女王、アホに陥落す

七条ミル

どアホ

 小綺麗な公立高校の校庭の中心に佇む男が一人。

 時刻は正午の授業中。

 半袖短パン体育着。

 すううと息を深く吸い、一瞬肺に溜める。

 ――そして。


氷上ひかみ先輩!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 聞こえてますか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! おれは! 氷上先輩のことを!! 愛してますぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 ひとりの男の絶叫が、授業中の校内を駆け巡った。

 聞こえた者皆、一部を除いて外を見る、胸を張った男を見る。

 男の名は、湯沢ゆざわ佳孝よしたか。ただの、アホである。


 真昼間っからムードもなにもあったものではない愛の告白を受けた者がいる。

 氷上先輩と呼ばれたその少女――というにはやや大人びた顔立ちだが――は、生徒会長、真面目で品行方正、規則など一度たりとも破ったことはなく、生徒会長としては非常に頼りになる反面硬すぎてちょっと近寄りづらい。そんな女の子。下の名前は優華。通称氷の女王。

 いつでも真面目な顔を崩さないことで有名な生徒会長は、顔を真っ赤にして机に突っ伏していた。

 ――なんと!

 クラスは大騒ぎ。なんと言ってもあの氷上さんが机に突っ伏しているのだ。こんな場面二度とお目にかかれるかわからない。今拝まずしていつ拝む。

 そう、唯一外のアホに目を向けなかった一部こそ、この二年D組であった。


「おまえは! 授業中に何を言っとるんじゃああああああああああああ!」


 遅れて二年D組には人気者体育教師の怒号が轟く。


「だって! 氷上先輩が! 正午に愛を告げてくれれば考えないこともないって! いったんですものおおおおおおおおおおおおおおお!」


 続けて響く大声。枯れる湯沢の喉、これ以上なく小さくなる氷上。あんなこと言わなきゃよかった。

「だって、誰も本気するとは思わんだろうが……!」

 それは氷上の悲痛な呟きだったが、外から聞こえてくる怒号の応酬にかき消され誰の耳にも届かない。だから誰も、その理屈はアホには通じないんだと教えてやれる者はいない。

 湯沢のクラスメイト――一年F組の生徒ならば口を揃えて言うだろう。あいつならやるよ、と。やった。

「ああ、あんなこと言うんじゃなかった!」

 やがて外から聞こえる応酬も終わりを告げる。すっと、騒ぎが引いていく。そうして次に来るのは。


「それで、生徒会長、なんて返事するんだろうな?」


 ちらりと外を見れば、体育教師に首根っこつままれながらもじっと二年D組を見る湯沢が見えただろう。湯沢だけではない、体育教師を含む校庭に居る全員が二年D組を見ている。廊下からは隣のクラスから様子を見に来た者たちが覗いている。誰もが、この茶番の結末を気にしていた。

 ――なんと言っても、あの生徒会長に告白した勇者が現れたのだから。


 ところ変わって校庭のど真ん中。宙ぶらりんの湯沢はじっと氷上の返事を待っていた。

「なんだ? 振られたんじゃないのか? なんと言っても氷の生徒会長だものな、ガハハ」

 頭上から降るはそんな声。

「まだわからんでしょう、氷上先輩はきっと恥ずかしがっている!」

 大当たりだ。

「恥ずかしがってるぅ? まさか、あの氷上がこの程度の騒ぎで恥ずかしがるわけがなかろうが」

 恥ずかしさのあまり机に突っ伏している。

「いやいや、きっと今頃おれの愛の告白に顔真っ赤にして机に突っ伏してますよ」

 その通りである。

「きっと無視することに決めたんだろう。今も姿勢を正して毅然と授業を受けとるはずだ」

 全然そんなことはない。

「ええいじれったい! おれが二年D組へ行く!」

「アホ! 授業が終わってからにしろ!」

 ――たしかにそれからでも遅くはない。

 アホはアホでも待てるアホ、湯沢はくふふと不気味な笑いを浮かべ、大真面目に体育に戻った。それはもう、真剣に槍を投げた。


 昼休みが始まってすぐ、湯沢は二年D組を訪れた。

「氷上先輩はいますか!!!!!!!」

 バカでかい声に、半分ほどが耳を塞ぎ、半分はあっち、と生徒会室の方を指さした。

 生憎体育の着替えでとっくに昼休みは十分経過している。氷上にとっても逃げるには十分な時間だったろう。

 ――恥ずかしがっちゃって。

 くふふ、とまた湯沢は気持ちの悪い笑みを浮かべる。生徒会室へ行ったのなら、もう逃げ場はない。なんと言ってもあの部屋の入口は則ち出口。出口に立てば窓から逃げ出さない限り絶対に氷上が湯沢を避けることは出来ない。

 王手だ。

「ではさようなら!」

 走り去る湯沢。誰もが同じことを思った。

 ――走るなよ。


 生徒会室の一番奥の机。露骨にちょっとだけいい椅子に座った氷上は、頭を抱えていた。それを取り囲むのは、同じく生徒会の面々である。全員が全員、ニヤニヤしていた。それは勿論湯沢がするようなどこか気色悪いニヤニヤではなく、やや狡猾な笑い方である。そう、完全無欠のはずの氷上に弱点を見つけたのだ。誰も皆笑みを浮かべるだろう。

「でさあ、彼とはどういう関係なわけ? まさか突然告白されるなんてないよね? ねえ、

 誰よりも口角を上げて氷上に問うたのは生徒会副会長、井上諒太りょうた。完全無欠の氷上を補佐する、これまた優秀な役員だ。ただ、性格には少し――いやかなり、相当に、難があった。

「ほらほら氷上せんぱぁい、あんまりもたもたしてると彼も来ちゃうんじゃないの?」

 さっきよりはマシだが、氷上の顔はやや赤い。毅然と前を見るいつもの氷上はどこにもおらず、そこには切れ長の目を強く瞑る、いつになく子供らしい表情をした氷上が居るだけだった。

「――んぱああああああああああい!」

 外から聞こえてくるのはさっき全校が聞いたあの声。ものすごい勢いで近づいてくる。

「ほら来た」

「開けて下さああああああああい! 開けてくれないと氷上先輩の好きなところ一生言って待ちますから!!!!!! まずは手始めに、おほん。先輩って冷たい表情作ってるわりにかわいいもの大好きですよね! ポムポムプ」


 ガンッ!


 生徒会室の扉が未だかつてないほどの勢いで開かれる。


「さっさと入らんか――――――――――――――――ッ!!!!!」


 そして、未だかつてない生徒会長の絶叫が校内に響く。生徒会室前では大爆笑。

「会長ってポムポムプリンすきなんだー、意外~」

「ね~、結構かわいいところあるんだね」

 そんな会話が交わされる。そんな集団を見た氷上は一言。

「だって、かわいいだろう、あれ」

 当たり前だと言わんばかりに、で言うと、すぐに生徒会室へ引っ込んだ。


「貴様ぁ! よくもやってくれたな!!」

 先ほどとは打って変わって、氷上は顔を真っ赤にして湯沢の襟首を揺らす。

「いやあ、だって先輩が言ったんじゃないですか、やだなあ」

「ほんとにやるやつがあるか!」

 あった。

「それで結局、君たちはどういう関係なわけ?」

 恐らく唯一冷静なままでいた副会長井上が、二人の横からヌッと顔を出す。

「どういう関係? どういう関係なんでしょうね? おれら」

 湯沢はそういうこと、考えたことがなかった。

「先輩と後輩に決まっておろうが!」

 氷上も氷上で、ちゃんと考えたことはない。

「うーん、君は氷上のことが好きなわけだよね?」

「ええ、そりゃもう心から愛してますとも。今すぐに抱きしめたいくらいにね!」

 両手を広げる湯沢の顔面に、氷上の掌がぶつかる。

「やめんかドアホ」

 閉じられた湯沢の手は、氷上の身体をかすめる。繰り出される蹴り、沈む湯沢。

「で、氷の女王様はすっかり表情豊かになっちゃってるけど、湯沢のことどう思ってるわけ?」

「ど、どうって、別にどうも思ってはおらん」

 傍目から見て意識しまくりなのは日の目を見るより明らかだった。そこに居た湯沢を含めた全員がそう思った。が、言わせておけばそれはそれで面白そうだなと、湯沢を含めた全員が思ってしまった。


 氷上優華と言えばどんな人間か。

 機械的で、冷徹で、正義感に溢れて。

 大体、そんな感じだ。良くも悪くも人間らしくなく、どこか作り物めいている。いつも引き締められた表情のせいでそう思うのか、それとも整い過ぎた容姿のせいでそう思うのか。

「はあああああああああああああ」

 浴槽の中、氷上は今日千度目の深い溜息を吐いた。湯沢め。

 氷上は、すっかり機械的でも冷徹でもなんでもなくなっていた。

「はああああああああああああああああ」

 千一度目。これは、こうして考えている間も湯沢はどうせお気楽なんだろうと思ったことに起因するものだ。その通り、湯沢は今氷上が風呂に入る妄想をしながら風呂に入っていた。

「はあああああああああああああああああああああ」

 千二度目。なんで私は湯沢のことを考えているんだ。

「………………はあ」

 千三度目。


 金曜日の全校集会。校長の話のあと、生徒会長の話がある。今日も引き締まった表情で氷上は壇上で登る。今日も今日とて綺麗だなあ、というのが湯沢の感想だ。

「昨日はお騒がせして済まなかった」

 開口一番、氷上は謝罪の言葉を口にする。途端、視線は湯沢の方へ向く。

「お前が謝れよ」

 ――ご尤も。

 それは湯沢も自分で思ったが、かといって今前に出るとかなりややこしいことになりそうなので流石に自重。アホではあるが自制心が無いわけではないのだ。ないのだ。

「生徒会からの連絡は主に二つ。来週からは本格的に文化祭の準備が始まる。もし五時以降も作業をしたい団体がある場合は、活動延長届を提出するのを忘れないように。それからもう一つだが、一部機材や作業道具を生徒会から貸し出すことができる。数に限りがあるから問い合わせはなるべく早くしてもらえると調整しやすくてありがたい」

 壇から氷上が降りる一瞬、目が合う。湯沢はにこりと笑って、小さく手を振った。


 午後六時半、最終下校時刻ギリギリに生徒会室の鍵を閉めた氷上は、頭の片隅で主張するアホと格闘しながら、着々と準備の進む校内を眺めていた。

 いよいよ明日から文化祭であり、もはや仕上げだけという団体が殆どを占める。吹奏楽部の演奏もすっかり仕上がって、作業用音楽に丁度よかった。

「氷上先輩、一緒に帰りましょう、ね」

「げ」

「げ、とはなんですか、げ、とは」

 思わず声を上げてしまった氷上に、湯沢は不満そうな声を上げた。そう言えばここ一週間殆ど姿を見せなかったが何をしていたのだろう。

 ――いやまて、そもそもそれは私が気にすることでは。

 でもあれだけ大声で愛を叫んだのだから、というかそれはどうでもいいが、しかし誠意としてそこは毎日顔を見せるくらいはしてくれてもいいのではないか。

「うーん、真面目に考えごとする氷上先輩はやはりいいですね、くふふ」

 全然真面目ではなかった。寧ろ考えていたことと言えば湯沢のことで、どこもではない。それが無性に腹立たしい。

「はあ、貴様のせいで私は……」

 やや仕事の効率が落ちた。こんな時間まで残って仕事をしなければいけないのも、全部湯沢のせい。

「なんでおれのせいなんですか」

 日の落ちてすっかり暗くなった校内は、既に殆ど人気ひとけもない。

「調子が狂うんじゃ、貴様のせいで」

「意識しちゃってるんですか?」

「やかぁしい!」

 実際その通りだから質が悪い。氷上は顔に熱が集まるのを感じながら、しみじみと日が暮れたあとでよかったと思った。ここのところすぐ顔が赤くなっていけない。

「まったく、貴様というやつは……」

「さっきからそればっかですよ」

 職員室に鍵を返し、学校を出る。文化祭用の飾りの横を通って校門を抜け、駅の方へ歩く。

 氷上がちらりと横を見て顔を少し上げれば、そこにはアホ面かいた湯沢がいる。何も考えていなさそうで、殴りたくなる。

「ところで先輩、おれまだ返事貰ってないんですけど。先輩言いましたよね、『貴様が正午に校庭の中心で愛を叫んだならば考えてやらんこともない』って。考えてくださいよ」

 ――考えとるわい! もうかれこれ一週間も!! ずっと!!!

「ちょっと聞いてます?」


「………………おい、あれ」

 副会長井上は、友人に肩を叩かれ、なんとなくその指の先に目を向けた。

「氷の女王じゃね?」

「ああ、氷上だな。隣にいるのは例の彼だよ。氷上を射止めたあの」

 井上を呆れ顔を作ると、じっと二人の間を見つめた。パーソナルスペースがかなり広い氷上にしては、超至近距離だ。それだけで、氷上が湯沢に心を開いているのが分かる。思い返してみれば、先週湯沢が生徒会室に突撃してきたときには、氷上は湯沢の顔を触っていた。そのあと湯沢の手は氷上の胸をかすめていたが、軽く殴るくらいで別段怒ったりも軽蔑したりもしていなかった。氷上が湯沢に心を開いているのは、まず間違いない。

 ――だがなぜ?

 かれこれ一年半の付き合いになるが、未だに氷上は井上にもあれほどの距離に近づかせたことはない。

「しかし納得いかねぇなあ。あのアホ面だもんなぁ……」

 確かに氷上の横を歩く湯沢の顔はアホ面というより他無い。呆けている。馬鹿のそれだ。

「俺も女王様とお近づきになりてぇよ。お前はいいよなあ、毎日一緒に仕事してるわけだろ?」

「いや、そんなこともない。氷上は一人だけ残って仕事をしていることも多い。彼女は信頼が厚い分、彼女しか出来ないような仕事を回されやすい」

「へー、大変だな」

「そうだな」

 適当に相槌を打って、井上は視線を向こうの二人から外した。

「一体何があったんだろうねぇ」


 文化祭、注目を集める男女が一組。

 ――勿論、湯沢佳孝と氷上優華の二人組である。

「なぜ私が貴様と文化祭を回らねばいかんのだ」

 氷上はそう愚痴を吐く。が、内心ではうきうきである。よくよく氷上の顔を見てみれば、いつもよりやや上がった口角からそれを読み取ることも不可能ではないだろう。そのせいで、やや纏う空気も温かい。

「仕事ばっかりじゃ倒れますよ、ちゃんと息抜きせにゃいかん」

「貴様は人生息抜きだろうが」

「ええ、その通りです」

 湯沢はくふふ、と笑う。その笑い方はやはり不気味だった。

「あ、ほら、お化け屋敷とかありますよ、入りましょうよ」

「は?」

「ほらほら、行きますよ」

 湯沢はぱっと氷上の手を取ると、半ば強引に引っ張ってお化け屋敷の列へと並んだ。

 人気の出し物には列が出来るのは常であるが、そうはいっても文化祭レベル。然程待つことも無く、色付きセロハンで光量を押さえた懐中電灯たった一つを頼りに、真っ暗にされた教室の中に二人は放り込まれた。二人を見た三年生が満面の笑みだったのは言うまでもない。

「……」

 懐中電灯を持つ湯沢の袖が、くいと引っ張られる。

「どうしたんですか、先輩。もしかして怖いんですか? かわいいですね」

「黙れ! 人には得意不得意というものがあってだなああああああああああああッ!」

 突如右側から出現した白装束の幽霊に、氷上が悲鳴を上げ、湯沢に抱き着く。

 ――やわらかいなあ。

 アホが考えるのはそのくらいのことだった。


「二度とお化け屋敷になど入るものか……」

 げっそりとした氷上を引き連れ、湯沢が次に向かったのは喫茶店。と言っても給仕はやはり学生レベルだが、どうやら紅茶オタクが居るらしく、無駄に香り高い紅茶が二人の前には置かれていた。湯沢はダージリンのストレート、氷上は気を落ち着かせるためにベルガモット香るアールグレイ。

 話題の二人がデートしているとなれば周りの視線は当たり前のように二人の座る席の方へ向いていた。

「貴様というやつはどうしてこう、私が……ああ……」

「まあまあ、せっかくの文化祭ですから楽しまにゃいかんでしょう」

「それは確かにそうかもしれないが、さっきも言ったが人には得意不得意というものがあってだな」

「知ってますよ」

 湯沢は、知ったような顔をして紅茶を口に含む。

「あっっっっつ!」

「当たり前だろう、紅茶は熱湯で淹れるんだ」

「水ぶくれになる……」

「なっても噛むなよ。口内炎になるかもしれん」

「わあってますよ」

 はあ、と溜息を吐く湯沢。その湯沢を見る氷上の表情が柔らかいのを回りは見逃さなかった。


 喫茶店を出て、さらに幾つかの出し物を見て回った二人は、心地の良い疲れを感じながら生徒会室に戻ってきた。丁度他の役員も出払っているらしく、密室に若い男女が二人っきり。

「何も起こらないはずがなく……」

「なぁにアホなこと言っとるんじゃ貴様は」

 だってぇ、と湯沢は引き下がるが、帰ってきたのは頭に平手だった。

「イテ」

「大体、いつ帰ってくるかもわからんのにそんなこと……」

「おや、何か起こすこと自体には案外否定的ではない?」

「どアホ!」

 べちこん。いい音が鳴る。空っぽの頭の音だ。

「それで先輩、まだおれは返事貰ってないんですが。おれはアホですがしつこいんです。今から愛を叫びに行ってもいいんですよ」

「わかった! わかった! ステイ! 止まるんだ! ……ったく、貴様のせいで心が休まらん」

 はあ、と氷上が一つため息をついて、椅子に座る。湯沢はその向かいにある、一番離れた椅子に座った。

「では改めまして、氷上先輩、愛してます」

「ぐっ」

「ぐ?」

 傾きだした日差しが、生徒会室に差し込んでいた。逆光で、湯沢の座っている場所から氷上の表情はよく見えない。

「いや、違う。はっきり言って、私は、お前のことを、その、なんだ、憎からず思っていると言っても、過言ではない」

「煮え切らないな」

「いやその、だから、あのだな」

 氷上は氷上で、湯沢のことを見れない。だから、表情はわからない。

「つまりその、私も、貴様のことを――佳孝のことを……」

「急に距離詰めてきましたね、いい感じですよ、さあもっと」

「やかましい! 一々間に挟み込んでくるんじゃない! ええいめんどうじゃ!!」

 ばっ、と氷上が立ち上がる。ずんずんと、湯沢の方へと歩いてくる。その目は、じっと湯沢のことを見つめていた。どんどん近づいて、顔が近づいて、あと五センチ、一センチ、一ミリ――


 カシャ。


「生徒会長の不順異性交遊の証拠写真、ゲット」

 男を抱き寄せ唇を重ねたまま目を見開くのは、彼の名高い氷の女王こと氷上優華だ。

「い、い、い、い、い、いいいい井上!?」

「これは大切に保管しておくとして、尋問タイムだ。者共集え」

 いないと思っていた生徒会の面々が、それぞれ微妙な表情を浮かべながら生徒会室に入ってくる。あるものは赤面し、あるものは破顔し、またあるものは絶望の表情を浮かべ。

「さて氷上、お前はいつから湯沢のことを愛していた?」

「愛……ッ!」

「まさか生徒会長は愛してない人間とこんなことをするのか?」

 井上が掲げるスマートフォンに写るのは、接吻する男女である。口づけするアベックである。キスするカップルである。チューするリア充である。

 どう見たって、氷上自身とその横に座るアホ面であった。

「ああ、もうこうなってしまったからには話そうじゃないか、全部、やけっぱちじゃ」

「おうおう、じゃんじゃん話してくれたまえ」

 ごくり、と唾を飲む音が複数。

「湯沢の家は、歩いて行き来できるくらいの距離に家がある」

 語りだした氷上の表情は、なぜか氷の女王のそれに戻っていた。とてもではないが、恋人とのなれそめを話す顔ではない。

「先日、校長先生からの仕事を終えて帰宅途中、不覚にも眩暈で倒れそうになってしまったんだが、その場所がちょうど湯沢の家の前で、湯沢はそのときベランダに出て半裸でラジオ体操第二を踊っていた。私がふらついているのを見て、まあ半裸でなさけなくはあったが、支えに来てくれたんだ。そこから、家まで送ってもらい」

「ていうかさっき佳孝って呼んでませんでした?」

 予想外の狙撃をしたのは湯沢と同じ一年の新しい生徒会役員だった。

「因みに湯沢くんは氷上に愛を叫んだら云々と叫んでいたが、あれは?」

「ああ、氷上先輩のこと好きだって言ったら、あれやったら考えないこともないって言われたんですよね」

「……本当にやるとは思わないだろう」

 まあ思わないだろうな、と井上は思った。なにせ氷上はしっかりと正道を歩いてきた人間。この獣道さえない山中をはだしで駆けるような男と同じ思考回路を持っていては困る。

「湯沢くんはいつから氷上先輩のこと好きなの?」

「ずっと」

「え?」

「ずっとですよ、ずっと。昔から」

 湯沢は氷上の方に目を遣ると、ぽんと手を置いた。

「ちょっと表情を作ればアホが誤魔化せると思うなよ」

「うわ辛辣。さっきは勢い余ってキスまでしてきたくせに」

「やかましいッ!」

「氷上が一番声でかいよ」

 まあ、と概ね納得して井上は立ち上がる。

「とりあえず邪魔者は退散するとしますか」

「そうですね」

「氷上先輩も続きしたそうですし」

 ぞろぞろと、生徒会役員が生徒会室を去っていく。最後に出た井上は、ダメ押しとばかりに鍵まで外から閉めて、それを脇の窓から投げ込んでくる。

「ではあとはご自由に」

 足音はすぐに消え、生徒会室の中はしんと静まりかえる。氷上が顔を上げれば、そこにはいつも通りちょっと間の抜けた顔をした湯沢が居た。


「じゃあ続きしますか」

 氷上の背中に湯沢の右手が回される。左手はお腹のあたりから徐々に上がって――

「どアホ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 その日一番の声を出して、氷上は湯沢を引きはがした。

「そんなあ」

「そんなあじゃないわ、そういうのは早いわ! 順序というものがだな……」


 ――あそこでキスは順序的に正しいのか?


 湯沢はそんなことを思いつつ、愛する氷の女王の溶けた顔を眺めるのだった。

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女王、アホに陥落す 七条ミル @Shichijo_Miru

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