遺言メモ

西しまこ

第1話

「わたしが死んだ後に好きに分けてって思っているの」

 康子の発言に智代はなんとなく頷いた。

 康子も智代も八十代に入っている。そして夫に先立たれ、子どもたちは離れて暮らしている、「おひとりさま」だ。康子と智代は同じマンションに住み、同じ年代の子どもを育て、いろいろあったけれど、今は静かな老後だ。そして時々こうしてお互いの家を行き来してお茶をするのがささやかな楽しみの一つだ。

「今は銀行に預けていても増えないし、それに銀行に預けておくと、もしも死んだ場合、凍結されちゃうでしょう。だからね、わたし、タンス預金が一番だと思っているの」

「そう。でも、泥棒に入られたら怖いわよ」

「大丈夫よ。金庫に入っているし、うちにはマロンちゃんがいるから。マロンちゃん!」

 康子に呼ばれて、毛の長い小型犬が転がるように走ってきた。そして、智代を見てキャンキャンと吠えたてた。

「マロンちゃん、やめなさい」

 少しもやめて欲しくなさそうな言い方で言う。

 智代はいつも通り少しうんざりしたが(毎度のことなので)、うんざりしているところを見せないで「マロンちゃん、元気でかわいいわね」とおっとりと言った。康子は犬を抱きかかえながら

「うちはね、こんなにうるさいマロンちゃんがいるでしょう。だから大丈夫なのよ。それに、このマンションも安全でしょう?」

「そうね」

 そう口にしたものの、智代は心の中では、そうでもないけどと思っていた。

「それでね、わたし、金庫の中にちゃんとメモを残しているのよ。梨花にはいくら、武志にはいくらって。それで分けてくれればいいわよね」

「そうね」

 でも、遺産相続ってもめるからメモではちょっと怖いよねと思いつつ。

 紅茶を飲みながら智代は思う。

 そう、なんでも本音を言ってはいけないのだ。本当のことも言ってはいけないのだ。智代の心の中を、かつて、まだ子育てに忙しかった頃、本音でぶつかっていって傷ついてしまったあれこれが駆け巡った。

「今日は蒸し蒸しするわね」

「そうね。クーラーつけないと、やってられないわよね。マロンちゃんも暑いのダメなのよ」

 マロンはちょっとお馬鹿さんな犬だから、静かにさせる方法なんていくらでもあるわ。それに、金庫の場所はだいたい見当はついているし、鍵の場所もこの間言っていたわよね。鍵は全部ここにあるのって。あれ、康子さん、今度の連休は息子さんのところに行くって言っていたかしら。

「クーラーのついた部屋で飲む紅茶はおいしいわ。ありがとう康子さん」

 智代は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに静かにおいた。

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遺言メモ 西しまこ @nishi-shima

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