもっと尊大で威張りくさったやつが多いものだけど、なるほど、人から知恵を与えられた竜はまた異なる種になるか。これは一つ賢くなった」

「……ならば、賢くなったついでに口を慎むという知恵もつけてもらおうか」

 トトカラの右腕が持ち上がるのと、霧の帯をはぎとったココが動いたのはほぼ同時だった。トトカラの足元から水を巻き上げて斬撃が飛ぶが、ココもまた水によってその勢いを打ち消す。動けないでいたアトリに向かってココが声を張り上げた。

「少し待っていて。すぐ終わらせる」

 ココの掌に水が吸い寄せられていく。それを見ていた霧の竜が口を開いた。

「私の後ろへ」

 アトリは双方を見比べた後、竜の言葉に従った。ココは不満そうな声を上げたが、一息ついて「まあ、いいか」と言う。

「それは必ず君を守る」

「いかにも」

 トトカラの右手が頭上に掲げられると、辺りに霧が満ち始めた。ゆったりと訪れた霧は次第に密度を増し、ココの姿はおろか鮮やかな青空までも隠していった。そのうちにトトカラとアトリの頭上の霧の一部はその場に留まり、更に密度を増して霧の塊が作り上げられていく。

 間近にいるはずのトトカラの姿さえ隠す勢いの霧の中、竜が囁いた。

「アトリ、よく聞くように。私はあれには勝てない。ここはあれの領域だ。領域内ではあれこそが神だ。これからすることは全て、お前を逃がすためのこと。戦うためのものではない。間違ってもあれに挑もうなど考えてはならない」

「逃がす……?」

「お前の足がすぐ傍で待っている。それを使って天を目指せ。既に天には裂け目が入り始めている。その裂け目を通ればいい」

「足? 裂け目? どういうことだ」

「お前の傍らにいた。私に飲み込まれた時に」

 アトリははっとする。乗騎の鹿が逃げずにいた。あの混乱のさ中にあっても、主を放棄せずに運命を共にすることを良しとしてくれた。どうして忘れていたのだろう、と思うと不安が押し寄せる。この領域へ呼ばれたのがアトリだけなら、鹿までもここに連れてこられたとは考えにくい。だとすれば、既に竜の胃の中か──。

 その時、霧の竜が口を開いた。その声には笑いのようなものが混じる。

「こんな所まで主を追いかけてくるとは、飛びぬけての忠義者かうつけか。ずっと傍でお前を見ていた。お前もわからないはずはない」

「傍で……」

「あれに姿を変えられてはいるが、その本質はそのままだ。お前が呼べば尾を振って駆け寄るかもしれない」

 心当たりはあった。だが、確信は持てない上に、アトリは気にかかっていたことを尋ねる。

「私が逃げるとして、お前はどうする」

「逃げることは良しとしたか。それなら言うことはない」

 言うや否や、トトカラは右手を振り下ろす。頭上の霧の塊が勢いをつけて水面に衝突し、その衝撃で文字通り足元が波打った。上下左右の均衡が崩れ、立っていられぬほどの波はココの姿もその影に隠し、無論、トトカラとアトリの姿も巨大な波の中で翻弄される。うねる水は彼らを飲み込まず、轟音を立てながら激しい水しぶきを飛び散らせた。

「走れ」

 トトカラの腕に抱えられた霧の竜が告げる。アトリは立つこともままならず、四つん這いで波の勢いをしのいでいた。

「お前の足が近くにいるぞ」

 アトリは顔を上げた。すると、巨大な波に乗ってココの青い馬が滑り落ちてくる。馬は肢を動かしているものの、波打つ足元に均衡を崩してまともに走れないでいた。運よく、あるいは霧の竜の采配か、水面は波打ちながら馬をアトリの元へと導いている。アトリは四つん這いのまま水面を蹴った。水を蹴ったというのに、固い感触が足裏に宿る。水の模様を映した大地が巨大な手でたわんだり、よじったりしている──その上で人のやれることはない。アトリは獣のように駆けた。水の大地を掴み、時には二足で走りながらもそのほとんどを四つん這いで駆ける。慣れぬ動きに体のあちこちが痛んだ。

 ようやく馬の元へたどり着き、足元が膨らんだ瞬間に飛び上がってその背にしがみついた。馬は激しくいなないてアトリを落とそうとする。足元の不安定さも手伝って振り回される勢いの力強さに、アトリの両腕は悲鳴を上げた。

「名を呼べ」

 彼方から霧の竜の声がする。

「そうすれば、それは姿を思い出す」

 アトリは辺りを見回した。波打つ大地の狭間に小さな姿が見え隠れする。

「名などない!」

 乗騎としてあてがわれた時、名前をつけるように言われたがアトリはそうはしなかった。いずれ消える人間が、ものを抱える必要はないと考えた。そしてアトリの考えを周囲もまた良しとした。何も持たずに消えてゆくものだと、その時アトリは言われたような気がした。

「では今、つけろ」

 アトリは所有の印をつけるなど考えたことがなかった。何も持たずに来たのだから、何も持たずに去ればいい。トトカラが死んでからはよりその傾向が強くなり、自身の持ち物を積極的に捨てていった。

 ざん、と大きな波音がアトリを現実へ呼び戻す。アトリは唇を噛み締めた後、苦い表情で口を開いた。

「ではお前もアトリだ」

 鬣が震えた。途端、蹄の先から衣が剥がれるようにして、馬としての姿が波間に落ちていく。爪は二つに割れ、青い肌は豊かな褐色の毛並みに、首回りには薄い色の毛がたっぷりと生えそろい、寝そべった耳の側からは立派な角が伸び、骨ばった顔は肉付いて表情が増す。最後に残った青い破片を頭を振って落とすと、鹿のアトリは波間を蹴った。うねる足元など物ともせずに走り出す。

 逆巻く波を越え、時に反転する視界は跳躍してやり過ごし、風を切って駆ける姿はあらゆるものを振り払う。首にしがみついていたアトリはその間に姿勢を整え、身を屈めて膝に力を込めた。あの時に感じた一体感がアトリを包む。

 だが、飲み込まれるような高揚感はなかった。頭の一部は冴えている。両者がアトリの中で両立していることが息苦しい一方、それは心地よい疲れを体に満たした。

 アトリは詰めていた息を鋭く吐いて吸った。そして首を巡らせて小さな影を認め、鹿の鬣を掴んで方向を示す。主の意図をくみ取った爪は速かった。一息に距離を詰めたところでアトリは身を屈め、トトカラの襟首を掴んで自分の前へ引き上げる。

「お前が逃げることだけを考えろと言ったはずだ」

「黙れ!」

 トトカラの体は大地に翻弄されるがままとなっていた。それを放っておくことなど出来ない。

「二度も見捨てない……!」

 霧の竜は人のように溜息をつく。

「……あれはトトカラの本意だ」

「だとしてもそれを良しとしたのは私だ」

「それは己を省みてから言う言葉だ。お前は贄であることを良しとした。トトカラにとって、それはお前がお前を見捨てたことと同義だ。……二度も見捨てぬ。そう決めるのなら、まず先にお前はお前も見捨ててはならない」

 水の大地が盛り上がり、一直線の道となって天へと伸びる。アトリは霧の竜の言葉には応じず、乗騎を駆った。

 爪が蹴る度に飛沫が飛ぶ。真っ直ぐに伸びた道からは滝の如く水が流れ落ちていき、その勢いが衰えることはない。平らな道は鹿のアトリに常時の速度を取り戻させ、遠いはずの青空が徐々に近づいてくる。そして近づくにつれ、その一部に亀裂が走っているのが見えた。亀裂の向こうには闇が控え、声が響く。

「……タカラ」

「まったく、人の厚意を無碍にしないでほしいね」

 ゆったりとしたココの声が響き、アトリは振り向く。水の大地は凪いで、その中心にココが立ち、アトリを見上げていた。ココの白い衣が揺れたと思うと、槍のような水流が無数に飛び出してアトリの行く手を遮る。

「逃げたかったのだろう。解放されたかったのだろう。だが、北の地に着いて君は目的を失った。逃げること、解放されることそれ自体が目的だった君に、生きるという目的はなかったからだ」

 歌うようにココは告げ、そしてその声は嫌味なくらいアトリのすぐ傍で聞こえた。アトリは落ちそうになるトトカラの体を片腕で抱え、もう一方の手で乗騎の鬣を掴んだ。道を貫く水流の槍を飛び越えるが、格段に速度が落ちたその瞬間をココが見逃すはずもない。

「惜しいことをした。北の地に入ったその時に、こちらへ迎え入れてしまえば良かった。そうすれば君は竜に惹かれることなく、わたしの方へ来たのに」

 アトリはかっとなって叫んだ。

「なるか!」

「なるとも。生きる気力のない子供に、大いなる命はさぞかし美しく見えただろう。……けれど、わたしも大いなる命だ。何が違う?」

 一直線だった道が先で曲がった。腕の中で霧の竜が顎を動かしている。

「道を辿れ。何も考えるな」

 道は飛び出す水流の槍を避けるように曲がる。霧の竜が言うように乗騎を駆れば、無駄な動きをとる必要はなかった。速度は元に戻り、切って走る風が冷たくなっていく。

 ココの声は風を渡り、よく響いた。

「その道の先で、君はどうする。まさか生きてみようなど思っていないだろうね。思考を潰してきた君は誰かの思考にすがって生きてきた。トトカラ、集落、今度は霧の竜……それは本当に君の意志か?」

「……アトリ!」

 霧の竜の叱咤が飛ぶ。しかし半瞬遅く、曲がった道に沿いきれずに乗騎の爪が空を切った。心臓が宙に放り投げられるような感覚に襲われた。背中に冷や汗が走る。胴を挟んでいた膝から力が抜け、緩んだ腕からトトカラの体が落ちていきかけた。アトリは逃れそうになる力をかき集め、トトカラの体は逃さず乗騎にしがみついた。

 脱落した道が蛇行して急降下し、落ちていくアトリらを先回りする。鹿のアトリはその水面をしっかりと掴み、再び天への軌道に戻った。ただし、速度は今一つ乗り切らない。

「……あれの言うことに惑わされるな」

 霧の竜が静かに告げる。姿勢を整えたアトリは眉をひそめ、頭を振った。

「……だが、正しい。私は自分で考えてそうしたいと思ったわけじゃない」

 トトカラの体を抱くアトリの腕に力が込められる。数秒置いて、霧の竜は「なるほど」と呟く。

「では、私の願いを叶えると思えばいい」

 アトリの眉間へ更に深い皺が刻まれた。

「……さっきから願い、願いと。何なんだそれは」

「トトカラの願いだ。それを私が叶えることにしたが、お前にしてもらった方がより良いだろう」

「だから、それは何だ!」

「お前に生きてもらうことだ」

 アトリの腕から力が抜けた。霧の竜は構わずに口を動かす。

「トトカラの言葉を借りれば、どうか自由に。それがあの子の願いだ」

 鹿のアトリが主を振り返る。速度に乗り切れていない四肢は、ココによる水流の槍を避けるだけだった。

 霧の竜の金瞳はゆっくりと瞬きをする。

「……不思議な気分だ」

 応じる声はない。霧の竜は構わずに続けた。

「私は託されたことしかない。それらが私を生んだ。……ああ、だから、私はお前たちのことがわからなかった。そうか、こういうことか、お前たちはこうして遺していく生き物だったのか……」

 再び、アトリの腕に力が戻る。アトリの顔は俯き、走行は乗騎に任せていた。霧の竜がわずかに視線を上げると、その額に温かな雫が落ちた。雫は続けて落ち、鱗の隙間を通って首を抱くトトカラの手へと流れていく。

「勝手に納得するな……私は何もわからない」

 アトリの声は震えており、霧の竜の位置からではその表情が見えない。しかし、途切れることなく滴り落ちる雫には血の通った温もりがあった。

「なに、私も初めはわからなかった。同じだよ」

 息を吐きながら「同じだ」と繰り返して続ける。

「お前たちも私も等しく、大いなる命だ。願われて生まれる。しかし私たちはこの巨体ゆえに孤独で、お前たちは小さいゆえに連帯する。お前たちは自らを理解して深めてゆくのに、私たちより先に消えてしまう。……置いていかないでほしかった。その遺したものの何かを、私たちにも教えてほしかった。あの殯は辛うじてそれがわかる確かな一瞬だ」

 霧の竜は顎を大きく開いた。

「礼を言おう。お前と話が出来て良かった」

 アトリは顔を上げる。

「私の願いは託した。叶えてくれ、私の神よ」

 霧の竜は首を乗り出してアトリの腕に牙を立てた。呻き声をあげたアトリが腕を離すと、トトカラの体がそれを待っていたかのように鹿の背から傾いていく。

 待て、と傷ついた腕をアトリは伸ばしたが、トトカラの体が落ちていく方が早かった。小さな体は回転しながら落ちていき、そのさ中にトトカラの右手が空を凪いだ。すると、暖かい風が固まったアトリの背を押す。

 風に押されて駆けだした乗騎へしがみつきながら、アトリは赤い目を向けた。

「トトカラ!」

 小さな体は落ちながらも霧の竜の頭を離さない。無数の水流の槍が屹立する中、体が反転してトトカラの顔がアトリの方を向く瞬間があった。その時、固く結ばれていた瞼がゆったりと開き、穏やかな丸い瞳がアトリを映した。

 トトカラは微笑んだ。

「さよなら。ありがとう、姉さん」

 アトリは息を飲む。

「トトカラ……!」

 その瞬間、速度に乗った乗騎が道を蹴り、天の割れ目へと跳躍した。その軌跡を追い求めるように水流の槍が殺到し、割れ目の傍で交差するも、先へ伸びることは叶わない。割れ目の彼方にアトリと鹿の姿は消えた。

 遠くにそれを眺めてココは溜息をつく。

「生者の世界はいまだ遠くか……最後の最後でやってくれたね」

 恨みがましい目が向けられた先では、体勢を整えたトトカラが着地するところだった。腕に抱えられた霧の竜が口を開く。

「お前を出し抜けたのなら重畳。愉快なことこの上ない」

 ココは溜息をついて腕を組む。頭上からは役目を失った道や槍と共に、青空が剥落して落ちてきた。それらは水と混じりながら、鮮やかな光を放って舞う。

「せっかくこれからが楽しくなりそうだったのに」

 ココは手を剥片の輝きに透かして見た。実体を持っていた体は揺らぎ、中指の先が砂のように解けていく。

「……死は歪む、お前のせいで。そうしたらアトリだけでは物足りなくなる」

「だからこうして戻ってきてやったのだ」

 手を下ろしたココは眉をひそめ、トトカラをつむじから爪先までとっくり検分した。

「わたしの好みではないなあ。アトリが良かった」

「……それが困るから、僕がいるんですよ」

 少年の声が響く。口を開いたのはトトカラであった。両目はココをとらえた後、抱えた霧の竜の頭へと向けられる。

「ありがとうございます。僕に最期まで付き合っていただいて」

 なに、と答えた霧の竜の声には喜色が滲んだ。

「始まったのなら、終わらねばな──……」

 言い終わるのを待たずに、霧の竜の頭は霧となって文字通り霧散した。散じた霧に包み込まれたトトカラが呼吸をすると、その度に手足が伸びて背丈が増した。丸みを帯びていた体つきは角ばり、広くなった背に伸びた黒髪が落ちる。みるみるうちにココと同じぐらいの年かさの少年となったトトカラは、にこりと笑う。

「これならいかがですか」

 声までも低くなり、ココは嘆息した。

「初めからこのつもりだったね?」

「まさか。ちゃんと死んでいましたよ。ですがご存じの通り、死は歪んでいた。あなたがアトリに近づこうとするたびに、僕の意識はどんどん表層へ引き上げられていきました」

「それで霧の竜と画策ときたか。人ながら恐れ入る」

「御方が対価に僕の願いを叶えてくれると仰ってくれたので、ありがたく」

 トトカラは目を伏せる。

「きっと、アトリはここにまで来てしまう。そうなったら僕にはどうしようも出来ません。だから御方にはここでアトリの支援を」

 顔を上げたトトカラの目がココを見据える。

「力のない僕は御方の影に隠れて、最後にあなたと対峙する力をいただきました」

「アトリが自由に生きていけると、本当にそう思っているのか」

「それを死者の側から言うのはおこがましいですよ、ココ様」

「竜に似て可愛げがない……まあ、わたしたちはどれも同じものだから、人も等しく可愛げのないものだけれど」

「それでもアトリを求めたのは何故です?」

 ココは肩をすくめて「恋に理由を求めるのは野暮だよ」と笑い、小さく溜息をつく。

「さて、仕方ないから君たちの策略に乗ってあげよう。歪んだままアトリを待つのは格好がつかない」

 その言葉を合図にして、白い足が水へ沈んだ。一定の速度で飲み込まれていく姿は沼にはまっているようでもあった。苦笑いするトトカラの足も同様に沈み始め、冷たくも温かくもない感触が肌を上る。

「人の寿命分は待ってもらいますよ。目覚めた『ココ』があなたの意志を継いでいないことを願います」

「寿命? では、一瞬だ。それまでの暇つぶしに、最期の賭けはどうかな。継いでいたらわたしの勝ち。いなければ君の勝ち」

 天を仰いだココの瞳に、砕け散る青空の破片が輝く。隙間の空いた天には光が満ち、穏やかだった水面には無数の波紋が花を広げた。細かな水晶をこすりあわせたような音が静かに積み重なり、この領域の頑なな空気を切り裂いていく。それは止まっていた時が動き出す瞬間に似ていた。

 膝のあたりまで沈んだトトカラは胸に手を当て、首を傾げる。

「何を賭けるんですか。僕にはもう何もない」

 一足先に胸元まで沈んだココは不均衡な笑顔を作る。

「ああ、そうだ。死には何もない。こんな不毛な賭けもないよ」

 トトカラは口をつぐみ、更に沈みゆくココを見つめる。首まで沈んだココはトトカラを見上げ、「お先に」との言葉を残して水面の下へ消えた。透明な水にその姿を透かし見ることは出来ず、細かな波紋がココの痕跡を丁寧に消して回っていた。

 トトカラは崩れ落ちる青空を見上げた。深呼吸しようとしたが、胸元まで沈み込んだ体では大きく息を吸うのも難しい。しかし、わずかに入り込んだ空気には潮の香りが混じっていた。生きているうちに海を見ることは叶わなかったことをトトカラは思い出す。

 雨のように破片が降る。青空の残滓はごくわずかとなり、天の裂け目は既に消えていた。剥落して落ちる欠片が様々に光を反射して散る姿は美しく、それは竜の鱗のようでもあった。

 水面が首にまで迫る。

「人も、竜も、死も等しく」

 呟いてトトカラは苦笑する。

「……寂しがりや、か」

 そうして、ささやかな水音と共にトトカラも消えた。

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