激しさを増す嵐の中、タカラはすくわれそうになる足に力を込めた。

「アトリ!」

 耳の傍を轟音が駆け抜け、叫ぶ声を巻き込んで彼方へ飛ばしてしまう。タカラは悪態をつき、顔に打ちつける雨を拭った。そしてもう一度声を張り上げる。

「……アトリ!」

 タカラの拳が繭を叩いた。拳が離れると、表皮が霧状になって消えていく。何度も繰り返したがその先が見えることはない。タカラは祈るように額を当てた後、体を離して見上げた。

 それは巨大な繭であった。だが、触れればほのかに暖かく、剥がれれば霧となって消えていく。砂浜に忽然と現れる小山のような繭は、嵐の脅威にも微動だにしない。霧の竜がアトリを飲みこんだ後、体を丸めて周囲に霧を厚く張り巡らせて作ったものだった。竜が生じた霧であるはずが触れても害はなく、何かを守るようでさえある温もりだけがタカラを宥めるも、目の前で喰われたアトリの姿が目に焼き付いて離れない。

「すまん……アトリ。すまない……」

 ただただ、懺悔の言葉だけが口をついて出る。

 アトリとトトカラの二人が長い放浪の果てにタカラたち一族と出会った時、タカラは十五になろうかという頃だった。殯にも慣れてきた歳、そして贄になる歳であった。

 『ココ』とは──殯の最後、骸となった、あるいはなりかけの竜を死の安らぎへと導くものである。人ではないことは明らかだった。彼女のことを理解出来るのは巫女だけであり、そのことから神のようなもの、という認識があった。そしてその認識は正しく、神のようなものであるが故に『ココ』には定期的な代がわりが必要だった。そのために要するのが健康な一族の男子、つまり贄である。

 代がわりに何が行われるのかは贄しか知り得ない。何故なら、贄となった者は生きて帰ってくることがなかった。だが、健康な一族の男子を出さなければならない──かつて人が減ることを恐れて虚弱の子供を差し出した時、代がわりは行われず、新たな贄が差し出されるまでの殯は多くの死者を出したという。以来、しきたりは厳格に守られ続けていた。

 タカラたち一族にとって、人の数はそのまま労働の質である。そのために健康な若者は多くある方がいい。しかし、代がわりから逃れることは許されない。竜の最期の旅に寄り添えるのは自分たちしかいないという誇りが魂に溶け込んでいる。

 そこに、外から子供が現れた。相貌からして南から来たと見られ、戦で焼け出されたのか、飢餓と恐怖でぎょろついた目が忙しなく周囲を観察している。辛うじて残っている体力は全て、赤子を抱える腕に込められていた。食事を与えると獣のように鼻を近づけ、少し舐めた後にかけこむようにして食べる。噛むことすら惜しい、骨と皮だけの体がそれを訴えていた。

 食事と休息を与えられた子供は瞬く間に回復していく。元より体力のある子供だったのだろう、そのために長い放浪を果たすことが出来た。大人たちは次第にタカラとその子供を比べ始めた。

 タカラが贄に決まったのは五歳の時である。その少し前から、殯に出た男衆が首を傾げて帰ってくることが増えた。いわく、ココ様のお出ましが遅いという。海の間際、あるいは海に出たところでようやく現れる──それでは竜を導くのに充分な時間を取ることが出来ず、殯を行う男衆も波にさらわれる危険が増えた。それを聞いたハハキが代がわりの時期を悟り、密やかに五歳から十歳までの男児を集め、その中から一番成長の早かったタカラが選ばれた。

 五歳から十歳までというのは成長の傾向が概ね読める頃であり、殯への参加はその間に認められる。タカラは翌年に殯へ、と言われていた矢先のことだった。

 贄となるのは誉れである。タカラの両親は喜び、当時既に組長であったゴザも長もタカラを褒め称えた。だが、タカラは全く嬉しくはなかった。

 六歳になったら殯に参加させてもらえる。そして殯の花形とも言える笛吹きになり、皆を先導することがタカラの夢だった。そのために鹿に乗る練習もし、弓矢の練習も欠かさず行った。だというのに、その全てが訳の分からない贄によって崩される。

──嫌だ。

 タカラは一人になるとふさぎこむようになった。

 贄の風習は殯に参加する男衆にのみ伝わり、参加しない男児は勿論、ほとんどの女衆は結婚するまで知らされない。故に、タカラは誰にも相談出来ず、大人に向けて真っ向から反対することも許されなかった。皆の期待と自身の感情の間で心は裂かれ、その痛みを押し隠すことが出来ないくらいには、まだ子供だった。

 そして、そんな姿を見ていた大人たちが、外からやって来た強靭な体力と精神力の持ち主とタカラを比べないはずがなかった。

「……言葉はわかるかね」

 夕暮れに染まる天幕の中から密やかな声が聞こえた。タカラは足を止めて天幕に近づく。緑色に染めた天頂──ハハキの天幕である。尋ねているのはハハキ、対して小さく「わかる」と答える声があった。

 集落で聞いたことのない子供の声、となれば例の子供に違いない。それがハハキと対峙しているというのが胸をざわつかせた。辺りを見回して人気のない所に回り込み、耳をそばだてる。

「名前は?」

「アトリ」

「そうかい。そっちの子は?」

「トトカラ」

 一拍置いて、ハハキは尋ねる。

「二人は兄弟かね?」

「……うん」

 天幕の中に逡巡する空気が満ちる。どうやら他にも人がいるらしい。

「どこから来たのかわかるかい」

「むこう」

「向こう、というのはあっちかね。それともこっちかい?」

「あっち」

 息を飲む音が聞こえるようだった。タカラは天幕の隙間を見つけ、そっとめくる。ハハキが指で方向を示しながら尋ねていた。あっち、と指したのは南だった。

「それは随分、遠かっただろう。他に一緒に来た人はいないのかい」

「いない」

 ハハキの正面に座った子供は頭を振る。数日前に来た時よりもずっと人間らしく見えた。

 ハハキは小さく息をつき、再び尋ねる。

「では、一人でここまで来たと」

「トトカラもいる」

「ああ……そうだね。大事な弟だ。二人で来たということだね」

「うん」

 ハハキの後ろにはゴザと長がいた。二人の顔は険しい。ハハキは穏やかな表情を崩さず、お茶を淹れる。

「さて、どうしたものか……」

 全員分のお茶を淹れ、ハハキは配りながら呟く。

「お前は賢い子だ。その幼さでここまで来ることが出来た。だから、子供と思って取り繕うのはやめよう。それでいいかね?」

 アトリは顎を引く。ハハキも頷き、アトリに向き直った。

「正直なところ、お前たち二人を一族に迎え入れるべきか悩んでいる。私たちも暮らしに余裕があるわけではない。加えて、このところ南の氏族に妙な興味を持たれているようでね。よその人間を子供だからと受け入れてよいものか、判断しかねているところだ。ここまではいいかい」

「うん」

 頷くアトリに対し、ハハキもゆっくりと頷いて返した。

「だから一つ、考えたんだが……」

 ハハキは一族のことを教えた。竜の殯のこと、ココ様のこと、贄のこと、そして贄に選ばれた男の子のこと。自分のことだとわかった時、タカラの心臓は大きく跳ねた。

「……お前たちは争いから生き残り、険しい山を越え、この地へ来た。それは驚嘆に値する強さだ。ならば、ココ様もお喜びになるだろう。お前たちのどちらかに、十五の歳を迎えたら贄としてココ様の元へ行ってもらいたい」

 ハハキの後ろに控えるゴザと長は微かに目を伏せる。

「それを受けてくれるだろうか。そうしたら、お前たちを一族へ迎え入れる。望みも可能な限り叶えると約束する」

 アトリは大人たちを見つめていた。それからハハキへと視線を移し、尋ねる。

「贄になったらどうなる?」

「贄にしかわからない。生きて戻ってきた者はいないが」

 アトリは隣で寝息をたてるトトカラを見つめた。

「贄になった後、残った方は?」

「無論、一族で面倒を見る」

「絶対に?」

「ああ」

「わかった。私がやる」

 すんなり頷いたアトリに、大人たちは面食らったようだった。始終、表情を崩さなかったハハキでさえ目を丸くした。

「……お前はこういうことを言われると、わかっていたのかい」

 いや、とアトリは答える。

「余所者は怖い。気持ちはわかると思う」

 ハハキは「そうか」と小さく返した。

 タカラは胸を押さえる。鼓動が誰かに聞かれるのではと不安になるほどだった。

──出て行かなければ。

 贄の役目は自分の責務だと伝えなければならない。誰かに背負ってもらえるようなものではないはずだった。そして何よりも、と顔をあげたタカラは息を飲む。覗きこんでいた隙間の向こう、座していたアトリと目が合った。タカラは思わず身を引くが、アトリは気づいているのかいないのか微動だにせず、ハハキへと向き直って口を開く。

「本当に望みを叶えてくれるのか」

「我々に出来ることなら」

「なら、殯をやりたい」

 ハハキが一拍置いて承諾すると、控えていたゴザが声を上げる。ハハキは手を上げて制した。

「贄になる子だ。資格はある」

「しかし」

「皆でこの子を隠し通さなければね。それに大丈夫だよ。あの方もそこまで不寛容ではない。むしろ……」

 ハハキは小さく息を吐く。

「……もうご存知かもしれないねえ、この子がここにいることを」

「数多の命と死におわす方だから、そうかもしれんな」

 長の枯れた声が同意する。ゴザは言葉を次げず、しばらく黙した後に「わかりました」と応じた。長は頷き、アトリへと向き直る。

「しばらくはこのゴザの下で過ごしながら、ここでの暮らし、殯の作法を教えてもらいなさい。相応の歳になったら、弟と共に暮らす天幕を与えよう」

「はい」

「うん。よい返事だ」

 四人は話を詰めた後、ハハキを残して天幕を出ていった。ゴザはトトカラを抱えたアトリを自分の天幕へと連れていく。タカラはその場から動くことが出来ず、胸に手を当てたまま座り込んでいた。事態に頭が追いつかない。鼓動だけが早鐘を打ち続けている。

「……さて、そろそろ入っておいで」

 タカラの動揺を穏やかな声が切り裂いた。覗きこんでいた隙間の向こう、皆の湯呑を片づけながらハハキが口を開いた。

「ずっと聞いていたね。話がある。入りなさい」

 タカラは息を詰めた。立ち上がった足は震え、鼓動で体が揺れていた。おそるおそる表へ回り込み、天幕の入り口をくぐるとハハキが穏やかな表情で振り返る。

「そこにお座り」

 薦められるまま座したタカラへ、ハハキがお茶を出す。アトリに出していたのと同じ香りだった。タカラは耐え切れず、その場に叩頭する。

「すみません。立ち聞きをするつもりはなく……ただ、話が聞こえて、つい」

 転び出る言葉を切って唾を飲みこみ、タカラはもっとも聞きたかったことを口にした。

「……あの子を、本当に贄にするのですか」

「ああ」

 ハハキの答えは素っ気ない。タカラは顔を上げる。

「ですが、あの子は女の子です。贄にも組にもなれないはずです」

「本来ならそうだ」

「ハハキ様も、長も、組長もわかっておられたはずです。それを、何故」

 初めの痩せこけて汚れた姿ならまだしも、充分な休息を得た今の姿からアトリが女であることは、誰の目にも明白だった。

 女衆は組に入れない。ひいては殯に参加することも出来ず、贄になることもない──そう誰もが教えられてきた。

 ハハキはお茶を一口含んだ後、タカラへ「顔を上げなさい」と告げる。身を起こしたタカラの前で、ハハキは湯呑を置いて話しだした。

「お前は女衆が何故、殯に参加出来ないと思う?」

「力が男には及ばず、殯に参加するには危険すぎるからです」

「そのとおり。そして、もう一つ理由がある。女は陰の気が強すぎて死を惑わしてしまう。本来、海で喰ってもらうべき竜を全く別の場所で死に引いてしまうんだ」

 天幕の中の空気が冴えた。

「竜の死は大きい。お前も骸片を見て思うだろう。物としても痕跡としても、あの大きな死を受け入れるのにこの地は狭すぎる。海に喰ってもらわねば立ち行かない。……タカラ、ここにないものがわかるかい。南にはあり、北にはないものだよ」

「……祝の夏」

 ハハキはゆっくり頷いた。

「そうだ。命は四つの季を巡りゆくもの。しかし、ここにはその一つが欠けている。しかも欠けているのは死の季だ」

「夏なのに、ですか」

「生が猛る頃は、死も猛る。命を寿ぐ季、だから祝の夏という。……ここにはそれがない。故に竜ほど大きなものの死を受け入れられず、海にその役目を担ってもらっている。海には万の生と万の死が常在するからね。白陽の祭礼はその海への感謝と、疑似的に夏を迎えたことにして、殯を行いやすくする。殯に関わらない女衆がこの時だけ関わるのは、そういうことだ。決められた時、定められた場所でのみ動く力なら良いのだがね」

 ハハキは再び、茶をすする。

「ココ様はその筆頭のようなものだが……もう神霊とお呼びするべきだろう。死の象徴、あるいは死そのものだ。あの御方は隠の気と相性が良すぎる。だから女衆は殯に参加出来ない。させられないんだよ。互いに影響しあって、何が起こるかわからない」

「なら、アトリも」

「……あの子はこの地の民ではない」

 ハハキは空になった湯呑を置いた。

「あの子らは死の季が巡る地よりやって来た。彼らは死を嫌悪する。……彼らにはココ様を拒むという本能がそもそも備わっているんだ」

 タカラは息を飲んだ。その向かいで語るハハキの姿は常と変わらない。穏やかな表情、優しい語り口、諭すために話しているのではなかった。ハハキはただ事実を並べている。

「だから例え陰の気を持とうとも、揺らがない」

 タカラは乾いた喉を震わせた。

「では、おれは。おれは何なのですか」

 タカラは自身が悩んだ日々は何だったのだろうと思った。ハハキの言葉のまま、それらが本当であれば無意味であったとしか言えない。そもそも、タカラたちを縛っていたしきたりすらも無意味であった──あの子供らを迎え入れたことによって。

「贄としては最も適任だった。しかし、より相応しい者にその役は与えられる。そしてあの子は自ら望んだ。お前は安心して日々に戻ればいい」

 出来ません、とタカラは声を張り上げる。

「そんなことは。誰かを身代りにして……」

「……一族としては健康な子供は一人でも残しておきたい。だが、お前がそれでも贄であることを選ぶというのなら、止めない。てっきり、お前は贄になりたくないのだと思っていたのだがね」

 タカラは顔が熱くなった。今、声を張り上げたのは責任感のためではない。無意味と思った全てを肯定したいがために叫んでいる。駄々をこねる子供のようだった。

 ハハキは数秒黙した後、「一日考えなさい」と告げた。

「贄になるというのなら、明日の同じ頃またここへおいで。そうでなければ来なくていい」

 そう言って自身の湯呑にお茶を注ぐ。タカラへもすすめたが、タカラはそれを辞退して頭を下げた。タカラは立ち上がりかけ、ふと疑問を口にする。

「……あの子が望まなければ、トトカラを贄にしたのですか」

「いいや。あの子は必ず望む」

 ハハキはきっぱりと言い放った。

「あの子は血の繋がらない弟を守ってきた。この先も守りたいと思うか、もしくは解放されたいと思うかのどちらかだ。……こちらの提案はそのどちらも叶えられる」

 タカラは頭の芯を氷の針で刺されたようになった。無言で天幕を出た後は駆け出し、誰の目にも留まらぬ場所で声を押し殺して泣いた。

 翌日、タカラがハハキの天幕を訪れることはなかった。

 拳が繭を叩く。剥落した欠片が散じ、風に消えた。「すまない」とタカラは呟く。その言葉さえも嵐に飲みこまれていった。

 アトリはタカラの代わりに贄となった。天幕の隙間より合った目が未だに忘れられない。あの時何を思っていたのか、タカラはアトリに訊ねられないでいた。そしてアトリも、贄のことを決して口にはしなかった。本来はタカラがなるものだったことは、どこかの段階で知っていてもおかしくはない。

 だが、アトリは責めも訊ねもしなかった。それがタカラには苦しかった。

──一族はなべて一族のために。

 ハハキ、長、ゴザの三人が決めたことは誤りではない。一族のことを思えば正しい。健康な男児を手放さずに済む。しかもその代償を一族が払う必要もない。タカラも部外者であればそれで良かったと思う。だが、タカラは代償の中身を知ってしまった。戦から生き延びた子供へ、ハハキらが逃げ場のない選択を迫ったことを知っている──それを正すことが出来たのはタカラだけであったはず。

 荒ぶる風が咆えていた。タカラは顔を上げてそれに負けぬ声を張り上げる。

「おれはずっと逃げていた。お前からも、一族の欺瞞からも。罰してほしいなどとも思っていた。……おれは全て人任せだった」

 タカラは唇を噛み、直刀を抜き放つ。そして大きく深呼吸をすると、刃を繭へと突き立てた。


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