九月一日

 何でこんなことしてるんだろう、と筒井晶照は何となくの疑問を覚えつつも、クラスメイトの遠山潮の接吻を受け止めていた。唇が乾燥しているからリップクリームを塗るようにしようと二人で話したのが夏休みの前。律義にそんな約束を守る必要がどこにあるのかと考えながら、家の近所のコンビニで買い求めたリップクリームをハンカチとか身だしなみの品と一緒に持ち歩くようになったのが夏休み中。リップクリームなんて女子の使うものだと思っていた晶照は、コンビニの棚に並ぶ「男性用リップクリーム」なる品物を見つけ、女子だけのものだと思っていたのは偏見だったかと考えを改めた。母親が化粧台に置いている口紅と何が違うか分からなかったが、手に取ってみたそれは透明で、見た目には塗ったのか塗っていないのかも分からなかった。ただ、唇が何か生暖かいものに被覆されたような感覚がした。あと、触るとべたつくので勉強中に触ると手を洗うために勉強を中断する羽目になることを学んだ。

 そんなこんなで一ヶ月半、律義に気づいた時にリップクリームを塗ってみるという生活を続けていたおかげで、晶照の唇は荒れのないなめらかで柔らかいものになった。晶照としても、何かの拍子に皮がむけて口の中に血の味が広がるのは不快だったから、悪くはなかった。九月一日の登校日に顔を合わせた潮も、見たところ皮むけやかさつきはなくなったようだった。ただそれをお互い口に出して話すことはなく、始業式に並び、夏休みの課題を提出し、軽い学級活動の時間を経て半日の日程は終わった。午後は部活もなく、どの生徒も厳しい残暑を与える中天の太陽の下を歩いて帰っていく。

 晶照は一度は校舎外に出たが、忘れ物を思い出したと言って取って返した。本当は忘れ物なんてしていない。そうするのが、潮との約束だったから。夏休み前のことなので、潮本人は忘れているかもしれない。居なければ帰ろうと思って教室に戻ると、潮が一つだけ開けた窓際に立っていた。

「……忘れてなかったのか」

 晶照が思わず言うと、潮は何だよとわざとらしい不満そうな顔をした。

「俺、そんなに信用ないのか?」

「ない」

「ひでえ」

 潮のもとに歩み寄る。まるで、そうするのが当然かのように。床に肩掛け鞄が落ちた。二人分のそれが形を崩して折り重なった。潮に手を引かれた。潮の手はよく日焼けしていて筋肉質で、あまり焼けていない晶照の腕が途端に頼りなく見えた。壁を背にして立つのが、晶照のいつもの位置だった。窓からは湿度と温度の高い風が吹いてきて、まったく涼しくない。近くなった潮の顔には汗が浮いていた。目線が少し高い気がする。夏休み前は同じ高さだったはずだ。晶照は足元に目をやる。特に背伸びなどはしていなかった。その視線に気づいたのか、潮は言った。

「晶照、小さくなった?」

「お前が身長伸びたんだろ」

「あー、やっぱりそうか。なんか最近、前着てた服が急に合わなくなったような気がしてさ」

 成長期だからな、と潮は屈託なく笑った。多分晶照だって身長は伸びているはずなのだが、潮のほうが伸びしろが大きかったということか。別にそのことに悔しさは感じなかった。人並みの身長があれば十分だと晶照は思っていた。今のところ、身体測定では平均値程度は維持している。ただ、少し目線の上がった潮に向き合って、壁を背にして立っていると、なんとなく潮が晶照を視線から隠してくれているような、そんな気がした。

 特に前触れも声かけもなく、潮と晶照の唇が重ねられた。やっぱり、夏休み前よりしっとりとしていて感触がよかった。柔らかくて、熱を帯びていて、塩辛いような酸っぱいような味がした。何でこんなことしてるんだろう、と晶照は思う。普通女の子とするものだろう。お互い初めてなことは、夏休み前に確認済だ。女の子はファーストキスに夢を見るものだと聞いたことがある。ムードとか、甘い告白とか、そういうのとセットになっているものらしい。これはそんなことはなく、汗が垂れてくるし、汗の味がするし、暑いし、勿論甘い告白の言葉なんて交わしたことはない。潮が唇をほんの少し開けたので、晶照もそれに合わせた。唾液が混ざる。歯が当たる鈍い音が、頭蓋骨に響いた。最初はこれでかなり驚いたが、今はそのまま行為が続行された。お互いの口を食むように唾液を交わしていると、何となく気持ちいいような気がした。口の隙間から呼吸もできる。ただし、呼吸は満足なものではなく、水泳の息継ぎのような、短く不完全なものだ。荒い息が喉を鳴らし、それが余計汗をかく原因になっている気がした。

 その息の隙間から、何か肉厚で温度の高い、湿ったものが晶照の口に入ってきたのを感じた。それは舌だと頭では分かったが、こういう時にどうするのか、晶照の頭は知らなかった。初めてだった。だいたい毎回初めてのことを潮は仕掛けてくるのだが、今日はこれらしい。口腔内を舐め回される間、晶照は動けずにいた。やりにくいのか、潮は顔を少しだけ傾けて、晶照に一歩寄った。晶照は壁を背にしているからそれ以上下がれない。結果として体が密着することになって、さらに暑くなった。潮の掌が晶照の頬に添えられて、思いのほか優しく角度を変えた。ぐちゅ、と唾液の泡がつぶれるような音がして、ひどく身体の奥をざわつかせた。唇がよりぴったりと重なった。暑い。熱い。呼吸が苦しい。晶照が口を大きく開けようとしても、潮の唇が逃がすまいと追ってきた。汗でぬめる鼻先が擦れた。視線が近かった。潮の目は、何を考えているのか分からなかったから、晶照は仕方なく日焼けした潮の頬の高いところにある、つぶれそうなほど膨らんだ白ニキビを眺めることで苦しいと思う思考を逃した。

 潮が満足して唇を離すと、晶照の喉に入ってきた空気は涼しく爽やかに感じられた。荒い呼吸をする晶照を見ながら、潮は手の甲で唇を拭った。

「……筒井、リップなに使ってる?」

「はぁ?」

 呼吸が特に乱れていない潮に、晶照はちょっとカチンときた。自分だけ短距離走の後みたいだと思って、晶照は無言で制服のポケットからリップクリームを取り出した。それを見て、潮はおおっと感心したような声を上げた。

「これ、ちょっと高いやつじゃん。俺、一番安いやつだぜ」

 潮が同じようにポケットから取り出したのは、緑と白のツートンカラーのスティックだった。晶照には値段の違いが分からなかったが、潮は何か思うところがあるらしかった。

「うーん、やっぱ高い奴の方がいいのかな」

「……別に、どっちでもいいと思うけど」

 晶照が言うと、潮は目を瞬かせた。晶照としては、心底どっちでもよかったのだが。潮はやがてにっと笑って、満足そうにその安物だというリップクリームをポケットに仕舞った。

「筒井がそういうなら、いっか!」

 帰ろうぜ、と何事もなかったように潮は足元に放っていた鞄を取り上げた。晶照もうなずいて鞄を肩に掛けた。この後、駅まで一緒に歩いて帰るのがいつものパターンだ。これ、いつまでやるんだろう。というか何でこんなことしてるんだろう。駅で潮と分かれた後に晶照が毎回思うことだったが、答えはどこにも見当たらず、ただあるかどうかもわからない次への期待が、仄かに身体の芯に灯されるだけだった。

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