長の天幕に上座から長とハハキ、ゴザが座し、組からはタカラを含めた数名が集まっていた。天幕の端ではイチジがひっそりと胡坐をかいている。彼らにとって、霧の竜にまつわる三年前の出来事は忘れられない傷であり、今度こそ失敗は許されない。

 外は昼、霧の竜の活動が最も鈍くなる頃合いを狙っての集まりだった。

「それで」

 真っ白な髪と髭を長く伸ばした長が口を動かす。しわがれた声に見た目ほどの老いはない。

「見てきた様子では、前と変わらん、と」

 はい、とゴザは低く頷く。

「腐敗の進んでいる様子もありません。しかし、三年前につけた傷もそのままなので、回復している様子もないようです。やはり天命は尽きかけているのではないかと」

 長は髭を撫でる。

「その……尽きかけているというのが厄介だねえ。どうですか、ハハキ様」

 ハハキの前には水を張った水盤があった。ハハキが緑の玉(ぎょく)と赤い玉を入れると、どちらも静かな波紋を広げて沈む。そこへ焼いた鳥の骨を一本浮かべ、ハハキの小さな目はその動きをじっと見つめた。

「……骸と生物の狭間をたゆたうのが、霧の竜だ」

 ゆっくりと子供へ諭すようにハハキは続ける。

「霧は円環のもの。生まれ、消え、そしてまた生まれる。かの竜とて己の巡りを自在にすることは出来ないようだね……だから、かつて見誤ったわけだが」

 ハハキはタカラを見据えた。

「アトリはどうしている?」

「今は本人の天幕で柱に繋いで、ウフキに見させています。目覚めれば逃げ出そうとするので、眠り薬を」

「ウフキに?」

 ゴザが渋い顔をし、タカラは苦笑して「適任ですよ」と返す。

 ハハキは小さく笑ってそうか、と呟き、手元の石の中から小さな黒石をつまんで水盤へ入れた。玉より大きな波紋を広げて沈み、底で高い音をたてる。

「あの子の憎悪は霧に敵わない」

「では」

 急き込むゴザに、ふむ、とハハキは答えた。

「まあ、あの子は余所の子だがね。あの子は一度として、ここを出たいと言ったことはなかった。それは、お前もよく知っているだろう。ここにいることを選んだ。その選び方を、今更変えてやることがあの子の為になるかどうかは、微妙なところだよ。……ともあれ、今、アトリを霧の竜の元へ行かせるわけにはいかない。南から黒い雲が来るよ」

 天幕の中に緊張が走る。口を開いたのは長だった。

「それは南の氏族ですか」

「さあて……それもあるだろうが……」

 水盤を見つめていたハハキは顔を上げ、皆を見つめる。

「……もしかしたら、かの竜も嵐に気づいたのかもしれない。自在には出来ない巡りを大いなるものに委ねるために」

「嵐の竜が霧の竜の天命を断つ、と?」

 ゴザが低く尋ね、ハハキは頭を振った。

「本物の嵐だ。我らは勿論、竜にもどうにも出来ない、本物の嵐だよ」

 気性は苛烈、骸は勿論のこと骸片の一つとなっても残った本能が嵐を呼び起こし、厄災と言うに他ならないのが嵐の竜である。だが、それでも本能には法則がある。法則を知れば人にも対処のしようがあった。

 本物の嵐にそれはない。出来ることはただ過ぎ去るのを待つだけである。

「断つのか、延ばすのか、それはわからない。しかし、今ここに霧の竜がお出ましになった以上、意味はある。……勤めを果たし、よい導きを」

 ゴザ以下、組の衆たちは深く頭を下げたが、その中で一足速く頭を上げる者がいた。天幕の端にいたイチジであり、背後に視線をやる。幕の外にいる誰かとやり取りを交わし、イチジが顔を向けるのを待ってゴザは声をかけた。

「どうした」

「見張らせていた班から報告です。南の氏族がここを探っているようで、近くまで来ていると」

「なに?」

 ゴザたちは竜の骸を追いつつ、集落を移動させる。不思議と竜の骸は集まる習性があり、一頭を見つけると呼び水のようにまた一頭と現れ、それらの殯を終えて七日、周囲に骸が現れなければ次の地を探す。迅人はその際の案内人でもあった。

 彼らは水の流れの近くに集落を構えることが多い。だがその慣習を他が放っておくはずもなく、『ココ様』の噂が流れてからは人目につかぬよう集落の場所は執拗に隠していた。

 集落を構える際は人の手が入っていない所、そして出入りは慎重に──移動の度に開拓のような重労働が増えたが、以後の生活を穏やかに過ごせるのなら安く、実際にその効果はあった。

 ゴザが視線をやった先で目の合ったタカラは、青い顔をした。

「おれかもしれません」

「……だろうな」

「すみません」

「いい、俺も迂闊だった」

 ゴザは嘆息した。このところ続いた平穏で警戒心が鈍っている。そこへ霧の竜とアトリの騒ぎが加わり、本来払うべき注意を怠った責任はゴザにもあった。頭を垂れるタカラへそれ以上の言及をせず、ゴザは数人の腕自慢に偵察を命じる。それから長へ向き直り、「どうしますか」と尋ねた。

 掛け声をかけて腰を上げつつ、長は答えた。

「人との荒事は御免だよ……ここはいい場所だったがね」

「では、若衆を数名残し、女衆と合わせて移動の準備を始めさせます。組は予定通り殯を行いますが、それでよろしいですか?」

 ハハキが「そうしてやりなさい」と頷く。

「竜は常に孤独だ。最後の最後、その道の途中にくらい、小さな者たちが寄り添う程度の余白がなくては寂しすぎる……」




 アトリの眉がひそめられる。黒い毛氈にくるまっているような静けさを、音が少しずつ切り裂いていく。穏やかとは言えない眠りから覚醒すると、猛烈な口渇感と頭痛が襲う。水を、と手を伸ばそうとしたが動かなかった。固まった瞼を押し開けると、柱に後ろ手で縛られている。アトリはようやく自身の状況を思い出した。タカラに連れ戻されたアトリは天幕の柱に縛り付けられ、それでも暴れるのを止めないために眠り薬を飲まされた。気分の悪い寝覚めはそのせいである。

 視線を周囲に走らせ、そこが自身の天幕であることを確認した。小さな行李と二人分の寝具に着替え、傍らに転がる二つの湯呑のうち、一つには三年分の埃が積もっていた。使う者のいない道具たちはすぐには死なない。少なくとも、アトリはまだ死なせたくなかった。だからといって綺麗に手入れをすることもなく、日々、その死を緩慢に見つめている。

 集落の人々は初めこそ片付けるよう諭したものの、次第にそれもなくなった。殯以外で外に出ることも減り、ひそめた息が静かに絶えていくのを待つような空気が天幕を満たす。

──それでも、笛を手放せないのはどうしてだろう。

 折れた竹笛は、あれからずっとアトリの傍らで眠り続けている。

 アトリは重い頭を動かした。手は柱を回り込むようにして縛られている。溜め息をつきかけて咳き込み、体が揺れる度に縄が食い込んで熱を帯びた痛みが走る。

「いい気味」

 悪意に満ちた声に顔を上げると、入り口で幕を開けて覗き込む少女がいる。しっかりとした体つきに険を含んだ瞳、アトリをそんな目で見るのはこの集落で一人しかいない。

「……ウフキ」

 その手にある水差しと木の湯呑に、アトリの視線は吸い込まれていく。

「自分ばかり好き勝手にした罰よ。ざまあみろ」

 僅かに開いた隙間から夕日が射し込む。漏れ聞こえるのは殯の時よりも忙しない喧噪だ。身を乗り出して様子を窺おうとしたが、ウフキは入口の幕を閉じて一歩進む。

「自分が特別とか思ってるの? なんも出来ないで皆に迷惑かけているくせに。父さんもタカラもいい迷惑だよ。あんたが余所者だから皆、何も言わないだけでさ」

 ウフキがアトリを目の敵にしている理由を、アトリはわからないでいた。

 彼女はゴザの娘である。組長の娘だからと威張り散らすこともなく、その立場に恥じない行動をと常に己を律する娘であり、理不尽な理由で他者を貶めたり嫌ったりするような狭量さとは縁遠い、父親共々慕われる娘だった。

 しかし、アトリだけはその懐へ決して入れようとはしなかった。幼い頃はまだしも、アトリが殯に同行するようになってからは、その感情に憎しみのようなものが混じり始めた。ウフキは進んでアトリを避け、アトリもまたウフキを避けた。それで互いに平和でいられるのだが、今回は二人の思惑とは別の意志が動いたようである。

 悪態を言いつつもその意志に逆らえなかった、となれば長かゴザ、もしくはタカラが余計な機転をきかせたのか、と内心で舌打ちした。皆が二人の不和を案じているのは知っているが、余計なことをしそうなのはタカラである。──だが、その誰もが様子を見に来ないのは何故だろう。

 アトリの注意が天幕の外へ向くのに気付き、ウフキが伝える。

「南の氏族が嗅ぎつけたらしくて、ここを捨てるのよ。タカラは自分が悪いって思っているみたいだけど、原因はあんただよね」

 ウフキは大きな瞳で睨み付け、手に持った水差しを傾けた。中に入った水が涼やかな音を立てながら地面へと落ちていく。そして空になった水差しと湯呑だけを投げて寄越し、ウフキは踵を返した。

「水を渡そうとしたけれど、目の覚めたあんたが暴れて全部こぼれました。……忙しくて、新しい水を持ってくるのに時間かかるかもね。でも、安心してよ。この天幕も最後にはちゃんと片づけに来るから」

 アトリは掠れる声で悪態をつき、転がっている水差しに目をやる。先刻までその中を水が満たしていたと思うと恨めしさが募った。水差しの先に雫が残っており、アトリは縄が食い込むのも構わずに身を屈め、どうにかそれを舐めとる。口渇感がいくらか和らいで息をつき、天を仰いだ。何もない天幕の中心部を睨み付けることしばし、アトリは歯を食いしばって体を動かす。

 天幕の中で小さな呻き声が響き、しかし、その声は外の誰にも聞き止められることはなかった。



 暗くなり始めた山間ではゴザたちが準備を整えていた。下草が生い茂る場所に身を潜めて報せを待っていると、集落のある方向とは真逆の方から仲間が一人戻り、乗騎から降りて身を屈める。どうだ、とゴザが問うと、仲間は頷いた。

「やはり南の氏族です。近くまで来てはいましたが、いまいち掴み切れていなかったようでしてね。迷っているところを、まったく別の方へ案内してやりましたよ」

 周囲に笑いが広がった。ゴザも薄く笑ったが、すぐに収める。

「連中も馬鹿じゃねえ、こっちが殯を始めたとなれば勘づく。お前はこのまま他の連中と集落に戻って撤収を急がせろ。迅人はまだか?」

「ここにおりますよ」

 身を屈めて集落へ戻る仲間の影から、イチジとは別の男が現れる。名をニズカラという。

「いるなら言えや」

 ゴザが渋い顔をすると、ニズカラは目を細めて笑った。

「お呼びがかかればいつでも」

「どうしてこう迅人ってやつぁ……ああもういい、それでどうだ」

「誘導出来たことは出来たんですが、南の谷川までで精一杯でした」

「やなことはどうしてこうも重なるかね……」

 南の谷川は、南の氏族が支配する地域に近い。ゴザは出来ればもう一つか二つ、山を越えて連れてくることを望んでいた。

 ニズカラがとりなすつもりではないだろうが手を振る。

「まぁ、そうやなことばかりでもありません。南の谷川は植生が乏しく、今は水が少ない。そして海までが近い。霧の竜とは覿面に相性が悪く、最短で殯を行えます。おまけに霧で視界も悪いとくれば、慣れない南の氏族に見つかる可能性はぐんと下がるかと」

「希望的観測ってやつだよ、そりゃあ」

 だがまあ、とゴザは息を吐きながら口角を上げる。

「ないよりはいい。三年前よりはずっとマシだ。……今度こそ、誰一人欠けることなく送るぞ。いいな、野郎ども」

 低い声がいくつも重なって応じる。

 配置はいつも通り、竜を挟んで向こう側で誘導する傍走りの一隊が先に移動を開始する。それをゴザは見送りつつ装備を点検し、闇の深まる空を見上げた。青白い月から冷たい風が吹き寄せる。ゴザは襟巻を持ち上げ、毛皮で作った防寒具を撫でた。

「もうすぐ白陽ですね」

 タカラが言い、ゴザは頷いた。

「女衆が言っていたろ。材料が足りないって」

「ええ、まあ」

「ちゃんとしねぇとな。……どうも、あの時っからしまらねえんだ。どれだけ真面目に祭をやってもよ」

 はい、とタカラが頷いた時、ひそやかな夜を駆ける音が彼方より響いた。皆の顔に緊張が走り、気の早い者は矢をつがえ、直刀の柄に手をかける者も現れる。ゴザは素早く視線をやって頭を振り、闇の中を見極めようとする。誰であっても、こちらから手を出してはならない。

 音は真っ直ぐゴザたちを目指している。近づくにつれ、ゴザに制された仲間の手は武器へと伸びていき、ゴザの額を汗が流れた。と、音にまぎれて何かが聞こえる。ゴザは耳をすまして唖然とした。

「ウフキ」

 娘の声を聞き間違えるはずがない。闇に溶けていた姿は次第に露になり、鹿を駆るウフキの姿がはっきりと見える。面とうつ鏡を下げたウフキは頬を上気させ、近くまで来たところで鹿から降りて駆け寄った。

「父さん!」

「何をしている!」

 大股で歩み寄って胸倉を掴み、ゴザは声量を抑えて叱責した。

「どこで連中が見ているかわからねえんだぞ。それをあんな大声で呼びやがって……!」

「ごめんなさい、あとでいくらでもお叱りは受けます。それよりアトリが」

「アトリが?」

 ゴザの後ろからタカラが顔を覗かせる。ウフキは頷き、ゴザは掴んでいた胸倉を離した。

「まさか、逃げたのか」

「目を離した隙に……」

 ゴザは手で顔を覆う。嫌なことは嫌な時に重なる──自身で口にしたことを悔やんだ。顔を撫でながら手をおろし、ウフキを見下ろす。

「……天幕の柱に縛り付けていたんじゃないのか」

「いたけど……多分、関節を外して抜けたみたいで」

 ゴザは舌打ちをした。

「どこの馬鹿がそんな技教えやがった。お前か?」

 あさっての方向を見るタカラを睨み付け、ゴザは溜め息をつく。

「気づいたのはどれくらい前だ」

「暗くなり始めた頃だから、逃げたのはそれよりも前だと思う」

 ゴザは重い溜め息をついた。傍で成り行きを見ていたニズカラが呟く。

「あいつは速いからなあ……下手すりゃ我々を追い抜いているかもしれませんね」

「お前から見ても速いか」

「今はまだまだですが、早めに仕込めばよい迅人になるでしょうな。常々勿体ないとイチジがぼやいておりますよ」

「……」

 ゴザは黙考した後、ニズカラを振り返る。

「迅人から頭数を割けるか」

 ニズカラは中空を見つめつつ答えた。

「まあ……大体の誘導は終わっているので、組との合流を果たせば入れ替わりに動くことは出来るでしょう。イチジの判断にもよりますがね」

 霧の竜の殯が終わるまで、イチジには暫定的に迅人の頭目を任せていた。少数や単独で動くことの多い彼らが、集団としてまとまるためには必要だとゴザが任命したのである。ニズカラの言葉から、上手く機能しているようだった。

「なら、お前は先に行ってイチジと合流しろ。アトリが逃げたと言やあ、向こうもわかるはずだ。俺からはとにかく殯を終わらせること、アトリを近づけないことに集中しろと伝えておけ」

「全部ではないですか……」

「嵐より先にとまでは言わなかったろうが」

「承知、承知」

 ニズカラは逃げるように闇へ溶け込む。

 ゴザは溜め息をつき、タカラを呼ぶ。

「お前は予定通り笛吹きをしろ。俺は少し後ろに行く。アトリが割り込むとしたら笛吹の間際だ」

 タカラは眉をひそめる。

「……本当にやるんでしょうか、あいつ」

「殯の邪魔をするなら追い払うだけだ。お前は笛を吹き始めたら何が何でも止めるな。いいな」

 有無を言わせぬ物言いでタカラを頷かせた後、ゴザは残った仲間へ出発するよう言う。自身も乗騎に跨りつつ、ウフキを呼んだ。娘のウフキは頬を紅潮させて近寄る。

「はい」

「お前は戻って撤収の準備を急げ」

「でも、父さん」

「あ?」

 周囲の緊張に当てられて、乗騎が興奮していた。忙しなく動いてゴザの視線を乱す。

「どうした」

「私も殯の手伝いをします。人手は多い方がいいでしょう?」

「駄目だ。お前は戻れ」

「でも、アトリのことが」

「それはいい、こっちでどうにかする。お前は戻れ」

 尚も言い募ろうとする娘にゴザは指を突き付けた。

「いいか、これ以上言わせるな。戻れ」

 ウフキは不服そうな表情で「はい」と頷く。ゴザは鼻から息を吐き、ひそめた声で仲間に号令をかけた。三々五々、鹿を駆った一団がそれぞれの持ち場へと走り去っていき、そのしんがりをゴザが走る。

 ふと振り返ると、ウフキは暗闇の中でじっと佇み、こちらを見ていた。




 谷川は竜の瘴気と自然の霧が混じり合った濃い霧で満ちていた。組の者たちは走りにくさを嫌って早々に山から抜け、乗騎を飛ばす。肌に触れると微かな痛みが走り、幾人かが顔をしかめた。霧の竜はその体の特性から、他の骸に比べて濃い瘴気が長く多く漏れる。面を強く押し当て、改めてうつ鏡の位置を調整した。

 霧の竜は長い躯体のお陰で、谷川のような場所と相性がいい。先だっての山の竜のような鈍重さは望めず、常よりも速さを求められる。加えて南の氏族、そしてアトリ、更には嵐となればいかな熟練とて気が逸る。一騎、また一騎と速度が増していった。

 笛吹きは先頭を走り、組の速度を調整する役でもあった。タカラが肩越しに振り返ると面々が密集しつつある。しんがりを走るゴザが集団を伸ばそうとしているが、この霧で伝達が上手くいっていない。タカラは僅かに速度を緩め、鉤を持つ。そして柄の方を後続に向けてゆっくりと突き出した。目前に障害物の現れた鹿は速度を緩め、気づいた仲間によって合図は後ろへと伝えられていく。

──よし。

 密集していた騎が段々と霧の向こうへ隠れていく。タカラの一つ後ろを走る騎が辛うじて見えるほどだった。一つ所に固まれば気の昂った竜によってしたたかに打ち据えられる。特に霧の竜は過敏だった。

 タカラの頬を水の針が突く。次第にうつ鏡は大きく濡れるようになり、やがて霧雨の中を走っているような様相へと変わっていった。そして霧がわずかな光を伴うようになる。タカラは顔を上げ、霧の彼方に巨大な尾を見つける。

──とうとう追いついた。

 タカラは手を揚げた。殯の始まりであった。

 鹿の腹を蹴り、更に速度を上げる。尾から後肢、胴と、頭を目指して駆けていった。

 つくづく、美しい竜だった。霧散と集合を繰り返す霧の化身、その躯体は水晶を磨き上げたように輝く。毛房や髭は銀糸のようで、水の粒が連なれば真珠を用いた装飾品を思わせた。無数に枝分かれした角はほのかに透き通って青白く輝き、長く伸びた髭はしなやかに波打って流れていく。ただ見つめている分には本当に美しい竜だとタカラは思っていた。

 だが、霧の向こうに爪が見え、緩んだ気持ちを律する。あの爪が小さな体を掴み取るのを、タカラは何も出来ずに見つめていた──アトリも同じように。

 タカラは息を吸い込み、ほう、と声を張り上げる。うねる長躯が山を打とうとするのを制して、その動きを整える。

 霧の竜の動きに合わせて、左右から「ほう、ほう」と声が上がる。その都度、霧の竜は躰の動きを変え、山を崩さないように進んでいく。流れるような躯体の動きは速く、それに合わせればいつもより疲労が溜まるのは早い。防寒具の中はたちまち汗で濡れ、額から流れ落ちる水を手で素早く拭っていく。

 進路上の枝をタカラは直刀を抜いて切り、竜を見上げる。ようやく頭の近くまで来た。青白い頭の側面には眼窩の闇が宿る。タカラは鹿の腹を蹴り、更に前を目指す。面の中での呼吸は乱れ、もれた息がうつ鏡を曇らせた。面を少しだけ動かして外の空気を入れた。大きく吸わず、ゆっくりと静かな呼吸を繰り返す。早鐘を打つ心臓が次第に落ち着いて面を戻したが、同時に刺すような痛みが胸に走った。胸をさすり、今度は面の中で深呼吸する。口と鼻一杯に広がる薬草の匂いが、痛みを宥めていった。

 タカラが鞍の上で姿勢を整え、鹿の角にくくりつけていた竹笛に手を伸ばした時である。鏑矢の甲高い音が昇って行った。タカラたちの使う音ではない。

「くそっ」

 なだれかかるような馬の蹄の音が、山の方から下りてくる。霧の竜と組だけの静寂を乱暴に破って南の氏族が現れた。手には曲刀や槍や戦斧など、その姿はまるで戦士だった。彼らはいつもこうしているのだとわかってはいても、殯を害するさまに頭へ血が上る。

「タカラ!」

 後方から呼ばれて振り返ると、仲間が鉤を手にして南の氏族を近づけさせないようにしている。上りかけた血は一瞬で引いていった。

「行け!」

 金属の交わる音が響いた。霧の竜が身を震わせる。蹄の音が迫り、タカラは素早く息を吸いこんで鹿を駆った。

──急ぎすぎだ。

 彼らがココ様を狙っているのは聞いていた。翻って、ココ様さえ招いてしまえば殯を終えられる。南の氏族が狙っているのならその顕現時、タカラが笛吹きを全う出来れば万事上手くいくはずであった。

 しびれを切らしたらしい南の氏族は血走った目を向けてくる。集落の見当をつけたものの、いざ来てみれば幻のように消えている、その怒りや苛立ちが空気に広がっていった。

 組の誰もが、急襲よりも南の氏族によって汚される空気を恐れた。竜は自然のもう一つの象である。そのことを、南の氏族は充分に理解していない。

 空気が唸りを上げて迫った。

「頭を下げろ!」

 タカラの声に組は即座に反応する。だが、南の氏族は遅れた。呆然とした表情の顔を竜の後肢が蹴り上げる。見上げていたその躯体が、今は目前にまで下りてきていた。爪に刺さった頭を、竜はわずかに指を動かして落とす。組の者たちは避けたが、竜の傍らで動き慣れていない南の氏族の何人かは死体に巻き込まれて転倒し、流れる風景へと消える。

 霧の竜の咆哮が谷を震わせた。竜は躰をうねらせ、鞭のようにしなった尾が辺りの山肌を叩く。木々は割れ、巨岩が飛び、谷川へと落ちていった。方々で悲鳴があがり、それが誰のものか最早わからない。そして再び、霧の竜が吠える。

 タカラは唾を飲みこんだ。組長は、と振り返る。霧は濃く、長く伸びた列はその奥が見えない。南の氏族の乱入によって、列が伸びきっている可能性もあった。この状況下でも金属のかち合う音はまだ響いている。

 竜が高度を下げたのは荒ぶる空気に当てられたからだった。衰えた竜はその空気に抵抗する術を持たず、殯はそんな彼らを鎮める。南を含めた他の氏族にそれは出来ず、だからこそ竜を狩って殺す方を選んだ。タカラは舌打ちをして、降り注ぐ土や岩を腕で弾く。

「タカラ!」

 右方、竜の腹の下から身を屈めたイチジが鹿を駆って現れた。その顔にはいつにない焦りが浮かんでいる。後方で援護に当たっていたところを右から回り込んできたと早口で伝えた。

「皆は」

「死人がいないのが奇跡なくらいだよ」

 イチジは体を低くしながら、視線だけを上に向ける。霧の竜の躰は均衡を失い、左右に揺れ始めていた。

「まったく、余計なことを」

 タカラも霧の竜を見上げた。白銀の躰がうねり、巨体が山へぶつかる。その反動で今度は対面の山へとぶつかり、崩れ落ちてくる土砂や木々の間を鹿は器用に飛んで抜けた。

「……もう、おれたちの声も届かない」

「この勢いで後ろの馬鹿どもが倒れてくれればいいんだが……」

 言いながら飛んできた矢を直刀で叩き落す。イチジは振り返って舌打ちをした。

「殯を穢しやがって……!」

 イチジは悄然とするタカラを呼ぶ。

「この殯は終わりだ。今にしても最悪な状況だが、嵐が来る」

 タカラは息を飲んだ。イチジが汗の浮かんだ顔で頷く。

「この大きく迂回した部分を抜けると海だ。一足先に行って様子を見てきたが、海上は真っ暗。しかも強風で予想以上に雲の足が速い。このままだと抜けた先で嵐とぶつかる」

 タカラは視線を上げた。風に微かな生温さが滲んではいたが、嵐のような狂った動きはしていない。タカラの不信を見抜いたイチジが素早く言葉を次ぐ。

「入り組んだ山が壁になっているんだよ。お陰でここらじゃ何も感じないが、そのうち雨風が強くなってくる」

 荒れ狂う霧の竜の動きに、辺りは破壊されていく。そして破壊されたものたちが高速で飛んでゆく。木も、土も、砂利も、岩も、そして人も。

 イチジは流れる風景を埋め尽くす破壊の光景に、頭を振るしかなかった。

「これ以上は手に負えん」

 タカラは唇を噛む。あと少しで手の届くところにあるものが遠ざかっていく。手綱を握る手に力を込めた。

「組長は?」

「了解は取った。後ろと右にはもう伝えてある。あとはお前が断ちの笛を吹けば、皆が動く」

 先頭を駆ける笛吹きは組の調子を作る。故に殯の進行に妨げがある場合、組長の指示の元に合図を送るのも笛吹きの役目だった。

 断ちの笛とは彼らが最も忌避する調子、すなわち殯の中止を意味する。

 汚された殯によって、霧の竜は自らを律することが出来ないでいた。暴れ回る巨体を止める術を人は持たない。ただ見つめるしか出来ない視線の先、霧の竜はもがき苦しんでいる。静かな死の道を拒まれ、抵抗出来ぬ身に人の激情が流れ込む──その熱が、かの竜を燃やそうとしている。

 殯を断つことで、その苦しみを抱いたまま骸となって辺りを流離うか、タカラたちではない誰かによって彼岸へと叩き落されるか──ハハキの言葉が思い出された。孤独の道の最後、寄り添える小さき者の存在を竜たちは見ているのだろうか。

「タカラ!」

 イチジの声にタカラは顔を上げた。無数の水の礫が顔を打つ。その粒は大きく、霧の竜のものではないのは明らかだった。

 タカラは頷いて手を上げる。それを見たイチジは頭を低くしながら速度を落とし、南の氏族と競り合う仲間たちに合流していく。

 タカラはもう一度、霧の竜を見上げた。濃い霧と瘴気の中で蠢く躰は束ねた銀糸が揺れているようで、きらめく鱗は玉のように美しい。衰えて死を前にしても尚、竜とは美しい生き物である。その美しい生き物──自然の象を狂わせ、静謐の道を歩めなくさせてしまった罪悪が胸を刺す。竜の尾が谷川を抉ったところでタカラは身を屈めて土砂をしのぎ、乗騎の角から竹笛を取る。

 竹笛を持ったタカラの手は震えた。面の中で細く揺れる呼吸を整え、大きく息を吸って止める。そして立ち乗りになったところで面を取り、一気に笛へ息を吹き込めた。

 甲高い、ただ強いだけの音が喧騒を割った。調子も音階もない。無機質な音が長く渡る。組の者たちは顔を上げ、その内の何人かは項垂れて頭を振った。

 南の氏族は聞いたことのない音に動揺し、攻撃の手が緩む。その隙をついて組の者たちは速度を落として鹿を回頭させ、一目散に離れていった。追う相手を見失った南の氏族は速度を落としながらも、霧の竜についていくことを選ぶ──様々な音の隙間から聞こえるのはそんな状況だった。

 タカラは素早く息を吸って、再び断ちの笛を吹く。この長拍子を吹いたら離脱するつもりでいる。アトリがどこかでこれを聞いていることを願いながら息を続けていると、後方で叫ぶ声があった。

「出たぞ!」

 タカラは頭が真っ白になり、息を止めた。出る──何が、と考えた。この時、この場、蛮族が騒ぐものとなれば答えは一つである。

 左側面の木立の合間を、銀色の光が駆けている。タカラは思わず笛から口を離す。

「……まさか」

 木々を抜け、ひらめくそれをタカラは見知っていた。夏の衣である。

 誰かが作り途中の夏の衣を被って鹿を駆っている。頭から覆っているために人となりはわからないが、南の氏族が見間違えるには充分な姿だった。それは器用に鹿を操りながらタカラへ迫ってくる。

 立ち乗りをしていたタカラは思わず体勢を崩し、鹿にしがみつくような形で鞍に収まる。その間に並走するまで迫った衣の主にタカラは目を見開く。

「ウフキ!」

 うつ鏡と面をつけたウフキが黒髪をなびかせて鹿に跨っている。ウフキが口許を示し、 タカラは急いで面をつけるも大きく咳き込んだ。長い間、瘴気に晒された肺が悲鳴を上げる。

「何をしている」

 せり上がる痛みと戦うタカラの声はかすれた。

「霧の竜の殯を終わらせたいんでしょう。ずっと、それを皆で言ってきたじゃない」

「でもそれは」

 ウフキは夏の衣の裾を掴む。

「途中だけど、祭祀の道具としては使えるってハハキ様は仰っていた。『祝の夏』を迎えるためのものなら、殯を行うことも出来るはず。夏は生命の言祝ぎを受ける季節、言祝ぎの形には死もあるんだから。夏の衣をまとって竜を導けば、きっとココ様はお出で下さる」

 タカラはようやく鞍に跨っている状態で、繰り返す咳が姿勢と呼吸を歪める。ウフキを止める余力はなかった。

「……無理だ。やめろ」

 小さくかすれた声に、大丈夫、とウフキは顔を寄せた。

「父さんもタカラも、ずっと霧の竜のことを引きずっていたのを知っている。私はずっと二人を助けたかった。ようやくその番が来ただけ」

 タカラはウフキの腕を掴む。

「違う。お前には無理だ。出来ないんだ」

 ウフキの眉が哀しげにひそめられた。

「……そう言って、いつも遠ざけるよね。アトリは呼ぶくせに」

 タカラの手を払い、ウフキは速度を上げた。

「私はやるから。アトリにも邪魔させない。タカラは逃げて」

 はっ、と掛け声をかけてウフキは速度を上げ、衣の煌めきは霧の彼方へと消えていく。タカラはその残滓を見つめながら鞍にしがみつき、面を押し当てて深呼吸を繰り返す。焼けるような喉の痛みが引いていくのを待つ間、ウフキをココ様と勘違いした南の氏族が傍らを通り抜けていった。獲物を得ようと目が爛々としている。頭に血が上って、まともな思考を保てているとは思えない。

 タカラは脂汗を拭い、出来る限り静かに、肺の全てへ行きわたるように息を繰り返す。次第に体を起こせるようになり、心配そうに主を振り返る乗騎の首筋を撫でてやった。

「……大丈夫だ」

 言い聞かせ、手綱を握りしめる。

 傍らの木立の奥を、小さな影が鹿を駆って先へ進もうとしていた。

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