第3話

「じゃあ玲花先帰るね。」


6限目の英語演習を終え、端的なホームルームを経た後の脱力感でどうしようもない肩をたたかれそう言われた。

ああもう放課後か。やっとだ。やっと、今日の終わりだ。


「うん。気をつけてね。」

笑顔を作るのは誰のためだろうか。

玲花にふった手を見つめそんなことを思う。私はなぜこんなにも自分の行動に理由が欲しいのだろうか。




私も帰ろう。

机脇にかけられたカバンに適当に教科書を詰め込み帰り支度を整える。

近くに居たクラスメイトにばいばい、とだけ言って教室を後にした。

廊下は相変わらず人だらけで階段をおりるのでさえも一苦労だ。


やっとのことで校舎を出て、イヤホンを付けて最寄り駅まで向かう。

全ての音を遮断し、何も考えなくていい放課後のこの時間は割と気に入っている。


駅に着いてもなおたむろっている私と同じだけど、確実に着崩しすぎた制服に身を包み騒ぐ彼ら。


これからバイトじゃん。


てか明日小テストってマジ?



勝手な想像でしかないが青らしい会話をしているんだろう、なんとなくそう思う。

明日もきっと同じようなメンツで同じような会話を繰り返すのに、どうしてあんなにも名残惜しそうに駄弁るんだろう。


内心羨ましいと思ってしまっているような気がして、慌てて頭を振ってかき消した。

日曜日が来るのを指を折って数えて、夏休みが終わることを惜しみ、卒業までのカウントダウンだけを首を長くして待つ私とはまるで人種が違うのだ。


なるべく存在を消してホームの奥へと進んでいく。

見慣れた制服姿のないところまでたどり着き、電車が来るのを待った。



電車に揺られる人々は皆どこか疲れている。

にこにこしているのはやっぱり疲れたような顔をした母親に抱かれた赤ちゃんだけだった。


流れる街並みをぼーっと眺めながらただ音楽に意識を預ける。


「ほらほら。もう少しだから静かにしようね、」


慌てたような母親の声と、存在を証明するかのような泣き声が私の微睡みを貫いた。

先程の陽だまりのような笑顔は一体どこへいってしまったのだろう。


少しずつ空気が悪くなる車内。

厄介なことにイライラというものは伝染するらしい。

その小さすぎる背中を一生懸命さする母親。

可哀想だ。

そう思ってはいても他人に声を掛ける程の勇気など持ち合わせていない。

安全なところから薄っぺらい意見を出す政治家の気持ちがほんの少しだけわかった気がした。


「うるさいんだよ。」

広々と足を広げ優先席にどかりと座る50代前後の男がそう言った。

しわしわの安そうなスーツに、少々寂しくなった頭頂部。左手の薬指に光るそれは家庭を持つ証拠。

どうせ思春期の娘にでも煙たがられ、外に出れば鬱憤を発散するかのようにクレーマー気質を存分に発揮する典型的な面倒くさい男だろう。


周囲に謝り出す母親に多少胸が傷んだ。

どうやら私は偽善者気質をも持ち合わせているらしい。我ながらあの男にも負けず劣らずの面倒くさい女だと思う。


そもそも赤ちゃんくらい好きに泣かせてやればいいじゃないか。

思うがままに泣いて怒れるのなんて今のうちだ。

そう遠からずどれだけ苦しくても、笑っていなければならない時がくるのだ。

空気を読む事さえ美徳と讃えるこの国で、素直でいられる時間は限りなく少ない。

この悲しい事実は「大人」が1番よく分かっていることなのではないだろうか。


今も尚泣き続ける赤ちゃんに現実に引き戻される。

そういえば少し前に電車でマナーの悪い客を注意した学生が逆上された事件があったっけな。


やはりここは黙っておくのが吉。

触らぬ神に祟りなし。当たらぬ蜂には刺されぬ。

見て見ぬふりで今日まで生きてきたじゃないか。



そうやって自己完結させればもうこの状況など見なかったことと同じ。

いつもの駅まで電車に揺られ運ばれながら、再びそっと目を閉じた。



家に着く頃に、時計の短針は5時を指していた。

鍵を閉め、一息つくとやっとうまく呼吸ができたような気がした。


1日を乗り切った疲労感から、制服のまま床に座り込んだ。

どうだっていいのだ。

このまま制服が皺だらけになっても、もうずっとカバンに入ってる数日分のハンカチを出さなくても、帰宅してすぐに手を洗わなくても。

何もしなくたって、私を怒ってくれる人なんてもう、誰もいないのだから。


一人ぼっちだなあ。

こういう時だ。自分がいかに孤独か感じてしまうのは。

もうとっくに割り切らなくてはならないのにいつだって過去を引きずっては、ただ頑張れない理由を探している。

涙の止め方なんて分からなくて、苦しみに飲み込まれてしまいそうで。

今日の私が泣くのは、明日の私がきちんと笑えるように。いつもと同じ明日を迎えられるように。




相変わらずしんと静まり帰ったこの家で、ひとり玄関に座り込み床を見つめる。


そんな静寂は小さな物音すら拾ってしまうのだが、確かに床が軋む音がした。


そしてようやく思い出す。

これだけ孤独を嘆きながら、この家に住んでいるのは私だけではないことに。



この家には自分しかいない。


きっと彼もそう捉えているのではないだろうか。

「大人になったから」なんて都合のいい言葉で誤魔化した歪んだ関係。



他人よりも他人のようなすれ違いばかりを重ねた私達には同じ腹から生まれたという事実関係しかない。

そんな兄の存在を感じたのは本当に久しぶりのことだった。






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