3-1 今宵、ピエロは素顔をみせる
***
ステージからは賑やかな音楽、客席からは歓声と拍手が聞こえる。1か月の休演明け、最初の舞台。今宵の公演も大盛況だ。
そんな中、ふと、2人の女性スタッフが話しているのが聞こえてきた。
「カイくん、今頃どうしているのかなぁ」
「さぁ。なんか……カイくんには悪いことをしたよね……」
「でも、仕方ないよ。あの場で名乗り上げる勇気なんてないもの」
「それはそうだけど……」
あの場で名乗り上げる?一体なんのことだ……。
「ねぇ、ちょっと」
オレが呼びかけると、彼女たちはびくっとした。
「さっきの、どういう意味?名乗り上げるって?カイに悪いことしたって?」
オレがそう言うと、二人はお互いの顔を見合わせながら戸惑いの表情を浮かべた。
「ジュリさん……もしかして、知らなかったんですか」
「何が?」
「カイくん、本当にいじめられていたんですよ」
「えっ……。どういうこと?」
「カイくん、いつも公演終わりにステージ裏の物置でリウくんたちにいじめられていたんです。あの事件があったとき、カイくんが言っていたリウくんたちに脅されたというのは、おそらく本当……」
カイが、いじめられていた………?
「なんで……なんで、みんな、カイがいじめられていたって言わなかったんだよ!!」
オレの大声に、二人はビクッと身体を揺らした。
「だって、もしあの場でカイくんの肩を持ったら、共犯の疑いをかけられかねないし、いじめを黙認していたことが団長に知れたら何を言われるかわからないじゃないですか」
だから、カイひとりを悪者にしたっていうのか?
いや、オレに人を責める権利なんてない。
カイはあの事件の次の日、姿を消した。その日以降、誰もカイの姿を見ていない。どこで何をしているのか、誰も知らない。彼のことを気にする団員たちもいたが、行方を捜そうとする者はいなかった。
『違う!ぼくは嘘なんかついていない!本当に脅されて………』
『おねがい……。誰か本当のことを言って……。ぼくをたすけて………』
カイの消え入るような声が脳裏をよぎる。
どうしてオレはカイのことばを信じてやれなかったんだろう。カイのことを信じてあげなかった自分が一番許せない。
そういえばあの事件の前日の夜、カイがオレに何かを言おうとしていた。もしかしてあれは、いじめの相談だったのではないか?呼びかける彼に応じようと振り向いたとき、カイは哀しそうな笑みを浮かべて「なんでもない」と言った。
どうしてあのとき、ちゃんと話を聞いてあげなかったんだろう。カイに、謝りたい。今すぐに。
でも今は公演中だ。今すぐカイを探しにいくなんてことは、絶対にできない。オレの空中ブランコを楽しみにこのサーカスを観に来てくれた人が大勢いる。
「さあ続いては、我らサーカス団のスター、ジュリによる空中ブランコです!!」
足場が、ライトで照らされる。オレの出番だ。ブランコを手に取り、勢いよく足場を蹴った。
そういえば、さっきの彼女たちの言うことが本当なら、今オレの補佐をしてくれているリウがカイのことをいじめてたんだよな。カイの顔を切りつけたのも、リウだった。あれも仕組まれていたことだったのか……。
あのあと、オレはカイの気持ちを考えずに、ペアから外し、代わりにリウに補佐を頼んだ。
あのとき、カイは一体どんな気持ちだったんだろう。つくづく自分が嫌になる。
リウのことは憎い。でも今だけはリウのことを信用するしかない。これが終わったら、即刻ペアを解除してもらおう。
さあ、もうそろそろ、リウの持っているブランコに飛び移る頃合いだ。目線を上げ、前の足場を見た。
あれ……?
リウのやつ、あんなに小さかったっけ……。
向こうの足場はなぜか電気が消えていて、そこに立つ者の顔は見えない。シルエットだけが浮かび上がっている。そのシルエットに違和感を覚えた。
その違和感がなんだろうと、加速するブランコを止めることはもうできない。オレは向こうの足場に向かって大きく頷いた。それが合図だ。
ブランコから手を離し、リウが投げてくれるブランコを手に取る…………はずだった。
一瞬、時が止まったように感じた。オレは空中に放り出されたまま、伸ばした手は空を掴んだ。
足場に近づいたため、先ほどよりもそのシルエットがはっきりと浮かんだ。
そいつと目が合った。
紫色と白色の派手なピエロの衣装。白塗りの顔に、右側の口角だけつり上がった真っ赤な唇。そしてそれと同じように右側だけつり上がった細い眉。片方ずつ、両目を貫くように描かれた黒い十字架。
そして左頬には大きなヒビ、決してメイクで消せない大きな傷跡。
「カイっ!」
落ちていくオレを見下ろすその瞳はとても冷淡で、彼自身は無表情なのに、メイクのせいで彼自身がぼくを嘲笑っているかのようだった。その顔がひどく不気味で背筋がゾッとした。そして…………
「ぐはっ!」
全身に衝撃を感じた。それはもう痛いとかいう生やさしいものではない。全身の骨が粉々になっているような感覚。どこも動かすことができない。そして次第に全身が痙攣し出した。
「っかは!」
口からは鮮血があふれ出した。口いっぱいに広がる血の味。
ハッハッと、まるで溺れているみたいに浅い呼吸を繰り返す。
息の仕方がわからない。
カイ。どうして………。君に謝りたかった。信じてあげられなくてごめん。
目だけでもカイの方を向こうと動かしてみたが、それすらもできず、オレの意識はそこで途絶えた。
***
バンッ!!
そして、会場全体にひび割れんばかりの悲鳴。動かなくなったジュリの周りには、何人もの人が集まっていた。
ぼくは、その状況をひどく冷めた気持ちで足場から見ていた。
死んじゃったかな?
約十メートルの高さから落ちたんだもの。助かったとしても、ジュリはおそらくもう空中ブランコに乗れないだろう。
いい気味……とまでは思わないけれど、かわいそうだとも思わない。
「おい、お前、何したんだ。ジュリは……?」
後ろを振り向くと、リウが青ざめた顔をしていた。先ほど、ジュリの空中ブランコが始まる前に、リウの不意を突いて、両手足を縛り上げた。邪魔にならないように、後方に転がしておいた。
「落ちたよ」
「お前………、どうしてそんなこと……」
「うっかりブランコを渡すタイミングを間違えたんだよ。悪気はなかったんだ」
「嘘つけ!」
「もちろん嘘だよ」
平然とそう言うぼくに、気味悪さを感じたのか、リウが顔を引きつらせた。
「さて……」
次はお前の番だ。
ぼくは、リウの恐怖をあおるようにゆっくり近づいた。
「く、来るなよ!殺すのか!俺も!!」
「へぇ……、ぼくに殺されるような覚えでもあるの?」
わざと訊いた。
「それは……」
リウは後ろめたいことがあるかのように俯いた。実際あるんだろうけど。
「まぁでも、今更許してあげようなんて思わないから」
リウの足下までくると、彼がぼくによくしていたように、髪を掴んで無理矢理目線を合わせた。リウは「いっ……」と痛みに顔を歪ませた。
「お前らに殴られ続けたぼくの痛みがわかる?誰にも信じてもらえなかったぼくの哀しみが、恐怖が、絶望が、お前にわかる?わからないよね」
自分よりも力のあるやつに痛めつけられる恐怖、誰にも助けてもらえない苦しさ、そして現状をただ受け入れるしかない惨めさ。
「だからさ、今日はお前にぼくの痛みをわからせてあげようと思って」
リウの頭を地面に叩きつけるように離し、彼の左に置いてあるものを両手で持ち上げた。
リウは初めて、その存在に気づいたようだ。
「見ての通りハンマー。こいつでお前を殴ろうと思って」
「正気?」
「もちろん。ふふっ、このハンマーを手に入れたときから、どれだけこの日を待ちわびたことか……。試しにその辺にいる野ウサギを仕留めてみたんだけど、一発だったよ」
それを聞いたリウは顔をどんどん強ばらせた。
「た、助け……」
「大声出しても無駄だよ。なんせジュリが落ちたからね。その騒ぎでスタッフは手一杯。誰もお前の声なんか気づいてくれないさ」
重量感のあるそれを肩に担いだ。
「カイ、やめてくれよ……。悪かった!今までのことは謝るから、頼む……、助けてくれよ!」
そう懇願するリウの姿を見て、思わず口元が緩んだ。だって今まで散々威張りたおしていたやつが、こうも簡単に命乞いをするなんて。
ぼくはとうとうこらえきれずに大声で笑った。おかしすぎて涙が出る。ハンマーを担いでいない手で涙を拭い、その手を横に広げ、わざとらしく高らかに言った。
「ふふっ、リウ、最高だよ!これこそ最高の道化だ!ぼくを散々いたぶっていたやつが、ぼくに命乞いをするなんて!ああ、おかしい!!ぼくはね、リウ」
リウと再び同じ目線になるようにしゃがんだ。そしてリウがぼくに言ったいつかのセリフをそっくりそのまま返してやった。
「その顔が見たかったんだ」
リウはそれを聞くとますます顔を青くした。
「でもね、リウ。ぼくはむしろ感謝してほしいくらいだよ。何発も殴られたのをこの一発で済ませてあげようっていうんだから」
リウは目に涙を浮かべ、ぼくを見ていた。もう怖くて声が出せないようだ。
「さあ……」
ぼくは立ち上がった。
「もうおしゃべりの時間は終わりだ。せいぜい自分がしてきたことを後悔しながら死んでいけ!!」
リウの顔面めがけてハンマーを大きく振りかぶった。
グチャ!
頭蓋骨を砕きその内部にまでハンマーが侵入した感触。ゆっくりとハンマーを上げると、そこにはねっとりと血だけではなくあらゆるものが付着していた。
リウの命はたった一発で砕け散ってしまった。
「ざまあみろ……」
ぼくはひとり、ポツリと呟いた。
憎かった相手にようやく復讐することができた。なのに、ぼくの心はちっとも晴れていない。
リウの無残な姿を見て、スッキリするどころか、重くずっしりしたものが胸の中で、つっかえている。
ぼくはその気持ちを抱えたまま、この場をあとにした。
***
一階に続く階段を降り、以前自分が使っていた控え室に向かった。スタッフはみんな、さっきのジュリの騒動の対応に追われているため、ここの廊下を歩く者は誰もいなかった。おかげで返り血を浴びたぼくを見て騒がれる心配はない。
控え室に入ると、案の定誰もいなかった。少し安心して、なんとなく、本当になんとなく前方の鏡を見た。
「ひっ!………」
そこに映る自分の姿にゾッとした。紫と白のストライプの衣装をリウの血がべったりと汚している。その血しぶきは顔にまで到達していた。そしてそこには、怖がり助けを求めるリウをせせら笑うような表情をした自分の顔がある。
その姿は以前にも増して不気味な姿だった。
確かに、あのときリウが助けてと言ったとき、死ぬほどおかしかった。愉快だった。そのとき浮かべていた表情は、きっと今目の前に映るこの顔そのものだっただろう。
でも、ずっと見てきた顔を、こんなにも卑しくて怖いと思ったことはない。
ぼくは急いでメイクを落とした。石けんをつけ、今まであった出来事全てを拭い去るように力強く洗った。
メイクさえ………メイクさえ落としてしまえば、こんな顔はもう二度と見なくてすむ。
泡を水で流し、パッと顔を上げた。
あ…れ……?
前の鏡にはメイクと同じ表情をしている顔があった。
何だよ……これ…………。
メイクは確かに全て落ちている。その証拠に左頬には今も消えぬ傷跡があるし、顔の色も白色ではなくちゃんと肌色をしている。
しかし表情だけが顔に張り付いたまま、どうやってもはがすことができない。上がったままの右の口角を元に戻すことができない。触っても、引っ張っても、その表情は依然かわらないまま。動かそうとしてみても、痙攣したようにピクピクと動くだけだった。
鏡の中の左右非対称な顔がこちらをじっと見つめている。
その視線に見つめられると、身体の体温がどんどん低くなっていくような気がした。脚に力が入らず、ぼくはその場にへたり込んだ。
塗り替えられていく。そう感じた。自分の身体が違う何かに侵食されていくような………そんな気分だ。
ぼくという自我がいつか消え、別の人格……たとえばそう、この表情を浮かべている人格に身体が乗っ取られていくんじゃないか。
そう思うと、寒気がして身体が震えた。
「ふふっ……ふふ……」
怖いはずなのに、勝手に笑みが溢れる。
やっぱり悪いことなんてするもんじゃない。きっとこれは報いだ、リウの命を奪った。
ぼくは一生、この顔と共に生きていかなければならないのだろう。
ぼくは洗面台にすがるようにして身体を起こし、もう一度鏡の奥に映る自分を見た。その顔は、今度はぼくを……、自分の顔に恐怖を抱いているぼく自身を嘲笑っているかのようだった。
左目からは一筋の涙が流れていた。次の一滴が流れる前にぼくは、目の前のぼくに笑いかけた。
『ぼく、この顔きらいなんだ』
『ぼくの顔を押し込めて、その上に新しい顔を描いてさ。心まで別人になってしまう気がするんだ』
そう、ぼくはピエロの顔がきらいだった。自分という人間を押さえ込んで、その上に違う人格を塗りつけられているみたいで。
でもたった今この瞬間、ぼくはこの顔を好きになったよ。
だってこれは正真正銘、ぼく自身の“顔”だから。
今宵、ピエロは素顔をみせる 三咲みき @misakimaru
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