第4話 結

 その日は、夢を見ることはなかった。


 昌ははっきりとした寝覚めに手を借り、軽快な足取りで路面電車へ乗り込む。

「おっはよー!昌!」

「おう、早いな」

 一花にバシバシと背を叩かれる。

「昌こそ、今日はヘッドホンしてないんだー」

 していないことすら、忘れていた。指摘され始めて気づく。

「今日は気分じゃなかったんだよ」

「またまたー。私と一緒の登校、楽しみにしてくれたのね!」

「気持ち悪いこと言うな」

「えーまた泣いちゃうかもー、えーん」

「ばっやめろって」

 こどもに見られたらまたからかわれてしまう、と昌は慌てる。

 そうこうしているうちに電車は駅に着く。

「はー、よかったよかった。昌も不良少年を脱したみたいで。最近サボり遅刻だらけだったから、先生も心配してたよ」

「別に、遊んでたわけじゃねえよ」

 軽口を言い合いながら、久しぶりに朝から学校へ向かう。

「えー、どうかなー?」

「そういえばよ、昨日言ってたなんでもわかる人、占い師かなんかなのか?」

 これ以上からかわれないために話題を変える。

「あ、やっぱ気になるー?」

「お前が変な奴に騙されてないかがな」

「そんなんじゃないよ。あの人は」

 むっと一花は唇を尖らせる。

「2年位前から街にいるらしいんだけどさ。ほら、ちょうどそのくらいから写真とかの掃除の手伝いも増えたじゃん」

「おお」

 確かに、と肯定する。

「その人がいろいろ場所を言い当てたりしたからなんだって。本当は他人に言わないでくださいねって言われてるんだけど、人の口に戸は立てられぬってやつ?」

「おうお前がまさにそれだな……けどその人って」

 昌の言葉を遮るように携帯から警報音が響いた。

 びくりと一花は固まった。

 ほんの小さな揺れが予感としてその場にいる人々を襲った。ミシミシミシと木々や建物が揺らぐ音がする。

 どんっ、と地面の底から大きく突き上げられた。

「一花!」

 ぐい、と動けない一花を引き寄せ車道に寄る。大きな揺れにまともに立てず、しゃがみこんだ。

 周辺で物が倒れる音、人々の悲鳴が上がる。

 数分、揺れていたのかもしれない。昌には正確な時間は分からなかった。

 揺れが止んだあとも、まだ地面が揺れている感覚がするようだった。

 ゆっくりと立ち上がれば、周辺は揺れで壊れたものが散乱している。幸いなことに大きな事故は見受けられない。

「昌、早く逃げようよ!」

 一花が不安な顔で強く腕を引く。

 このまま道をまっすぐ進めば、避難所である学校だ。街では一番標高が高い施設。

 一歩、歩みだした。

 カラン、と乾いた音に動きを止める。落ちたのは、胸ポケットに入れていたペンダントだった。

 銀色の表面が昌の顔を反射させる。

 ぱちん、と記憶がはじけた。

 酒臭い父親の声。


「ごめん」

「昌?」

 昌は立ち止まる。

「親戚が、その、体が不自由な人がいるんだ。だから迎えに行かなきゃ」

「何言ってんの、昌、親戚とか、そういうのいないって言ってたじゃん」

「この前知ったんだよ」

「だめだよ」

 一花がぐいっ、と腕をひっぱる。

「先に、行っててくれ」

 昌は動かない。

 市街の放送で、避難警報が流れている。

 一花は泣きそうな顔になった。

「昌、ねえ!だめだよ。今日はちゃんと逃げなきゃって、だって、だって、逃げなだめってあの人も言ってたの!」

「そうか、なあ一花」

 昌は十字のペンダントを見せる。

「その人、これ持ってたか?」

 一花は言葉に出さずとも、その表情は肯定していた。

「あ」

「ごめんな」

 昌は、背を向けてかけだした。




『逃げろ。走って丘へ逃げろ。そこなら海も届かない』


 5年前。父親の最後の言葉。今の今まで記憶に蓋をしていたそれを反芻する。

 あのとき、川はまだしも海なんて警戒する必要はなかった。内陸の地域なのだから。

 しかし、遠い存在のそれを父は警告した。

 いや、父ではなかったのだろう。それを知らせたのは。

 そしてその人に、父は危機感を抱いていた。

 今、昌が抱いているものと同じ危機感を。


 肺に酸素を送り込もうと息が上がる。

 駅から海岸線までどのくらい離れていただろうか。少なくとも容易な距離ではない。

 だが足を緩めることはできなかった。

 5年前、父の切羽詰まった声が恐ろしく丘に駆け上った時のように。昌は海辺へと走る。

 今、昌の背を押すのは、喪失への恐怖だ。

 すれ違う人々の中には昌を止めようとする者もいた。しかしそのすべてを無視して走った。

 海岸線の中に、薫の姿を探す。

 いっそ、見つからないでほしいという気もあった。

 通帳に記帳された高額な入金が薫のものからだと知ったときの気味の悪さ。昌はその正体に気づいた。

 それは、死のうとするものへの嫌悪感だ。

 生前贈与。まるで近い将来死ぬことが決定しているような行動に、嫌悪感を抱いた。

 もっと言葉を尽くしていればよかった。行動の理由を問いただしておけば。

 薫はあのとき罪の意識とやらから解放されたのではない。

 罪の意識こそが薫を、陸地へとつなぎとめていた。薫を海から切り離していたのだ。

 駆けた足で海に着く。


「薫さん!」

 たたずんでいた人影に叫んだ。

「どうしたの?」

 薫の声が、波が崩れる音にまぎれる。

 濃く深い匂いが薫にまとわりついていた。

 何かがいる。


「俺、俺は!」

 ペンダントを握りしめ、海に入ろうとする。

 しかし、昌はそれ以上足を進めることができなかった。

 海への恐怖。

 住職が震えた、何もかもを飲み込んでしまう巨大ななにかへの恐怖。


「だめだよ」

 薫は止める。

「だめだ」

 薫の声は静かだった。

「せっかく迎えに来てくだすっているのだから」

 その声は羨望さへ混ざっている。

「もう、たくさんの時間を待たせてしまった」

 ぽっかりとすべてを飲み込む、青い黒がその先にある。

 怖い。怖い。怖い。

 父はあれから薫を引き離したのか。父は、あれを目の前にして死んだのか。

 父であれば、薫をつなぎとめることができたのか。

 薫は海へと歩みを進める。

 止めたかった。

「あ、」

 止められない。

 言葉が紡げない。あれの前に、言語など意味があるのか。


 薫は海中に傅く。恭しく、丁寧に。

 その先にいるとても大きな存在に対して。


「い、やだ……いやだ!」

 ばしゃんっ、と水しぶきが上がる。海水が泥のように重い。

 潮騒がひどく煩わしかった。

「置いていかないで!」

 海面が盛り上がる。それは、意思を持った何者か。

 叫びは、波の音に塗りつぶされる。

「一人に、しないでっ」

 伸ばした手は遠い。


 ざぷん、と海は飲み込んだ。


 たった一人、子供を残して。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海鳴りのウンディーネ 染谷市太郎 @someyaititarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説