第19話 悪夢のつゞき

羽衣のやうな靄が立ち込めて、屋敷の朝が静かに始まつた。

固く閉ざされてゐた結の瞼は、露の浮いた木板の上で瞬いて、鴉のやうに黒い瞳が僅かに顔を出したが、間も無くして其の影を隠してしまつた。

女子の舎屋に繋がる渡殿には、一羽のすずめが囀り廻つて、朝の訪れを知らせてゐる。

晩秋の寒空の下、早めの木枯らしが吹き抜けて、庭園の木々は葉を落としつゝ、ざわざわと音を鳴らした。 

其の不吉な予感に結は目を覚まして、庭園を覗き込むやうに身体を起こした。


「鶴太郎、どの・・・・・・?」


再び木枯らしが吹き抜けた。

はらはらと舞ひ込んだ一枚の葉が、結の白い手に触れた。

其の冷たい感触が、云ひ知れない不安を掻き立て、透渡殿の向こうへと結の足を向かはせた。

小さいすずめは小首を傾げて、遅々と歩く結を見上げてゐた。


「鶴太郎どの?」


男の舎屋には、誰も居なかつた。

いまは鶴太郎が居る筈である。

結は彼の姿を探し始めた。

男の舎屋は女子のものよりも狭く、隅々まで調べるのにも大して苦労はしなかつた。

もう此処は探し尽くしたと云ふやうに、結は額に手を当て、高まる予感に顔を蒼くした。


「お師匠様の所でしょうか・・・・・・」と、ひとり呟いた後、彼女は朝靄の晴れた庭を通り、主殿へと歩を進めた。

すずめの声はだんだんに小さくなつて、乾いた匂いが漂い始め、蒼い水面はゆらゆらと揺れてゐる。

「お師匠様」と、結は遠慮がちに大きくした声で呼びかけた。

貴人は既に目覚めてゐたやうで、結の声を聞くと直ぐに、奥の暗がりから姿を現した。


「どうした」

「鶴太郎どのはどこでしょうか。舎屋には見当たらなかったのですが」


結は辺りを見廻しつゝ、鶴太郎を探した。

舎屋の奥の暗闇を覗き込むやうにもした。

然し彼は見つからないので、貴人のほうに目線を戻した。


「一体どこに───」


結は言葉を失つた。


貴人の顔には何の感情の色も浮かんでゐなかつた。

昨日の夜、自己の訴へを受け合ふてくれた時の顔も、自己の仮名をつけてくれた時の顔も無く、記憶にある全ての貴人の表情よりも冷酷で光を失つた眼が、結を見詰めてゐた。

「奴は死んだ」と、貴人は呟くやうに云つた。

絶望よりも早く、憤恚の波が押し寄せて来て、結の眼は喝と見開かれ、食いしばつた白い歯が音を立て始めた。


「嘘だ・・・・・・嘘だ・・・・・・だって昨日、お師匠様は赦して下さったではありませんか!」

「知らぬ」

「お師匠様!」


結は懐の小さ刀を取り出した。


「判れ無手姫。鶴太郎を其のまゝにしておく訳にはいかんのぢや。あと私には勝てん。やめておけ」

 

小さ刀は僅かな朝日を照り返して、結の眼に憤恚の炎を灯し出した。

貴人の頸を目掛けて、鉛色の刃が煌めく。

水面の波を薙ぐやうに、結は得物を振り切つた。


「もう一度云ふ。私には勝てん」


然し、其の斬撃は空を斬つた。

結の優れた感覚では、敵との距離を見誤る等考へられなかつたが、実際には喉笛に皮一枚届かなかつた。

そして次の瞬間、結の視界は大きく歪んだ。


「何が・・・・・・起こって・・・・・・」

「雪郎。無手姫を女子の舎屋まで運べ」


鉛のやうに重い瞼を、結は必死に開けやうと試みた。が、意識に反して身体は鎮静して、瞼は閉じられやうとしてゐた。

光が闇に落ちていくなか、結は精神のうちで何度も叫んだ。

彼を何度も呼んだ。

徐々に其の声が小さくなつていく。

光が消えていく。


───鶴太郎どの。鶴太郎どの。


「鶴太郎どの!」


覚醒めると、又屋敷だつた。


「大丈夫で御座いますか、無手姫さま」


貍のやうな顔をした少女が、血の気の引いた結を覗き込んでゐた。

結は彼女を見て思ひ出した。

いまはあれから三年後で、場所は巫覡館ではなく西の国で、何よりも先に解決せねばならない問題があつて、其れを乗り越えられれば恐らく、鶴太郎に逢へると云ふことを。


「お身が寝てゐる間に村長と話して来た。取り敢えず今晩は泊めて頂けるさうぢや。然し面倒な恋の悩みを任された」


然う云つたのは藍であつた。

彼女は自己の柳眉を誇るやうにして、横たはる結を見下ろした。

彼女は結の唯一無二の友で、此度の伊豫征きにも悦んで同伴し、結が不得手である交渉等の役割を担つてゐた。


「隣村の女に興味があるさうぢや。而も其の女には恋仲の男が居るらしい」

「お待ち下さい!村長は子どもをお持ちだつたではありませんか!」と、成り行きで道連れとなつた梢が叫んだ。

「悩みとは然う云ふものぢや」と、藍は大きい溜め息をついて、結の眼を見る。


「如何かな、無手姫」

「・・・・・・ひとつ策があります」


眠たげな眼を其のまゝにして、結は冷たい虚空を見詰めた。

蒼かつた顔にも紅い血が戻つてゐた。


遠くの木々が、ざわざわと揺れてゐる。

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