4
トトカラは、正確にはアトリの弟ではなかった。
氏族間の争いに負け、根絶やしにされた一族の生き残りの寄せ集め──そこから飢えや渇きに耐えて残ったのがアトリとトトカラである。アトリは五歳、トトカラは一歳になっていたが、長期の栄養不足と放浪によって普通の子供より成育が遅れていた。小さな二人は小さな体を寄せ合い、北を目指した。
南の氏族は荒くれ者が多い。氏族として固まっているならまだしも、はぐれものが蛮族となって狼藉を繰り返す。しかも彼らは決して氏族には喧嘩を売らず、弱いものから更に奪い取って生きる。アトリとトトカラのような子供たちはいい餌だった。
アトリは幼いトトカラを抱え、蛮族、竜、そして他の氏族から逃げ回った。まともに眠ることも叶わず、ただ身を潜めて山中を駆けずり回る。そのさ中、ある噂をアトリは耳にした。北には竜の葬送を行う一族がいる。
葬送、という言葉をアトリは知っていた。まだ本格的な争いになる前、一族の者が亡くなった時に総出で執り行った儀式である。集落には静けさが降り、その人を強く思いながらもその思いとゆっくり手を離していく──あれほど穏やかな時をアトリは知らない。それを、あの巨大な竜を相手に行っている一族があるという。彼らに会ってみたいと思った。
山河を越え、峰を上り、川に身を浸して渡って北を目指す。その間もひやりとする場面はいくつもあり、これまで以上にアトリは休むことを許されなかった。だが、目指す地があることが、細い足に力をみなぎらせていた。
「──…トトカラを捨ててしまえば良かっただろうに」
アトリもそれを考えなかったわけではない。しかし、疲労と飢えに耐えかねて置いて行こうとしても、トトカラの重さをなくしたアトリの体は宙に浮いているようで、まるで生きた心地がしなかった。あの温もりと重み、そして時折力なく笑う柔らかな丸い顔が腕にあることが、アトリを動かす熱になっていた。
ようやく北の地を臨んだ時、アトリは刺すような風の冷たさとおぼろげな日差しに初めて、自らが進んできた道を振り返った。そして前抱きにしたトトカラの小さな手を握りしめ、弱い深呼吸を繰り返して一歩を踏み出す。大地は冷たく反発し、裸足をすげなく傷つけていく。閉じかけていた擦り傷から血が滲み、その痛さにアトリは眉をひそめる──。
「……は」
小さな息がもれた。アトリは重い瞼を開く。薄く開いた口は乾き、わずかに動かすだけで口角が切れた。頭が重く、視界が定まらない。何度かまばたきをする内にアトリは自身が仰向けになっているのだと気づき、視界一杯に広がるのが青空だと知る。それも雲一つない、突き抜けて青い夏の空である。
だが、肌に感じる空気は夏のそれではない。むしろ白陽の頃に似ている。急速に冷え込んだ後に白陽を迎え、溜め息のような暖日を迎える。北の大地に「祝の夏」は来ない。だから、彼らは迎えにゆく。
「……!」
断片的だった記憶が繋がる。嵐の海岸でアトリは霧の竜と対峙し、そして鹿もろともその口に飲みこまれた。
痛みはなく、しかし体はびくともしない。ようやく感覚の戻った指先から、アトリは薄く張った水の上で仰向けになっていることを知る。耳元では水の揺れる音がした。
「……なんだ……これ」
口からかすれた声がもれ出た。水は冷たくも温かくもなく、背には地面の固い感触がある。青空のどこかに太陽があるようだが、視界の範囲にそのような光源は見当たらない。どうにかして半身を起こせないものかと腕に力を入れてみるが、力を入れると固いはずの体の下の感触が柔らかくなり、力を入れた腕が沈みこんだ。逃れようともがくと更に沈み、浅い水面が口元にまで迫って溺れかける。アトリが体の力を抜くと体はゆっくり浮かびあがり、再び背中に地面が戻った。
口に入り込んだ水は塩辛い。海のようだが潮の匂いはせず、とにもかくにも妙な場所であった。アトリは顔を傾けて水を吐き、息をついた。
──彼岸の世界というやつだろうか。
竜はその骸を海に食べてもらう。海は死そのもの、あるいは道、扉、そのようなものとして死に繋がっている。霧の竜はアトリと鹿を飲みこんだ後、海へと至れたのだろうか。嵐の中、砂浜で訴えるように咆哮を繰り返していた姿を思い出す。
その時、遠くで鈴が鳴った。それは段々と近づいてくる。途中からは水の跳ねる音も混じった。何かが足を動かしている──馬の足並みだ。馬と鈴の音、アトリはそれがもたらすものを知っていた。
音は尚も近づき、アトリの頭の近くで止まる。柔らかな波紋が寄せ、限りある視界の端に青い馬の肢が見えた。
「……はじめまして」
低い声だった。アトリは驚く。青い馬に乗るのはココ様である。黒髪をなびかせ、白い装束を翻すのは『彼女』であるはずだった。だが、アトリの耳に届いた声は紛れもなく青年のものである。
衣擦れの音がした。馬から降りているようだが、水が跳ねることも波紋が寄せることもなかった。ひたひたと足音が近づく間もアトリを浸す水が揺れることはなく、その存在の希薄さにアトリが驚いていると、仰向けになった頭頂部側から唐突に人影が覗きこむ。
「うわっ」
大きな声を上げるアトリに『彼女』──もとい、彼は笑った。
年の頃はタカラと同年かわずかに下、しかし彼らよりも線の細い体つきは、ゆったりとした装束をまとうと性別をわかりにくくする。踝まである黒髪が更にその姿を隠し、声さえ出さなければ少女と見紛う肌の白さも特徴だった。
アトリは目を丸くする。彼の方は切れ長の目を細めて笑いかけた。
「元気そうで何より」
聞き間違えではなく、その声は本当に低い。喉には立派な喉仏があった。アトリの視線に気づき、青年は「ああ」と喉仏に手をやる。
「君に合わせてみた。どうだろう?」
アトリは逸る呼吸を整えるべく、ゆっくりと息を吸いこんだ。
「……誰だ」
青年は目を瞬かせ、それから微笑む。
「改めてはじめまして。わたしがココだ」
アトリの背中が粟立つ。微笑むココの目は空虚だった。何も映さぬ虚がそこにあり、アトリは逃げ出したくて堪らなくなる。思わず体を動かそうともがいた途端、保たれていた均衡が崩れてその身が沈み始めた。その勢いは先刻の比ではなく、あっという間に口や鼻の中へ水が流れ込む。
「ああ、こらこら」
ココがおっとりとした口調でアトリの体を引き上げた。その力はやはり男のものである。咳き込みながら入り込んだ水を吐き出し、アトリはココの裸足が水に沈んでいないことに気づいた。足が水面へ吸い付くようにして彼は歩いている。
「……ここは何だ。お前はどうして沈まない」
ココは一瞬、目を丸くした。
「おや。わたしの名を聞いてもその態度なんだね」
お前は、と言葉を続けようとしてアトリは口を噤む。その様子をココは面白そうに見つめた。アトリはココを睨み付けた後、深く息を吐く。
「……私の神じゃない。態度を改めるつもりもない」
ココは腰の後ろで手を組んだ。そして「なるほど」と呟いた声には喜色が滲む。アトリには何故、彼がここまで嬉しそうにしているのかわからなかった。
「まあ、筋は通っている。一応は、の範囲だがわたしは心が広いし、何しろ君が相手だ。この場のように大らかな気持ちで迎えてあげよう」
ココは組んだ手を解き、片手を胸にあてて恭しく礼をした。
「ようこそ。彼岸と此岸の狭間へ」
体を起こし、ココは再び腰の後ろで手を組み、アトリの頭側へゆっくりと歩き始める。
「記憶は無事かな? 霧の竜に喰われたことは覚えているかい」
「……私は喰われたのか」
一瞬で下りたつ暗闇。その端々に見えた煌めきは星ではなく、竜の牙だったのか。痛みも恐怖も感じないまま、その輝きも消えた。あれが死だったのか、と思うと同時に、アトリは首を巡らせる。
「狭間とは何だ」
「そのままだよ。生死の狭間、ここはとてもわかりやすい場所だ。この天が生」
ココは青天を指さした後、足下の水を示す。
「そしてこの地が死。水に沈めば死ぬ。溺れるとかではなくてね。肉体が消え、魂も解け、個を保てなくなるまで分けて新たな命が生まれる」
「……なら、私は死んだのか」
いいや、とココは頭を振り、アトリを覗きこんだ。長い黒髪が幕のように降りてくる。
「霧の竜に喰われたところで、わたしが引っこ抜いた」
「ひ……? なに?」
ココは笑う。
「簡単に言えば、君の生死は保留されている。今、わたしと話している君はいわば魂のようなもの。本来の肉体は竜の腹の中で消化待ちというわけだ」
アトリは一瞬詰まった息を吐いて目を閉じた。
「保留も何もない……消化されれば、戻る体を失う。死ぬのに時間がかかるだけだ」
「だが、それで君の約束は果たせる」
「どういうことだ」
眉をひそめ、アトリは目を開ける。ココはにこりと笑った。
「集落に受け入れられるため、巫女や長たちと約束させられたんじゃないのかい。贄になれ、と」
アトリの視線が上へ行き、その後、元の位置へと戻ってくる。
「……ここで死ぬことが、私の役目か」
「いいや」
やたらはっきりとしたココの否定が聞こえた。ココは体を離したかと思うとアトリに覆いかぶさった。
「わたしと一つになり、新たな『ココ』を作る。それが贄の役目だ」
アトリは顔をしかめた。
「お前とここで子作りしろと?」
「してもいいけれど、そうじゃない」
アトリから離れ、ココは仰向けになった。
「わたしと君の魂を重ねて混ぜる。それが次の『ココ』になる。戻る肉体は必要ないというわけだ」
「お前も魂なのか」
「少し違う。神霊みたいなものと思えばいい。意味がわからなければ、そうだね、竜の親戚みたいなものだ」
言いながら、ココは少し笑った。アトリは彼を一瞥した後、視線を天へと戻す。
「……贄になれというのは、私が女だからか」
「別に男でもいい。どうせ混ざるのは魂なんだ。性別は意味がない。だから、最初に言ったろう。君に合わせたって。お好みとあらば女にでもなれる」
ただ、と言い、ココは左腕で頭を支えながら体を横にして、アトリを見つめた。
「巫女や長たちは考えるだろう。一族から健康な若者を出したくはない。と言って、体の弱い者を差し出してこちらの不興を買いたくはない。そこに丁度いい人間が来た」
アトリは目を閉じる。
「……私か」
「代替わりというんだ。『ココ』が生まれてから数百年ずっと続いている。ただ、狭い範囲で続いているせいか『ココ』が歪むようになった」
「歪む?」
ココはうつ伏せになって、腕に顔を乗せた。
「そもそも、わたしは何だと思う?」
問いに問いで返され、アトリは小さく息を吐いた。
「怒らないでくれよ。こうして人と話せるのは稀なんだから」
「怒ってない。……考えたことがなかった。だから、よくわからない。……でも」
アトリの脳裏には霧をまとい、竜を先導する姿が焼き付いている。
「静かだと思った。静かで心地よくて、でも恐ろしい。皆が美しいとか綺麗とか言うのが信じられなかった」
ココは笑う。
「なるほど。わたしは死そのものだ。人によって受け取り方が違う。一族の人間は死を敬う。だから、そう思えるのだろう。君にとって死は静寂、安寧、恐怖、そういうものなのだろうね」
恐怖、とアトリは口の中で呟いた。その言葉はしっくりと馴染み、アトリの中へと落ち着く。
「……それが歪むとどうなる?」
「死ではなくなる。生者への執着が生まれる。今のところ、先達からわたしに至るまで起こっている歪みはそんなところかな」
「執着?」
「そう。だから今、わたしは君に執着している。このまま混ざることなく、ここにいてほしいと思う。どうだろう、悪い提案ではないと思うが」
アトリは溜め息をついた。
「私は贄だ。執着の理由もそれだろ……」
「いいや。わたしは君が贄になる前から知っていた。南の地から逃れ、足を踏み入れた北の大地に君が恐れたその時から」
ココはアトリを見つめる。
「トトカラを捨ててしまえば良かっただろうに」
覚えのある響きにアトリの目が大きく見開かれる。先刻の夢で聞いた声だった。
「逃げ回る日々において、トトカラは君にとって杖のようなものだったろう。そうして、始まるための場所として君は北の大地を選んだ。だが、君の恐怖は消えることはなかった。終われない恐怖、始まることへの恐怖、それを強いたのはあの小さな生き物だろう? あの時、君に安寧をもたらせるのは死のみだった」
アトリの鼓動が速くなる。
「しかし、君はそうしなかった。もろくて細い杖を手にして歩くことを選んだ。恐怖から逃げながら、恐怖へと進む姿がいじましくてね。その時から目が離せなくなった」
アトリは唇を噛み、ココを睨み付ける。
「くずが」
ココはうつぶせの状態で頬杖をつき、「なんとでも」と答えた。このやり取りでさえもココは楽しんでいる。アトリが何かを言うごとに、それを喜んでいる。わかってはいても、胸に湧いた嫌悪を言葉にせずにはいられなかった。もっと体が自由になれば、掴みかかって殴っている。それが出来ない苛立ちを払うように、アトリはココから顔を背けた。
「……そうしてくれるということは、わたしの所見が正しかったというわけだ」
アトリは拳を強く握った。鼓動は段々と速くなる。血が火のように熱い。ココは気にも留めず、そうだ、と上半身を起こした。
「君に聞いてみたかった。どうして霧の竜を殺さなかったのか」
ココの言葉は氷の針のようだった。鋭く刺して、沸騰する血を一瞬で鎮める。怒りで一杯だった頭が急激に冷めていった。アトリはゆっくりとココへと顔を向ける。ココは胡坐をかいた上に頬杖をつき、アトリを見ていた。視線が合うと、柔らかく笑う。
「ああ、振り向いてくれたね。いやなに、君の憎悪や怒りは正しく霧の竜に向けられていたはずなのに、あの瞬間、何を思ったのかと不思議だったんだ。あのまま射殺せば、なるほど、君らしいと思ったけれど」
アトリは口を開きかけて止まる。ココは言葉を続けた。
「君は恐怖と死で生きてきた。そして、トトカラが死んでからはそこに憎悪が加わった。君にとっての新しい杖だよね。にも関わらず、君はあの一瞬でそれら全てを手放した。どうして?」
霧の竜に矢を向けた時のあの一瞬の感情。様々にあったはずのそれは、全て溶けきって跡形もなくアトリの中で消化されている。もはや、すくいとることも出来ない──これまですくいとったことがなかったために、それが出来なかった。
アトリは乾いた唇を動かす。
「好きだからだ」
一瞬、ココの顔から表情が消える。そして「なるほど」と言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「最初のそれは、わたしに言ってほしかったなあ。……まあ、それは追々」
ココは振り返る。
「呼んでもいないのに来るのは野暮というものだよ」
途端、風が放たれる。それは水面を切り裂きながら高速で進んだ。裂かれた水が左右に壁を作り、水しぶきがアトリに飛んでくる。思わず目を細めた時、放たれた風が彼方で何かに衝突し、水もろとも弾け飛んだ。弾けた水は瞬時に砂粒ほどの大きさにまで霧散し、今度は返す刀でココへと殺到する。
「おや」
霧となった水は蛇のようにココへと巻きつき、体の自由を奪った。本人は暢気にそれを見下ろし、アトリと目が合うと笑いかける。
「ご覧、珍客だ」
アトリは思考が追いつかぬまま、視線を転じる。ココを縛った霧の残滓が彼方に揺蕩っていた。その中から小さな影が歩いてくるのが見える。アトリは目を見開いた。
「トトカラ……」
三年前、霧の竜に殺された時と変わらぬ姿でトトカラが現れる。
ただし、その手に霧の竜の頭を抱えて。
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