ハンカチーフ
「私、御輿入れが決まったの」
サエ子の口からその言葉が飛び出したとき、ミツ子は目の前が真っ暗になったような気がした。サエ子はすらりと背が高く、矢絣の着物は肩揚げも取れてよく着慣れたふうに、やさしげな肩の曲線を描いていた。海老茶の袴に締めた校章入りのベルトは、校章の部分がところどころ使い込まれて剥げていた。サエ子はこの女学校の最高学年、卒業を間近に控え、同級生はもうまばらになってきているという。それでもサエ子は卒業まで学校にいるものと、ミツ子は思っていた。サエ子は学年の中でも一等賢く、ミツ子たち下級生の間では末は博士か大臣かなどと語られることもあった――もっとも、それは若干の嘲りの音色を纏っていることがしばしばだったが。それでもミツ子は、賢いサエ子のことが好きだった。サエ子は目立つような美人ではない。容姿は至って平凡、特筆すべきといえば背が高く袴の似合うこと、あとは賢いこと、運動が得意なこと。袴の裾を翻し、細くしなやかなひざ下を覗かせながら、闊達にラケットを振ってテニスをする様子に、ミツ子は釘付けになってしまったのだ。最高学年に上がり、周りが次々と嫁入りのために退学していっても、サエ子は「私にはそんなお話は、とんとなくて」と笑っていた。嘲笑も蔑む視線もものともせず、シェークスピアの詩を英語で朗読し、算術をよくし、音楽も運動も裁縫もこなす。良妻賢母たるには過ぎたる才女よと言う声は、ミツ子は純粋に誉め言葉だと取ることにした。だってそんな人、小母さまたちにもお姉さまがたにも、サエ子さん以外誰一人としていないもの。そう言って一心な憧れのまなざしを向けるミツ子に、サエ子は面映ゆげに笑った。
「そんなこと言ってくれるの、ミツ子さんだけよ」
「だってわたくし、サエ子お姉さまのこと、お慕い申し上げておりますもの」
「ありがとう、ミツ子さん」
その頃の女学生の流行りに則り、サエ子とミツ子はハンカチーフを交換した。サエ子の白いハンカチーフは、どこか甘い香りがした。慕わしさのあまり、ミツ子はそれを使うことはせず、いつも袂に忍ばせて、時折そっと香りを楽しんだ。その香りが薄れてしまう頃に、サエ子は嫁入りすると言った。
「お父様のお取引先で、呉服屋の次期若旦那が年回りが近いそうで。先だってお見合いをしたら、気に入られて」
「そう……ですか」
「……早く祝言を上げたいと言われるものだから。卒業まで待てないって」
行き遅れと目されるような経歴は、嫁にはいらないということか。そう考えて、ミツ子は見も知らぬ呉服屋の若旦那が憎く思えた。こんなにすばらしいお姉さまの良いところを、あたら潰すような真似を。
「だから、ミツ子さんに、これを」
サエ子が差し出したのは、ミツ子と交換したハンカチーフだった。ミツ子さんにも、良いご縁が見つかるように。そう言うサエ子の唇は、指先は、震えていた。ミツ子は首を横に振った。
「受け取れません」
サエ子の少し高いところにある首根っこに抱き着けば、抵抗はなかった。ただ弱弱しく、だめよ、と、かぼそい声が漏れるばかりだった。ミツ子は聞かなかったことにして、そのまま唇を重ねた。ハンカチーフと同じ香りがした。どこの馬の骨とも知れぬ男に――サエ子の魅力を何一つ理解しようとしない男などに奪われる前に、自分のものにしてやると思った。白粉の下のすべらかな膚も、春先に開く木瓜の花のような唇も、ミツ子は全てを焼き付けんと目をぎらぎらと光らせた。サエ子は大人しくミツ子の唇を受け止めていた。悲しみも寂しさも、ひとつとて口に出せない彼女のことが、何よりも愛おしかった。輿入れは、嫁入りは、家同士の決め事だ。所詮は赤の他人で年下の娘に過ぎないミツ子には、手出しなどできようはずもない。きっとサエ子は、この女学校を去れば、重苦しい花嫁衣装に身を包み、どこかの男に引き渡され、やがてその男とまぐわって子を生む。呉服屋の女主人という名の座敷牢に飼われ、女学校出という箔のついたお仕着せを着せられ、嫁しては夫に従い、息子が生まれれば息子に従い、ぬばたまの黒髪が白い九十九髪に変わって抜け落ちやがて死ぬまで、男にすべてを握られる。ミツ子はその様子がありありと――不自然なまでに現実的に想像できた。まるで未来を見てきたかのように。ミツ子はサエ子の未来を見ても、ともに歩むことはできない。
長い長いくちづけは、やがて互いの涙の味を混ぜた。頬を伝う涙は、蓮の花弁にのせた露とも見まごう。それをぬぐうのは、ハンカチーフではなくミツ子の指だった。温かいしずくは、ミツ子の指の上でつぶれ、広がった。苦しくなってきた息の下、ようやっと離れたふたつの唇の間には、玉の緒が繋がってすぐにふつりと途切れた。
「……これでお別れです、サエ子お姉さま」
さようなら、という言葉は、幾度となく帰り際に交わしてきたけれど、これこそきっと今生のもの、もしかしたら来世にも渡るものかもしれないと思った。極楽にあるという蓮のうてなですら、ともに立たせてもらえる気はしなかった。み仏は、親子でも妹背でもなんでもない、友を超えた女同士をお認めくださるのだろうか。もしも極楽があるのなら、もしも地獄があるのなら、サエ子は極楽に行くとしても、ミツ子は地獄に落ちるつもりでいた。女同士思いあうことが罪ならば、その罪をすべて背負って落ちていきたい。生きながらにして死の苦しみを味わうようなこの世ならば、地獄ですらも救済なのだ。ただ真っ暗なこの世の中で、サエ子の白いハンカチーフだけが、かすかな光となってミツ子の手元を照らすのだった。
夜想曲 ―Nocturne― 藍川澪 @leiaikawa
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