夜想曲 ―Nocturne―

藍川澪

灼き焦がすもの ―Sirius―

「きみと結婚できてうれしいよ」

 その言葉だけで小躍りしそうになる自分を抑えて、わたしは努めて淡々とはいと頷いた。続く言葉は、

「ぼくは好きな人と結婚できなかったけど、きみのような賢い人が妻として来てくれて助かるよ」

 ――わたしの夫、啓明さんとの約束。それは、お互いの行動に口出ししないこと。すなわちそれは、お互いがお互いの伴侶であるのは形式上に過ぎないということ。


 啓明さんとお見合いできると聞いた時、わたしは嬉しさで胸が踊った。啓明さんとは家同士の付き合いで知り合って、それなりに資産のある家同士の、学のある子ども同士だった。わたしにとっては、女学校の外にいるほぼ唯一の同年代だった。

 社交が苦手なわたしと違って、啓明さんは話し上手で、男女共に友人が多かった。論客や学者、まだまだもの珍しい職業婦人まで。中途半端に学問を習ったわたしに、彼らの姿は眩しく映った。わたしは内気すぎるがゆえに、職業婦人になれなかった。そもそも女学校においては良妻賢母教育を受けてきたのであり、家には資産もある。それなりの人のもとに嫁入りすれば、職業婦人になろうと努力する必要は特になかった。

 啓明さんの友人と同様にして仲を深めることは、わたしには難しく思えた。だから、お見合いの話が出たのは僥倖としか言えない。啓明さんは兄がいて、跡取りとして家業を背負わねばならない立場でもない。その分、妻となる人にはある程度自由がきく。わたしより前に誰かがその座を射止めてしまったらと心配するも、わたしには啓明さんの妻たる器量も頭脳もないし、自分から結婚を申し込みに行く度胸もない。ないない尽くしの中で、あるのは家柄だけ。そうして鬱々とした心を忍んでいたある日、降って湧いた縁談にわたしは小躍りしたい気分だった。

 なんであれ、好きな人の妻になれる好機。わたしはこういう時もあろうかと仕立ててあったとっておきの訪問着を着て、啓明さんと両家の親の前に出た。親同士の話し合いは和やかに進み、あとは若い人同士でと、昼下がりの街に啓明さんと散歩に出た。そこで啓明さんから飛び出したのが、「僕は好きな人と結婚できなかったから、きみのような賢い人が妻として来てくれて助かるよ」だった。

 わたしはしばらく、言っていることが理解できなかった。これからこの人と家庭を築くのはわたし。この人を好きなのはわたし。そう思っていたのだが、啓明さんは他に好きな人がいる? わたしは胸が冷える思いで聞き返した。

「啓明さん、それはどういった」

「安心して、満子さん。僕はきみが他に好きな人がいたって構わないし、なんなら子どもを作ってきたって構わない。僕との縁談は隠れ蓑にしてくれていい」

「そんな。わたし、他に好きな人なんて」

 いませんと続ける前に、啓明さんは遮るように穏やかに微笑み、言った。

「こんな男が夫で申し訳無いけど、賢いきみなら分かってくれるよね。この結婚は家と家とのつながりに過ぎず、きみと僕個人のつながりではないんだ」

 その頃、啓明さんの出入りする知識人のサロンでは、自由恋愛の論議がさかんになっていた。仕事後にサロンに寄り、夜遅くになってから煙草と酒精アルコールの残り香をたっぷりと纏って、わたしの待つ新居へと帰ってくるのが彼の日常だった。わたしは彼の上着とヴェストを預かって代わりに家の中で着る和装を手渡し、寝酒と作り置きの肴を用意する。先に風呂を浴びたいと言われれば風呂の準備をする。晩酌は一人がいい、風呂に入ったらすぐに寝たいと言われることがほとんどではあったが、ごく稀に酔っ払って機嫌の良いとき、サロンでしている議論の内容をわたしに話してくれることがあった。

「家と家のつながりなんて、今やもう大した意味を持たないんだ。大事なのは人と人のつながり。きみもそう思うだろう」

 とりあえず、わたしは頷いておく。そう思いたいのはやまやまなのだが、肝心の目の前にいる人がわたしとのつながりを大事にしてくれない以上、本心から頷くことはできなかった。そんなわたしの内心もつゆ知らず、啓明さんは熱の篭った口調で続ける。

「家柄の釣り合いとか、そういうものは今後必要なくなっていく。きみを家の都合に利用するのは不本意だったのだけれど、きみは本来自由なんだ。その本来に従って、きみも自由でいて欲しい」

 自由。自由とは何だろう。わたしは啓明さんへの思いを封じられた。それを自由と呼ぶのだろうか。わたしは曖昧に作り笑いを浮かべたが、熱弁を続ける啓明さんの目にはもうわたしの姿は入らない。

 啓明さんの出入りするサロンには、わたしでも知るような新進気鋭の人達がいた。記者、作家、論客、政界の若手に学者。男女入り乱れた彼らは夜毎に酒を酌み交わしながら議論をし、あるいは呑み足りない、話し足りないと別の店に繰り出した。啓明さんはその中でも、穏やかだが知的な話しぶりと甘いマスクで、特に女性に人気なようだった。啓明さんの持つ切れ長な目は涼やかだったし、眉つきは吊り上がりすぎず太すぎず、男らしさよりは優しげな印象を与える。すらりと背が高くて物腰も丁寧。私にとって好ましい容姿と人柄は、他の人にとっても好ましいようで、啓明さんの着るものの洗濯の時に、煙草の香りに交じって甘い香水コロンの香りが潜んでいることもしょっちゅうだった。煙草の香りだけで騙されておきたかったが、元より啓明さんはわたしではない人が好きで、それをわたしに明言している以上、騙されるも何もなかった。誰にも見られないよう流した涙は、洗濯石鹸のかすと一緒に、衣服からいとも簡単に引き剥がされた。

 啓明さんが好きなのは、どの人だろう。大手新聞社の女記者というあの人? 女流作家の名を馳せるあの人? それとも、出版社を立ち上げたあの人?

 自由恋愛という彼らの掲げるお題目のもとで、啓明さんがさまざまな女性とお付き合いを持つことそのものは一応筋が通っている。けれど啓明さんは見落としている。わたしも自由恋愛をしていいことを。わたしが啓明さんを好きでいてもいいことを。どうして啓明さんは、名ばかりでも妻であるわたしのことに気づかないのだろう?

 きっと啓明さんはわたしのことを過信し、過大評価している。家としての結婚以前に、わたしは啓明さんのことが好きだった。好きだから結婚した。けれど啓明さんはわたしのことは好きでもなんでもなく、自由恋愛の名のもとに家の外へ――彼の言葉を借りると「人と人とのつながり」へ目を向ける。わたしはつながるべき人ではないらしい。

 それでもわたしは、妻として働いた。せめて彼のための良い妻でいたかった。理解がある賢い妻でありたかった。今日の洗濯物も、どこかに甘い香りがする。


***


 古都の街中に流れる小川のほとりに、啓明とその仲間の集まるサロンはあった。彼らはサロンと呼んではいるが、実際の営業形態は喫茶店兼居酒屋カフェバーだ。カランとドアベルが鳴ると、すっかり顔馴染みとなった女給ウェイトレスが心なしか頬を染めて、いらっしゃいませと出迎えた。煙草の煙が漂う洋風のしつらえの店内は、壁に等間隔に取り付けられた橙色のランプの光で照らされ、カウンターを隔てた厨房の壁には洋酒の瓶が並ぶ。床板やテーブル、ベンチや椅子は黒みを帯びたニス塗りの木製で統一され、外に向いた窓にはステンドグラスが嵌っている。女給は制服であるグレーのワンピースにエプロンをかけ、啓明のグラスの準備をしにカウンターへ向かう。

 奥まった突き当たりにある広めのテーブル席が、彼らの集う定位置だった。別珍のクッションの設えられたベンチにはいつもの面々がいて、啓明を認めると手を振って出迎えた。

「おうおう、我らが唯一の既婚者様は随分とのんびりとしたご出勤じゃないか」

「揶揄わないでくれよ。仕事が長引いただけで、家の方には寄ってないのに」

「あら、そんなので奥様は大丈夫なの?」

 ベンチの端に座ると、隣を開けてくれた女は赤い唇を笑みの形にしてウイスキーのグラスを掲げた。女給がすかさず啓明の前に空のグラスを置く。啓明は手酌で近くにあったブランデーをグラスに注ぎ、女の掲げたグラスに合わせて乾杯をする。チン、とびいどろの鳴る澄んだ音が二つ重なった。

「大丈夫だよ。妻は見合いの時からこのことを話してあるんだから。賢い人だし」

「啓明さんの奥様、女学校出てるんだっけ。育ち良さそうよねぇ」

 共に酒を呷る女は、啓明が既婚であることに思うところがないわけでもなかろうに、悪口ひとつ口にしない。啓明は女にそっと微笑みかけた。

「家同士の付き合いの妻だよ。自由恋愛の相手は、家柄とか抜きで話せるのが気楽でいい」

「まあ、嬉しいことを言うのね」

「おい啓明、見境なしに女を落としていくのはやめろ! 俺たちのために!」

「僕、何かおかしなことを言ったかな」

「いいえ?」

「そういうとこだぞ、そういうとこ!」


***

 

 秋も深まり、新居の殺風景な庭先には、近所の家に植わっている紅葉の葉が迷い込むようになってきた。昼間に箒をかけたのに、もう何枚かが庭に落ちている。わたしは一人きりで終えた湯浴みの後、縁側から庭を見てため息をついた。この庭にも何かを植えれば、よそからの落ち葉も気にならなくなるのだろうか。

 日中は家事手伝いの女中も来たりするものの、通いなので夜は帰ってしまう。この所は冬至を前にしてどんどん日が短くなっているので、暗くなる前にと早めに帰すようにしていた。その分、日が落ちた後のわたし一人で留守を守る時間は長くなった。女中とはあまり親しく言葉を交わす仲でもないし、一人でいることそのものは苦痛ではないけれど、ふとした時に寂しさが胸によぎる。――そう、これは「寂しさ」なのだろう。

 今ここにいない彼は多分、わたしが約束を理解し納得した上で、そつなくやれるという意味で賢い妻だと思っている。それは過信なのだ。わたしは彼のことを好きだから、本当は約束を守れていない。彼が他の女性と連れ立っているのを悲しく思う。彼がわたしを見ないことを虚しく思う。今わたしの隣に彼が居ないことを寂しく思う。

 秋の夜長の無聊を慰めようとわたしは手持ちの小説などめくってみたけれど、女学生時代によく読んでいた話の数々は、もはやわたしを慰めてはくれなかった。結婚すれば幸せになると思っていた、過去のわたしを重ねた少女たち。落窪と呼ばれた姫は、貴公子と出会って幸せになった。灰かぶりシンデレラと呼ばれた少女は、舞踏会で王子に見出されてその妃となり、幸せに暮らした。わたしも結婚したけれど、わたしの愛する人はわたしを幸せにしてはくれない。

 わたしは落窪や灰かぶりほど劣悪な条件下で生まれ育ったわけではない。それがいけなかったのだろうか。けれどわたしの出自がなければ、啓明さんと結婚することはできなかっただろう。啓明さんや周囲の人々にどう思われているかは知らないが、わたしだって啓明さんの知的で落ち着いた立ち居振る舞い、話しぶりに惹かれたのだ。出自なんか抜きで、ただ啓明さんと一緒になれればどんなに幸せかしらと、密かに夢想した。

 彼に交友する女性がたくさんいることくらい、その時点で知っていた。自分もその中の一人に過ぎず、その中でもさして見るべきところのない女なのだから、好意を得ようだなんて身の程知らずなことは考えないようにしていた。それが、家柄だけで妻になれてしまった途端、現実が見えた一方で強欲な女に成り果ててしまった。なんてありがちで、情けない話だろう。小説にしたところで絶対売れないようなつまらない話だ。わたしに、彼が「賢い」と評するだけのものなんて、最初からなかったのかもしれない。決してわたしを見ることのない彼のことを愛してしまったから、そして愛されたいと願ってしまったから、わたしは愚か者だ。

 今日も啓明さんの帰りは遅いだろう。わたしは外の空気を吸おうと思って主のいない部屋の縁側の窓を細く開け、寝巻きの上に半纏を羽織り、外履きの草履をつっかけて庭に出た。見上げた先には青白い星が瞬いている。いつか読んだ本の中には、全天のなかで最も明るい星として青星、支那で言うところの天狼星が挙げられていた。いまわたしに見えている星がそれかどうかは分からない。それでもわたしは、その星の青白い炎のような輝きが、手の届かないところにいる啓明さんに重なって見えた。地上のわたしがいくら手を伸ばそうと、届かないところに在ることに変わりはない星々。わたしには届かない言葉で語らいあう星々。その光は暗い地上のわたしを照らしはせず、星々はやがて西の山の端に隠れてしまって、東の空が白む頃に啓明さんは帰ってきた。


 一人の昼間はやることをし終えてしまうと手持ち無沙汰になるので、わたしは外に出かけることにした。女中に留守番を頼み、路面電車に乗る。揺られていくことしばし、冬枯れの山里のような景色が見えてきた終点に着く頃には車内の人もずいぶん減っていた。

 もしかしたら紅葉の時期にはもう少し人もいたのかもしれないが、今はもう大分と散ってしまい、山の色も赤より茶色と言った方が良い。燃えるような紅葉の色を眺めるのも良いが、人混みが嫌でなんとなく時期を逃してしまい今に至る。それでも、散り残りの葉などを見つけることは出来て、一応曲がりなりにも紅葉狩りと呼べるだろうかとわたしは考えた。

 紅葉も良いが、山里の風情を出しているのは何より川だった。山の奥から曲がりくねって流れてくる川は、せせらぎと言うには勢いのありすぎる音を立てている。遠くから見るとさして気にもならないのだが、橋を渡り中洲の松の辺りに行けば、隣にいる人と話すにもそれなりに声量がいりそうだ。鷺が何かを考え込むような風情で、細い足をまっすぐにして浅瀬に立っているが、浅瀬でもそれなりに水の流れには速さがあるだろう。橋桁にぶつかって泡立つ白い水の下は暗くて何も見えず、浅瀬から急に深くなることがわかる。わたしは川の音を聞きながらぼんやりとしていた。場所を変えれば少しは気分も変わるだろうかと思って手近な観光地に来たものの、ひとりの寂しさが募るばかりだった。

 近くの寺で少し心を鎮めてから帰ろうと思い、橋を再び渡って川べりから道路一本隔てた参道に足を踏み入れた途端、わたしは寺の本堂の方からやってくる一団に目を奪われた。その中によく見知った顔が――啓明さんがいた。

 わたしはとっさに脇道に逸れ、そっと一団の様子を窺った。見覚えのある洋装の三つ揃えにネクタイを締めているのは、やはり啓明さんだった。背の高い啓明さんは、家では和装が多いが仕事は洋装が多く、そのどちらもよく似合う。一団は男性が多かったものの、啓明さんはその中で唯一の女性の隣を歩いていた。洋装の女性だ。わたしの知らない美しい女性だった。そう、美しいと思った。溌剌とした表情で、リボンタイのついたブラウスに上着と、曲線美の活かされたスカートを履いていた。洋靴の踵は高く、コツコツと快活な音を立てて石畳を鳴らしている。漏れ聞こえる話し声から推測するに、何かの取材に来たようだった。彼女もいつものサロンの一員だろうか。啓明さんの好きな人を知っているだろうか――あるいは彼女が、啓明さんの好きな人だろうか。

 一団は、わたしを一瞥もすることなく目の前を通り過ぎていった。彼らは路面電車の駅の方に向かっていき、これから街の方へ帰っていくようだった。わたしは聞き耳を立て、食い入るように啓明さんを、その隣にいる女性を観察していた。脇道の向かい側にある甘味処の店主の不審げな視線を感じたが、わたしはその場に根が生えたように突っ立ったまま一団を見送った。ひどく長いことそうしていたように思えて、足が痺れてきて、もう寺に行くなどという考えは起きなかった。

 それからの記憶は曖昧で、気がつけばわたしは家に帰り、いつものように夜空を見上げていた。青星が瞬いている。ひんやりとした夜気は、冷えきったわたしの体にまとわりついてきた。水の中でもがいているみたいだ。息がしにくい。動きにくい。家の中は暗く、誰もいない。無理やり布団に入っても、微睡みすらわたしの上には訪れなかった。瞼の裏には青星が居座り、遠くで何も言わずにちらちらと光り輝いていた。


***


 路面電車に乗って行った先に、啓明の今日の取材先はあった。観光地として有名な寺院だが、そこの住職のことを記事にせよというお達しだ。啓明だけではなく、いつものサロンの女性記者も興味があると言ってついてきた。ついでにその女性記者に思いを寄せている男たちも何人か、適当な理由にかこつけてついてくる。啓明は特に断ることもせず、一団は市街地から山里の趣のある観光地へ向かった。

 住職は予定よりたくさんの客が来たことに当初は驚きを見せたものの、取材に関しては滞りなく進んだ。記事に十分な話を聞けたところで会はお開きとなり、ひととおりお参りを済ませて境内の庭を見て周り、近所の茶店で小休止を取った。

「あの坊さんの話、思ったより面白かったな。もっと説教くさいことを言われるかと思ったが」

 男の一人が串のみたらし団子を片手に言う。女性記者はまあ、と憮然とした声を上げた。

「もともとお説法って面白いものよ。宗教として堅苦しく捉えるからいけないの。人生の先輩の話だと思えばいいのに」

「それこそジジババの繰り言じゃないか」

「言ってなさいな、あなたこそジジになったとき碌なことを言わない人になるわ」

「何を言うか、俺の頑張りを知らないわけじゃないだろうに」

 戯れのような言葉を交わしているのを、啓明は特に口を挟まずに茶を啜りながら聞いていた。別の男が、啓明に向き直る。

「それにしても、境内の紅葉はまだ見事なものだったな。あれは何がしかの作品の描写に生かせそうだった」

「そうだね。もう時期を逃してしまったと、半分諦めていたのだけれど」

「電車から見えた山は、もう盛りは過ぎた感じだったからなぁ。庭師とかも雇っているようだったし、その辺も管理してあるのかな。見頃が続くように」

 男は境内の風景を思い出すように深く頷く。男は駆け出しの作家で、雑誌に連載の小説を載せているという。季節感のある描写は、雑誌が読者に届けられる時季と合致すればよい一体感を生むだろう。啓明も、昼間は仕事であまりじっくり見ることの出来なかった秋の風物詩に、改めて心を洗われた気分になった。

 この後は、特に帰社せずとも良いと仕事先からは言われている。少し早めだが、いつものサロンで少し書き物をまとめさせてもらおうかなどと啓明は考えた。一団は茶店を出て、石畳の参道を路面電車の駅へと向かった。

「啓明さん、わたしたちお邪魔じゃなかったかしら」

 女は今更だけどと少しだけ声を抑えて尋ねてきた。後ろにいる男たちは結果的に収穫はあったものの、元はと言えば女と同行することを目当てについてきただけだ。女もそれを察していたのだろう。啓明は首を横に振った。

「いいや。僕一人でも、味気なかっただろうしね。楽しく過ごせたよ」

「それなら良かったわ」

 女は微笑んだ。彼女は機転の利く女だ。自分が制御できることと、その埒外にあることの線引きを心得ているし、その上で最良の結果を目指そうとする。そういう瞬発力のある賢さは、いつだって遺憾無く発揮される。こうして集団でいても、二人きりでいても。啓明はふと思い立ち、ネクタイの首元をさりげなく緩めながら意味ありげな目配せを女に送った。

「今日の取材に関するきみの見解も、良かったら記事の参考にしたいのだけれど。これから、時間はあるかな」

 女は啓明の言葉の裏にある意味を正確に把握したようだった。頬紅の下で顔を緩めて、嫣然と目を細めた。

「ええ。わたしも、是非あなたの話を聞きたいと思っていたところ」

「それは重畳だね」

 啓明と女は密やかな笑みを交わす。後ろにいる男たちはついにその言葉を聞き咎めることはなかった。男と女は、微笑む月を空の果てに見送りながら、宵の街へと戻ってゆく。


***


 いつも通り、明け方に啓明さんは帰ってきた。一睡も出来なかったことを啓明さんに怪しまれないよう、わたしの手足は努めていつも通りに動いた。朝食の支度をする。米を炊き、弁当のおかずを作り、弁当箱に詰める。起き出してきた彼の身支度を手伝い、仕事に行く彼を玄関で見送る。彼の気配は、家の中に残るほど長居はしない。またひとつ寒々しい気持ちを抱えながらわたしは洗濯に取り掛かった。啓明さんの部屋に脱ぎっぱなしにされていた三つ揃えのヴェストとスラックス、上着をハンガーにかけて、シャツと下着を取り上げたとき、わたしは足りないものに気がついてしまった。ネクタイが、ない。

 どくどくと早鐘を打つ胸を押さえながら、ヴェストとスラックス、上着のポケットをくまなく探した。ない。鞄の中。ない。箪笥の中。ない。

 慌ててはいけない。仕事中に外してどこかに置き忘れただけかも知れない。でも昨日参道で見かけた時は付けていた。あの時、もう午後はとっくに回って日は傾いてきていた。その後に外すなら、誰の前で?

 慌ててはいけない。帰ってきてから、直接聞けばいい。なんてことないはずだ。きっと。いつものサロンで、お酒を飲んで忘れてきているだけかもしれない。きっとそうだ。わたしはシャツを取り上げた。煙草の香り。甘い香り。薄紅の頬紅の擦れたような色。頬紅? 誰の?

 わたしは、シャツについたその色を震える指でなぞる。鼻を近付ける。白粉の香り。心臓が縮こまった。こんなことはきっと初めてではない、きっと初めてではないのだ。自分にそう言い聞かせても、息ができない。骨が軋むような気がした。

 ――わたしは、啓明さんと触れ合ったことなんてない。わたしはこんなに愛しているのに、啓明さんはわたしを見ることもしない。

 そう、誰かが囁いた気がした。いや、誰かでは無い。わたしだ。わたし自身だ。わたしは衝動的に、シャツを乱暴に投げ捨てた。袖を留めていた襷を解いた。襷が床に落ちる軽い音がした。わたしは外に出た。まだ午前中の市街地の雑踏の中に紛れ込んだわたしは、気がついたらまた路面電車に乗り、終点で降りて、流れの早い川辺に出ていた。

 周りには誰もいない。わたしは笑った。これから起こることが心底楽しみだった。待ちきれない気持ちのまま、わたしは足を踏み出した。草履が、足袋が、着物の裾が、襦袢が、そして帯が、水に浸っていく。冷たい。身体が震える。歯の根が合わず、がちがちと音を立て始めた。わたしは、引き攣ったような笑い声をあげた。誰もこちらを見ない。誰もいない。どんなに声を上げても大丈夫だ。頬を涙が伝う。悲しくなんてない。わたしは笑い続けた。可笑しい、可笑しい、着物が重い。体の自由が奪われていく。心の自由なんて元からなかった。深みにたどり着く前に手足が言うことを聞かなくなってきて、もういっそと重くなった衣服に身を委ねると、身体が心地よく水に流されていった。川の中から見上げた空は暗く遠く、波立つままに揺らいで、すぐに橋が覆い被さって見えなくなった。暗い水底は夜の中にいるようで、わたしはあの夜空を思い出した。青星はちらちらと瞬いて、変わらずにそこにいる。啓明さん、あなたこそが、わたしを灼き焦がす青星シリウスだったのに。今日も、これからもずっと、星々の間にいるだけ。わたしのいる水底になんて少しも目を向けてくれないのだ。

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