第21話 無自覚な罪

其の身体は、暗闇のなかで見たものとは大きく違つてゐた。

白い毛と牙は僅かな月明かりの下で爛々と晃つてゐたが、暖かな朝の陽差しの前では燻つた灰色に濁り、闇に溶け込んでゐた獣の輪郭がいま、明瞭に其の形を示してゐる。


「旅人どの・・・・・・?」


梢は犬神をひどく恐れてゐた。

彼等は人を襲ひ、死んでも人を祟る。

其の憎しみの塊のやうな呪術の権化は、梢にとつて恐怖する存在に他ならなかつた。

然し、いまの彼女には恐れる間も無い。

犬神の強靭な顎が、自己を噛み砕かんと大きく開かれてゐた。


「梢さん!」


結の足は未だ遠かつた。

彼女の息は荒々しく乱れて、眼の奥には恐怖と憤恚の色が滲み出てゐた。

白衣は躍り狂つてゐた。

袴は砂埃に汚れてゐた。

其れでも未だ遠かつた。

犬神の白いかげが小さな女子に迫つて、ふと足を止めたかと思ふと、次の瞬間には咬穿が宙を食い千切つてゐた。


梢は間一髪で避けた。

続く剛腕も、体当たりも、皮一枚で躱した。

然し彼女の脚は震え始めてゐた。

抑へられてゐた恐怖が湯水のやうに噴き出して、身体が擬死するのを阻止する事で頭が一杯になつた。

此のまゝでは石のやうに固まつてしまう。

梢は、其の前に眼の前の敵を殺す必要があつた。


犬神の爪が喉笛を掠めた時、梢は死に触れた。

冷たい感触がするのと同時に、胸の奥から熱い欲望が湧き出てきた。

燃え上がる生への渇望は、梢の柔らかな左手を懐へと運び、鉛色の刃を抜刀させた。

梢の小さ刀は、あまりにも静かに犬神の脇を捉えた。

おびただしい鮮血が梢の白衣に飛び散り、緋袴と同じ色に染めた。

梢にはもう、冷静な思考は無かつた。

溢れ出る野性が犬神の太い腕を弾き、小さ刀を頸に突き刺さした。

再び鮮血が舞ふ。

其の後も彼女は幾度となく刃を突き刺した。

彼女の狂乱は結が羽交い締めにする迄続いた。


「殺した・・・・・・してしまつた・・・・・・」と、悲愴な顔をしてゐる梢は力が抜けて、其の場にへたり込んだ。

そんな梢を冷静に見定めて、結は背後から迫りくる村長と付き人に向き直し、先程迄の切羽詰まつた表情を消して、村長の傲慢な眼を見詰めた。


「此れが例の男で御座います。隣村の女と夫婦の契を交はさんとしてゐたやうですが、危なかつたですね。彼は犬神筋でした。此方の梢が始末しましたので、ご安心下さい」

「左様で御座いますか、巫女さま。何とお礼を申し上げればよいか・・・・・・」

「構ひません。では、私たちは此れで」


結の策とは、村長が焦がれてゐた女と親しかつた男を、犬神に仕立て上げると云ふものであつた。

無論、其の男は結によつて殺され何処かへと消えて、男の身代わりとなつた犬神とは梢と親しかつた旅人の犬神である。

つまり、結は犬神筋ではない男を殺した上、其の男に犬神筋の汚名を着せ、旅人の犬神も殺したのであつた。

梢や藍が反対するのも無理はなかつた。


「行きますよ、梢さん」と、結は冷たく云つた。

絶望する梢の手を取り、無理矢理引いた。

梢は、いま全ての事実を打ち明けてしまおうかと考へた。

此処には村長だけでなく付き人もゐる。

彼が良心を持つているならば、結の惨い謀の全貌が村中に明らかになつて、殺された男の汚名も拭はれ、性の悪い村長の権威も廃るだらう。

だが、梢には出来なかつた。

梢には堪えられない罪の意識があつた。

自己には其れが何なのか判らなかつた。

故に彼女は押し黙つてしまつた。


「・・・・・・無手姫さま」と、梢は村長たちから十分離れて、前を歩く結を睨んで立ち止まつた。「無手姫さまには失望致しました。本当に此のやうな策に及ぶとは・・・・・・私には判りませぬ」


対して結は、振り返る事も無く答えた。


「何を云つてゐるのですか、梢さん。梢さん自身も判つて居られる筈です。私たち巫女は命を奪はなければ生きられないのです。非常に単純な事です」


結は再び歩き出した。


「犬神筋でない者を殺して、其処までして巫女でありたいのですか!あの方を殺さずとも、早朝に逃げてしまえば良かつたのです!」

「其れは駄目です。次の巫覡が此の村に這入れなくなつてしまいます」と、又立ち止まつた。「それに、梢さんは大きな勘違ひをされてゐる───」


結は漸く振り返つた。

其の顔は憂ひに充ちてゐるとも、梢に対する呆れに染まつてゐるとも捉へられた。


「犬神筋も人です。人を殺すのが私たちの仕事なのですよ?お師匠様の願ひで犬神を殺して廻るのと、村長の願ひで男をひとり殺すのと・・・・・・そして、梢さんがあの犬神を殺すのと、何がどう違ふと云ふのです?」


田に挟まれた道が長く伸びてゐた。

陽の光はもう高くなつて、道の上に浮かぶ結のかげが遠ざかつていく。


梢は言葉が出なかつた。

宙に浮かんでゐる罪の意識が、遅々と、其の形を象つてゐた。


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