【B】聖女だったのに婚約破棄されたので、悪役令嬢に転身したら国外追放されました。せっかくなので田舎のスローライフを満喫していたら、なぜか美麗な騎士様に求婚されています。
長岡更紗
バージョン【B】
「エレイン・オルブライト。貴女に婚約破棄を言い渡す」
美しい金髪碧眼の第一王子クラレンスは、冷ややかな顔でエレインを見ている。その隣には、背が低くてぱっちりお目々がかわいらしい、ブレンダ伯爵令嬢の姿。
エレインは婚約破棄という寝耳に水の言葉に、立ちくらみしそうになりながらも、足に力を入れて耐えた。
「私には、破棄される理由が思い当たりません」
「白々しい……! 本当はブレンダの魔力の方が高いというのに、彼女をおとしめて自分が聖女になったのだろう」
温厚であるはずのクラレンスが、こめかみに青筋を立ててそう言った。
王子の私室に呼び出されてすぐに糾弾が始まったのだ。エレインに心の準備などなく、面食らってしまうのも仕方がないというもの。
ここエイマーズ王国では、王子と同年代の中で魔力の一番強い女性が聖女となり、王子の伴侶になることが決まっている。ただの子爵令嬢だったエレインが第一王子のクラレンスの婚約者となり得たのは、魔力が強い『聖女』だと認定されたからだ。
策略を巡らせた覚えもなければ、彼女をおとしめた覚えもさらさらない。
オルブライト家は貧乏な落ちぶれ子爵家で、エレインが強い魔力持ちだと知った両親は大喜びしていた。しかし、だからといって他の聖女候補を蹴落とすような画策をする人たちではない。
「身に覚えがございませんわ。クラレンス様」
「軽々しく僕の名前を呼ぶな」
クラレンスの怒りの声がエレインの胸に刺さる。
殿下というと他人行儀だからと、いずれは夫婦になるのだから名前で呼んでくれと……優しく微笑んでくれたのは、六年前のこと。
十二の時に一つ年上のクラレンスの婚約者となっていたエレインは、この六年のうちに飽きられてしまったのだろうか。
少なくともエレインはクラレンスを愛していたし、今でも愛している。
クラレンス様のお名前を、もう二度とお呼びすることができない……?
そう思うと目から冷たいものが溢れそうになり、エレインはぐっとこらえた。
「兄上、それはさすがにエレイン様がお可哀想です」
必死に涙を飲み込んでいると、クラレンスの後ろに控えていたアドルフが一歩前に出てくる。
彼はこの国の第二王子ではあるが、第二王子以下は騎士となり、第一王子を支える役目が与えられているのだ。
そんなアドルフにさえ、クラレンスは冷たい声で言い放った。
「アドルフ、〝エレイン様〟などと呼ぶ必要はない。たった今からブレンダが聖女になるのだから」
「どうしていきなり」
「ブレンダの方が優秀だからだ。なんの不思議もないだろう」
確かに、第一王子はより魔力の強いものと結婚しなければいけない決まりだ。本当にエレインよりもブレンダの方が魔力が高いならば、まだ結婚前のエレインは身を引く必要がある。そういう契約なのだから。
「クラ……いえ、殿下。それならば私とブレンダ様の魔力量をきっちりと測って比べていただけないでしょうか。それでなくば、私は納得できません」
「すでに計測済みだ。ブレンダの魔力量は、エレインを凌駕していた」
「私が最後に計測したのは、十二歳の時です! そのときの魔力量と比べられましても……っ」
「見苦しいぞ、エレイン。一度でも僕の婚約者であったのなら、潔く身を引いてくれ」
「……っ」
クラレンスにそういわれると、エレインはなにも言えなくなって口ごもった。
半年ほど前から、薄々感じてはいたのだ。どこかぎこちなくなった、クラレンスを。
近づこうとして避けられることもあったのは、王になるための勉強が忙しいのだろうと思っていた。
思えば、その頃からブレンダのことが好きになっていたのかもしれないが──
もしかして……ブレンダがクラレンス様になにかの魔法を……?
基本的に魔法は、王族にかけてはいけないことになっている。
しかしこの世界の男性には魔力持ちがおらず、それを防ぐ術はない。
証拠はないわ……クラレンス様のただの心変わりの可能性は十分にある……。
そう思いながらも、エレインは彼女の魔法のせいにしたかった。クラレンスは、心変わりなどしないはずだと。
エレインはこっそりと右手に魔力を練り始める。そしてクラレンスになにか魔法がかかっていることを祈って、その解呪魔法をクラレンスに向けて飛ばした。
「危ないですわ!」
その瞬間、ブレンダの魔力がエレインの魔法を相殺する。
パリッと小皿が割れるような音が室内に走って、クラレンスたちは
「なんだ!?」
「エレイン様が、クラレンス様を自分のものにする魔法をかけようとしたのですわ!」
「ご、誤解です……っ」
弁明しようとしたが、クラレンスの瞳は冷たい。
「聖女が許可なく王族に魔法をかけるのは、重罪だ。わかっているだろう、エレイン」
「……はい」
つい、やってしまった。ついではすまないことだというのに。
ブレンダがクラレンスの隣に寄り添って自信満々にしているのを見ると、自分の行動の滑稽さが浮き彫りとなった。惨めだ。
「ブレンダが相殺してくれていなければ、国外追放だったぞ。彼女に感謝するんだな」
そしてクラレンスは、かつてエレインに向けていた愛おしい人を見る瞳で、ブレンダにありがとうと微笑んでいる。
頬を赤らめるブレンダはかわいい。エレインの胸の内では、嫉妬の炎がチラチラと見え隠れしてしまう。
エレインの解呪魔法を相殺したブレンダは、エレインと同等程度の魔力はあるのだろう。しかし同等ならば、先に婚約していたエレインの方が優先のはずだ。
クラレンス様は……きっと、私よりブレンダの方を好きになってしまわれたのだわ。
だから無茶を言って、私との婚約解消を望んでおられるのね……。
どちらにしろエレインは、解呪とはいえ王族相手に魔法を掛けようとしてしまったのだ。これはもう、どうあっても言い逃れできない事実。
エレインは罪を問わずにいてくれたクラレンスの恩情に感謝して、その場を後にした。
***
婚約破棄されたエレインの噂はすぐにひろまったらしい。オルブライト家に帰ったエレインがぼうっと今日の出来事を反芻していると、親友のマリタが飛んでやってきてくれた。
「ああ、エレイン、かわいそうにっ!!」
駆けつけてくれたマリタは、そうして一緒に嘆いてくれる。
あっという間に都中の噂になっていると知り、エレインは気が重くなった。けれどもこうなってしまったものはもうどうしようもない。
「こういう運命だったんだと諦めるわ……ありがと、マリタ。一緒に泣いてくれて」
「けど、エレインのお家は大丈夫なの? こう言っちゃ悪いけど、あなたのお家って……」
「そう、貧乏なのよね。私が婚約破棄されたことで王家からの支援は一切なくなるだろうし。どうにかして稼ぐことはできないかしら?」
「ねぇ、それなら……一つお願いがあるんだけど、いいかしら? 成功したら、報酬は払うわ!」
「なになに?」
マリタのお願いは、好きな人の前で突き飛ばしてほしいというものだった。
マリタの家が主催のパーティーの日に、それを実行する。周りに見られては困るので、視覚遮断魔法を使った。見えているのはマリタの好きな人……ポールだけという仕組みだ。
「そんなところに突っ立っていて、邪魔なんですのよ!」
ドンッとマリタを押すと、彼女はポールの前で転倒する。
「きゃあっ」
「ふんっ、誰にでも優しくしているあなたが気に入りませんの。あなたには泥水がお似合いではなくって?」
おーっほっほと高笑いしながら、コップに入った水をマリタにぶちまける。
それを見ていたポールは驚いたように目を見張っていた。周りにはこの惨状が見えていないので、無視しているように感じたことだろう。
ポールはマリタを助けるべきか、それとも周りのように何事もなく振る舞うべきかで悩んでしまっているようだ。
仕方ないわ!
エレインは、えいっと〝勇気の出る魔法〟を彼にかける。するとポールはハッとしたようにマリタに近寄って助け始めた。と同時に、エレインは自分たちにかけていた視覚遮断魔法を解除する。
それをきっかけとして、マリタとポールの仲が進展するのに、時間は掛からなかった──
マリタがこのことを仲の良い数名に話したことをきっかけに、エレインは『悪役令嬢』と称して自身をプロデュース。
次々に恋のきっかけを与え続けて、成立させたカップルは数知れず。
報奨金で傾いた家を建て直すまでになった時、大々的にやりすぎたのか、とうとう悪役令嬢の噂がクラレンスの元にまで届いてしまった。
王の名代として現れたクラレンスが、ブレンダを引き連れてエレインの前に現れた。その後ろには彼の弟のアドルフも護衛として控えている。
なぜか嬉々としているブレンダに、エレインは指さされた。
「クラレンス様、彼女は心をあやつる魔法を悪用して人々を惑わせているのですわ!」
「なんだと? その魔法は禁忌だったはずだ! エレイン・オルブライト、貴女をこの国から追ほう……」
突如、動きが止まるクラレンス。何事かと目を見張っていると、頭を押さえて苦しみ始めた。
「兄上!? また発作ですか?!」
発作と聞いてさらにエレインは目を丸めた。
クラレンスと婚約していた六年の間に、そんな発作など起こったことはない。
アドルフが気遣っているのを振り切り、クラレンスはよろめきながら二、三歩進んだ。
そしてエレインの目の前までやってくると──
「エレ、イン……どう、して、僕は、婚約破棄、を……っぐ!」
その苦しそうな顔を、悲しく歪めた。
「クラレンス様……?」
手を差し伸べようとした瞬間、ブレンダが割り入ってきて引き剥がされる。
「まぁクラレンス様! 具合がお悪いんですのね! アドルフ様、治癒の魔法をかける許可をくださいませ!」
「……わかった、許可する」
許可をもらったブレンダは、すぐさまクラレンスに魔法をかける。その直後、クラレンスの顔の歪みはなくなったが、同時に冷たい瞳がエレインを襲った。
「さっさとこの国から出て行くんだ、エレイン・オルブライト。貴女をこの国から追放する。」
光の消えたクラレンスの瞳。
体調はたしかに戻っているようでほっとしたが、冷たい言葉にエレインの胸はシクシクと痛む。
「兄上、それはあんまりでは」
「この件に関して、僕は王に一任されている。口出しは無用だ、アドルフ」
「……はい……」
アドルフは悔しそうな顔をしたまま、数歩下がった。
どちらにせよ、派手に悪役令嬢の商売をしてしまったのは確かだ。貴族として、その品位を落としてしまう行為だったことは間違いない。
お金が必要だったから、という言い訳をしても無駄よね……。
とりあえず、傾いた家を戻すくらいにはできた。家の方にお咎めがなく、エレイン個人だけが追放なら良い方だと、自分を納得させる。
でも、それでも……
追放すると愛する人の口から告げられるのは、つらかったが。
こうしてエレインはエイマーズ王国を出ることになった。
馬車で隣国まで送られ、シリトーという村に降ろされたエレインの隣には……なぜかアドルフの姿。
エイマーズ王国を出ていくのを、ちゃんと見届けるためにきたのだろうとエレインは思っていたのだが、ここまで送ってくれた馬車はあろうことかアドルフまでも残して帰ってしまったのだ。
「あの、アドルフ様? ここはもう、マルサス国ですよ?」
そう言ってもなぜかアドルフは、エレインを護衛するように隣に立っている。
「しばらくはおそばにいますよ。エレイン様の追放は、俺も納得がいってないですから」
「納得がいってないって……お仕事の方は大丈夫なんですか?」
「……」
エレインの問いに、アドルフなにも答えてくれなかった。それは大丈夫でないという意味なのか、それとも答える義理はないという意味なのか、エレインには判別がつかない。
しかし、わずかな所持金だけで追放されたエレインに、彼の存在はとてもありがたかった。
アドルフは家を探し、数ヶ月分の家賃を払ってくれたのだ。そしてアドルフも、なぜか隣家を借りて暮らしはじめた。隣家といっても田舎なので、五十メートルは離れていたが。
聖女の力は封印できないので、監視する人が必要なのかもしれない。
別に聖女の力を使って復讐するつもりなど、毛頭ないのだけど……。
アドルフを見ると、にっこりと美しい顔で微笑まれてしまうものだから、気が緩んでしまう。
それにしても、わざわざ王族が監視する必要はあるのだろうか。なにかあった時に、権力と実力を行使できる人の方が都合の良いことはわかるが。
村に来てから二週間、エレインは優しい村人のおかげで楽しく暮らせている。村人の畑の手伝いをしたり、町にお遣いに行ったり、細々と。
けれど、時折ふと思い出すのは、やはり故郷のことだった。
クラレンス様はどうしているのかしら。
今頃、ブレンダと……
間引いた大根の葉を握りしめながら、なにを考えているのかとエレインは首を横に振った。
自分は間引かれたのだ。不要なものだからと。ブレンダの邪魔になるからと。
「間引き菜、もらってもいいそうですよ」
握りしめていた大根の葉に、手を添えるものがいた。
首だけで後ろを振り向くと、端正なアドルフの顔がついそこにある。
なぜだか彼は、エレインの仕事をよく手伝ってくれるのだ。普段は村に入り込んでくる魔物や害獣の駆除なんかをやっているみたいではあるが。
「間引き菜? これのことよね……食べられるのですか?」
「そうらしいですよ。間引き菜は柔らかくて美味しいそうです」
間引き菜は、柔らかくて美味しい。
たった今、間引き菜を自分に例えていたエレインは、アドルフにそう言われてなんだか恥ずかしくなる。
「どうしました」
「な、なんでもないの」
アドルフから目を逸らすと、間引いた葉をかごに入れていく。
彼のアップは、危険だ。
さすがは兄弟、顔立ちがよく似ている。
優しく微笑まれると、クラレンスを思い出してしまう。
忘れたい。もうなにも考えたくないのに、アドルフ様がいるとクラレンス様のことをつい考えちゃうわ……。
クラレンスとは、政略ではあった。
第一王子の年齢に釣り合う女児の中で、だんとつの魔力持ちがエレインだったのだ。
代々エイマーズ王国では、魔力持ちを第一王子の伴侶とすることが決められている。強大な魔力を王の管理下に置くためであり、政治的な利用価値もあるからだ。
エレインは十二歳でクラレンスの婚約者となり、六年間を共に過ごした。
初めて会った時はとても緊張した。まともに話せないでいるエレインに、『ゆっくり仲良くなっていこう』とクラレンスは微笑んでくれたことを思い出す。
それからクラレンスは、名前で呼ぶことを許してくれた。
共に学び、遊び、出掛け、誕生日には必ずプレゼントを贈ってくれた。
そして、初めて愛してると言ってくれたのは三年も前のこと。
あの頃はなにもかも順調だったのに、と思うと息が漏れる。
「兄上のことを考えているんですか」
いつのまにか目の前にアドルフがいて、顔を覗かれていた。
一瞬、クラレンスがいるのかと思って顔が熱くなる。
「違い、ます」
「本当に?」
アドルフの深い海のような瞳が、エレインの心の奥を見透かすように凝視している。
「顔が真っ赤だ」
「アドルフ様が、そんなに見つめるからです……っ」
「俺では代わりになりませんか、エレイン」
「……え」
なにを言っているのか分からず、エレインはぽかんとアドルフを見上げる。
いつも『エレイン様』と呼んでくれていた彼に呼び捨てされたのももちろんだが、その内容にも驚いた。
「代わり……ですか?」
「はい」
真剣なアドルフの表情。
どういう意味で言っているのだろうかと思案していると、アドルフがもう一度口を開く。
「俺は、ずっとエレインのことが好きでした」
一瞬、目の前が真っ白になった。
冗談なのだろうかとも思ったが、こんな冗談をいう意味がわからない。
呆気に取られて口が開いてしまっているエレインに、アドルフは少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
「ずっとって……」
「エレインが聖女となり、兄上の婚約者となったその日から、ずっとです」
アドルフの告白を聞いて、エレインは目を瞬かせた。
エレインがクラレンスの婚約者となったのは、十二の時。一つ下のアドルフは、十一歳のはずだ。
「まぁ……おませさんだったのね」
「エレインのような綺麗な人が目の前に現れては、誰だってそうなります。どうして俺は第一王子ではないのかと、自分の心を殺すのに苦労しました」
下げられた眉の形、そして優しく微笑む目元が、やはりよく似ている。
アドルフを見てクラレンスを重ねるなど失礼だとわかっていても、浮かんでしまうものはどうしようもない。
「俺を、見てください……」
それが伝わってしまったのだろうか。苦しそうな表情に変わったかと思うと、エレインは手を握られた。
「もう、エレインはエイマーズ王国には戻れない……兄上の横暴を止められなかったのは、本当に申し訳なく思っています。けどっ」
さらにその手を強く握り締められる。
「俺にとってはチャンスなんだ。エレインと……ともにここで暮らしたい」
「ええ、ちょっと待ってください! アドルフ様にはクラレンス様を支える役目が……」
「俺はその役目から降ろされました。兄上と……ブレンダ様に」
「ええ??」
驚きすぎて、語彙が『ええ』しか出てこない。
色んな情報を一気に詰められ、頭がごちゃごちゃ状態だ。
「兄上はいつの頃からか変わられた。エレインをあんなに大切に思っていたというのに……なぜ心変わりを……」
アドルフから見ても、クラレンスの心がエレインから離れていくのがわかったのだろう。
婚約から六年だ。ブレンダのように美しい上に可愛らしさをも備えた女性が現れては、心変わりしてしまうのも仕方がない。
いつもクラレンスにしてもらうばかりで、自分からなにかをしようとしていなかったことを悔いても遅い。
つまらない女だと飽きられても、仕方なかったんだわ……。
婚約者という地位に安心して甘えていたのは自分だったのだ。クラレンスだけを責めるのは間違っている。
「私が悪かったんです。甘えてばかりで、殿下のお気持ちを知ろうともしていなかった……」
クラレンスはなにがあっても好きでいてくれるものだと勘違いしていた。なんと傲慢だったのかと今になって気づく。
もう二度と、あの愛しい声を聞けず、顔も見られない……そう思うと、視界がゆらりと歪み始めた。
「エレイン……」
「やだ、ごめんなさい……私に泣く資格なんてないのに……」
アドルフはそんなエレインの頬をそっと撫でてくれた。彼の手は、とても優しくて……温かくて。
「アドルフ様……」
「今日は一緒に夕飯を食べませんか。村人に美味しい大根葉の食べ方を聞いておきますから」
耳に心地良い低音に、エレインはこくりと頷いたのだった。
***
シリトーの村に来てから、二ヶ月が過ぎた。
アドルフはエイマーズ王国に戻る気がないらしく、一緒にこの村で暮らしている。
彼は、エレインの心の支えとなってくれていた。しかし、まだ好きだと言われたことへの返事はできていない。
「ゆっくりでかまいませんから」
そう微笑んでくれているのをいいことに、決断を先延ばしにしている状況だ。
秋の装いが消えゆき、もう少しすれば冬がやってくる。
エイマーズ王国よりも寒い土地で、エレインは冷たくなった手を擦った。
「ほら、エレイン。ちゃんと上着を羽織らなければだめだろう?」
すっかり砕けた口調になったアドルフが、自分の上着を脱いでエレインの肩にかけてくれる。
「今から畑仕事なのよ? すぐに体は温まるわ」
「じゃあ、その間だけでも着ておいて。夕方、取りに来るから」
アドルフは眩しい笑顔を置いて、村人たちと害獣退治に行ってしまった。
エレインはその上着に手を通すと、深呼吸する。アドルフの爽やかな香りが胸に入り込み、痛みを伴う息を吐き出した。
アドルフは優しい。告白の答えを急かすことなく、エレインの隣でずっと微笑んでくれる。
「なのに、私は……」
アドルフを、どうしても昔のクラレンスと重ねてしまうのだ。
クラレンスもこんな風に優しかった。
クラレンスもこうして微笑んでくれた。
クラレンスのように……クラレンスみたいな……
その度に胸がズキズキと痛みを発する。
アドルフに対する申し訳なさと、いつまでもクラレンスへの気持ちを断ち切れない不甲斐なさと。
アドルフに対する気持ちは、好きであるのだとは思う。
けれど、それが一体どういう〝好き〟であるのか自分で理解できなかった。
クラレンスと重ねているから好きだと勘違いしているだけなのかもしれない。その証拠に、クラレンスを思うとこんなにも心が苦しい。
だからといって、アドルフを突き放すことなんてできなかった。
彼のためには、はやく振ってあげた方がいいに決まっている。しかし、どうしてもそれを切り出すことはできないのだ。
アドルフにちゃんとお断りしなくてはいけないのに……どうして、言えないの……っ
アドルフを利用しようという、嫌な心が自分にはあるのかもしれないとエレインは気持ちを沈ませた。
だって、彼は優しい。そばにいてくれるだけで、心が安らぐのだ。そんな心地の良い存在を、自ら手放すなんてしたくない。できない。
それがただのエゴだとはわかっていても、どうしても決心がつかなかった。
夕刻、畑仕事を終わらせる段階になると、いつも通りアドルフがやってきた。
「おかえりなさい、アドルフ様。今日はこんなに大きな大根を収穫し……どうしたんですか?」
いつものような爽やかさのない、少し暗い表情。なにごとかとエレインは彼に駆け寄る。
「エレイン……兄上から、書状がきている」
「……書状?」
アドルフの手の中の紙が、かさりと音を立てた。
なにが書かれていたのかと、不安になりながらアドルフを見上げる。
「俺とエレインは、すぐにでもここを出て、エイマーズ王国に戻れという兄上の指示だ」
「え……どうして、今さら……?」
「わからない。けど、次期国王の命令を無視することはできない」
「ええ……そうね……」
なにを言われるのかわからないというのに、なぜだか胸は勝手に高鳴っている。
久しぶりにクラレンスの顔を見ることができるのだ。ただそれだけで心が浮かれてしまっている。
「エレイン……ッ」
そんな心が顔に出てしまっていたのか。
眉尻を悲しく下げたアドルフに、エレインは手を引かれた。
「アドルフ様……!?」
「俺と結婚してほしい……今すぐ……っ」
アドルフの切羽詰まった顔。どこか痛ましいその姿に、エレインは胸を詰まらせる。
「どう、して……急に……」
「兄上は、もしかしたらエレインを婚約者に戻すつもりかもしれない……っだから!」
「待って、アドルフ様。そんなこと、あるわけが……」
「ないとは言い切れないっ!」
温厚なアドルフの叫ぶ声など、初めて聞いた。
驚いて目を広げていると、アドルフはハッと我に返ったようにバツの悪い顔をしている。
「すまない……つい……」
「いえ……」
アドルフは、それ以上なにも言わなかった。そしてエレインも、答えを出せずに黙っていた。
彼の気持ちは嬉しい。心から嬉しいと感じるのに、どうして答えが出せないのだろう。
目の前にあるかもしれない、クラレンスとの再婚約。それを考えると、胸がじくじくと痛み出す。
私は、どうしたいの……
どうしたらいいの……?
答えの出ない問い。
きっと、クラレンスに会って答えを出すしかないのだろう。
エレインはエイマーズ王国へ行くことに決めたのだった。
***
エレインはアドルフと共にエイマーズ王国へと戻ってきた。
といっても、着いた先は王都の城ではなく、自然豊かな地にある王家の別荘だ。
そこで、クラレンスはエレインたちを待っていた。そして彼の後ろには、隠れるようにブレンダの姿も。
「よく戻ってきてくれた。エレイン、アドルフ」
クラレンスを前に跪こうとすると、彼は一言「いい、他に誰もいない」と拒否を示す。
エレインはその言葉に、まっすぐ彼と顔を見合わせた。
「久しぶりだな、エレイン……会いたかった」
クラレンスの優しい瞳。愛してると言ってくれた、あの時の……。
「殿下……っ」
「すまなかった……許してほしい」
クラレンスの口から出てきたのは、謝罪の言葉。
一体どういうことなのかと、手を伸ばせば触れられる距離までやってきたクラレンスを見上げる。
「僕は……ブレンダに操られていたんだ」
「ほ、本当ですか、殿下……」
「ああ。時折、意識が正常になることがあった。その時に母上に無理を頼み、僕に結界を張ってもらった」
王妃であるクラレンスの母親もまた聖女だ。しかし若い頃に魔力を酷使しすぎたせいか、体力も聖女の力も衰えて寝込んでしまっていると聞く。
ブレンダに目をやると、彼女は悔しそうに視線を落としていた。
「それから僕は正気を取り戻すことができたんだ。僕がエレインを追放なんて……そんなことをするわけがないだろう……!」
「殿下……」
「クラレンスと呼んでくれ……っ」
以前の、クラレンスだ。優しく愛してくれたあの頃の、エレインの愛したそのままの。
「クラレンス様……!」
エレインがその名を呼ぶと、クラレンスがぎゅっと抱きしめてくれる。クラレンスの体温が伝わってくる。
「申し訳ありません、クラレンス様……掛けられていた魔法に気づかなかったこと…… あなたを信じなかったこと……」
「いいんだ、エレイン……僕も操られていたとはいえ、君を追放してしまって……すまない」
「いいえ、いいえ……っ」
ぽろぽろと熱いものがこぼれ落ちる。それはクラレンスの方も同じで。
思いは同じだったのだと安堵する。
「……よかったですね、エレイン様」
隣から、アドルフの声がした。
気安く話しかけてくれていた彼が、以前と変わらず一歩引いてそう言った。
「アドルフ様……」
にっこりと穏やかに微笑むその優しさに、胸が痛む。けれど、掛ける言葉など見つからなかった。
「しかし、どうして彼女はそんなことを?」
アドルフがブレンダに目をやりながらクラレンスに問いかけた。クラレンスは困ったように視線を下げながら首を振っている。
「聞いても答えてくれないんだ。エレイン、君の魔法で彼女の本心を聞き出せるか?」
王妃はおそらく、結界で力を使い果たしてしまったのだろう。エレインはこくりと頷いて、魔力を溜め始めた。
「いや……やめて……!!」
「いい、やってくれ。エレイン」
ブレンダの拒否はクラレンスには通じず、魔法を促された。
いつかのように相殺されないよう、練り込んだ魔力を彼女の胸に当てて、直接流し込む。
〝本心をさらけ出す魔法〟だ。
エレインがクラレンスに頷いて見せると、彼は尋問を始めた。
「ブレンダ、どうして僕をあやつるようなことをした? 国家の転覆でも狙っているのか?」
魔力を直接流されたブレンダは、苦しそうにしながらもぶんぶんと首を横に振る。
「違いますわ……! そんなこと、企んでなどおりません!」
「ではなぜ、こんなことをしたんだ」
「それは……っエレイン様がずるい方だからですわ!」
「……え?」
ずるい、と言われてわずかに首を傾げる。なにもずるいことなど、やった覚えはない。
「どうして私がずるいんですか?」
「だって……だってエレイン様は、なんの苦労もせずクラレンス様の婚約者になったではありませんか!」
なんの苦労もせず。
確かに、クラレンスの婚約者となったのは棚ぼたのようなものだった。
生まれた時から、魔力量が多かっただけなのだから。
「私は……っ魔力はあったけど、ちっぽけで……到底、殿下の婚約者になどなれなかった……っ」
ぐすっというブレンダの啜り泣きが部屋に響く。
魔力量の多い者が聖女認定され、第一王子の婚約者となれるのだから、仕方のない話だ。
「私は……五歳の頃に殿下をお見かけする機会がありましたの……この方しかいないと思いましたわ。だから魔力量が増えるよう、必死に努力してきましたのに……! エレイン様はなんの努力もなさらず、殿下を奪っていった……!!」
ブレンダ泣きながら訴える姿は、ここにいる全員の胸を打つものがあった。
なんの努力もなしに……と言われると、否定のしようがない。そんなこと、考えもしたことがなかったのだから。
「エレイン様が殿下の婚約者となられてからも……私は一縷の望みをかけて、魔力量を増やすべくずっと訓練をしてきましたの! 毎日、毎日……! エレイン様の魔力量を凌駕することができたなら、婚約者になれるのだと信じて……」
彼女の努力は正しかったのだろう。
エレイン以上の魔力の持ち主が現れたら、婚約者の座を明け渡さなければいけない……そういう契約だったのだから。
「でも……エレイン様の魔力を凌駕するなんて、無理……どれだけ努力しても、今以上には伸びなかった……」
はらはらと涙をこぼすブレンダの姿に、情のようなものが芽生えてしまう。彼女はそれほどまでに、クラレンスに恋していたのだろうと思うと。
「それで、僕の心をあやつることにしたのか?」
「はい……最初は少しずつ……夜会でお会いするたびに、魔力を飛ばして……エレイン様への気持ちを無くすようにと」
夜会はエレインも出席していたはずだ。それなのに、魔法が使われていることにはちっとも気づかなかった。
彼女は魔力量だけでなく、そういう技術も長けているのだろう。思ったよりもブレンダの力は相当凄そうだ。努力の賜物なのだろうか。
「エレイン様への気持ちがなくなれば、次に魔力量の多い私が婚約者になれると……そう、思って……」
泣き崩れるブレンダを、エレインたちは複雑な思いで見下ろした。
彼女のやったことはいけないことではあるが、どこか責めきれない。
「どうされます、兄上。彼女の処分は」
「クラレンス様、どうかブレンダ様にご恩情を……」
彼女がやったことは『王族に許可なく魔法をかける』という罪だが、思わずやってしまう、ということをエレインも身をもって知っている。
それにブレンダのいうことにも一理あるのだ。なんの努力もせず手に入れていた魔力と第一王子。ブレンダから見ると、どんなにか悔しかったことだろう。
「ブレンダ、ひとつ聞く」
ブレンダに顔を向けたクラレンスの顔は、どこか優しく。
「僕にかけた魔法は、エレインへの気持ちを無くすものだけなのか?」
「はい……」
〝本心をさらけ出す魔法〟はまだ有効だ。嘘はついていないだろう。
その言葉を聞いたクラレンスは、「そうか」と目を瞑った。
「あの……クラレンス様……?」
なぜか、胸がざわつく。
エレインの問いかけに、たっぷり十秒は経ってからクラレンスは目を開いた。
その瞳はエレインへと移動しているが、憂い顔は晴れていない。
「エレイン……頼みがある。僕にも本心をさらけ出す魔法をかけてくれ」
「な、兄上?!」
アドルフの驚きの声が部屋に響いた。いずれ王となる者が、本心をさらけ出す魔法をかけられるなど、前代未聞だ。
しかしその真剣な表情を見るに、大切なことなのだろうと理解したエレインは頷いた。
「わかりましたわ、クラレンス様。どのようなお考えがあるのかはわかりませんが、そのようにいたします」
「ありがとう、エレイン……君のそういうところが大好きだよ……」
好きと言われたのに、心がツキンと痛むのはなぜだろうか。
エレインは魔力を練る。王妃の結界はすでに解けているようで、クラレンスの中へと流し込むことができた。
「兄上、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。みんな、よく聞いてほしい……そしてできれば、これからいうことを胸の内に秘めておいてくれるとありがたい」
「わかっております」
「もちろんですわ」
そしてブレンダもこくんと頷くのを見て、クラレンスは話し始めた。
「エレイン……愛しているよ」
そんな言葉から始まった。それが、クラレンスの本心だと思うと胸が熱くなる。
「僕は君に会った時から大好きだったんだ。それはもう、揺るぎなく、大好きで……大事な弟のアドルフが君のことを好きだって気づいていたけど、そんなの関係なかった。君は僕のものになることが決まっていたから」
アドルフの顔が、赤くも青くなった。クラレンスはアドルフの気持ちに気づいていて黙っていたのだ。ばれてしまっていたと知ったアドルフの顔は強張ってしまっている。
「そのまま、結婚するものだと思っていたが……ある日、僕は君への気持ちが薄れていることに気がついた。それはきっと、ブレンダの魔法のせいだったんだと思う」
なのに、ブレンダを見るクラレンスの瞳に、憎しみの炎は映し出されてはいない。
「どんどんエレインから気持ちが離れていった僕は、ひとりの令嬢に目が行くようになった。……君だ、ブレンダ」
クラレンスはブレンダのそばに行くと、視線を合わせるために片膝をついた。エレインたちだけでなく、ブレンダも目を丸めている。
「明るく前向きで、一生懸命。そんなブレンダに、僕は興味を持ち始めた」
ブレンダの唇が、声なく『うそでしょ』と動いた。
彼女は、クラレンスにかけた魔法を一つだけだと言っていた。他に魔法はかけていないと。
「僕はエレインを疎ましく思うと同時に、ブレンダをだんだん好きになっていったんだ」
エレインから心が離れる魔法を使われていたとはいえ、彼女を好きになったのは……クラレンス自身の意思。
その事実は、エレインから酸素を奪っていくように息を苦しくさせる。
「そしてブレンダに相当な魔力量があると知った僕は……」
座り込んでいるブレンダをそのままに、立ち上がって振り向いたクラレンスは──
「エレインとの婚約を破棄すべく、画策してしまっていた……っ」
透き通った涙が、滑り落ちていた。
「クラレンス様……」
「すまない……すまない、エレイン……」
ブレンダがクラレンスを操って婚約破棄させたのではない。確かに魔法はひとつかかっていたけれど……婚約破棄は、クラレンス自身の意思だった。
「たまに正気に戻ると、激しく後悔した。そして、エレインへの気持ちが溢れ出して狂いそうになった」
それが発作の原因だったのだろうか。クラレンスはコツコツとエレインに向かって歩いてくる。
「そしてブレンダの魔法が解けた今、エレインを愛する気持ちが復活した」
どきんと胸が鳴る。
嬉しい。好きだと言ってもらえて。愛していると言ってもらえて。
クラレンスの手が、エレインの頬に触れた。しかしその手は、どこか冷たくて──
「エレイン……愛しているよ。こんなに好きになる人は、二度と現れないと思っていたんだ……」
ほろほろとクラレンスの目から涙が溢れ落ちた。胸が、ちぎれそうなほどにドクドクと不安で打ち鳴らされてる。
「殿下……」
「愛してる……この気持ちに嘘はない。信じてくれ……っ」
「はい……はい、信じます……」
本音をさらけ出す魔法は絶対だ。嘘が言えないのはわかっている。
しかし、だからこそ次のクラレンスの言葉が、エレインには予測できてしまった。
「そして……エレインへの気持ちが戻れば、ブレンダへの気持ちもなくなると思っていたが……僕は、彼女も愛してしまっているんだ……」
「……はい」
エレインの目からも、熱いものが流れ落ちた。
クラレンスを責めることはできない。魔法さえ使われなければ、こんなことにはならなかったのだから。
「一番の被害者は、君だ。エレインが望むことを、僕は必ず叶える。だから、どうしたいか教えてくれ……」
「私の、望むこと……」
それはなんだろうか。
できるならば時間を戻してブレンダの魔法を阻止したいが、そんなことはどんな魔力を持ってしても不可能だ。
では、ブレンダとは婚約破棄してもらい、もう一度婚約者の地位に戻してもらうことが最善なのだろうか。
けど……婚約者に戻ったとしても、クラレンス様はもう以前のクラレンス様じゃないわ。
私だけを見てはくださらない。殿下はブレンダのことも好きで……きっと一生、彼女のことも気にかけていくんだわ。
エレインが婚約者の座に戻れば、ブレンダとは婚約解消しなければならなくなる。婚約解消の理由は、彼女が王族に対して魔法を許可なく使ったからということになるだろう。
そうなると、ブレンダは追放や禁固刑になってしまうこともあり得る。それは、クラレンスの望む未来ではないはずだ。
「クラレンス様……私は……」
苦しい。声が出ない。
本当は言いたい。元に戻りたいと。私一人だけを愛してほしいと。
でもそれはきっと、クラレンスを苦しめるだけ──
「このままが、いい、のでは、ない……かと……っ」
声が震える。にっこりと笑って、なにごともなかったかのように告げたかったのに。
「エレイン……」
「私……田舎で、暮らすのが……た、楽しくて……っ」
本当のことだというのに、なぜか涙が溢れてくる。クラレンスの痛そうな顔が、つらい。
「婚約者が……また変わるのも……大変、ですわ……特に、私は悪役令嬢として……世に広まってしまっています……」
悪役令嬢と噂のあるものが王子の婚約者になるなど、民衆の反感を買ってしまうだけだ。
それはクラレンスのためにも……この国ためにもならないのだから。
「ブレンダ様の気持ちもクラレンス様の気持ちも本物なら……きっと、このままお二人が結婚する方が、いいんですわ……」
「エレイン……ッ」
ブレンダが魔法をかけたことも、ごく一部しか知らないならどうにでもなるだろう。
もう元には戻れないのなら、この選択が一番いいはずなのだ。
そう理解できているはずなのに、胸は砕かれたかのように苦しい。
「すまない……すまない……っ君を選ぶことができなくて……僕は……っ」
「クラレンス様、クラレンス様……っ」
クラレンスがぎゅっとエレインを抱きしめてくれる。
こんな抱擁は、婚約者のときにだってしたことはなかった。
これはきっと、最初で最後の……熱い抱擁。
「クラレンス様……私も、私も愛しておりました……! この世で、一番……っ」
「僕もだ……君と、一生を共に過ごしたかった……! 愛してるよ。どうか、どうか幸せになってほしい……」
力いっぱい抱きしめ合っていたその手は、やがてゆっくりと離れていく。
そうしてお互いの顔をみやった二人は、そっと微笑んだ。
エレインはクラレンスとブレンダに手のひらをかざし、二人にかけた魔法を解いてみせる。
「クラレンス様、ありがとうございました。どうぞ、ブレンダ様とお幸せに」
エレインは、クラレンスに感謝の意を告げた。エレインに謝罪してくれたこと、選択権をくれたこと。どちらも無視してクラレンスはブレンダと結婚できたはずなのに、そうしなかったことが嬉しかった。
「エレインも来てくれて……そして祝福してくれて、ありがとう」
責任ある王族の一人といった威厳のある顔で、クラレンスはそう言ったのだった。
エレインが王族の別荘を出ると、その背後からはアドルフがついてきている。
「アドルフ様。本当にこの国に残らなくて良かったんですの?」
どこか寂しそうなアドルフに、エレインはなるべく明るく話しかけた。
彼は、シリトーで暮らす旨をクラレンスに告げ、許可をもらっていたのだ。
「俺は……エレインと一緒にいたい」
「アドルフ様がいてくれたら、私も心強いですわ。さぁ、一緒に帰りましょう」
「エレイン!」
馬車に向かおうとしたその体を、アドルフに引き寄せられた。
「無理しなくていい……」
「アドル……」
「よく、頑張った……」
「……〜〜!!」
アドルフはわかってくれていたのだ。エレインの胸の内を。
絞り出すようにして告げた、愛する人への決別を。
目の前のアドルフの全てを受け止める表情に、胸の内から感情が溢れ出る。
「うう、う………っ私、私──」
「ああ」
「クラレンス様のそばにいたかった……! けど、けどクラレンス様はブレンダのことを……あああっ」
心の叫びが外に飛び出してしまったエレインを、アドルフはしっかと抱きとめてくれる。
「俺は、エレインだけだから……エレインだけを、一生愛し続けるから……っ」
「アドルフ様……アドルフ様ぁ!」
苦しみの沼から救い出そうと、アドルフは耳の側で愛の言葉を紡いでくれた。
アドルフだって、好きな人にこんなことを訴えられてつらいはずだ。それを申し訳なく思っても、思いは止まらず涙は流れ続ける。
そんなエレインを、アドルフはずっと優しく抱き止めてくれていた。
***
「じゃあ、行ってくる」
そう言って剣を片手に家を出るアドルフに、エレインは笑顔を送った。
「いってらっしゃい、アドルフ。気をつけてね」
「エレインも、畑仕事はほどほどにな」
「はいはい」
心配するアドルフを見送ると、エレインはいつも畑仕事を手伝っている農家の夫婦のところまでやってきた。
「おはようございます! 今日はなにをお手伝いすればいいですか?」
「おはよう、エレインちゃん。今日は、大根を間引いておくれ」
「はい!」
返事をして畑に向かおうとすると、「エレインちゃん」と呼び止められる。
「無理はしないようにね。お腹に赤ちゃんがいるんだから」
優しい気遣いに、エレインはもう一度「はい!」と元気よく返事をした。
仕事を終えると、大根の葉をもらって帰る。それで料理を作っていると、ここにきてからの一年間が思い出された。
生まれて初めての収穫は、この大根の間引き菜だったこと。
アドルフに告白され、プロポーズされたのに、答えは出せなかったこと。
クラレンスとはきっちりとお別れをしたこと。
そして──
エレインは、アドルフと再びこの地で出発した。
ゆっくりと、ゆっくりとだったけれど、確実に愛をはぐくんで。
彼の十八歳の誕生日の時に、今度はエレインからプロポーズをしたのだ。
その時の言葉は……
ガチャリ、と玄関の扉が鳴った。
エレインは食事の支度をそのままに、愛しい人を笑顔で迎える。
「おかえりなさい、アドルフ!」
あなたが帰ってきた時、おかえりなさいと迎えたい──エレインは、そう伝えたのだ。
「ただいま、エレイン」
ただいまと俺が言ったら、必ずキスをしてほしい──それが、彼の返事。
いつものように少しかがんでくれるアドルフに、エレインはそっと唇を重ね合わせる。
泣きたくなるくらい、幸せな時間。
「好きよ、アドルフ」
「俺も愛してる。お腹の子も……」
そう言い合ってコツンとおでこをくっつけると。
微笑みを交わしながら、もう一度二人は口づけを交わした。
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