第22話 伊豫
伊豫国。
現在の愛媛県。
伊豫の語源には様々なものがあるが、その多くは水の湧き処であると言う文脈で説かれ、古代から特別な地として扱われてきた。
神聖なる水の国、伊豫国。
そこで彼らが創り出すのは、鶴太郎との夢の再會か、新たな怪奇譚か、それとも──
*
結、藍、そして梢の三人は、遂に鶴太郎の居るであらう伊豫国へ辿り着き、日の暮れないうちにひとつの村に這入り込んだ。
彼女等は各々に村人に取り入り、周りの村の様子や鶴太郎に関わる手がかりを探し始めた。
だがひとつ目の村では手がかりは得られなかつた。
彼女等は伊豫の地を南下した。
二つ目の村、三つ目の村でも鶴太郎の居る村は判らず、巫覡館を出て約一月半経つた頃、四つ目の村で漸く鶴太郎の居る村の場所が判つた。
長い旅のうちで、結は初めて笑顔を浮かべた。
「明日は日の昇らないうちから発ちます。目指す村は山を背にした大きな村ですし、鶴太郎どのも居るので犬神は棲んでゐないでせう。早くに村長と話をつけるためにも早く発ちます」
久しい笑顔を見て、藍の表情も柔らかくなつた。
背丈のすらりと伸びた彼女は、結の低い頭を撫でるやうにして微笑み、「私にはあのやうな腰抜け男の良い所が判らぬが」と、優しく揶揄した。
戌神の一件は、巫覡館のなかでは全て無手姫ひとりの手柄と云ふ事になつてゐた。
其れを拡めたのは鶴太郎の事を「腰抜け男」と呼んだ藍自身であつた。
結は其れを良く思つてゐなかつたが、藍のお蔭で彼女は巫覡館での居場所を見つけた。
結は孤立を深めてゐたが、排斥されるほどにはならなかった。
故に藍の意地悪な揶揄にも、結は頬を赤らめるだけであつた。
三年間の思ひ出談話しに花を咲かせる二人を、梢はぢつと見詰めてゐた。
自己の手で犬神を殺してからと云ふもの、複雑な感情に思ひ悩んだり、結への理由の無い憤恚が湧き出たりしてゐたが、自身が犬神に墜ちる事は無かつた。
恐怖から逃げおおせる事は出来てゐた。
彼女の胸のほんの一滴の安堵と、二度と自己の手を汚したくないと云ふ願望とが合わさつて、複雑な精神を不安にも恐怖にも動かさなかつた。
出発の際も梢は一言も話さなかつた。
口を閉じたまゝ、結と藍から少し離れた所から附いて廻つた。
最初めは犬神を殺さなくて済むからと無手姫に附き従つてゐたが、いまの彼女は其のやうな確固たる目的を失つてゐた。
無論、独りで巫覡館に戻る勇気が無いと云ふのもあるが、一番には結の事であつた。
頭の奥に結の事がちらついて、不可知な引力を生ぜしめてゐた。
「梢。鶴太郎は識つておるか」と、藍が気を遣つて話しかけた。が、梢は静かに頸を振るばかりで、足元に落ちた眼は上がらなかつた。
「教へてやらうか?」と、藍は梢の顔を覗き込むやうにして微笑みかけた。
梢は再び頸を横に振つて、小さく「結構で御座います」と、声を洩らした。
藍は諦めたやうに梢から離れた。
そして又結と談話し始めた。
───結局はあの女も同じぢや。
梢には藍の気遣いが鬱陶しく感ぜられた。
独りにして欲しかつた。
其の欲望が何に依るものかは判らなかつたが、唯、自己の事すら判らない自身に、大きい苛立ちを昂らせてゐた。
暫く歩くと、美しい田園が拡がつた。
青々とした稲は頭を垂れることなく真直に伸びて、肌の雫を陽に晃らせながら、時折吹く海風に靡いて此方を向いた。
そのかげが突然黒く落ちたかと思へば、空には大きな鳥が高く飛んでゐて、蒼い空の濶がる奥には、深くなだらかな山が鎮座してゐた。
山の麓に眼を落とすと、集落が見えた。
「なんとか亭午までには着いたやうぢや」
「ですね」
一行が集落に這入ると、物珍しさうな眼を向ける男女が、此方に聞こえないくらいの小さい声で談話し始めた。
伊豫国は普段巫女どもの足の届かない所であるから、此のやうな反応をされるのは不思議では無いのだが、いま迄の四つの村とは明らかに違う様子であつた。
梢が怪しく思つて見てゐると、彼等は早足にひとつの家のなかへと駆け込んだ。
そして一人の男を連れ出して来た。
其の男は覚束ない足元を枯れ枝の杖で支えて、梢たちと同じ白い服に袴を穿き、蒼い顔を陽の下に晒してゐた。
彼は此方を見るや否や、重たげな瞼を精一杯見開いて、小さく零した。
「結・・・・・・?」
其の男は、鶴太郎であつた。
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