ウフキの腹の奥で熱が沸き起こる。肌を打つ風は生温く、水の礫は冷たいにも関わらず、熱は炎の如く身中でうねる。

 夏の衣はその材料の大半を霧の竜から調達している。他の竜に比べて美しい素材が手に入り、衣として織り込めば霧の竜の名のごとく、霞をまとっているような軽さである。本来なら祭祀においてゆったりと羽織るものであり、ウフキは飛ばされそうになるのを袂で掴み、手綱を握る片手は赤くなっていた。

 肩越しに後方を振り返ると、霧と瘴気で濁る風景を切り裂いて進む一団が目に入る。南の氏族は勇壮な戦士の一族とウフキは聞いていたが、蛮族の間違いではないかと黒い顔を見て思う。その薄汚い手で殯を汚される、竜を汚される、死を汚されると思うと連中を切り刻んでやりたい衝動に駆られた。──だが、それは目的ではない。ウフキは深く息を吸い、視線を前へ戻す。

 均衡を崩した霧の竜が山を壊し、谷川を抉りながら進んでいる。その哀れな姿にウフキは胸が痛んだが、「殯を最後まで行えるのは、自分だけ」と言い聞かせると気分が高揚した。

 女衆は殯に参加できない。昔からそう決められており、ウフキも何の疑問も持たなかった。だが、アトリが殯に参加することを知ってから、ウフキはその決まりに疑いを持つようになる。

 アトリはウフキら一族の者ではない。ある時、弟だというトトカラと共にさ迷っているところをゴザたちが見つけた。アトリは五歳ほど、トトカラは一歳ほどと見られ、戦から逃げ延びたような有様だった。

 実際に、そうではないかと思われる話を彼らは迅人から聞いていた。南の氏族間で小競り合いがあったらしく、敗れた側は根絶やし、アトリとトトカラはその生き残りではないかと考えられた。事実、その顔立ちは北方よりは南方に近く、全体的に色素が薄めなゴザたちに比べてアトリとトトカラの兄弟は黒髪に黒目が際立った。

 当時、南方の氏族が殯に興味を示している、と聞いていた彼らは二人の子供を警戒する。受け入れてよいものか、それとも放逐するべきか、皆での話し合いが続いた。そして結果、子供たちを一員として迎え入れることにしたのである。

 始めはウフキと共にゴザの下で過ごしながら、集落での生活に慣れさせた。この時既に、ウフキはアトリが気に入らなかった。アトリとほぼ同年の彼女にすれば、甘えたいさかりに両親を取られたような気がしたのである。幼いトトカラはかわいいと思いこそすれ、気遣う両親へ笑いもしないアトリの態度は腹立たしかった。これも戦のせいだから我慢しなさい、という言葉はウフキにとって呪いでしかなかった。

 アトリが八歳を過ぎた頃、その呪いは思いがけない形で解かれる。アトリを殯に参加させるという。殯に参加する、つまりは組に入るということは一人前と認められたことになる。アトリとトトカラの兄弟にはささやかな天幕が与えられ、二人はウフキらの天幕から出ていった。

 穏やかな暮らしが戻る。だが、何故──安堵と疑念の間でウフキは胸にささやかな痛みを覚えた。殯の慣例は何だったのか、何が起きているのかと考えるようになり、そして呪いは新たな形を結ぶ。組に入るアトリの面倒を、タカラが見ることになった。

 タカラは気のいい兄のような存在だった。年少の面倒見もよく、ウフキも世話になっていた。想いは募っていき、年頃になればそれは確かな形として心に居場所を作り、そんな折にアトリがタカラまで取っていってしまった。

 アトリのせいではない。ウフキとて、そんなことがわからないほど愚かなつもりはなかった。──だが、何故。

 アトリが現れてからずっと、ウフキの問いに大人の誰も答えてはくれなかった。始めは子供の癇癪、そのうちに嫉妬だと呆れられるようになり、父親のゴザでさえ溜め息をつく。ウフキの「何故」に向き合おうとする者は誰もいなかった。まるで、そうするのが当然であるかのように。

 次第に、味方と思っていたタカラでさえ口を噤むようになった。

「くそっ」

 ウフキは頭を振り、まとわりつく嫌な記憶を振り払った。それからうつ鏡を拭い、正面を睨む。霧の竜の殯さえ終われば、出口のない迷路から抜け出せるような気がしていた。作りかけの夏の衣を手にした時、その輝きは天啓に見えた。

 ひゅう、とウフキの右肩を何かがかすめていく。ウフキが僅かに振り向くと、背後で南の氏族の一人が矢をつがえているところだった。その目には焦りも見える。ウフキは顔を正面へ戻し、身を低くする。合わせて軌道を低くした矢が飛んでいくが、どれも頭上を通り過ぎていった。

──きっと殺しはしない。傷を負わせて落とすつもりだ。

 だから、矢はもっとも大きな的であるウフキの背を目指さない。耳や腕、足などにかすり傷を負わせては通り抜けていく。

 しかし、殯に慣れないウフキの体力は尽きかけていた。うつ鏡や面をつけて長時間、騎乗することなど女たちにはない。加えて視界の悪さに暴れ狂う霧の竜、飛び交うのは土くれや石だけではない。低温、極度の緊張、様々な要因が本人も気づかない間に体力を奪っていく。面の中での呼吸も上手ではなく、男たちのように素早く面を動かして微かな呼吸を行うという技もなかった。

 息は次第に荒くなり、新しく涼やかな空気を求めて手が面へ伸びるのをウフキは律して止める。

「駄目だ、駄目だ……」

 呟くことで意識を保とうとするも余計に息苦しくなるだけで、ウフキの頭は次第に茫洋としていく。

 手綱は辛うじて握っているだけ、膝の力が抜けて体の均衡を崩した。乗騎の鹿が気づいて振り向き、速度を緩める。背後に迫る南の氏族が好機と見て勝鬨を上げ、殺到する──。

 その時、空を切る音がした。先頭を走っていた南の氏族の一人が落ちる。後続の馬に踏まれ転がっていく男の顔面には、横一線に斬られた傷があった。驚いた男たちが鐙を踏みしめ前方を見据えると、小柄な人影が鹿に跨り、駆けている。まだ子供、と一瞬の油断が命運を分けた。人影はおもむろに振り返ると矢をつがえ、わずかな隙も見せずに先頭の一人を射抜き、残った男たちが狼狽している間に二人目も射抜いた。

 三本目の矢をつがえて狙いを定めたアトリの前で、彼らの速度は明らかに落ちていく。アトリは矢をしまい、弓を体に通して体を反転させる。乗騎へ大人しく走ってくれた礼をして手綱を握ると、ウフキへと一気に距離を詰めた。

「おい!」

 ウフキの手は辛うじて手綱を握ってはいるものの、均衡を崩した体が大きく揺れていた。彼女の鹿が主の異変に気づいて速度を落とさなければ、あっという間に振り落とされていたはずだった。アトリは舌打ちをして並び、その腕を掴む。

「起きろ!」

 ウフキは弾かれたように肩を震わせ、茫洋とした視線をアトリに向ける。そしてその焦点が結ばれるや否や、まなじりを上げて手綱を振った。加速するウフキにアトリがついていくと、ウフキは「来るな」と叫ぶ。

「私が殯を終わらせる!」

 アトリは口を開きかけ、霧の竜の尾が迫っていることに気づいて身を低くする。うなりを上げて頭上を通り過ぎた尾は、遅れ始めた南の氏族の一団を巻き込みつつ山肌を抉り、彼方へ巨岩を飛ばした。遠くに地響きが聞こえ、鳥たちがざわめいて飛び立つ。アトリは息を飲んで霧の竜を見上げる。狂乱の中にある竜は哀れでしかなかった。下唇を強く噛んだアトリは掛け声をかけて速度を上げ、一気にウフキとの距離を詰める。

「寄越せ!」

 ひらめく夏の衣の端を掴んだ。気づいたウフキが引っ張り、阻止しようとする。

「離して!」

 アトリは更に引っ張ろうとしたが、前方から飛んできた木を避けるために身を引く。ウフキは上手くその隙をついて速度を上げた。アトリは舌打ちをし、手綱を振る。

「……もう戻れ! 邪魔だ!」

「なにが!」

 ウフキはアトリを振り返る。暗いうつ鏡の奥で、目が赤い。

「いつだってそう! あんたが全部とっていく! なにもかも全部! だからこの殯ぐらい私に譲ってよ!」

「殯ぐらいって……何言ってんだお前!」

「あんたこそ何なの? トトカラの敵なんでしょう、だからずっと憎んできたんでしょう! ここで私の相手なんかしてないで、さっさと矢で射ぬきなさいよ!」

 アトリは一瞬、言葉を飲みこんだ。勢いを失ったアトリにウフキが眉をひそめていると、「そうだな」と言ってアトリは身を低く屈めた。

「先に行く。そんなに死にたいなら好きにしろ」

 反射的に口を開いたウフキをアトリは一睨みで黙らせた。

「殯は竜のものだ。……俺たちのものじゃない」

 呟くように言うと、アトリは加速した。それまではウフキに合わせて遅くしていたのか、軽やかで鋭い走駆にウフキは目を見張る。小柄な影はあっという間に、霧の中へ消えた。

 にわかにウフキの手が震えだす。手綱に力を込めて震えを抑えようとしても、その力が入らない。アトリとの応酬でウフキの緊張は限界を超えていた。気力で留めていた部分がとうとう崩れたのである。

 ウフキは手綱を右腕にからめ、身を低くした。南の氏族が追ってくる気配はない。彼らの殺気が薄れたせいか、霧の竜の狂乱もいくらか落ち着いてきてはいる。とは言え、均衡を崩した巨体は山にぶつかっては土くれを弾き飛ばし、ウフキは乗騎に任せてそれらを避けながら進んだが、先刻までのような速さは失われていた。

──殯は竜のもの。

 ウフキの熱は急速に冷めていき、今は震えるほどの恐怖と後悔が顔を覗かせている。身にまとった夏の衣が重く、ウフキは視線を落として歯を食いしばった。

 ふと、乗騎が顔を巡らせる。同時に空を切る音が彼方から響き、ウフキが顔を上げた次の瞬間、轟音と共に目の前の大地が爆散した。振動と突風が鹿の足下をすくい上げ、ウフキらは容易く空へと放り上げられる。

 反転した風景の中、霧と土煙の向こうに見えたのは大地にめりこんだ巨岩だった。あれが飛んでくる音だったのか、と気づいた頃には落下し始めていた。視界の端に飛んで行く夏の衣があり、伸ばそうとした腕は手綱にからんだまま、鹿に引きずられるようにして落ち、両者の体は川原に叩きつけられた。

「……!」

 体中の空気が無理矢理に押し出され、一瞬、息が詰まった。次いで激痛が全身を駆け巡り、特に右肩から腕には第二の心臓があるのではと思うほど拍動が響いた。逸る鼓動に追い立てられて呼吸は細切れになる。うつ鏡にはヒビが入り、離れた面を口に当てなければと左腕を動かすと痛みが妨げる。その間も、針で刺すような痛みが胸を覆っていった。

 右腕に絡んだ手綱の向こうで鹿が体をよじれば、ウフキの体も動いて痛みが体を貫く。幸いにも頭は無事、致命傷を負ったわけではなさそうなのが幸か不幸か、連続する痛みに気絶することも出来ず歯を食いしばる。

 荒い息が聞こえた。起き上がろうとしていた鹿が動きを止めたらしく、ウフキは視線だけをそちらに向ける。大きな体の胸はどうにか上下しており、鹿はわずかに首を巡らせて主を見ると安堵したかのようにまた体を戻す。ウフキのために動くのを止めたようだった。

 ウフキの目に涙が滲んだ。彼方に翻った霧の竜の尾が歪む。霧と瘴気を引き連れて山を崩しながら進む姿は厄災そのものだった。遠ざかっていく災いに安堵する胸を、後悔が刺し続ける。

 何も出来なかった、やれることなどなかった、ただ歪めてしまった──その言葉がウフキの頭を占めていた。しゃくりあげて泣くごとに体が痛み、その痛みが浅慮な己を罰するものであるかのように感じる。ウフキは左腕を腹の上に横たえたまま、動きを止めた。

 目を閉じ、頬を撫でる湿った風を感じる。少し離れた所で流れる水の音、遠くで霧の竜が辺りを破壊する音、様々な音がウフキの表面を通り過ぎていく。意識しない音は無音に等しい。頭の後ろから段々と温もりが引いていく。

 鈴の音が渡る。ウフキは目を開き、視線だけを辺りへ巡らす。南の氏族が仲間を引き連れてきたのかとウフキはひやりとした。散々にこけにされた彼らが、ウフキを見逃すはずはない。鈴の音は構わずに響き続け、それは川上から近づいてきていた。ウフキの左腕は自然と、腰に下がったままの直刀へ伸びる。死を願いはしても、死を汚されるのは我慢ならない。

 ああ、とウフキは大きく息を吐いた。今の怒りを、霧の竜も抱いたのではないか。

 孤独の道の最後、傍らに走る小さきものたちによって、ようやくその孤独を癒すことが出来たはずの微かな時間──それは紛れもなく、竜だけのものだった。

 ウフキの頬を涙が伝った。腕を動かすのを止め、鈴の音が近づくのを待った。そうして薄れてきた霧の向こう、横たわる鹿が首を持ち上げる。そこへ挨拶のようにして、馬の鼻先が近づいた。僅かに見える毛色は青色である。ウフキは目を見開いた。霧をまといながら現れたのは、彼女が話に聞いた通りの姿であった。

 白い衣をまとい、長い黒髪を翻して、青い馬に乗って現れる殯の象徴。

「……ココ……様……」

 青い馬はウフキの真横にまで歩み寄り、その上で黒髪の中の顔がウフキを覗きこんでいる。しかし、瘴気に晒し続けたウフキの肺は充分な呼吸をすることが出来ず、目も霞み始めていた。馬から降り、ウフキの横に膝をついているが、その顔だけが見えなかった。

「もうしわけ……もうしわけ、ございません……」

 湧き上がる後悔を口にせずにはいられなかった。朦朧とするウフキが同じ言葉を繰り返していると、ふ、とやや低い声が笑いを帯びる。

「……勝手だなあ、君たちは」

 その細い指がウフキの額を弾いた。




 タカラは全速力で乗騎を飛ばした。鹿の口角に泡が滲み始めている。首をさすり、もう少しの辛抱だからとなだめてその腹を蹴る。かわいそうなことをしている自覚はあったが、それでも急がずにはいられなかった。

 南の氏族は多数の死傷者を出してようやく後退している。通り過ぎるタカラを見送る目は茫洋とし、乱入時の覇気は消え失せていた。戦士としての彼らの核を、霧の竜の暴威は叩き壊していた。

 霧と瘴気を引き連れて霧の竜が暴れ回った谷川は無残なものである。川原は抉れ、辺りの山々はその形を変えている。山から飛ばされた物が辺りに散乱し、真っ直ぐ走ることも出来ない。ささやかな川の流れは蛇行を余儀なくされ、そこには土と血が混じっていた。

 タカラたちとて、ここまで荒れ狂う竜は見たことがない。嵐の竜のようにその本質が暴威、狂乱であるならともかく、元は静かに死の道を歩むはずだった竜がその道を汚されたが故に、暴威と狂乱に浸されるなどあってはならない。それは冒涜である。

 途方もない無力感がタカラを苛んだ。殯を行う一族などと言っていても、肝心な時に守るべきものも守れない。誇りが転じて剣となり、タカラを斬り続けている。

 霧の竜の暴れ回る音は聞こえるが、姿は山の向こうに消えていた。間もなく海へと辿り着くものの、その先どうなるのかもはや人には予想出来ない。

 巨木を跳躍して飛び越え、山の影を回り込んだ時、先の川原に影が見えた。

「ウフキ!」

 鹿が横たわり、その向こうに小さな影がある。タカラは乗騎から飛び降りると、ウフキの傍に膝をついた。

「ウフキ! 目を覚ませ!」

 目を閉じたウフキの顔面は白い。うつ鏡にはヒビ、面は大きくずれており、タカラは急いで面をつけ直してやる。そして自身の衣の裾を裂き、腰に下げた袋から薬草を取り出して包み込むと石で軽く潰す。独特の匂いが広がるのを確認し、布で何重にも巻いて面の中へと滑り込ませた。

 微かだがウフキは呼吸を繰り返している。タカラは辺りを見回した。瘴気が薄くなり、辺りの様子が窺える。タカラは薬玉を三つ取り出して火を点け、ウフキを囲むように置いた。現場で出来ることはここまでである。あとは仲間を呼び、集落で適切な治療をしなければならない。

 ウフキの右腕には手綱が絡みつき、あらぬ方向へと曲がっている。幸い、頭に怪我はないようだった。先の方で巨大な岩が川原にめり込んでおり、巻き込まれて吹き飛ばされたらしい。

 タカラはウフキの頬を軽く叩きながら、名を呼び続けた。すると、苦悶の表情の後にウフキの目が開かれ、タカラの顔でその焦点が結ばれた。ウフキは声を出そうとして面に仕込まれた薬草にむせて咳き込んだ。

「喋るな。どれくらい瘴気に晒されたかわからない」

 ウフキは浅い呼吸を繰り返し、左手でタカラの腕を掴む。何事かを言おうとしており、タカラは耳を寄せた。くぐもった声は「ごめんなさい」と告げた。

「……行って、はやく……アトリが、竜を殺す……」

 タカラは海の方へ視線を向けた後、ウフキには穏やかな表情を見せる。

「お前の鹿を放って、後方にいる皆の所へ行かせる。おれも呼びの笛を吹く。迅人の誰かが気づいてくれるはずだ」

 ウフキの肩を軽く叩いてやり、左手をそっと解いて離れる。ウフキの乗騎は興奮していたが、大きな怪我はしていなさそうだった。

「お前の運がウフキを助けたのか、ウフキの運がお前を助けたのか……」

 直刀で手綱を斬り落とし、大丈夫だとでも言うようにその体を叩くと鹿は起き上がった。あちこちに傷が見られたが走るには障りがないようで、興奮を鎮めるようにひとしきり周囲を歩き回った後はウフキに鼻を近づける。それからタカラを見つめ、タカラが「行け」と呟くと風のように川上へと駆けていく。消えていく後姿を見送りながら、タカラは竹笛で緩い抑揚のついた調子を吹いた。荒れ果てた風景をなぞるように音が響く。

 タカラは笛を吹きながら周囲を見渡した。夏の衣が見当たらない。山のどこかで引っかかっているのではと視線を飛ばすも、近くにはなさそうだった。

 タカラの視線に気づいたウフキが「ごめんなさい」と繰り返す。笛から口を離していいんだ、と返し、それから「すまない」と続けた。

「お前は悪くないよ。……隠してきたおれが悪い」

 ウフキの眉が怪訝そうにひそめられる。

 にわかに、海からの風が強くなった。雨粒は数を増し、山々を渡る清涼な空気に湿った重い匂いが混じる。タカラは直刀で手近な木を何本か切り、ウフキの雨よけになるよう組んだ。

 頬を伝う雨を拭い、タカラはウフキを覗き込む。

「おれはアトリを連れ戻しに行く。おれの鹿を置いていくから、皆が来るまで辛抱してくれ」

「……タカラ」

 か細い声がタカラを呼びとめる。組んだ木々の作る影からウフキがタカラを見つめていた。タカラは苦い笑いを口に浮かべるしかなかった。

「……アトリは、おれの身代りになったんだ。本当はお前のように過ごせたはずのものを、おれが逃げた所為で。だから、おれはあいつに責任がある」

 タカラは更に飛び出そうとする言葉を飲みこんだ。これは自身への言い訳に他ならない。ウフキを前にしてまだ言い募ろうとした自分に嫌気がさした。

 不安そうな顔を向ける彼女へタカラは無理矢理に笑顔を作る。

「思いの外、怪我はひどくない。この雨なら早々に瘴気も薄まるだろう。お前の乗騎は賢い。すぐに皆を連れてきてくれる。おれもアトリを見つけたら、すぐに戻る」

 そう言って手を掲げ、タカラは泥水を蹴って走り出した。霧の幕は上がり、嵐の幕が降りようとしていた。




 手綱と共に握る弓が滑り落ちそうになる。アトリは舌打ちをして前方を見据えた。まもなく川を抜け、海へ出ようという所である。空は暗く、吹き寄せる風は重い。駆ける潮風が霧の竜をかき乱し、竜は時折、咆哮を上げるようになった。死期の迫る竜が咆えることは珍しいが、その声だけでかの竜の正気を確かめることは難しい。しかし、不安定に揺れていた体は真っ直ぐと海を目指すようになり、辺りを破壊することはなくなっていた。海からの風、そして時間が汚れた霧を吹き飛ばしたからだろう。

 暗い海へ猛進する霧の竜はその美しさを取り戻していた。銀の輝きに死の気配は感じられない。だが、その向こうには確実な死が宿っており、それを竜は察してこの道を進んでいる。

 天幕から脱走して後、肩の関節を戻したアトリは装備と乗騎を確保した。ウフキの言う通り、撤収の準備に忙しい皆の隙を縫い、影を辿りながら行えば造作もなかった。速やかに鹿を駆り、組を先回りするべく山の上を目指した。

 組だけでなく、南の氏族に見つかっても面倒である。山を駆けのぼり、谷川へと向かう細い支流の影を一気に駆け下りる──陽の暮れ方からすればその頃には辺りも暗くなっているはずで、暗闇と木々がアトリの姿を隠すだろう。

 休まずに鹿を走らせること半時、木立の隙間から谷川を見下ろした。川上に濃い霧の塊が見える。そこから組の動きを推測することは容易く、南の氏族はそんな組の動きを想定した場所に身を隠しているに違いなかった。俯瞰であらゆることが見える面白さにアトリは思わず笑う。

 面とうつ鏡をつけ、暗くなるのを待った。日暮れと月が昇る合間の黄昏時、その時が一番に暗い。斜面を駆け下りる勢いと鹿の脚力を信じて、アトリは乗騎の首をさすってやる。鹿はわずかに首を巡らせて主を見上げ、その視線に揺らぎがないことを認めて顔を前へ戻す。

 アトリは一瞬、息を止めた。

「行こう」

 アトリと鹿はひとかたまりになって支流を駆け下りた。木の葉が枝から地面へ舞い落ちる間に、その姿は一瞬で彼方に消える。

 風は鋭く、音は遠く、息は胸に──両者の輪郭は溶けていく。逸る鼓動が耳の奥にこだまし、何ものにも捕まらない高揚感だけが満たしていく。速く、どこまでも、と願い始めたアトリの視界に銀色の光が走った。

 アトリは慌てて手綱を引く。乗騎の口からは白い息が上がっていた。アトリも呼吸を荒くして流れる汗をぬぐう。茫洋とする頭を振り払い、這い上がる冷気で目が覚めた。暗い支流を流れる水のささやかな音が響く。先は緩く曲がり始めており、脚を止めなければ木にぶつかるところであった。

 アトリは息を慣らして視線を巡らせる。正面に居並ぶ木々の向こうに、視界の端を焼いた銀の光があった。アトリは鹿を回頭させて山の斜面へと上がり、暗闇を静かに分け入る。

 鹿の耳が反応した。すっと毛が逆立ち、肢を止める。様々な殯を駆け抜けた乗騎が怯えているのをアトリは感じ、その首筋を撫でてやった。

「大丈夫だ」

 鹿は忙しなく耳を動かしながらも、再び一歩踏み出した。そして一歩、更に一歩と進むうちに、谷川で行われているはずの殯が騒がしいことにアトリは気づく。

 人の悲鳴、木々の破裂する音、合間に聞こえるのは剣戟の音だった。

──南の氏族か。

 蛮族が乱入している。しかし、とアトリは眉をひそめた。それだけでここまで荒れるはずがない。これではまるで竜が暴れているようだ──。

 ひゅう、と宙を駆ける高い音がし、アトリは咄嗟に手綱を引いた。慌てて後退すると、先刻までいた場所に大人の頭ほどの岩が落下する。土くれを弾いて地面にめりこむ岩を見つめた後、アトリはまさかと顔を上げた。そしてそのまま鹿を駆り、木立の向こうの銀の光を目指す。

 霧が次第に濃くなり、前後の視界も怪しくなり始めた頃、唐突に光が閃いた。乗騎を止めてアトリは目を細める。そして眩しさに慣れた目が映しだしたのは、霧と瘴気の中で荒れ狂う霧の竜の姿であった。もがき苦しむように巨体をくねらせ、うなりをあげた躯体が周囲の山を抉り、叩き壊していた。その度に木々は割れ、岩が吹き飛び、谷川の彼方では悲鳴が重なっていく。

 アトリの目から涙が落ちた。息はつまり、目を逸らすことが出来ない。手綱を握った手を動かすことも出来ず、鹿が気遣わしげに主を振り返る。それでも、アトリの視線は暴れ回る霧の竜に注がれていた。アトリにはその姿が弟に見えていた。

 トトカラが苦しんでいる。生にも死にも歩み寄ることを許されず、苦しみの泥中でのたうちまわっている。最期、ようやく孤独を癒し、安らぎに身を浸せると思っていたものを邪魔され、怒り狂い、その激情が臓腑を焼いて更に自身を追い詰めていく──。

 霧の竜とトトカラは違う生き物だ。頭ではわかっていても、脳裏に焼き付いた印象は強い。アトリはうつ鏡をわずかにずらして素早く涙を拭った。面の中で呼吸を整えながら、左手が自然と腰に佩いた直刀へと伸びる。柄を握りしめると、手が震えていることに気づいた。アトリは唇を噛む。

──竜は美しい生き物だ。

 常々、考えまいとしてきたことである。トトカラの仇である以上、竜に、特に霧の竜に対しては恨みと怒り以外の何も抱かぬようアトリは決めていた。それが、あの暴れ狂う姿によって粉砕された。

 あってはならない、あのような姿は哀れだ。竜を穢す全てを許せない。そんな怒りの根幹は竜に対する尊敬であった。

 人の世は泥の中のようだとアトリは感じている。アトリやトトカラのような小さく力を持たぬものは、一度深みにはまると抜け出すことが難しい。仮に抜け出せたとしても、その代償は身に余る。泥はいつまでも重く、固く、弱いものを捕え続ける。その彼方を通り過ぎていく大きくて強い生き物が竜であった。何にも捕われることのない巨体は何にも受け入れられることはないが、それでも立ち行く強さがあった。

 強く、美しく、気高い──アトリは竜という生き物を愛していた。愛しているからこそ、弟の命を奪ったことが許せない。

 アトリは相反する気持ちの間で揺れていた。霧の竜を殯へ戻せば己の復讐は果たせなくなる。だが、復讐を果たせば竜を穢す一因に自身も加担したことになる。噛み締めた唇から血が滲み、口の中に鉄の味が広がる。

「出たぞ!」

 荒れた男の声にアトリは反射的に身を低くした。下方の草むらで動く複数の人影がある。姿からして南の氏族であった。元々荒くれ者の多い氏族ではあるが、遠目にもわかるほど苛立っている。彼らは得物を手に谷川へと馬を駆って行った。アトリは身を起こし、遠ざかりつつある喧騒の中心へと顔を向ける。それから弓矢の準備を整え、再び風のように駆けだした──。

 顔面を生暖かい風が雨粒と共に打ち付ける。アトリは顔を上げた。風と共に暗い空が暴れている。四方八方から強風が吹き荒れ、雨足も風に合わせて駆けていた。アトリの乗騎は風の隙間を縫うように、大地を掴んで走る。それでも、風にすくわれてたたらを踏むことが多く、この荒れ狂う天気の中を悠然と進む霧の竜はやはり自然の象であった。

 谷川は薄く大きく広がって海へと流れていく。光を失った海は黒く、小さな白波を大きな白波が食い、それを更に大きな白波が飲み込んでいた。あちこちで繰り広げられる波の捕食によって海はいつも以上に、その存在感を膨れ上がらせていた。

 波打ち際に漂い、霧の竜が咆哮する。その迫力は嵐を一瞬、退けるほどだった。しかし、自然に生まれた嵐は誰の言いなりにもならない。それは自然の象である霧の竜とて例外ではなかった。霧の竜は咆哮を繰り返す。海へ向かい、何かを呼び掛けるように。

 霧の竜はそこから一歩も進まなくなった。

「……」

 アトリは迷っていた。ウフキに焚き付けられた憎悪は消えていない。むしろ嵐を受けて勢いを増しているほどだった。しかし、竜を愛しく思う気持ちも無視出来ないほどに大きくなっていく。

 咆哮によりわずかに嵐の威力が後退した時を狙えば、目を潰すくらいは出来る。だが、それを本当に自分がしたいのかがわからない。堪え切れずにアトリは面とうつ鏡を外し、問いを霧の竜へぶつけた。

「……何なんだお前は!」

 口を開けば雨風が殺到する。アトリはその勢いに咳き込みながらも、鹿を少しずつ霧の竜へと近づけていった。

「お前は、自然なんだろう! それが……それがどうして! どうして俺から家族を奪うんだ!」

 叫ぶ声が果たして竜に届いているのかもわからない。アトリの目頭は段々と熱くなっていく。

「返せ! ……私の弟を!」

 アトリは矢をつがえた。すると霧の竜は身を翻し、四つの目でアトリを見据える。左側の目はその役割を失い、残った右側の二つが燭を灯したように輝いた。額から伸びる角は無数に枝分かれして空へと広がり、大気を固めたような青白さが空を透かす。白銀の髭や水の輝きを含んだ鱗は暗い空と海を背に、否応なく際立って美しかった。

「……くそ……」

 引き絞った弦は震え、鏃が揺れた。的を見つめるアトリの視界は歪む。

 霧の竜は息を吸うように一瞬身を引くと中空で体をうねらせた。そして勢いのついた体はアトリへと速度を増しながら肉迫する。

「──アトリ!」

 その時、タカラが泥だらけになりながら砂浜へと辿り着いた。悲鳴のような呼び声に、アトリははっとして振り返る。

「待て! 待ってくれ!」

 全てが遅く、タカラの手が届くことはなかった。

 霧の竜は巨大な咢を開く。

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