2-3 最悪の事態
***
次の日の朝、昨日は何事もなかったかのようにミーティングが始まった。みんなぼくの存在を無視している。
ぼくは左頬に手を当てた。
薬を塗って、ガーゼが貼ってある。おそらく、いや確実にこの傷は跡が残るだろう。
頬骨から口元にかけて長さ六センチほどの傷………。人と対面すれば、嫌でも目につくだろう。せめて……せめて、見えないところにしてほしかった……。
傷はまだ塞がっておらず、ガーゼの上から軽くおさえると、少し痛い。
サーカスがしばらく休演でよかったなと思う。とてもじゃないがこの傷の上にメイクなんてできない。
「……それではこれでミーティングを終わります。では各自……」
ミーティングが終わろうとしたとき……
「すみません。ちょっといいですか」
そう名乗りを上げたのは、ジュリ。
「どうしたのかね、ジュリ」
団長が聞き返した。
「すみません、その………」
「なんだね?」
ジュリは言いにくそうに言った。
「ペアを変えてほしいんです」
「えっ」
まさかの申し出に、思わず声が出た。
ジュリはぼくを見ながらすまなさそうに言った。
「ごめんなカイ。空中ブランコは命がかかっているんだ。だからこそペアには絶対の信頼を寄せておかないといけない。悪いけど、今のカイを100パーセント信じることはできない……」
「そんな……」
ぼくは何も悪いことをしていないのに……。
「ふむ……、確かにジュリの言うとおりだな。カイには、ジュリの補佐だけではなく、全ての補佐から外れてもらおう。カイの代わりは…………、そうだな、リウに任せよう」
「はい!」
リウが嬉しそうに返事をした。
嘘だろ。間違ってもそいつだけはペアにしたらダメだ。そいつは一番信用ならないやつだぞ……。
リウの方を向くと、あいつはしたり顔で笑った。
それを見て、悔しさで思わず拳を握りしめた。
「ちょっと待ってください!そいつは……」
「カイ、君の意見は聞いてはおらんよ。君には……そうだな、動物テントの掃除を任せよう。それが終われば、衣装、小道具のチェック、倉庫の整理をしてもらおう」
「わかりました…………」
そう言うしかない……。
まさかこんなことになるとは思わなかった。
ジュリまでぼくを切り捨てるのか……。
一番仲良くしていた、仲良くしてもらっていたジュリに、信じてもらえないのが、とてつもなく哀しい。
これで、ぼくの味方をしてくれるものは、本当にいなくなった。
何が悲しくて、こんなところを掃除しなくちゃいけない?芸を補佐することはあっても、ここの掃除とは全くの無縁だった。動物テントの掃除は、本来、その動物に芸をしこむ演者の仕事だ。
掃除なんて、みんなやりたくないもの。特に動物テントはすぐに汚れるし、臭いがきついから怠りがちで、さらに汚くなるという悪循環。
ぼくがここの掃除をするってなったとき、演者たちは、ぼくに全く隠す素振りを見せずに喜んでいたっけ。
それを思い出して、苛立ちがこみ上げる。
みんな、リウのせいだ。
あいつなんかに嵌められなければ。
怒りをぶつけるように檻の中をデッキブラシで磨いた。
そしてここの掃除の8割が終わった頃……
「よぉカイ!」
今一番聞きたくないやつの声が聞こえた。
戸口の方を見ると、案の定、リウが戸にもたれてこちらを見ていた。いつものように側に二人を従えている。
三人はテントの中に入ってきた。
「似合ってるぜ、その格好」
長靴を履いて、エプロンとマスクをしてブラシを持っているぼくを見てリウが言った。
「残念だったなぁ、ジュリのペアから外されて」
リウはニタニタと笑みを浮かべている。あとの二人も同じように笑っている。
「ま、お前の後任は俺がきっちりやるから、お前は安心してここの掃除でもしてろよ」
リウが嫌みったらしく言った。
後ろの二人はもう我慢できないというようにゲラゲラ笑った。
自然と拳に力が入る。こいつらをぎゃふんと言わせたい。やられっぱなしはもう嫌だ。だからぼくも、嫌みったらしく言ってやった。
「こんなところで油売ってないで、さっさとジュリの練習の手伝いに行ったらどうだ。それとも大役を目の前に怖じ気づいたか。もしジュリの補佐が嫌になったらぼくにいつでも言ってよ。お前にもここの掃除を手伝わせてあげるからさ」
それを聞くと、両サイドの二人は笑うのをやめた。そして次の瞬間、ぼくはリウに張り倒された。倒れた先がちょうど藁を積み上げたところで、衝撃はなかったものの、身体中が藁まみれになった。
「調子こいたこと言ってんじゃねぇぞ!」
頭に血が上ったリウが掴みかかってきた。それを両サイドの二人が止めようとする。
「リウ、さすがにここではマズいよ!」
「そうだよ!ここで騒いだら誰かくるって!」
羽交い締めするようにしてリウをぼくから退けた。
叩かれた頬がジンジンする。触ると指に血がついた。傷が開いたらしい。
「まさか本当に団長の部屋に盗みに入るなんてな。正直引いたぜ」
自分を押さえつけている二人の手を振り払いながらリウが言った。
そして奴は近くにあるバケツを掴んだ。中にはさっきぼくがデッキブラシを洗った濁った水が入っている。
「俺に舐めた口をきくとどうなるか、教えてやらないとな」
まさか…………。
バシャッ!
「お前にはその姿がお似合いだぜ?」
リウはそう言うと、バケツをぼくに投げつけ、二人を引き連れて出て行った。
埃やえさや動物の臭いなどが混じって、つい鼻を押さえたくなるような臭いが全身からする。シャツも身体に張り付いて気持ちが悪い。
どうしてこんな惨めな想いをしないといけないんだ。悔しくて、やるせなくて、涙がこみ上げてくるのを止めることができない。
許せない。あいつだけは絶対に。復讐してやる。あいつに……ぼくをいじめてきたことを後悔させてやる………。
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