第20話 慈愛の理由
結の策を聞き終えた二人は、同じやうに眉間に皺を寄せて、口を開けたまゝ固まつた。
同じくして結も、魂の抜けたやうな身振りのまゝ、まるで悪夢の残り香が彼女の白い肌に張り附いたかのやうに、表情を少しも揺らさなかつた。
「一体何があつた。梢が何かいらぬ事を申したか」と、藍は原因を外側に求めた。
「私は何も申しておりませぬ!無手姫さまは寝ておられました!」と、梢は其れを打ち消した。「きつと、無手姫さまは悪い夢でも見ておられたのです。其れのせいで、あのやうな惨い策を・・・・・・」
梢は其処まで云ひかけると、何かを思ひ出したかのやうに頷いて、半身を起こしてゐる結の側へと身を寄せた。
「悪夢でなければ、狐にでも取り憑かれたのでせう」
「無手姫が其のやうな物の怪に憑かれる訳なからう」と、結の横顔をぢつと見詰める梢の襟を引つ張つて、今度は藍が打ち消した。
「藍さん。梢さん」
「なんぢや」
「私は夢から醒めています。悪夢のお蔭で此の策を思ひ附いた訳でもありません。唯現実を見据えて、最善の策を練つたまでです。お二人は判らないやうですが、私は本気です」と、結はいま迄の沈黙を埋め合はせるやうに、一息に云つた。
一点に吸い込まれてゐた鋭い眼光は藍に向けられて、小屋のうちの緊張は高まつた。
「此れしか方法が無いのです」
「未だある」
「ありません」
結が藍の言葉を打ち消すと、藍は難しい顔を更に顰めて、自己に向けられた眼を睨み返した。
夜風が何処からか吹き下ろし、木板の壁をがたがたと震わせた。
燈灯の炎が大きく揺れてゐた。
「お待ち下さい。あまりにも人の道から外れてゐるとは思ひませぬか。無手姫さま」と、梢は訴へるやうに身を乗り出した。
彼女は結を説き伏せやうとしてゐた。
信ずる道に従つて懸命に弁を立てた。
結の策が如何に其の道に反してゐるのか、反した者は如何にして地獄に落ちるのかを事細かに説ふた。
「私を護つて下さつた、あの優しさは何処へやられたのですか。無手姫さま」
「其れと同じ事です」
梢には結の言葉の意味が判らなかつた。
先まで流れるやうに舌の上を滑つてゐた自己の言葉も、静かに潰えた。
燈灯の炎が又大きく揺れた。
「此の旅の主は無手姫ぢや。お身が決めた事ならば巫女として私も従ふ」と、藍は寂しさを皮肉るやうに呟いた。「然し、私は友としていまのお身に疑念を抱いてゐる。鶴太郎の事で憤りすぎぢや。少し落ち着け」
然う云ひ遺して、藍は冷たい木板に寝そべり、結に背を向けて眼を瞑つた。
「良いのですか」と、梢が其の背中をめがけて声を掛けたが、頷きも寄越さず、藍は黙り込んだまゝであつた。
梢は未だ納得してゐなかつた。
「折角宿を借りたのですから、梢さんも早く寝て下さい。明日は早いですよ」と、結は諭すやうに云つてから、又身を横たへた。
梢は小屋のなかで独りになつた。
*
陽の光が霧の前に散り散りになつて、湿つた木板の匂ひが小屋を充たした頃、梢は眼を覚まし、結の姿が無い事に気がついた。
彼女は慌てるやうに小屋を飛び出して、霧の深い静かな早朝の集落を走り抜けた。
村の最果てには大きな茂みがあつた。
其の茂みの側には、踏み固められた道が田と田の間を縫うやうにして真直に伸びて居り、霧のなかでも迷ふ事は無かつた。
「旅人どの・・・・・・?」
梢は茂みのなかで気を失つたまゝの犬神に話しかけた。
無論犬神は呼びかけに応じる事は無かつた。が、蒼くなつてゐた梢は正気を取り戻して、其の場に崩れ落ちた。
そして安堵の息を洩らした。
「良かつた・・・・・・未だぢや・・・・・・」
梢は息を切らしながら天を仰いだ。
もう既に早朝の霧は晴れて、澄み渡つた空は青く高く濶がり、乾いた匂ひが漂ひ始めた。
和やかな朝の到来に、梢の精神は柔らかくなつた。
普段なら恐れてゐる筈の犬神に寄り添ひ、嘗て旅人に談話したやうに結の策を云つて聞かせた。
「必ずお身は助けてやる。私が無手姫さまを止めてみせる」
決意を精神に秘めたまゝ、梢は茂みの側を離れた。
もと来た道を振り返るやうに、朝日の昇り始めた小屋の方角に眼をやつた。
白い朝日が辺りを眩しく照らしてゐる。
其のかげのなかに、黒い陰が三つほど浮かんだ。
三つの陰がひよろひよろと長い道の上に伸びて、此方に迫つてくる。
梢は眼を見開いた。
「梢さん?・・・・・・何をしてゐるのです!」
三つのうちひとつは結であつた。
物凄い速さで駆けて来る。
「其処から離れて下さい!」
梢は背に気配を感じた。
彼女は半ば反射的に振り返り、其の正体を突き止めやうとした。
時が遅々と流れ、青々とした茂みのなかに蠢く巨大なかげが、朝日に照らされてゆらゆらと揺れてゐる。
「逃げなさい!」
犬神の濁つた咆哮が、緑の楽園に轟いた。
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