竜の骸とり

かんな

 朝霧のたちこめる中、山々が黒く蹲っている。無彩色の濃淡のみが織りなす風景は現実味を欠いていた。槍の穂先のような杉が身を寄せ合う中を、ささやかな谷川を、下りつつ、時に湧水の如くわきあがりつつ霧が飲みこんでいく。

 空が白み始めると霧に薄く藍色が宿る。息を吹き返した木々が濃い緑をその影に宿し、払暁の時を待っていた。

 その枝が震える。宵っ張りの獣たちは早々に動きだし、眠りの淵を歩いていた獣たちも覚醒するより先に体が反応した。微睡む山々がにわかに騒がしくなる。小さな影が空へと飛び立っていく。

 彼方に大きな影が動いていた。高い山々と背を並べるほどで、左右に揺れるたび景色が震えた。霧を率いて進む姿は山の如く、伸びる首、長い尾、波打つ背びれ、動く四肢が生物であることを示し、人はそれを竜と呼ぶ。

 しかし、霧をまとう姿は骨と皮だけ──美しい金睨も片目が落ちて眼窩が虚ろに開く。肢を踏み出すごとに堪えを失った肉片が落ち、地上においては大きな岩が落ちてきたかのような衝撃を与えていた。歩く骸、それがこの姿を称するに正しい。

 竜の両側を小さな影が併走する。屹立する木々を器用にすり抜けるのは大きな角を持つ鹿だった。その背には目と口を覆った男たちが跨る。竜の左右に五騎ずつ、後方に二十騎と、竜に比して石粒ほどの大きさの彼らは距離を保ちながら谷川へ降りてゆく。

 不意に、竜がぐらりと揺れ、進路を右側の山へ傾ける。すると、竜の左を駆けていた一団から「ほう、ほう」と掛け声があがった。鳥を真似たような声に引き寄せられ、竜は揺らいだ体を左へと戻す。山との衝突を回避し、竜は霧を連れて谷を進んでいく。

 右後肢のふくらはぎから肉片が落ちようとしている。傍を走る一騎に乗った男は袂から蛙笛を出した。人差し指ほどの長さの竹筒の片面に革を張り、そこから伸びた紐を持って回す。やや高めの濁った音が響き渡り、後方の一団はそれを聞いて速度を落とした。間もなく肉片が落ち、後方の一団から二騎がその回収にあたる。左右でそれを繰り返すうちに二十騎いた後方は三騎にまで減った。

 左方のしんがりを走る男が、後方の一騎に向けて手招きをする。招かれた一騎は速度を上げて並んだ。

「アトリ」

 組長のゴザに名を呼ばれてアトリは頷く。ゴザは先頭を走る騎を指した。

「タカラの面が壊れた。この瘴気じゃ体が持たん。変われ」

 アトリは頷いて更に速度を上げる。

 左側面、先頭を切るタカラは二十半ばの青年であった。体躯もよく、並んだアトリの小柄さが目立つ。

 併走するアトリに気付き、タカラが顔を向ける。ゴザの言う通り、口を覆う面にヒビが入っていた。アトリが指して示すとタカラは顔をしかめたが、ゴザを振り返って肩を落とした。骸とりにおける組長の命令は絶対である。

 タカラはアトリに近づき、乗騎の角にくくりつけていた竹笛をアトリへ渡す。代わりにアトリは薬草を丸めた薬玉の入った袋、赤い旗のついた矢が入った矢筒をタカラへ渡した。タカラは速度を落として後方へ回り、拾い手のいない骸の欠片へ矢を射て印とし、火を点けた薬玉を放って濃煙によって瘴気を紛らわせた。タカラは青い顔に浮かんだ汗をぬぐい、悠然と進む竜の骸を見上げる。

 一方、タカラの位置についたアトリへ、ゴザが近づいた。

「やり方はわかるな」

 アトリは頷く。「よし」とゴザは速度を落として元の位置へと戻った。

 竜の骸はゆったりとした歩調を変えず、谷川を進む。暴れ川の名残を見せる川岸は広く、水の流れは狭い。谷川は骸が発する瘴気と朝霧と薬玉の煙で、白く満ちていた。今朝は風の流れも緩やかで余計に濁る。

 骸が再び均衡を崩し、進路が変わろうとした。今度はアトリらの方である。そうすると右側面から「ほう、ほう」と掛け声があがり、もつれた骸の足は声のする方へと軌道を修正する。山際まで退いたアトリは邪魔になる小枝を直刀で切り落としながら進んだが、慣れない作業で速度が落ちた。慌てて速度を上げると、面越しにもわかる潮の匂いが迫ってくる。

 りん、という鈴の音が響いた。

 アトリは軽く尻を浮かせ、更に速度を上げて竜の前方へと躍り出た。すると、その少し先で、白く満ちる大気をかき集めて率いる姿が現れる。それは徐々に形を成していき、衣を脱ぎ捨てるようにして霧散する大気から現れたのは、青い馬に横乗りになった少女であった。黒く長い髪と白い衣をなびかせて、なにものの抵抗も受けない軽やかさで駆けている。

 鈴の音は少女がつけたものか、馬につけたものか、その動きとは全く別の調子で鳴り響いている。彼女の顔は真っ直ぐ前を見据えたままだった。

 アトリはタカラから預かった竹笛を持って立ち乗りになる。そして大きく息を吸い込んだ後に止めて面をずらし、口を当てて吹き込んだ。澄んだ高い音が空気を打ち据え、霧を震わせる。

 鳴り響く音に皆が顔を上げた。アトリはもう一度息を吸い込み、軽く入り込んだ瘴気にむせそうになるのを堪えて吹く。少女の顔は前を向いたまま、笛の音も届いていないかのようである。

 潮の匂いがひときわ強くなり、視界が開ける。川原に砂が混じり、狭い流れは浅く広がり、日の出を待つ海が灰青色の顔を向けている。さざ波が疾駆の音を抱き込んだ。

 アトリは面を戻して座り直し、素早く手綱を引いて少女から離れながら速度を落とした。そこへゴザたちが合流し、その横を悠然と竜の骸が通り過ぎていく。体の大部分を道中に落とし、辛うじて残った部分でその巨体を支えていた。目玉を失った眼窩はなにものも映さないにも関わらず、ひたと前を進む少女へ据えられている。少女は決して振り返らず、青い馬はそのまま砂を踏み、飛沫を上げて波を切り、さざ波の立つ水面を駆けていく。竜の骸はその後を追い、ざあん、という轟音と共にその巨体を沈めていった。

 やがて、瘴気混じりの霧を海面に残して骸は海の中へと消え、波紋が巨大さを物語りながら広がっていく。その頃には既に少女の姿はなく、ただ鈴の音だけが別れを告げるように鳴り、それもその内に消えていった。

 静かになった周辺に複数の溜め息がもれる。「山の竜で助かった」「早く終わって良かった」「お疲れ」と口々に男たちは労い合い、そこへゴザの声が響いた。

「無事な奴は早く戻って骸片がらを拾っていけ。面の壊れた奴は瘴気が晴れてからだ」

 間延びした返事を寄越して何人か戻っていく。残ったのはタカラのように面が壊れた者と、アトリ、そして帰り道はしんがりを務めるゴザだった。

 ゴザはアトリへ鹿を近づけた。

「笛は一度でいい。わざわざ瘴気を吸い込む奴があるか、馬鹿が」

「すみません」

「まあ初めてにしてはよくやった」

 ゴザはアトリの頭をぐしゃぐしゃにして撫で、「ほら行け」と肩を叩いた。アトリは頭を下げて谷川を辿っていく。方々で赤い旗がはためき、仲間たちが落ちた欠片に縄をつけ、鉤を使うなどして複数人で運んでいく。タカラと別れた辺りまで戻った頃には山の端を朝日が縁取り、霧も晴れていた。

「アトリ」

 アトリは視線の先で手を振るタカラを見つける。晴れた風景の中で面を外したタカラは、いくぶん顔色が良くなっていた。

「もう外してもいいぞ。この先は薬玉でだいぶ燻蒸出来たからな」

 アトリは頷いて面を外す。解放された肌に朝の空気が心地よく、軽く深呼吸すると薬玉の独特の匂いが鼻をついた。

「あの人もどこに目がついているんだか。おれの面が壊れているなんて、よくわかったな」

 タカラは首からぶら下げている面を持った。

 なめした分厚い竜の皮を重ねて縫い付け、絹布と薬草を仕込んだそれは竜の骸が放つ瘴気から体を守る。同じく、竜の革と玻璃で作ったうつ鏡は目を守る。瘴気は自然や獣には無害だが、人にのみ毒性を示した。

「……組長だから」

「でなけりゃ組長ではない、か」

 タカラは首をすくめて言い、「ところで」とアトリに向き直った。

「どうだった、笛吹きの役は」

「……どうとも」

 言いながら、アトリは預かっていた竹笛を返した。

「ココ様は今日もお綺麗だったか?」

 青い馬に乗る少女を思い出しながら、アトリは首を捻る。

「わからない。顔も見えなかった」

「見えない方がいいのかもしれない、そういうのはな。ところでお前、いくつになる」

 十五、とアトリが答えるとタカラは短く頷いた。

「今は拾い役でもその足の速さなら傍走りになるのもすぐだ。なったばかりの笛吹きに追いつくのもすぐかもしれないな」

 アトリが顔を上げると、遠くから怒号が響く。

「おい、そこ二人! 喋ってねえで手を動かせ!」

 怒鳴られたタカラは苦笑し、アトリの肩を叩く。

「今日は急場で交代させて悪かったな。ありがとう」

 そう言い、鉤と縄を持って鹿から降りた。アトリも小さく息をついた後に降り、肉片に刺さった旗矢を抜いた。



 竜の種類は多様だ。山の竜や岩の竜などその生まれで姿形、生態は異なり、無論、空を飛ぶ種も存在する。彼らは自然そのものであり、命の長さや丈夫さは獣よりもそれに近い。しかしいくら不死を思わせる長命種であっても、いずれは死の招きに応じる日が来る。すると、竜は海に自らの骸を食べてもらうための旅を始める。

 死を察すれば生きている間に、命が果てれば骸となっても海への歩みが止まることはなく、例外もない。だが、骸の形には当然、限界があった。思考は途切れ、体は崩れ落ち、腐敗と共に吹き出る瘴気は人にのみ牙を剥く。通り過ぎて次第に薄れるものではあっても、人への被害は甚大だった。──だが、巨体は海へ向かうのを止めない。

 故に、竜の骸を海へ導く民が生まれた。彼らはその行為をもがりと呼び、骸と化した竜を見つけ、人の少ない道を辿らせて海へと誘う。そのさ中、落剝した肉片などを拾っては糧にしていた。

 北の大地、留まる所を持たず骸を追いながら生きる彼らは、竜の骸とりと呼ばれる。




 ゴザたちは竜の骸片を持ち帰ると、まずハハキ様と呼ばれる巫女の下へ行く。そして小さな櫓を組んで火を焚き、持ち帰った骸片を祭壇に乗せ、供物を捧げて祈る。供物は主に酒、採集による食物や玉で、長や待っていた女たちと共に竜への感謝と鎮魂の詞を述べる。

 それから川で十日ほどさらして腐敗した部分を洗い流した後、まだ青い杉の葉と薬草を混ぜ込んで骸片に被せて火を点け、三日ほど燻して毒気を抜く。それから使いやすいように解体し、生活の道具や金を得る為の品物へと加工した。竜の体で作った物は丈夫で壊れにくく、天幕や鞍なども竜の皮革から成る。加工は女たちの仕事だった。

「山の竜の皮は滑らかで使い勝手がいいのよね」

「岩の竜の時なんかほんと、手に豆ばっかり出来て進みやしない」

「でも頑丈さではさすが岩って感じなのよねえ」

「ええ、色味が乏しくて私は好きじゃないけど……」

「あら、あれ染められるのよ。時間かかるけど」

 男たちが数人がかりで運んできた骸片が、女衆の手によってさばかれていく。皮、骨、髄液など部位ごとで分け、いくつもの筵に山が築かれていった。

「盛況だな」

 穏やかな陽気の昼、タカラは積み上げられていく様子を眺めながら煙草を吸う。薬草を束ねたそれは、体に染み込んだ毒を消した。殯を行う男衆には必須で、特に面が壊れていたタカラは一番にきついものを吸っている。これを繰り返すと中毒になり、身を持ち崩していった者も少なくはない。

 苦いような辛いような煙を、若い娘が顔をしかめつつ払う。

「近づかないでよ、くさいんだから」

 言いながら大鉈を持ち、皮を剥いだ肉片に向かう。力仕事は若い娘たちに任される。中でも剛力のこの娘は名をウフキと言い、ゴザの娘であった。

「仕方ない。面が壊れたんだ」

 ウフキは気の強そうな眉をひそめた。

「壊れた? 大丈夫なの?」

「もう直したよ」

 そう、とウフキは答えて手元に視線を戻し、大鉈を振り下ろして骨ごと肉を断つ。大物はウフキが、それ以外は他の若い娘が分けてあたっていた。切った肉片は年配の女衆に渡され、小刀で骨と肉とに分けていく。

 ウフキは次の大物へとりかかろうとして、タカラを振り返った。

「ならお願いなんだけど、材料が足りないのよ」

「ああ……夏の衣のか」

 北の地にも季節は勿論巡り、「目覚める春」、「玉結ぶ秋」、「籠める冬」が支配する。南へ下れば春と秋の合間に「はふりの夏」があり、草木には光が躍り、風は歌って大地が笑い、海には幾万もの命が震えた。

 北にははっきりそれと言えるほどの期間はなく、春と秋の継ぎ目のようにしてある太陽の沈まぬ日を「白陽はくよう」と呼ぶ。白陽に至るまでは春の名残を受けて朝夕は冷え込み、白陽を過ぎると溜め息のような暖日が数日続く。それから秋が始まった。

 夏の衣は白陽に行う祭礼で使われ、毎年作り直さなければならない。満十六の娘がまとい、鹿を駆って海へと向かう。そこで言祝ぎを述べ、北の地に刹那の夏を迎え入れる。そうすることで大地は秋の支度を始め、山野には実りが溢れる──が、実際に効果があるのか確かめた者はいない。祭礼は毎年必ず行われ、そのために夏の衣の材料は一年をかけて集められる。

 その材料とは勿論、竜の骸であり、作りかけの衣が巫女の天幕に保管されていた。

「そう。あらかた出来てはいるんだけど、前に取り損ねたでしょう。それでちょっと足りなくて……」

 ウフキは呟いて、ハッと顔を上げる。タカラの表情がわずかに曇った。

「ごめん」

「いいよ」

 タカラは吸い込んだ煙を吐いた。

「ところで、アトリがどこにいるか知っているか?」

 今度はウフキが表情を曇らせるも、調子を落とした声で「川の方」と短く答えた。タカラは辞去を告げて、近くに流れる小川へ向かう。彼ら移動する民は居を構える時、基本的には水辺の近くを選んだ。生活のためと、骸片を洗うのに清らかな水を必要とするためである。その小川は山頂部付近の湧水を水源とし、用水の他にも食料を得るのに十分な恵みを与えた。

 踏みならされた道を進んで小川へと降りると、小さな背中が川辺に見えた。声をかけると黒い瞳が振り返り、その手元には半分に折れた竹笛が転がっている。

 近づくタカラにアトリは眉をひそめた。

「くさい」

「お前もそのうち吸うようになるよ」

「皆、そこまで強いのは吸ってない」

 タカラは笑う。

「おれはこないだ面が壊れたからな」

「直したの?」

「明日にでも出られる」

 そう、と気のない返事をしてアトリは顔を元に戻した。手の中で竹笛が揺れる。タカラが「アトリ」と声をかけるのと、集落の方から仲間が走ってくるのは同時だった。

迅人はやとが帰ってきたぞ」

 いつになく興奮した仲間の様子に、アトリも立ち上がる。

「霧の竜だ」

 タカラは反射的にアトリを見下ろした。アトリは誰を見ることもなく、集落へ走った。

 戻ってみると集落は騒然としていた。人だかりの中心にいる細い男が迅人と呼ばれる物見で、名をイチジという。迅人は集落を離れて単独もしくは少数で移動しながら竜を探す者のことを言った。

「間違いないか」

 もらった水を一息で飲み干し、イチジは頷く。

「間違いありません。あれは前に逃したやつです」

 周囲は息を飲み、互いに顔を見合わせた。片や、表情を変えないゴザが続けて尋ねる。

「今はどうしている」

「前と全く変わらぬ姿ですよ。とりあえず一緒にいた連中で、どうにかこっちに誘導出来ないかやっております。組が出向くより早いと思ったんですが、さすがに人手が足りませんで」

 天幕の傍ではイチジの乗騎が倒れている。乗り手同様に息が荒く、女衆の手当てを受けていた。

 周囲が動揺を隠せない中、ゴザは太い腕を組んで考える。三年前の接触は今でも記憶に新しく、苦いものが口に広がる。ただでさえ険しい顔を更に厳しくしていると、穏やかな声が投じられた。

「導きだろう」

「ハハキ様」

 考え込んだゴザの隣で小さな影が声を上げる。真っ白な髪を一つにまとめあげた老婆は後ろ手を組みながら続けた。

「我らの元へ再びお出でくださった。渡りの頃を自らお決めになられたのだろう。我々はそれに従い、ただ送るのみ」

「前はそうではなかったと?」

 ゴザが尋ね、ハハキが答える前に人だかりから駆けだす影があった。アトリ、と叫んだタカラの声につられて、皆がそちらを見る。小さな体は鹿を掴んであっという間に見えなくなり、ゴザと顔を見合わせたタカラは二人分の面とうつ鏡を掴み、鹿を駆ってその後を追う。

 イチジは顎を撫でて詫びた。

「……すみません、人払いをするべきでした」

 いい、とゴザは応えてハハキに向き直った。

「一度、偵察に参ります」

 頷いたハハキは輪から離れ、それに応じて人だかりも解けていった。ゴザは周囲へ指示を出し、頷いた男衆が去っていった後にはゴザとイチジだけが残される。二人だけとなったところで、イチジは声を小さくして「それと嫌な噂を聞きましてね」と呟いた。

「南の氏族の長がこちらに興味を持っておられるようで」

 ゴザは深い溜息をつく。

「今に始まったことじゃない」

 他の地域では骸を見つけ次第、殺していく。その為、彼らの行う殯は大変珍しく、とりわけ『ココ様』の存在は異様なものとして映った。集落の周りや殯に偵察が入ることも多く、かつては小競り合いになったこともあった。様々あって今は静かなものだが目がないわけではない。だが、ゴザたちも害さえなければとそれを放置していた。

 イチジは声を低くする。

「それが今度はちょっと違うようで、何でもココ様を捕まえようなどと」

 ゴザに険を含んだ目を向けられたイチジは「睨まないでくださいよ」と、息をつく。

「前にココ様の噂が流れたことがあって、厄介なことになった時があったでしょう。あの御方の体は万病に効く薬だとか……長の息子が病に倒れたとかで、どうやらその噂を思い出したようです。今、そこら中の腕自慢をかき集めていますよ」

「まったく……」

 ゴザは顔を撫でた後、息を吐いた。

「長に話す。ついてこい」

 二人は連れ立って一番大きな天幕へ向かう。




 アトリの牡鹿は暮れる山を全速力で駆けていく。その中でアトリの指示に疑問を感じていた彼は度々に首を振って違和感を伝えようとするも、若き友は聞く耳を持たず、早く走れと指示を繰り返す。焦りと隠さない怒りが背中ごしに伝わり、牡鹿はそれが不快だった。

 谷沿いに山二つを一気に駆け抜け、途中から中腹へと上がる。アトリの焦燥は尚も増して牡鹿は背中の毛を逆立てた。これ以上は堪えられないとばかりに牡鹿はとうとう肢を止め、鼻を鳴らしながら前肢で地面を蹴る。

「おい、どうした」

 牡鹿は顔を巡らせて若き友を見た。濃い琥珀色の瞳に困惑したアトリが映り込む。アトリが首筋を撫で、少し叩き、再び走り出すことを促したが牡鹿は頑なだった。アトリの焦りは一瞬、凪いだように見えたが、唇を噛んで空を見上げた後にその背から降りる。軽くなった背に驚いて振り向くと、アトリはその首筋を撫でて「お前は戻れ」と言って走り出した。

 まさか降りて行くとは思わなかった牡鹿は困惑した。鼻を鳴らしてその場で足踏みをした後に追いかけ始めたが、先々で細い道が彼を阻む。アトリは近道を使ったらしく、それは牡鹿の巨体では通れない道だった。牡鹿は風に鼻先を乗せ、しばしば道を選ぶ必要があった。

 選びながら進むうちに辺りは暗くなっていく。獣の気配が遠くにある。牡鹿は鼻を掲げて肢を止めた。木立の向こうでアトリの匂いが向きを変える。どうやら途中で止まったようだが、峰へと走り出したらしい。しばらく中空を見つめた後、牡鹿はそちらへ肢を動かしたが、ふと、その耳が回った。その場で止まり、首を伸ばして彼方を見据える。山間に白い靄が漂っていた。ただ浮かぶだけのそれは次第に色を濃くしていき、木々の間を這っていく。

 じっと見つめていた琥珀色がまた別の方角を捉えた。背後に鼻先を向け、牡鹿はそちらへ向き直る。すると、山の下方から荒々しく地を蹴る音が響いた。暗闇でも迷わず駆け上がってくる匂いを感じ取り、牡鹿は毛並を穏やかにした。

「……アトリ!」

 最後の一駆けを跳躍して現れたのはタカラであった。乗騎の若い牡鹿を操り、アトリの鹿へ駆け寄る。だが、その背は空だった。タカラが息を飲んで汗をぬぐっていると、タカラの乗騎と挨拶を交わした鹿が峰の方へ首を向けた。暗がりでも判るほどに濃い霧が腕を伸ばしていくのが見える。

 タカラは小さくいななく乗騎をなだめて手綱を握り直し、アトリの鹿の首筋を撫でてやる。

「おれが連れ戻す。お前は戻れ」

 よし、と軽く叩いてやると、鹿はタカラの乗騎と首をすり合わせた後、斜面を一気に駆け下りていった。

 タカラはうつ鏡と面をつけて深呼吸する。

 霧は木々に染みわたり、体に絡みついていく。




 アトリは足を止めた。膝が小刻みに震えている。呼吸を整えようと空気が肺を通るたび、氷の針で刺されるようだった。ちょうど白陽を前にして冷え込む頃であり、額に浮かんだ汗が熱を奪っていく。

 足を止めたのは何かを感じたからだった。汗を拭いながら様子を窺っていると、暗闇の中で木の葉がゆっくり揺れている。アトリは息を飲んで辺りへ素早く視線を巡らせる──と、木の間、枝の先、暗闇を濁らせる霧が漂っていた。夜霧が出るにはまだ早すぎる。疲労も忘れて霧の濃い方へ向かい、そこで深い谷川に向かってせり出した岩に一本松を見つけた。松の影に立ってわずかに身を乗り出すと、暗い谷に霧が流れている。上流から流れ来る霧は次第に層を厚くし、我が物顔で川を渡っていく。水の匂いさえ霧の奥底に追いやる姿は意志持つ何かのようだった。

──上流から何か来る。

 全身が粟立つ。月光も完全に目覚めきらない頃、陽の隠れたわずかな時間は特に闇が濃い。太陽の名残が闇を孤立させ、異様なほど静まり返る山は黒く波打つ。

 その合間を霧が歩いてくる。渦巻く霧が集合と霧散を繰り返しつつ、一つの形を成している。

 山の竜よりも長大、四肢は短いが爪は鋭い。巨岩をも砕きそうな咢からは長い髭が風に流れ、額から伸びる複数の角は枝のよう。濡れて輝く鱗が体を覆い、遥かに向こうの尾からは雨粒を織り込んだような毛房が伸びた。四つの眼の内の一つは潰れ、一つは眼窩が見え、残った右半分の眼は爛々と黄金色に輝き、無彩色の風景で異質な燭を灯す。

 アトリは息を飲んだ。三年前に見た姿と変わらない。あの時、アトリの弟を貫いた竜は一つも欠けることなくそのままだった。

 食い入るように見つめていると、喉を通る空気がにわかに勢いづく。喉の奥が焼けつくように痛みだし、息を吸おうとしても胸に入らない。視界がかすんでその場に膝をついた時、「アトリ」という声と共に背後から面が口に押し当てられた。驚いたアトリが仰ぐとタカラが見下ろし、うつ鏡を掲げて見せる。アトリは素早くうつ鏡と面をつけ、時折むせながら深呼吸を繰り返した。

「大丈夫か」

 息の流れから淀みが消える。薬草の匂いが痛みを解く。意識は清明になっていくが、立ち上がろうとしても足に力が入らなかった。かすみの残る視界を輝く躯体が通り過ぎていくのに耐えられず、アトリは地面に爪を立てて這った。

「よせ。瘴気を吸いすぎだ」

「うるさい」

 止めようとするタカラの手を払う。その気配が一瞬怯むのを感じ、この隙にとアトリは腕に力を込めた。どんな形でもいいから霧の竜に追いつきたい──この状態で追いついたところで何が出来る、という思考は端から捨てていた。

 しかし、タカラは諦めたわけではなく、両脇からアトリを抱え上げて山の方へと引きずり始めた。

「……離せ!」

 二人の体格差ではタカラに敵わない。ずるずると山へ引きずられていく中でアトリが一本松にしがみついて抵抗すると、タカラは抑えた声で言い放つ。

「いい加減にしろ。トトカラが戻ってくるわけじゃないんだ」

「黙れ!」

 体の芯の埋火が大きく唸りを上げた。アトリは全身を捻ってタカラを蹴り飛ばす。意表をつかれたタカラはよろめき、その隙にと飛び出したが完全に調子が戻ったわけではなかった。数歩進んだところで膝から崩れ落ち、逸る鼓動を抑え込むのに集中しなければならなかった。

「あいつが……あいつさえ……」

 息を抑えようとするほど、返ってくるものは激しさを増す。荒い息の合間に呪詛が混じる。

 応える者はいない。タカラはアトリの項へ手刀を叩き込んだ。力を失ったアトリを抱え上げ、近くに待たせている乗騎の元へ急ぐ。

 静かな谷川では霧の竜が悠然と流れていく。

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